カテゴリ:April2020



23日 4月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月23日 台北
キッチンでコーヒーを淹れようとしたら、ドリッパーの縁のところに小さなかたつむり。緑色だから間違えたのかな。ホンイーがこの間山から持って来たキャベツと一緒にここまで来たんだろう。母が「あなた外で暮らしなさいよ」とつまんで窓から投げようとしたのでその前に。...
21日 4月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月21日 台北
下の階の家を覗いたらカノコバト。たぶんお母さんバト。うちのベランダの縁から、翼も広げずダイブするように下へ落ちて行くのをそういえばよく見かける。...
20日 4月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月20日 台北
お昼頃おばが戻って来て、気分が悪いと言ってすぐに奥の寝室へ寝に行った。週末もずっと気分が悪かったらしい。おばが寝ているベッドには普段母が寝ていて、これは私が本駒込で一人暮らしをしていた頃新宿で買ったものだ。木のフレームのマットレスを支える下の部分が、ちょうど15cmくらいマットレスの足がくる側と左右にはみ出るように作られていて、うっかりそこに足をぶつけると飛び上がるほど痛いことを除けば、そのはみ出たところにちょうど読みかけの本や飲み物の入ったマグカップを置けるのでとても気に入っていた。 当時私はあんまり体調がよくなくて、随分長い時間を寝て過ごした。20代の半分以上ベッドで寝ていたと言っていいんじゃないだろうか。人生ほとんど水平だよね、と同じような症状のあった友人と寝転んだまま電話して笑いあったりした。あれが20代の女性としての私だったんだなと振り返ると、誰も言ってくれなかったけど、結構かわいそうだったなと思う。茨城のり子の「わたしが一番きれいだったとき」という詩を思い出したりした。一番きれいなはずだったとき、私は一番醜かった。というのも全身性の皮膚疾患だったので、熱がこもって腫れぼったくなっていた体中の皮膚があかぎれの様に乾燥し、炎症し、皮がむけ、赤くひび割れて汁が出ていた。皮膚というのはこれほどの状況になってもこんなに余すところなく私という私を包むのかと思った。24時間痒みがあり、いつもなるべく強いている我慢をやめて思いきり掻きむしると、その最中と直後だけ無に近いような快感があり、一瞬の解放感を感じるもののやめればまた耐えがたく痒く、動けば痛く、汁が出て皮膚片が散らばった。中でも顔は一番症状がひどく、まぶたも口周りもひび割れて、目も口もうまく開かなかったが、隠しようもなかった。茨城のり子というより、どちらかと言えばヨブ記のヨブだったかもしれない。不思議なことにお風呂で湯船に浸かっている間だけはほとんど痛くも痒くもなく、病気なんてなかったみたいな気持ちになることができた。そのために長風呂が過ぎて、結果的に翌日の夕方まで動けなくなるほど疲れた。 いいマットレスを買うとそれだけでものすごくしあわせになる、と初ボーナスで30万のマットレスを買った大学時代の彼氏が目を輝かせて言ったのをずっと覚えていた。痛み、痒み、苦しみの多かった私にとって、いいマットレスは一筋の希望だった。でもマットレスは安いものでもそれなりに値段がするので、昔旅先で他に見当たらずやむなく買った上等のバスタオルを出して、試しにその代わりにしてみようと思った。お風呂上がり、なるべく肌にやさしくていい香りのするクリームを用意して、指ですくって両手の手のひらで合わせてあたためて、ゆっくり時間をかけて全身に塗った後、そのまま上に何も着ないで、ベッドの上に敷いた外国サイズの分厚い大判タオルの上に乗っかるようにして、うつ伏せになって寝た。そのころ音楽は痛みや苦しみのない場所へふっと意識を飛ばしてくれるものだった。好きなCDのスローテンポな外国語の歌をかけて、寝そべって目を閉じていると、まるでどこかからマッサージの上手い神様が現れてねぎらってでもくれたみたいに、体から緊張が離れていき、心も落ちついて、そのまますうーっと眠りに入ることができた。だけど朝方になると、結局私は体のどこかを掻きむしりながら目を覚まして、掻き終わっても痒みは治らず、動くと肌がバリバリと割れて痛み、それからまた数時間眠れなかった。ようやく起き上がった頃には、上等だったタオルが皮膚の裂け目から出た血と浸出液であちこち汚れていた。何度洗っても消えず、タオルを使っては新しく増えていく染みを数えていると、自然と心の奥の方までがっくりとした。 台湾の実家から出て本駒込で一人暮らしをすることになった時、ついにベッドを新調した。30万には遠く及ばなかったができるかぎりいいマットレスを買った。私の体調は最悪の時に比べると随分よくなっていたが、それでも不安定で、結局また症状が悪化して起き上がることも難しくなり、大学院入試の頃には顔中に湿疹ができて眉毛が抜け、体の皮膚も切れて痛く、もしくは痒く、だいたいいつもあちこち掻いたり手で押さえたりして過ごした。マットレスは私をものすごくしあわせにしてはくれなかったが、確かにいいマットレスだった。一番ひどい時より病気が悪化しなかったのも、もしかしたらあのマットレスのおかげで多少はよく眠れていたおかげだったのかもしれない。 おばが戻って来た少し後にまた玄関のブザーが鳴って、郵便物でも届いたかと思ったら、山からキャベツを届けに来たホンイーだった。姐姐、姐姐、どこにいるの、と玄関の方から私を呼ぶ声が聞こえて、スタスタとみんなの声がする方へ急いだ。ホンイーは台所でキャベツのたっぷり入った大袋を持って立ち、「你們還好嗎?」と私たちを気遣う言葉をかけながら重そうな袋を母に手渡し、その立ち居ふるまいには山に暮らす男性の自信のようなものさえ感じられた。台北育ちのホンイーも、山に住むようになってから随分元気になった。話し方はまったりと舌ったらずのまま、すっかりタイヤル訛りになって、なんだか発声もよくなった感じだ。いつもは着古した服かちょうど同サイズの母親のお下がりが定番だが、今日は新品らしい紺色のナイロンジャケットを着ていて、少し物も良さそうでよく似合っていた。「かっこいいいね、すごく似合ってるね」と声をかけると、「そうだよ」と当然のように言う。パジャマ姿のまま寝室から出てきたおばもにこにこしている。引っ越したばかりの頃はろくに芋も掘れず畑で大泣きしていたそうだが、今ではいとこたちの畑を手伝ってお小遣いももらっているのだから私よりずっと偉い。ホンイーのおかげで私は今週採れたてのキャベツが食べられる。ホンイーはスマホで写真を撮るのが大好きで、細かいことは気にせず、とにかくどこに誰といても、前から横から後ろから、人、風景、動物、大量の枚数を流れるように撮っていく。隣で世間話をしていたかと思うと、いつの間にか前に伸ばしたホンイーの腕の先のスマホ画面が自撮りの構図になっていて、会話の最中で急に間延びした声で「姐姐,一,二,三」と言うので、「私まだ顔も洗ってないのに」と文句を言ったつもりだったがもう撮り終わっている。少し前まではこんな風に写真を撮ってはすぐさまその全てを無差別にFacebookで公開していたが、映りが悪い、二重顎になっている他さまざまな問題のある写真をすべからくアップするので各方面から怒られ、最近はホンイーなりに厳選して公開しているようだ。 「姐姐、いつ山に来るの?早く来てよ。山が一番いいよ。空気がきれいでウイルスもないよ」 別れ際、鉄の門の向こうでそう言ってエレベーターに乗り、マンションの下で車の中ホンイーを待っている母親と一緒にまた山へと帰って行った。 夜の7時になってもおばは起きてこなかった。「このベッドすごく寝心地いいね、って言ってたよ」と母が言うので、そりゃあそうだ、あれは私が昔具合の悪い頃、どうせ寝てるくらいしかできないんだからこれくらい、と選びに選びぬいて張り切って買ったベッドなんだと自慢した。エリの持ってきた敷布団あるでしょ、あれもすごいよく眠れるよ、あれ寝たことある?すっごく気持ちいいよ、いとこのおばさんたち二人、うちに泊まった時あの敷布団で寝てね、床の上だからちょっと悪いかなって思ったけど、好舒服喔、なーんて気持ちいいんだろうって、二人とも朝起きたらすごい感動してたよ、她們真的很感動呢、と母があんまり手放しに称賛しまくるので、まるで寝具を通して私の方がたくさんたくさんほめられているような気持ちになった。そういえば母はずっとあんまり子どもをほめたりしない人だった。母自身あんまりほめられたりしなかったのかもしれない。でも母とおばたち3人が、みんな私の寝具の上で気持ちよく寝ているだなんて、そんなにもいいことをあの一番辛かった私はみんなにしてあげられていたのかと母を通して知って、報われるもんだな、とやっと思った。
19日 4月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月19日 台北
今週は新規感染者ゼロの日が3日もあったので気も緩んだのか、昨日、しばらく行かないことにしていた花市へ母と行った。みんな同じような気分だったのか、ものすごい人出だった。脇にある大安森林公園もものすごい人出。天気は曇っていたけど気温は30度以上あって、風がいい気持ちに吹いていた。芝生には敷物をしいてピクニックする人たちのグループが数メートル離れて混みあい、おしゃべりしたり、寝転がったり、みんなでゲームのようなことをしたりしていて、ああ私にもこういう時があったなあと思いながらその横を歩いた。まるで過去を見ているようだ。大勢の人が集まって楽しそうに動くのはもはやほとんどテレビやスマホの画面の中だけで、そういう映像を見ると私はすぐに、これは今のことじゃないからね、と無言で確認する癖がついている。 公園内のローラースケートリンクでは、幼稚園から小学生くらいの子どもたちがお揃いのヘルメットをかぶり、スケート靴の刃の代わりに車輪が一列ついた靴をはいて、先生の合図で一斉によたよたと滑り出している。リンクの外側はおじいちゃんやおばあちゃんらしき人たちが囲んで、見守ったり写真を撮ったりしている。歩道の脇には自作ラブソングをギターで弾き語りする男性が、その少し先に「盲人街頭藝人」とのぼりを立てて往年のヒット曲をキーボードで弾き語りする女性が、また少し先に同じく「盲人」と赤字で書かれた看板を立て、台車の上にスピーカーを乗せてカラオケで歌謡曲を歌う女性が、お互いに距離をとって、通り過ぎる人たちのうちの誰のためでもなさそうな歌をうたい続ける。はなから洗練など目指していない彼らの音楽は、木陰のベンチに座る身綺麗な家族連れやおしゃれした若者カップルたちのおしゃべりの背景にしっかりと流れていて、それは不釣り合いなようでとっても調和している。そのことに気がつくと、ああ台湾だ、台湾にいるんだという気持ちが私の中にわあっと湧いて、私は思わず「台湾だね」と母に話しかけて笑う。そんな私たちとすれ違っていくのは、手をつないでのんびり歩く白髪の夫婦、私たちのような母娘、両親と子2人の4人家族、小さな自転車で走り回る子ども、散歩する犬とその飼い主、大胆に肌を出したリゾート風ワンピースやショートパンツの女の子グループ、一人黙々と歩く人。とにかくどこを見渡しても湧いて出た虫のように人がいて、春らしい陽気にあふれている。 花市の入り口には「保持社交距離」と書かれた看板が一応出ているが、この人出なのでそういうわけにもいかない。せめて人にぶつからないよう注意するのが精一杯というところ。高速道路の高架下の駐車場で毎週土日に開催されるこの花市にはいくつも見どころがあって、様々な植木や切り花、種、肥料、園芸用品はもちろんのこと、食べ歩きできるおやつやお茶などの飲みもの、台湾各地の農産物、金魚、風水グッズ(一部の鉢植えもそうだが)などを売る店もある。私は蘭の店を一件一件ゆっくり見て回るのが特に好きだ。蘭の花は、濃い緑とむせ返るような湿度の中に咲くのが一番美しいと感じる。日本で胡蝶蘭というと、金持ち風の歯医者の窓辺や高級に見せたいスナックの調度品というイメージが私にはどうも強くて、胡蝶蘭は何も悪いことをしてないのにあんまり好きになれなかった。本当はもしかしたら、花が全部咲き終わって曲がった茎だけ無意味に残った愛でようのない姿になると、それまでみんな大切そうに扱っていたくせに「もう咲かないしねえ」と平気で生きたままゴミとして捨てる、それを許可するかのように、たくさんの鉢植えが作られ高級品のように売られていることが好きになれなかったのかもしれない。20代の頃久しぶりにこの花市に来て驚いたのは、鉢植えのブーゲンビリアが大量に咲きまくっていることと、お祝い用になりそうな立派な胡蝶蘭が150元とか200元で山のように並んで売られていることだった。何か見間違えているのではと驚き、しっかり値札も入るように写真に撮った。でも当時の私の興味の中心は都市や人やカフェや夜の街にあって、花、木、自然には大して興味がなく、花市も母にくっついて年に数回行くくらいだった。 母が「欲しいの見つかった?」と私に声をかける。信義路の入口から中へ入っていったところに、山野草のような雰囲気の、小さくて地味なようでしみじみと美しい蘭の花をたくさん売っているお気に入りの店があり、そこでじっくり小さなプラカップに入れて並べられたさまざまな蘭をひとつひとつ見るのがとてもたのしい。どれも風変わりで美しく、腋唇蘭なんてうっとりする名前がつけられていたりする。母が子どもの頃、母の故郷宜蘭の山には野生の蘭の花がたくさん咲いていて、母たちは平地から来たカハツ(タイヤル語で「閩南人」)に言われたとおりにそれを摘み取っては麻の袋に詰め、バカみたいに安い金と引き換えにその袋を渡したという。日本の業者が台湾の山に自生する溢れんばかりの蘭に目をつけて現地の人に委託して根こそぎ持っていったという話もあるから、日本人が閩南人を、閩南人が原住民を、という搾取の構造だったのかもしれない。花市にいると母はそんな話をしなかった。「今度自分で買いにくるよ」と私は母に言った。だいたい私はここ2ヶ月無職同然で、食事も寝床もすべて母の世話になっている。 おばあちゃんが亡くなって、花市に母と蘭の花を買いに来たことを思い出した。心臓の悪かったおばあちゃんは、山で何度も発作を起こして倒れてはみんなをびっくりさせて、大病院から近いという理由で台北のこの家で母が面倒を見ることになった。当時アメリカに住んでいた私の部屋が空いていたのでそこへシングルベッドを2台入れて、おじいちゃんとおばあちゃんがしばらくここに二人で暮らした。あの頃はこの家もまだリフォーム前で、私の部屋には今も残っている造り付けのクローゼットと同じ木材で作られた机と本棚があって、小学生の私がそれを使い、私が日本へ引っ越した後、代わりにこの部屋に入ったいとこ兄妹がそれぞれ順番に使った。みんなの使ったその造り付けの机の上に、花市で買ったオレンジと黄色の間ぐらいの色合いの小さな胡蝶蘭を飾って、その脇に水の入ったグラスを置いた。 「おばあちゃんってそういえば私の部屋で暮らして亡くなったね」と母に言うと、母は「そうだよ」と私の顔を見た。部屋には洋服や下着、スカーフ、膝用サポーターなど、おばあちゃんの身につけていたものがまだいくらか残っている。その中からいまだに「重ねて小さく折りたたんだ1000元札が時々出てきてね」と母が言う。忘れっぽくなったのを気にして、必要な時すぐにお金が出せるようにあちこちへ分散させてしまってたのだろう。おばあちゃんはお札を必ず紅包(ホンバオ)という真っ赤な封筒に包んでしまっていた。紅包はのし袋、ポチ袋のようなものだから、誰かにもらったのか、それとも誰かに渡すつもりだったのかもしれない。おばあちゃんは孫もひ孫もたくさんいて、玄孫までいた。おばあちゃんが亡くなってもう6年も経って、今頃になって出てくる紅包はもう赤がすっかり色落ちして、膝用サポーターに色移りしたピンクの染みさえ茶色くなってね、と母が言った。
13日 4月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月13日 台北
たった2年ほど少し田舎に引っ越しただけなのに、都会での暮らし方がいまいちよく掴めない。あんまりあちこち遊びに行けないし、人に会いにくいからかもしれないけど。東京やニューヨークに住んでいた頃は台北が楽しくて楽しくて仕方なかったのだが、今では海とか神社とか、平屋造りの家、青くて広い空、電線のある空、人の家のお庭、海へ向かう川、みかんのなる木、住宅地の畑、大家さんちの木々と花々、ただの空き地、ちょっとした駅前のにぎわい、いろんなところから見える富士山、線路沿いの草花、134号を平塚に向かう西日、だだっ広い薬局なんかが妙に恋しい。みんな元気かな。 台北は今日も寒くて、ほとんど布団に包まって過ごしたが、上はTシャツだ。バオバブでようすけさんから買った薄手で袖も短めのやつ。台北を歩いていると、上はダウンで下は半ズボン素足にビーサンという着こなしがすごく一般的で、真夏以外必ずたくさん見かけるこの人たちは一体寒いのか暑いのか、と常々不思議に思っていたが、今日ようやく、上下アンバランスな防寒がこの土地にはちょうどいいんだと体感できた。台北の寒さは寒いけどホンモノではないというか、今も14度だけど、本当の寒さなんて知らない土地のたかだか14度という感じで、14度の先に10度、5度、2度、、、このままその気になればマイナスになるんだぞ、という底知れぬ冷たい世界への入り口の14度と全然違って緊張感がない。私ってこんなところでぬくぬくと育ったんだな。 台北の街を歩いていると時々、もし母があの時私を連れて日本へ行くと決心しなかったら、あのまま私がここで母と入学手続きに行った金華國小に通い、金華國中に通い、高校受験をして、もしくは小中はあのまま日本人学校に通い、高校はその向かいのアメリカンスクールに通い、そういう少女時代を過ごしていたら私は今頃どんなだったかなあと空想する。カフェで同じくらいの年頃の女性を向こうの席に見かけたり、街で大学生くらいの、30代くらいの女性とすれ違うと、あり得たかもしれない自分の姿を一瞬想像する。「あの時はそれが正しいと思ってやった」と戸籍謄本をちらりと見て母が先日私に言った。母も70に向かうし、もうあんまりいろいろ尋ねたいとは思わなくなった。「そうだよね」とだけ相槌をした。 ちょうどお昼ごろおばがうちに戻ってきて、リビングでお昼ごはんを食べる用意をしているところだったので母とおばと3人でニュースを見ながら一緒に食べた。娘家族や彼氏と週末過ごせたからか、おばは少し元気そうに見えた。母もうれしそうにして、小さなこといちいちに朗らかに笑って、「エリと二人しかいないのに間違えて目玉焼き3つも作っちゃったなと思ったてたら、ちょうどいいところに帰ってきた」と横に座るおばの小皿に目玉焼きを取り分け、にんじんは目にいいし美味しいよ、キクラゲも身体にいいよ、特に女性にすごくいい、この豆は誰々からもらってあの人のところは農薬使ってないから自然でおいしい、あれもこれも、と少食のおばに勧めては断られてうれしそうに笑った。 カノコバトのヒナはうちのベランダを家のように思っているのか、朝も昨日の夜と同じブーゲンビリアの枝にいて、昼頃少しいなくなったかと思うと、3時頃バタバタバタとまた不器用な音を立てて戻ってきて、コルディリネの葉にぶつかったがなんとか藤の枝に無事止まった。ベッドで布団をかぶっている私から窓越しに毛づくろいするヒナが見えて、時々目が合う。何を見ているんだろうな。
12日 4月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月12日 台北
ヒナは朝までペトレアの枝の隣にずっと寝ていた。窓から覗くと目が合って、枝から枝へ飛び移ってみたりしているのを見てから二度寝した。お昼頃、さすがにもういないだろうと思ってベランダに出ると、なんとまだ同じところでじっとしていたヒナが私に驚いて向かいのマンションの屋上へパタパタ飛んで行った。昨日より上手になったね。...
11日 4月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月11日 台北
朝巣立ったヒナが、夕方戻ってきた。...
10日 4月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月10日 台北
昨日はほとんど満月に見えた月が、今日は随分欠けて真っ赤だった。...
09日 4月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月9日 台北
やっと晴れた。空が明るい日に外に出られて本当にうれしい。都会の真ん中にいても天気がいい日はうれしくてむずむずする。...
08日 4月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月8日 台北
おとといも夜は雨だったからか、昨夜の大安森林公園はいつもより人が多かった。最近夜に散歩するようになって、この公園は夜がいいんだなあと気が付いた。母が言うには犯罪防止のために、木と木の間が程よい間隔であけられ、人間の背丈くらいの空間がずっと向こうの方まで見渡せる。...

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