生存以外に

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月23日 台北

キッチンでコーヒーを淹れようとしたら、ドリッパーの縁のところに小さなかたつむり。緑色だから間違えたのかな。ホンイーがこの間山から持って来たキャベツと一緒にここまで来たんだろう。母が「あなた外で暮らしなさいよ」とつまんで窓から投げようとしたのでその前に。

 

昨日は「感染症の哲学」というオンラインワークショップを途中から視聴した。Zoom上に6人の日本、韓国、中国、香港の哲学者たちが集まって、新型コロナウイルスに関連するいろんな話をするというので、家で暇だし、無料だし、ちょっと見てみようかとなんとなく申し込んだが、夢中でノートをとって最後の最後まで聞いて、一人一人登壇者が退出して、主催スタッフの方々が業務連絡をし始めるまで聞いてしまった。日本語で人々が会話している声と内容を聞いて、そこに心を投げ出し没頭することのできた時間が持てたのは久しぶりだった。

 

台湾ではありがたいことに感染拡大もなんとかコントロールされているようで、死者数も比較的少ないこともあってか、コロナウイルスはやや日常化してきている感覚がある。私自身も不安な気持ちで生活することはほとんどなくなったので、このワークショップを機会にそろそろ自分の通ってきた気持ちを振り返ってみようかなと思った。

 

私がしばらく最も深刻にとらわれていた考えは、私が今ここで死んだら、誰が日本で私の死亡届を出してくれるんだろうというものだった。感染については、そもそもできるだけ防ぐけどそれでもかかるのが病気だし、治療については運も含めてまかせるのみなので、この二つについては割り切れる。でも私が台湾で死んだら、死んだ私は日本で誰の手によってどうやって処理されるんだろうか。

 

台湾で死ぬことは何も心配していなかった。埋葬については一応自分の希望を母に伝えたし、ここには家族がたくさんいるので、母が取り乱したとしても、たくさんのおばやいとこ達が一番いいように心を込めて考えてくれて、母のことも支えてくれるだろう。そこで終われたらいいいのだが、私には日本国籍があるので、日本に死亡届を出さなくてはならない。私は日本に家族がいない。一般的に日本人が外国で死ぬ場合、大使館とか領事館とかそういうところに死亡届を出せばいいはずだが、日本は台湾と国交がないので戸籍業務を行う在外公館もなく、死んで3ヶ月以内に日本で届出をしなくてはいけない。このことは父が台湾で死んだ時に知った。あの時はひとまず私が一人で日本に戻って死亡届やら諸々の手続きをしたが、あんな感じで私の死亡手続きをするために母は日本に行くのかな、と考えてみると、それは母がかわいそうだし、その前に台湾と日本の間を当分自由に行き来はできないだろうし、母には呼吸器疾患があるので、今の日本に行けと言われても怖いだろう。かと言って、あの時私が父にしたような手続きを家族以外の人に「死んだらお願いします」とは頼みづらい。でも家族がいない人だって当然死ぬよな、と「死亡届 家族がいない」とネットで検索してみると、わかったことには、家族以外にも同居人、家主、地主、家屋管理人、土地管理人などが私の死亡届を出せる人たちなのだった。最悪の場合は大家さんが私の死亡届を出してくれるのかと思うと、今更ながら、みんないろんな死に方をするんだなと思った。そんな風に必死で自分の死亡手続きのことを考えながら、ふと、別にこれまでそんなにきちんと生きてもこなかったのに、死ぬ時ばかりきちんとしてても妙かなと思って、やっと少し力が抜けた。今はここでこんな風に書けるが、悩み考えていた時期、私は本当に真剣で、自分の死がどう扱われるのかについて非常に切迫した思いがあった。不安や心配よりもっと重たい気持ちだった。

 

きっかけになったひとつは、イタリアで司祭が相次いで亡くなっているというニュースだった。1ヶ月ほど前、いつものように母とテレビの前でお昼ごはんを食べていると、中国語の字幕が被せられたCNNの映像が流れ、イタリア北部の様子を伝えた。その頃すさまじい勢いで感染者数が増えていたのがイタリアで、教会の床の上を埋めつくすように並んだ木の棺のイメージと、人のいない教会で慌ただしそうに動く司祭たちの姿を私はテレビで何度も見ていた。その日のニュースは、その司祭が死亡したというニュースだった。家族が感染者を看取ることは感染防止のために許されず、今ひとりで死んでいく感染者に寄り添えるのはただ聖職者たちだけなのだとすでに報じられていた。司祭は、ひとりで息を引き取っていく感染者の額や頬に触れて最後の祝福を与え、その結果ウイルスに感染して亡くなった。司祭の死は連日続いた。看取られない死。祝福すると死ぬ。私はソファに座りながら、そのまま体が沈みこんで地下3階あたりの暗いところへ降りていくように感じた。かなしみがあり、うまく言葉にならないそれ以外もあった。

 

昨日のオンラインワークショップ「感染症の哲学」の中で、國分功一郎さんがイタリアの哲学者アガンベンの言葉を紹介した。新型コロナウイルスのパンデミック後に発表した文章の中で、アガンベンは「生存以外にいかなる価値ももたない社会とはいったい何なのか?」と書いたという。

 

生存以外にいかなる価値ももたない社会とはいったい何なのか。

 

 

台湾での新規感染者数が一桁になって落ち着いてきた頃、死亡届のことをやっと口に出してみたいような気持ちになって、夜、母と大安森林公園を歩きながら話した。公園内からMRT大安森林公園駅出口につながっているあたりで、夜はちょうどこの辺が一番明るく、台北市のシェア自転車YouBikeの駐輪場とその向こうに並ぶビルが見えて、少しずつ花が咲き始めている月桃と歩道を挟んで小さな池がある。池の周りは時々ブルーの電球でライトアップされ、真ん中らへんに謎の湯気が上がっている。池の中では大体いつもゴイサギがじっとしていて、水面にあめんぼの模様が見えて、覗いても見えないところでカエルたちが低くて変な声で鳴き合っている。

 

「私死んだら日本で死亡届出してくれる人いないからどうしようって思ってたんだけど、死亡届って家族じゃなくても大家さんでも出せるらしいよ。考えたら、家族いないでひとりで死んでいく人だっていっぱいいるもんね。大家さんも大変な仕事だね」

「お父さん死んだ時ってどうしたんだっけ。エリがやったの?」

 

何気なくではあっても、死亡届を気にしていたとを口にしてみると少し肩の荷が降りた。何かもう少しべらべら話したい感じになって、母と二人で、樹木葬と花葬と選べるらしいがどっちがいいか、とか、私は木だな、そうだよ花は植え替えとかするかもしれないけど木だったらずっとあるし、とか、エリもしばらくさぶちゃんとみーちゃんの遺灰の間に置いといてあげようか、とか、軽い話をして歩いた。そういえば、父とも総武線に乗ってこんな話をしたことがあった。

 

「いいか、俺が死んだらな、帰りの電車で骨壷をあそこの網棚の上に置いてこい。大丈夫だ、誰も何も言わないよ。俺はお墓とかああいうのは大っ嫌いだ。網棚の上に置いたら、その後骨壷がどこに行くか知ってるか?JR忘れものセンターだ。あそこはすごいぞ。誰かが取りに来るまでなんだってずっと保管する。俺は死んだら忘れものセンターのロッカーの中だね。永遠に保管されたいね」

金華官邸

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月21日 台北

下の階の家を覗いたらカノコバト。たぶんお母さんバト。うちのベランダの縁から、翼も広げずダイブするように下へ落ちて行くのをそういえばよく見かける。

 

このお母さんは、私たちがご飯を食べ始めてしばらくすると、いったいどこでどう察知しているのかパタパタパタ音を立てて飛んでくる。部屋の中がよく覗ける定位置があって、そこからじーっとこっちを見たり、ベランダの手すりを行ったり来たりして、立ち止まるとこっちを見ながら首をひょこひょこ「まだかな?」と言うように左右に動かす。私たちはたぶんエサ係だと思われている。ごはんを食べ終わってリビングでぼーっとしていると、またすかさずカノコバトがパタパタと飛んできて同じ動きでアピールを始める。エサは母が近くのスーパーで買った五穀米をあげている。普通においしいと思って食べていたけど、何が気に入らなかったのか母は「これあんまり美味しくないよね」と同意を求めるように言って、気付くと五穀米はいつの間にか使っていない植木鉢の受け皿に入れられて、毎朝ベランダに出されていた。最初は1日1回朝だけあげていたが、こっちが夕ごはんを食べていると、「そっちは2回食べてますよね?」とでも言いたいのか、お母さんバトがまた飛んできてはこちらを覗いてくるようになり、しまいには抗議のつもりか、まっすぐうちのリビングへ向かって飛んできてそのまま窓ガラスに激突するようになった。こういうコミュニケーションのとり方って人間にもあるよなあと今では思ったりもするけど、はじめは随分びっくりした。衝突してくる方もかなりの衝撃を全身で感じているんだろうが、目撃する側にも、肉弾になったハトがガラスの平面に「どん」と急にぶつかる重たい音や、その後もガラスがガタガタ震える振動を感じて伝わってくる衝撃がある。先月だったか、台北の何の変哲もないそのへんの道で信号待ちをしていると、向かいから横断歩道へと右折してきた車が私の目の前で2台続けて追突した。目の前で車が突っ込むのを見るのははじめてだったので、衝突音の大きさにしばらく呆然とした。はじめて相撲を見たときも、力士の肉と肉がぶつかるびしゃーんという音の、残響の尾ひれみたいなのまで空間に鳴り渡るのにびっくりした。小学3年生の頃には校庭で、誰かが蹴ったサッカーボールがこっちにまっすぐ向かってきたな、と思った瞬間そのボールを顔の正面で受け止めてしまったことがあったが、あのバシッという音は重く短かった。ボールを受けたと同時に目の前が真っ黒になって、その後も顔から始まるびりびりする余韻のようなものがしばらく残ってすぐには動けず、誰かが保健室に連れて行ってくれた。母は「ハトって目見えないのかね、ちょっとバカかね、あーびっくりした」とどうでもよさそうにぶつぶつ言ってたが、五穀米は今では1日2回出されているので、あの突撃は母にも少し影響を及ぼしている。

 

ヒナは2日に1回くらい私の前に来る。本当に目の前まで飛んできてくれるもので、ベランダで植木の手入れをしていると、バタバタと相変わらず不器用そうに飛んできて、私がいじってる植木のすぐそこに止まって目が合うので、一応小さく挨拶をしている。数秒滞在するとまたすぐどこかへバタバタと飛んで行く。向こうの屋根からこっちを見ているなという時もある。ヒナの首回りにはカノコバト特有の白黒水玉スカーフみたいな模様はまだできていなくて、ねずみ色で小ぶりで産毛がちょこっと飛び出しているカノコバト型のカノコバト顔の鳥、という感じ。手すりの上を歩くのも時々片足を踏み外してバランスを崩したりしていて、ハトにもハトらしい動作が身につく前の段階というのがあるんだなあと新鮮な気持ちになる。昨日は向かいのマンション目がけて飛んできたはいいが、着地できると思って飛んで行ったところがただの壁だったようで、何の出っ張りもない壁を前にして2、3メートル右往左往していた。右往左往する鳥というのもいるものだ。

 

33度もあった台北も突然20度台前半と涼しくなって、またみんながビーサンのままダウンを着ている。おばは家の中でもダウンベストを着て、ソファの上でも布団をかぶっている。雨が降っているので今夜の散歩はおやすみにして、夜、ゴミを出しにだけ外に出た。今ではほとんどマンションばかりのこの辺りも、私が子どもの頃には一戸建てがずいぶん建っていた。今でも年季の入ったコンクリートに瓦屋根の平屋がいくつか残っていて、開いている窓を少し覗くと、蛍光灯の白いあかりと食器棚、その上の置き物、日めくりカレンダーなんかが見えて、人がいる気配がする。たくさんあった木造で朽ちかけの日本家屋も年々減っていったがまだそれなりに残っていて、ほとんどが公共建築として美しくリノベされ、それぞれ文化的で歴史的なサロンとしての役割を与えられて再生している。うちから一番近いセブンイレブンの向かいには、この辺の一戸建てにしては敷地の広い家が昔からあって、ここは外壁が高くて中が全く覗けない。鉄の板のような大きな門の脇には大きなパラソルが立ち、そのまた脇に通常一人、時々三人くらいの警備員が昼も夜も立っている。ちょうどこのたいそうな家の前がゴミ収集場所になっているので、時間になると近所の人たちがここの家を囲むように、警備員に並んでゴミを持って集まる格好になる。夜8時45分、3台のゴミ収集車がやってきて前に停まり、作業員が荷台からオレンジ色の巨大なバケツを二つ降ろし、その中にみんなで順番に腐りかけた残飯や野菜屑なんかの汁を飛ばしながらどんどんと生ゴミをこぼしていき、特に蒸し暑い夜なんかはマスク越しでもなかなかの臭いが漂っているのがわかる。母は今夜もトラック後部の光る回転板を目がけてスタスタ歩き、おじいちゃんの大小便をくるんだオムツを詰めて口をしばったずっしり重いゴミ袋を遠心力で放り投げている。紙ゴミ回収トラックの列に並んでいる私の前の男性は、荷台の上の作業員に「包大人 Dr. P」と大人用オムツの紫色のロゴが印刷された段ボールを手渡して「謝謝」と言っている。毎晩他人の家の目の前でこうして大量のゴミや汚物をみんなでやりとりするというのはなかなか興味深いというか、この家の家主であるお金持ちだか偉い人は、それなりに心が広いかよっぽど事情がない限り引っ越したくなるよなと思った。この家には誰が住んでるのか母に何度か聞いたことがあるが、わからないと言われて特にそれ以上知ろうとしなかったが、そういえばゴミのトラックを待っている間、相合傘で腕を組んで歩く中年夫婦らしき二人組が目の前を通っていって、夫の方がこの家を指差しながら、行政院長がああだこうだと奥さんに話しかけていたのを思い出した。調べてみると、ここの家は金華官邸と呼ばれる行政院長、つまり日本でいう首相の官邸だった。ということは永田町の首相官邸の前に「乙女の祈り」を大音量で流してゴミ収集車が夜な夜なやってきて、赤坂あたりの住民が臭う生ゴミやうんこ付きオムツなんかを持って集まってはトラックに投げ入れるような感じか、と想像してみたけど、そんなことは日本では絶対にあり得なさそうだし、そもそもあのあたりに住む人はあんまりいなさそうだ。

むかしの寝具

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月20日 台北

お昼頃おばが戻って来て、気分が悪いと言ってすぐに奥の寝室へ寝に行った。週末もずっと気分が悪かったらしい。おばが寝ているベッドには普段母が寝ていて、これは私が本駒込で一人暮らしをしていた頃新宿で買ったものだ。木のフレームのマットレスを支える下の部分が、ちょうど15cmくらいマットレスの足がくる側と左右にはみ出るように作られていて、うっかりそこに足をぶつけると飛び上がるほど痛いことを除けば、そのはみ出たところにちょうど読みかけの本や飲み物の入ったマグカップを置けるのでとても気に入っていた。

 

当時私はあんまり体調がよくなくて、随分長い時間を寝て過ごした。20代の半分以上ベッドで寝ていたと言っていいんじゃないだろうか。人生ほとんど水平だよね、と同じような症状のあった友人と寝転んだまま電話して笑いあったりした。あれが20代の女性としての私だったんだなと振り返ると、誰も言ってくれなかったけど、結構かわいそうだったなと思う。茨城のり子の「わたしが一番きれいだったとき」という詩を思い出したりした。一番きれいなはずだったとき、私は一番醜かった。というのも全身性の皮膚疾患だったので、熱がこもって腫れぼったくなっていた体中の皮膚があかぎれの様に乾燥し、炎症し、皮がむけ、赤くひび割れて汁が出ていた。皮膚というのはこれほどの状況になってもこんなに余すところなく私という私を包むのかと思った。24時間痒みがあり、いつもなるべく強いている我慢をやめて思いきり掻きむしると、その最中と直後だけ無に近いような快感があり、一瞬の解放感を感じるもののやめればまた耐えがたく痒く、動けば痛く、汁が出て皮膚片が散らばった。中でも顔は一番症状がひどく、まぶたも口周りもひび割れて、目も口もうまく開かなかったが、隠しようもなかった。茨城のり子というより、どちらかと言えばヨブ記のヨブだったかもしれない。不思議なことにお風呂で湯船に浸かっている間だけはほとんど痛くも痒くもなく、病気なんてなかったみたいな気持ちになることができた。そのために長風呂が過ぎて、結果的に翌日の夕方まで動けなくなるほど疲れた。

 

いいマットレスを買うとそれだけでものすごくしあわせになる、と初ボーナスで30万のマットレスを買った大学時代の彼氏が目を輝かせて言ったのをずっと覚えていた。痛み、痒み、苦しみの多かった私にとって、いいマットレスは一筋の希望だった。でもマットレスは安いものでもそれなりに値段がするので、昔旅先で他に見当たらずやむなく買った上等のバスタオルを出して、試しにその代わりにしてみようと思った。お風呂上がり、なるべく肌にやさしくていい香りのするクリームを用意して、指ですくって両手の手のひらで合わせてあたためて、ゆっくり時間をかけて全身に塗った後、そのまま上に何も着ないで、ベッドの上に敷いた外国サイズの分厚い大判タオルの上に乗っかるようにして、うつ伏せになって寝た。そのころ音楽は痛みや苦しみのない場所へふっと意識を飛ばしてくれるものだった。好きなCDのスローテンポな外国語の歌をかけて、寝そべって目を閉じていると、まるでどこかからマッサージの上手い神様が現れてねぎらってでもくれたみたいに、体から緊張が離れていき、心も落ちついて、そのまますうーっと眠りに入ることができた。だけど朝方になると、結局私は体のどこかを掻きむしりながら目を覚まして、掻き終わっても痒みは治らず、動くと肌がバリバリと割れて痛み、それからまた数時間眠れなかった。ようやく起き上がった頃には、上等だったタオルが皮膚の裂け目から出た血と浸出液であちこち汚れていた。何度洗っても消えず、タオルを使っては新しく増えていく染みを数えていると、自然と心の奥の方までがっくりとした。

 

台湾の実家から出て本駒込で一人暮らしをすることになった時、ついにベッドを新調した。30万には遠く及ばなかったができるかぎりいいマットレスを買った。私の体調は最悪の時に比べると随分よくなっていたが、それでも不安定で、結局また症状が悪化して起き上がることも難しくなり、大学院入試の頃には顔中に湿疹ができて眉毛が抜け、体の皮膚も切れて痛く、もしくは痒く、だいたいいつもあちこち掻いたり手で押さえたりして過ごした。マットレスは私をものすごくしあわせにしてはくれなかったが、確かにいいマットレスだった。一番ひどい時より病気が悪化しなかったのも、もしかしたらあのマットレスのおかげで多少はよく眠れていたおかげだったのかもしれない。

 

おばが戻って来た少し後にまた玄関のブザーが鳴って、郵便物でも届いたかと思ったら、山からキャベツを届けに来たホンイーだった。姐姐、姐姐、どこにいるの、と玄関の方から私を呼ぶ声が聞こえて、スタスタとみんなの声がする方へ急いだ。ホンイーは台所でキャベツのたっぷり入った大袋を持って立ち、「你們還好嗎?」と私たちを気遣う言葉をかけながら重そうな袋を母に手渡し、その立ち居ふるまいには山に暮らす男性の自信のようなものさえ感じられた。台北育ちのホンイーも、山に住むようになってから随分元気になった。話し方はまったりと舌ったらずのまま、すっかりタイヤル訛りになって、なんだか発声もよくなった感じだ。いつもは着古した服かちょうど同サイズの母親のお下がりが定番だが、今日は新品らしい紺色のナイロンジャケットを着ていて、少し物も良さそうでよく似合っていた。「かっこいいいね、すごく似合ってるね」と声をかけると、「そうだよ」と当然のように言う。パジャマ姿のまま寝室から出てきたおばもにこにこしている。引っ越したばかりの頃はろくに芋も掘れず畑で大泣きしていたそうだが、今ではいとこたちの畑を手伝ってお小遣いももらっているのだから私よりずっと偉い。ホンイーのおかげで私は今週採れたてのキャベツが食べられる。ホンイーはスマホで写真を撮るのが大好きで、細かいことは気にせず、とにかくどこに誰といても、前から横から後ろから、人、風景、動物、大量の枚数を流れるように撮っていく。隣で世間話をしていたかと思うと、いつの間にか前に伸ばしたホンイーの腕の先のスマホ画面が自撮りの構図になっていて、会話の最中で急に間延びした声で「姐姐,一,二,三」と言うので、「私まだ顔も洗ってないのに」と文句を言ったつもりだったがもう撮り終わっている。少し前まではこんな風に写真を撮ってはすぐさまその全てを無差別にFacebookで公開していたが、映りが悪い、二重顎になっている他さまざまな問題のある写真をすべからくアップするので各方面から怒られ、最近はホンイーなりに厳選して公開しているようだ。

 

「姐姐、いつ山に来るの?早く来てよ。山が一番いいよ。空気がきれいでウイルスもないよ」

 

別れ際、鉄の門の向こうでそう言ってエレベーターに乗り、マンションの下で車の中ホンイーを待っている母親と一緒にまた山へと帰って行った。

 

夜の7時になってもおばは起きてこなかった。「このベッドすごく寝心地いいね、って言ってたよ」と母が言うので、そりゃあそうだ、あれは私が昔具合の悪い頃、どうせ寝てるくらいしかできないんだからこれくらい、と選びに選びぬいて張り切って買ったベッドなんだと自慢した。エリの持ってきた敷布団あるでしょ、あれもすごいよく眠れるよ、あれ寝たことある?すっごく気持ちいいよ、いとこのおばさんたち二人、うちに泊まった時あの敷布団で寝てね、床の上だからちょっと悪いかなって思ったけど、好舒服喔、なーんて気持ちいいんだろうって、二人とも朝起きたらすごい感動してたよ、她們真的很感動呢、と母があんまり手放しに称賛しまくるので、まるで寝具を通して私の方がたくさんたくさんほめられているような気持ちになった。そういえば母はずっとあんまり子どもをほめたりしない人だった。母自身あんまりほめられたりしなかったのかもしれない。でも母とおばたち3人が、みんな私の寝具の上で気持ちよく寝ているだなんて、そんなにもいいことをあの一番辛かった私はみんなにしてあげられていたのかと母を通して知って、報われるもんだな、とやっと思った。

花市へ

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月19日 台北

今週は新規感染者ゼロの日が3日もあったので気も緩んだのか、昨日、しばらく行かないことにしていた花市へ母と行った。みんな同じような気分だったのか、ものすごい人出だった。脇にある大安森林公園もものすごい人出。天気は曇っていたけど気温は30度以上あって、風がいい気持ちに吹いていた。芝生には敷物をしいてピクニックする人たちのグループが数メートル離れて混みあい、おしゃべりしたり、寝転がったり、みんなでゲームのようなことをしたりしていて、ああ私にもこういう時があったなあと思いながらその横を歩いた。まるで過去を見ているようだ。大勢の人が集まって楽しそうに動くのはもはやほとんどテレビやスマホの画面の中だけで、そういう映像を見ると私はすぐに、これは今のことじゃないからね、と無言で確認する癖がついている。

 

公園内のローラースケートリンクでは、幼稚園から小学生くらいの子どもたちがお揃いのヘルメットをかぶり、スケート靴の刃の代わりに車輪が一列ついた靴をはいて、先生の合図で一斉によたよたと滑り出している。リンクの外側はおじいちゃんやおばあちゃんらしき人たちが囲んで、見守ったり写真を撮ったりしている。歩道の脇には自作ラブソングをギターで弾き語りする男性が、その少し先に「盲人街頭藝人」とのぼりを立てて往年のヒット曲をキーボードで弾き語りする女性が、また少し先に同じく「盲人」と赤字で書かれた看板を立て、台車の上にスピーカーを乗せてカラオケで歌謡曲を歌う女性が、お互いに距離をとって、通り過ぎる人たちのうちの誰のためでもなさそうな歌をうたい続ける。はなから洗練など目指していない彼らの音楽は、木陰のベンチに座る身綺麗な家族連れやおしゃれした若者カップルたちのおしゃべりの背景にしっかりと流れていて、それは不釣り合いなようでとっても調和している。そのことに気がつくと、ああ台湾だ、台湾にいるんだという気持ちが私の中にわあっと湧いて、私は思わず「台湾だね」と母に話しかけて笑う。そんな私たちとすれ違っていくのは、手をつないでのんびり歩く白髪の夫婦、私たちのような母娘、両親と子2人の4人家族、小さな自転車で走り回る子ども、散歩する犬とその飼い主、大胆に肌を出したリゾート風ワンピースやショートパンツの女の子グループ、一人黙々と歩く人。とにかくどこを見渡しても湧いて出た虫のように人がいて、春らしい陽気にあふれている。

 

花市の入り口には「保持社交距離」と書かれた看板が一応出ているが、この人出なのでそういうわけにもいかない。せめて人にぶつからないよう注意するのが精一杯というところ。高速道路の高架下の駐車場で毎週土日に開催されるこの花市にはいくつも見どころがあって、様々な植木や切り花、種、肥料、園芸用品はもちろんのこと、食べ歩きできるおやつやお茶などの飲みもの、台湾各地の農産物、金魚、風水グッズ(一部の鉢植えもそうだが)などを売る店もある。私は蘭の店を一件一件ゆっくり見て回るのが特に好きだ。蘭の花は、濃い緑とむせ返るような湿度の中に咲くのが一番美しいと感じる。日本で胡蝶蘭というと、金持ち風の歯医者の窓辺や高級に見せたいスナックの調度品というイメージが私にはどうも強くて、胡蝶蘭は何も悪いことをしてないのにあんまり好きになれなかった。本当はもしかしたら、花が全部咲き終わって曲がった茎だけ無意味に残った愛でようのない姿になると、それまでみんな大切そうに扱っていたくせに「もう咲かないしねえ」と平気で生きたままゴミとして捨てる、それを許可するかのように、たくさんの鉢植えが作られ高級品のように売られていることが好きになれなかったのかもしれない。20代の頃久しぶりにこの花市に来て驚いたのは、鉢植えのブーゲンビリアが大量に咲きまくっていることと、お祝い用になりそうな立派な胡蝶蘭が150元とか200元で山のように並んで売られていることだった。何か見間違えているのではと驚き、しっかり値札も入るように写真に撮った。でも当時の私の興味の中心は都市や人やカフェや夜の街にあって、花、木、自然には大して興味がなく、花市も母にくっついて年に数回行くくらいだった。

 

母が「欲しいの見つかった?」と私に声をかける。信義路の入口から中へ入っていったところに、山野草のような雰囲気の、小さくて地味なようでしみじみと美しい蘭の花をたくさん売っているお気に入りの店があり、そこでじっくり小さなプラカップに入れて並べられたさまざまな蘭をひとつひとつ見るのがとてもたのしい。どれも風変わりで美しく、腋唇蘭なんてうっとりする名前がつけられていたりする。母が子どもの頃、母の故郷宜蘭の山には野生の蘭の花がたくさん咲いていて、母たちは平地から来たカハツ(タイヤル語で「閩南人」)に言われたとおりにそれを摘み取っては麻の袋に詰め、バカみたいに安い金と引き換えにその袋を渡したという。日本の業者が台湾の山に自生する溢れんばかりの蘭に目をつけて現地の人に委託して根こそぎ持っていったという話もあるから、日本人が閩南人を、閩南人が原住民を、という搾取の構造だったのかもしれない。花市にいると母はそんな話をしなかった。「今度自分で買いにくるよ」と私は母に言った。だいたい私はここ2ヶ月無職同然で、食事も寝床もすべて母の世話になっている。

 

おばあちゃんが亡くなって、花市に母と蘭の花を買いに来たことを思い出した。心臓の悪かったおばあちゃんは、山で何度も発作を起こして倒れてはみんなをびっくりさせて、大病院から近いという理由で台北のこの家で母が面倒を見ることになった。当時アメリカに住んでいた私の部屋が空いていたのでそこへシングルベッドを2台入れて、おじいちゃんとおばあちゃんがしばらくここに二人で暮らした。あの頃はこの家もまだリフォーム前で、私の部屋には今も残っている造り付けのクローゼットと同じ木材で作られた机と本棚があって、小学生の私がそれを使い、私が日本へ引っ越した後、代わりにこの部屋に入ったいとこ兄妹がそれぞれ順番に使った。みんなの使ったその造り付けの机の上に、花市で買ったオレンジと黄色の間ぐらいの色合いの小さな胡蝶蘭を飾って、その脇に水の入ったグラスを置いた。

 

「おばあちゃんってそういえば私の部屋で暮らして亡くなったね」と母に言うと、母は「そうだよ」と私の顔を見た。部屋には洋服や下着、スカーフ、膝用サポーターなど、おばあちゃんの身につけていたものがまだいくらか残っている。その中からいまだに「重ねて小さく折りたたんだ1000元札が時々出てきてね」と母が言う。忘れっぽくなったのを気にして、必要な時すぐにお金が出せるようにあちこちへ分散させてしまってたのだろう。おばあちゃんはお札を必ず紅包(ホンバオ)という真っ赤な封筒に包んでしまっていた。紅包はのし袋、ポチ袋のようなものだから、誰かにもらったのか、それとも誰かに渡すつもりだったのかもしれない。おばあちゃんは孫もひ孫もたくさんいて、玄孫までいた。おばあちゃんが亡くなってもう6年も経って、今頃になって出てくる紅包はもう赤がすっかり色落ちして、膝用サポーターに色移りしたピンクの染みさえ茶色くなってね、と母が言った。

14度

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月13日 台北

たった2年ほど少し田舎に引っ越しただけなのに、都会での暮らし方がいまいちよく掴めない。あんまりあちこち遊びに行けないし、人に会いにくいからかもしれないけど。東京やニューヨークに住んでいた頃は台北が楽しくて楽しくて仕方なかったのだが、今では海とか神社とか、平屋造りの家、青くて広い空、電線のある空、人の家のお庭、海へ向かう川、みかんのなる木、住宅地の畑、大家さんちの木々と花々、ただの空き地、ちょっとした駅前のにぎわい、いろんなところから見える富士山、線路沿いの草花、134号を平塚に向かう西日、だだっ広い薬局なんかが妙に恋しい。みんな元気かな。

 

台北は今日も寒くて、ほとんど布団に包まって過ごしたが、上はTシャツだ。バオバブでようすけさんから買った薄手で袖も短めのやつ。台北を歩いていると、上はダウンで下は半ズボン素足にビーサンという着こなしがすごく一般的で、真夏以外必ずたくさん見かけるこの人たちは一体寒いのか暑いのか、と常々不思議に思っていたが、今日ようやく、上下アンバランスな防寒がこの土地にはちょうどいいんだと体感できた。台北の寒さは寒いけどホンモノではないというか、今も14度だけど、本当の寒さなんて知らない土地のたかだか14度という感じで、14度の先に10度、5度、2度、、、このままその気になればマイナスになるんだぞ、という底知れぬ冷たい世界への入り口の14度と全然違って緊張感がない。私ってこんなところでぬくぬくと育ったんだな。

 

台北の街を歩いていると時々、もし母があの時私を連れて日本へ行くと決心しなかったら、あのまま私がここで母と入学手続きに行った金華國小に通い、金華國中に通い、高校受験をして、もしくは小中はあのまま日本人学校に通い、高校はその向かいのアメリカンスクールに通い、そういう少女時代を過ごしていたら私は今頃どんなだったかなあと空想する。カフェで同じくらいの年頃の女性を向こうの席に見かけたり、街で大学生くらいの、30代くらいの女性とすれ違うと、あり得たかもしれない自分の姿を一瞬想像する。「あの時はそれが正しいと思ってやった」と戸籍謄本をちらりと見て母が先日私に言った。母も70に向かうし、もうあんまりいろいろ尋ねたいとは思わなくなった。「そうだよね」とだけ相槌をした。

 

ちょうどお昼ごろおばがうちに戻ってきて、リビングでお昼ごはんを食べる用意をしているところだったので母とおばと3人でニュースを見ながら一緒に食べた。娘家族や彼氏と週末過ごせたからか、おばは少し元気そうに見えた。母もうれしそうにして、小さなこといちいちに朗らかに笑って、「エリと二人しかいないのに間違えて目玉焼き3つも作っちゃったなと思ったてたら、ちょうどいいところに帰ってきた」と横に座るおばの小皿に目玉焼きを取り分け、にんじんは目にいいし美味しいよ、キクラゲも身体にいいよ、特に女性にすごくいい、この豆は誰々からもらってあの人のところは農薬使ってないから自然でおいしい、あれもこれも、と少食のおばに勧めては断られてうれしそうに笑った。

 

カノコバトのヒナはうちのベランダを家のように思っているのか、朝も昨日の夜と同じブーゲンビリアの枝にいて、昼頃少しいなくなったかと思うと、3時頃バタバタバタとまた不器用な音を立てて戻ってきて、コルディリネの葉にぶつかったがなんとか藤の枝に無事止まった。ベッドで布団をかぶっている私から窓越しに毛づくろいするヒナが見えて、時々目が合う。何を見ているんだろうな。

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月12日 台北

ヒナは朝までペトレアの枝の隣にずっと寝ていた。窓から覗くと目が合って、枝から枝へ飛び移ってみたりしているのを見てから二度寝した。お昼頃、さすがにもういないだろうと思ってベランダに出ると、なんとまだ同じところでじっとしていたヒナが私に驚いて向かいのマンションの屋上へパタパタ飛んで行った。昨日より上手になったね。

 

道を挟んで、レンガ色のトタンのゆるい三角屋根のてっぺんに一人でいるヒナは、まるで突然自分だけ誰もいないステージの上にあげられてしまった子どものバレリーナみたいで、生えそろった羽で、ひとりぼっちで立ち止まって、じっとこっちを見た。カノコバトの目は黒くてまん丸くて、キョトンとしてるのにじーっと見てるような不思議な雰囲気があって、ヒナもまだ小さいけどしっかりカノコバトの丸い目をしている。少々毛づくろいなどしてから、ヒナはもうひとつ隣のマンションの屋根にしっかり飛び移り、するとこのあたりを居場所にしている白黒まだらで体格のいいドバトカップルがヒナの脇へと飛んできて、そして向かいのマンションの上によく見かけるクロヒヨドリも飛んできた。ヒナは本当はもうひとり兄弟がいるはずだった。「ハトってだいたい卵二つ産むのにね」と母がずっと不思議がっていたが、巣の周りの植木を整理したらこれ出てきたよ、見て、とうずらの卵よりやや大きいくらいの小さな白い卵を私に見せて、両手で挟んで温めるような動作をした後、「栄養になるから」と私の窓辺で小さな赤い花をひとつだけ咲かせている多肉植物の鉢にポンと置いた。

 

今日は最高気温17度と台北の人にとっては真冬のように寒い日で、昨日の夜からずっと雨が降り、玉山では雪が降り、街中でもダウンを着た人が多い。携帯代を支払い、雑貨店で卵を買って帰ってくると、やっと雨が止んで雲越しに夕日がさしてきた。またうちのベランダに戻ってきてブーゲンビリアの枝で休むヒナが日の光を浴びている。やはり17時前には寝るようで、昨日と同じおまんじゅうの体勢で動かずにいる。雑貨店の奥さんはレジを打ちながら「マスクは他の国に寄付するべきよ、台湾はこんなに作ってみんなこうして付けてるんだから」と何の前置きもなく母と私に言った。14日あたり9枚のマスクを買うのにみんな薬局に並び、これではまだ全国民に行き渡ってるとは言えない状態だ、なのに蔡政権はマスクをこの非常時の外交の道具に使って国民の安全と健康を犠牲にしている、と野党の国民党が批判していることに対して憤慨しているのだ。「助け合えばいいじゃない。他の国の人だって人間じゃない。マスクは節約して使えるよ」と、奥さんは自分のしているマスクをペロリと片耳のゴムを外してめくり、内側の針金が入っている鼻が当たる部分の右の方に、ボールペンか何かで4/1と日付が書いてあるのを見せた。鼻と口が当たるところを囲む大きさに四角く切ったガーゼが一枚、外れないよう上の方をぴたりと留めて付けてある。「毎日交換して11日間。你看。まだ使える」と言って、奥さんはまたしっかりとマスクを付けた。

 

コロナウイルスが武漢から蔓延し始めてから、母はまたケーブルテレビを契約し、私たちは毎日リビングのテレビの前でご飯を食べるようになった。感染が広がる世界各国のニュースの中にはもちろん日本についての情報もあり、安倍首相により緊急事態宣言が出されたことに従って日本のAV業界も停止するので、新作は5月6日以降まで出ないそうです、と女性キャスターが声色を変えず天気予報のように伝える。日本と同様、台湾でも夜の店での感染が発見され、社交距離を取るのが困難だからという理由で、酒店(キャバクラなど)と舞廳(ダンスホール)の営業が無期限休止とされた。失業したホステスと行き先をなくした客とは当然直接のやりとりによって経済活動を続けていて、取っ払いのフリーランスとなった彼女たちの仕事内容と料金相場を、女性キャスターは声色を変えず、意味ありげな間を作らず、天気予報や交通事故のように早口で報じる。中国語は全てが漢字の言語、世の中の全てが漢字とその音により表され、漢文が長く教養の証であった日本文化の中に育ってきたこともあるのか、私には「キャバ嬢」よりも「女公關」の方がひとりの尊厳を持った人間が選択する職業の一つらしく見え、聞こえる。もしくはせめてその建前が見え、聞こえる。

 

妊娠検査薬が過去にない売れ行きだというニュースもあり、画面には空になった薬局の棚、様々なメーカーの妊娠検査薬のパッケージ、女性にはおなじみのあの体温計のような形で真ん中の丸窓にくっきりと縦の線が表示されたテストスティックと呼ばれるもの、そしてちょっと困惑したような表情でコメントする薬剤師が映し出される。続けて、SARS後の台湾では経済的不安から出生率が落ちたというグラフを見せながら、専門家が「おそらく台湾の親たちは妊娠しても出産を選ばないだろう」とコメントした。私たち人間みんなの欲望はどんな形でどこへ潜っていくんだろう。

巣立ち、出戻り

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月11日 台北

朝巣立ったヒナが、夕方戻ってきた。

 

早朝、窓の外から、バタバタ、バタバタバタ、とひどく不器用な感じの音がして、もしかしてと思ったまま二度寝してごろごろしていると、ベランダから母が窓から私の部屋を覗いて「見た?行っちゃったよ」と声をかけた。バタバタはやっぱりヒナの音だった。母によると、掃除しようとベランダに出てきた母に驚いたヒナは、巣の中で立ち上がり、羽を大きく広げてバタつかせたかと思うとそのまま飛び立って、向かいの白いマンションの壁に激突。それがヒナの生まれてはじめての飛翔だった。運の良かったことに、追突したちょうど真下に庇があり、壁に沿ってひゅるひゅると垂直に落ちて行ったヒナは、庇の上で集っていた他の鳥たちの輪の中心にズズッと不時着したらしい。

 

朝5時を過ぎる頃、まずバイクが1台通り過ぎる音がして、それから少しずつ、あちらこちらで鳥が鳴き始める。私の家は台北の典型的裏通りの住宅街にあり、通りの両側とも長屋のようにマンションがびっしりと並び、前後左右の建物は私の部屋がある7階と同じか、やや低いか高いか。この街の作りがちょうど峡谷のようになっているのか、鳥たちの美しい鳴き声がまるで谷間のように瑞々しく反響して聴こえる。せっかくだからもっとよく聴こうと思って昨日の夜に窓を開けて寝たおかげで、毎日会いに行ってたヒナの巣立ちこそ見ることはできなかったが、せめて音は聴こえたなと思いながら、でもちょっとさみしいな、そのうち顔を見せに来てくれるかな、でも大人になってから来たら私見分けがつくかな、と心細かった。ここに来て今日でちょうど2ヶ月、自分の知っている世界がみるみる焼け野原になっていくのを、息を潜めてじっと眺めるしかないような気持ちで過ごした毎日だった。友人を招き入れることもなく、隠れ家になってしまったようなこの家に、まるで首に水玉のスカーフを巻いたようなかわいいカノコバト2人組が訪れて、ベランダの隅に巣を作り、昼も夜も卵を抱いて、ついにめでたくヒナまで産まれたというのは、唯一心から明るい気持ちになれる出来事だった。そんなのハトの方じゃ知ったこっちゃないだろうけど、人間がますます苦手になってしまった人間の私も、巣の中のヒナと目が合うと、何も考えずやさしい声になって人間の言葉で話しかけていて、落ちている花殻と落ち葉を拾いながら、私の身体の中でそっと響くくらいの小さな声で、浮かんでくる歌が自然に止むまで歌っていた。

 

4時に美容院の予約があるからといとこが出かける支度を始めると、朝からずっと真っ暗だった空からついに雨が大降りで降ってきた。美容院に行く気がここまで失せる天気もないな、と思いながら、こっちはコーヒーでも淹れようと思って台所へ向かうと、リビングでスマホをいじっている母が「また2匹来てるよ。片方小さいから夫婦かな、よく見えない」と言う。そろりそろり近付いてみると、伸びた藤の木の葉っぱのかげに確かに大小2匹並んで雨宿りしている。あの見慣れたくちばしはヒナだ。ハトってくちばしの成長が一段と早いのか、出来たてのかぎ爪のようなくちばしは、やっとハトらしくなったヒナの顔の中に釣り合わず大きく不格好だ。首を縮めてじっと丸くなっているお母さん(お父さん?)の隣で、濡れて寒いのか、肩から羽をわさわささせて落ち着かない。しばらくすると、親鳥に倣っておまんじゅうのように丸くなってじっと動かなくなった。ヒナこんにちは。全身の毛がまだふわふわしていて、お腹の下の方が白い。バラの花びらやベゴニアの花殻にまぎれて落ちているのをよく拾った、短くて白い小さなふわふわの毛。

 

リビングのピアノの椅子に座って、そのまま1時間ほどカノコバト親子を眺めて飽きなかった。親鳥は一人で飛んでいって、帰って来て、ヒナに餌を口移しして食べさせて、というのを2回繰り返し、3回目は帰ってこなかった。一人になったヒナは一人前に毛づくろいなどして、夕方5時過ぎにはペトレアの枝とコルディリネの赤い葉の間でおまんじゅうの姿勢のまま動かなくなり、外はまだまだ明るかったがどうやら寝たようだ。

 

真っ暗になった後も何度もリビングから窓の外を覗き、丸っこい影が見えるたびうれしかった。私の部屋の窓からもよく見えた。9時ごろ帰ってきたいとこは上機嫌で、ずいぶん短く切ったね、かわいい、かわいい、こっちの方がかわいいよ、と母もはしゃぐ声が聞こえた。私も混ざって、3人でニュースを見ながら話した。ニュースはほとんどがコロナウイルスにまつわる話題だ。先月入籍したばかりのいとこは、この疫情(と台湾で言う。日本語で短く言うならコロナ禍?)のために結婚式を延期することにして、台中への引っ越しも延期、週末に少しずつ荷物を運び出したり、台中に住むだんながうちに泊まりにくることもほとんどなくなった。テレビには総統や内閣の面々はじめマスクを量産し広く国民に行き渡るために貢献した人たちが次々と映され、それを率いた「マスク国家隊指揮官」という役職名にみんなで笑ったり、WHOという馬鹿馬鹿しいほど大きな欺瞞に、いとこが「会社でテドロスが話してるあの動画見て、今すぐあいつを殴りたいくらい腹が立って仕方がなかった」と再び飛び上がらんばかりに腹を立てたりした。これは私たち家族のささやかな幸せな時間なんだろう。おじいちゃんがいて、母がいて、私、いとこ。もしかして私は見送る人として、生まれたこの家にまた戻って来たのかなと思った。

くり返す

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月10日 台北

昨日はほとんど満月に見えた月が、今日は随分欠けて真っ赤だった。

 

昨日の散歩は気持ちがよかった。歩き自体は今日の方がよく歩けたけど、歩く気分は圧倒的に昨日が気持ちよかった。ガジュマルの木の間にウォーキング用の赤土の道がずっと前へと続くのを、今日の私は斜面の上から見下ろして、学校のグラウンドみたいだな、と子どもの頃走らされたことを思い出したりしたが、昨日の私はその校庭みたいな赤茶色の地面の上を、バレリーナみたいに両足を前後に伸ばしてまっすぐ先へ先へと何度もジャンプしたい、そんな気持ちで歩いた。そんなジャンプをしたのは高校の部活が最後で、バレリーナのように上手には飛べなかったし、それでも25年後に突然よみがえってきたのだから、身体は身体で語彙みたいなものがあって、記憶したり再生したり夢見たりしてるんだろう。今までみたいに歌ったり、お酒を飲んだり、長時間電車に運ばれながら外の景色を眺めたり、自転車を漕いだり、砂浜を歩いたり、常日頃していたことをしばらくしていないから、身体が思い出し作業に入ってるんだろうか。なんだかたまらなくなって、こんな時期に、と思いながら、雲門舞集の成人クラスに問い合わせメールをした。体があって、踊れるうちに。まだ誰かと踊れるかもしれないうちに。

 

今夜はメールの返事を書きながらマルセロが自宅で演奏しているライブ配信をかけて、とても心が安らいだ。トークはほとんどポルトガル語で話しているから何を言ってるのかわからなくて、そのことにも心が安らいだ。人の声を聴いていたいけど、意味が聞きたい訳ではない時がある。

 

ゴミ収集のトラックはいつものように「エリーゼのために」を流してやってくるが、ひと回し流れた後、台北市長が「我是柯文哲」と挨拶して社交距離(日本語では社会的距離)を取るようアナウンスする録音が続けて流れるようになった。台湾のゴミ捨ては日本とやり方がずいぶん違って、うちの近くは朝ではなく、夜、決まった時間にゴミ収集車が「エリーゼのために」か「乙女の祈り」を鳴らしてやってくる。それくらいの時間になると近隣の家々のドアがパタリパタリと開き、中からゴミを持った人たちが出てきて、いつの間にか近所の人たちが列になって、ゴミを片手にみんなで集合場所に向かい、そのままみんなでトラックを待ち構える。私はこの光景が好きだ。トラックは一般ゴミ、リサイクル(プラスチック類)、紙類の合わせて3台が並んで来て停まる。市長の声を聞きながら、近所の人同士互いにタイミングを計りあってトラックの左右に分かれて順番を待ち、私は紙ゴミトラックの荷台で作業する係の人に「謝謝」と束ねたダンボールを渡し、母は一般ゴミトラックの回転ドラム目がけ、おじいちゃんのオムツが詰まった台北市指定の水色のゴミ袋を遠心力で投げ入れる。

 

ゴミ捨ての後、母とスーパーへ牛乳を買いに行く。「みーちゃんにいろんな牛乳あげてみたけど、これ以外絶対舐めなかった」のが理由で、母は光泉というメーカーの牛乳しか買わない。帰り道、通りかかる壁一面に香港のデモを描いた木版画が貼られてあり、その横にはたくさんの付箋が隙間なく貼られ、どれも何かメッセージが書かれている。よく見てみようと思って近付いたところで、いとこから「姐姐、家にいる?鍵置いてきちゃった」と連絡が入る。私を姐姐と呼ぶ世界でたった二人のうちの一人。家にいるはずのおばは今朝彼氏が迎えにきて、また月曜に戻るといって出て行ったので、きっとブザーを鳴らしても返事がなかったのだろう。おじいちゃんってブザーは聞こえるんだろうか。「猫見てるからゆっくりでいいよ」といとこが言う。骨董屋街の脇の花壇のところにいるんだな、とわかる。お腹と胸もとの白い茶トラの野良猫があそこを自分の家のようにしていて、みゃあみゃあ鳴いてよく懐くので毎日複数の人に餌を与えられており、どんどん体型が丸くなってきた。気分が乗ってる時は、みゃあみゃあ言いながらそのへんまでお見送りもしてくれる。いとこは案の定、花壇の縁に腰かけている。その向こうに猫が丸くなって、そのまた向こうのベンチにロング缶のビールを2本並べて男の人が一人のんびりタバコを吸っている。いとこは母と私を見るなり「さっきまでもう1匹、新しい猫が来てた」と慌てて言う。そう言ったそばからその新しい猫が路地裏に現れ、まん丸い目で私たちを眺め、走って横切る。家まで30秒くらいを、笑ったり喋ったり、母といとこと私、3人で帰る。

いつも通り

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月9日 台北

やっと晴れた。空が明るい日に外に出られて本当にうれしい。都会の真ん中にいても天気がいい日はうれしくてむずむずする。

 

昼間の台北はまだそれなりに街が機能している。人が行き交っていて、近くの朝ごはんのスタンドも開いているし、いつものパン屋さんは相変わらずお客さんが多く、いつものカンパーニュが売られてて、いつものコーヒー豆屋さんは相変わらずマイペースで、いつものお兄さんがアコースティックギターを改造して作ったスピーカーから現代的な音楽を鳴らし、これはイギリスのDJによる電子音楽だよと教えてくれる。郵便局では封書や小包と番号札を持った人々が椅子に座って順番を待ち、窓口の向こうの郵便局員さんたちは仕事をしながらどこのお店の何がおいしいから絶対食べた方がいいとかそんな話をみんなで熱心にしている。埃っぽい古道具街はいつも通りお客さんがいなくて、店の前に椅子を出しておじさんたちが座って茶を飲み、「おい、マスクしろよ」などと言っているのがこれまでと違うくらいか。スーパーでは日曜日に75%アルコールを求めて並ぶ私たちに整理券を配ってた店員さんが、棚に野菜を整列させている。

 

いとこは満員電車を避けて、このところいつもより早く出勤している。電車が混むからそろそろ電動バイクで通うようにすると言う。

 

おばは今日病院で診察のある日で、予約の時間より1時間早く着くように家を出て、早く済んだと言って早々に帰ってきた。お土産に烤鴨を1/2羽買ってきてくれて、袋を受け取った母は、両手を広げて立つおばのナイロンジャケットににアルコールをしゅっしゅと吹きかけた。

 

おじいちゃんはいつものように1日2回ご飯を食べて、あとは大体寝ている。大体寝てるけど、時々部屋を覗くと目を開いてこっちを見ている。いつもちゃんと目が合うように思うが、「ほとんど見えてないみたいよ」と母は言う。ぼっと立ってる私を指さして、母が「えりだよ」と言ってもあいまいな顔をするが、「エリチャンだよ、私の娘」とタイヤル語で言うと思い出してくれる。タイヤル語のえりちゃんは「ちゃん」にアクセントがつくエリ・チャンになる。

 

母はいつものようにご飯を作り、おじいちゃんにご飯を食べさせて、私たちとごはんを食べて、おじいちゃんの下の世話をして、ベランダの植木の手入れをして、時々洗濯か掃除をして、スマホで免疫力を上げる食べものを調べて、facebookにいいねをし、時々長電話をし、買い物に行き、これまでほとんどつけなかったテレビを見るようになった。

 

私は夜散歩に行く。朝カノコバトのヒナを見に行く。日々草の種が育つ前につまみ取る。ニュースを見る。コーヒーを淹れる。鉛筆を削る。食器を洗う。お茶を淹れる。枸杞の実をひとつかみとってマグカップに入れ、お湯を注いで飲むとおいしい。メールの返事を書く。まだ書けていない返事のことを思い出す。伸びた髪をいつ切りに行こうか、鏡を見て手櫛で梳かす。髪が抜けなくなるまで繰り返す。

 

今夜はやっと月が見えた。とてもいい夜だった。月は丸く大きくとてもきれいで、まるで公園の電灯までもが森を照らす月のように見えた。それぞれの月の下、人々はベンチで寄り添い語らっている。私はいくつもの月と語らう人々を通り過ぎ、一番高く遠い月は、歩く私と同じペースでどんどん向こうへ、枝の上からビルの合間へと動き、道を曲がると見えなくなった。

折り重なって

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月8日 台北

おとといも夜は雨だったからか、昨夜の大安森林公園はいつもより人が多かった。最近夜に散歩するようになって、この公園は夜がいいんだなあと気が付いた。母が言うには犯罪防止のために、木と木の間が程よい間隔であけられ、人間の背丈くらいの空間がずっと向こうの方まで見渡せる。

 

名前に森林とついているが、セントラルパークみたいに自然が残されたエリアがあるわけでもなく、この街の中で木が多い場所なので、ということなんだろう。ゆっくり歩いても1時間かからず1周できるコンパクトな公園だ。私が小さい頃、ここには国民党と一緒に台湾へ来た移民たちのバラック小屋が隙間なく建ち並び、干された布団や洗濯物の合間でたくさんの人がごみごみと、室内はそれなりに整然と、生活していた。家々の間に店もあり、人の多い迷路のような通路を行って、朝ごはんの豆漿や燒餅油條を買いに母に連れられて来た記憶がある。安くておいしいと母が言っていた。大事なことだ。母か祖母か、誰かここに友達がいたのだろう。誰かの家でスイカを出してもらった記憶もある。玄関先に外の方を向けて椅子が二つ並べられ、一方にスイカの皿をひざに乗せて私が座り、もう一方にその家の人が座った。通る人や犬を見ながら食べた。

 

電燈はぽつぽつと明るすぎず、歩きながら周りを見渡すと、木々の下、公園内のいろんな散歩道のずっと向こうまであちこちを、人間たちがいろんな方向へ歩いているのが折り重なって見える。私が主に歩くのは、公園の縁に沿って赤土の敷かれたウォーキング又はランニング用通路だ。人が3人通れるくらいの幅の両サイドに背の高い木が植えられているので、前を見て歩けばちょっとした森を歩いているような気分になるし、公園の内側を見ると、電燈の下のベンチで一人スマホをいじる人、夫婦で散歩する人たち、仕事帰りの人、トレーニングウェアの人、犬を連れた人、地面を見ればミミズ、カタツムリ、野良猫、ゴイサギも歩き、速度もみな様々にあちらこちらで入れ違う。屋根のついた東屋ではいつものおじさんが譜面台を立てて、台湾の歌謡曲らしき5音階のメロディをアルトサックスで練習している。まだ初心者という感じで、抑揚がなく、全体的にすかすかと頼りない音でただメロディをなぞるのがかえっていい気持ちに聴こえる。

 

廊下の突き当たりにまだかすかに煙のにおいがする。3日くらい前に母がガスを消し忘れたぼやのにおいが少し壁に染み付いているみたい。母は自分の物忘れがひどくなったのがよっぽどショックだったみたいで、夜中台所にお湯を取りに行くと、電気もつけないまま、真っ暗な中、窓辺にお供えしているお水とお花の前で母が長いこと手を合わせていた。いつも髪をクリップで一つにまとめてあげてバタバタしている母が、肩下より少し長くなった髪を下ろして、足を揃えて静かに立っているふくらはぎを後ろから見ていたら、会ったことのない子ども時代の母がなんとなく浮かんでくるような気がした。

 

都会はもういいかなあと思って引っ越したのに、台北みたいな超都会にワープしてしまった。人が集まってはいけない都会。スーパームーンだというから楽しみに出かけた夜の散歩だったが、ここ数日ずっと曇った台北の夜の空はビルの灯りで赤くうす黒く、月はどこにも見えなかった。

イチヂ

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月6日 台北

台北は今日も雨。濕冷。

13時間寝た。とても気持ちのいい夢を見て、海が青くきれいで、相模川の河口のようなところをトロッコのような乗りものに乗って風に吹かれて通り過ぎて、幸せだった。

お昼もだいぶ過ぎて、のそのそリビングに歩いていくと、おばがソファに座っていた。

「いいのよ、何かしなくちゃいけないわけじゃないんだし」

と、言い訳じみた顔でもぞもぞする私に笑いかける。老眼鏡をして、スマホを持って、SUDOKUかソリティアか、宝石の種類を揃えて落とす無料ゲームのどれかをしている。うちに来てからというものおばは起きている間だいたいこんな感じだ。あとは薬のせいもあってかほとんど寝ている。おばみたいにかわいい人にニコニコと言われると、それもそうかな、という気持ちになる。何かしなくちゃいけないわけじゃないんだし。

 

ベランダでは母が花殻をほうきではいている。少し前にベランダの端っこのシダの根元にカノコバトが巣を作って、いつの間にかヒナが育っている。毎朝起きてすぐにベランダに出てヒナの様子を見に行くのが私の楽しみになった。ぼさぼさ頭のヒナがだんだんカノコバトらしい顔付きになってきている。話しかけるとヒナは巣の中でぐるぐる体を回し、私の方を見る。少しは認識してくれてるのかな。

 

夕飯みたいな時間に朝ごはんを食べた。清明のお供えだった大きな魚を食べ終えた。私が今日も相変わらず18の頃着てたキャミソール一枚でうろうろしているので、母が「あんたイチヂみたい」と言った。母の故郷のタイヤル部落で、どんなに寒くても服を着ない奴と言ったらタリ・ウインとイチヂ、この二人、それにエリも加われるよ、と言ってひとりで笑っている。あの人たちは服持ってなかったんじゃないの?とおばが言い、母は特に返事をしない。そもそもどうしてイチヂはあんな変わった名前で呼ばれていたのか、おばが母にまたたずねた。

「あの人嘘つきでね、仕事待ち合わせして『私イチヂに来る』って言うからみんな1時に行くけど、一回も1時に来たことないよ。いないよ。だからみんなあの人をイチヂって名前にした」

イチヂは何の仕事をしても長続きせず、いつもふらふらしていて、お腹が空くと親戚の家を回って食べさせてもらっていた。イチヂもイチヂの親戚も、部落の中で特に貧しかった。おばあちゃんが母やおばを叱る時、「あんたみたいに言うことを聞かない娘は今すぐイチヂのところに嫁にやるよ」と口癖のようにいつも言うので、母もおばもイチヂをなんとなく憎むようになり、おばに至っては、ある夜、坂の下を酔っ払って歩いてるイチヂを見つけて、坂の上からいくつも石を投げたと言って可笑しそうに笑った。

「うちの前の坂、あそこの下の方をイチヂが通っていくのが見えて、私思わず、そこにあった石を拾って思いっきり投げたよ。他の子がそうしてるって聞いて、私もそうしようと思って。こんな男の嫁になんて絶対になりたくないって思った。そうしたらあのイチヂ、下から私のことこうやって見上げて『誰がお前のことなんか好きかよ』って怒ったのよ。酔っ払って鼻水垂れてよだれ垂らして、ひどい姿で」

  

洗濯機がピーッと鳴ったので、いつも母が洗濯機の上に置いてる大きな洗面器に洗濯物を入れて、台所の裏のベランダに出て干した。母とおばと私の洗濯物は母の靴下がやたらと多く、和柄だったり、履き口にレースが付いていたり、足袋ソックスだったり、ショッキングピンクのモヘアだったり、すべすべしたシルクの二枚重ねだったり、種類も素材も多種多様で、よくまあこんなに集めたもんだと感心した。実家を離れてからずっと乾燥機を使っていたので、洗濯物を干す作業のいちいちが久しぶりでたのしい。うちは台北の中でもかなり古いマンションで、最近のマンションよりボロいが天井だけは高く、物干し竿がとんでもなく上の方にあり、先端が二股にわかれた長い棒を使って、その二股のところに洗濯物をかけたハンガーを乗せ、うまいこと竿に引っ掛けて干し、全て等間隔に並べて眺めているとちょっとした達成感を感じる。

 

昨日の夜は藤沢のパンセでライブの予定だったが、出られない私の代わりにハーモニカ奏者の倉井夏樹くんが出演してくれて、ファルコンとのデュオをライブ配信するというので、時間を合わせて部屋のノートパソコンの画面で観た。二人が演奏する向こうにガラス越しに江ノ電の灯りが時々さーっと通りすぎていく。会場から知った人のよく知った声も聴こえて、コメント欄にはいろんな人たちの声もあふれて、短い間だったがたのしい時間だった。人の前で歌うことを仕事にしながらその意味がよくわかってなかったけど、そうか、こうやってみんなで集まってちょっとたのしい気持ちになる場所をつくってたんだな、と思ったら、悪くなかったんだなと思った。久しぶりによく眠れてしあわせな夢を見た。

 

今日の夜は母とゴミ捨てに行こうとしたらちょうど、清明節の連休で山に帰っていたいとこが帰ってきた。いとこは早口でよくしゃべるしよく笑うので、そこにいるとにぎやかだが、会社勤めで毎日疲れて帰ってきて「ただいま」と言いながら早足で自室のベッドに直行して倒れこむことの方が多い。今日は玄関のドアを開けて「回來了」と言ったその口で続けざまに、

「さっき帰り地下鉄の駅でマスク付けてない人がいたんだけど、そしたらすごいスピードで職員の人がこうやって前に腕出して歩いて来て、『マスク付けてない人は入れません』って、その人速攻で追い出されてたよ」

と、私たちがさっきニュースで見たのと同じ光景についてものすごく早口で話した。今日から台湾の公共交通機関を利用する場合マスク必須となり、していない場合乗車できず、従わない場合は罰金15000元(日本円で約54000円)が課される。

清明

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月4日 台北

昨日は清明節。台湾の国民的お墓参りのこの日は例年よく晴れることが多いが、今年は曇り。おじいちゃんは寝たきりになってしまったので、母と私とおばの三人でベランダで簡易パイパイ(拜拜=お参り)。今年は多くの廟や霊園がオンライン墓参りサイトを作ってそちらを推奨し、どうしてもお墓参りをしたい場合は、時期を早めても「ご先祖様はわかってくれます」と政府が呼びかけたりもしていた。

 

パイパイは漢人の慣習なので、私たち原住民にはよくわからない。漢人と一緒に生活したことでもあれば別だろうが私たちはその経験がない。「パイパイは11時くらいにするのがいいって」とおばは彼氏から聞いたと言い、母は近所の雑貨店でお供えはどんなものを何種類揃えたらいいかを教わり、私はそれらを又聞きし、11時になると母がライターで線香に火をつけた。ベランダの植木を端っこに寄せ、リビングに置いている小さなテーブルを外に出し、魚、豚肉、鶏肉、果物、お菓子、飲み物、お茶碗にご飯、紙のお金を並べ、三人で一人一本ずつ線香を両手で持って、鼻の先あたりで前後に3回振り、それぞれにお祈りをし、みんなで紙銭を燃やした。紙銭は、環境に配慮した煙の少ないエコ仕様だった。お金が全部燃えたら、お供えした食べものを家の中に入れて、テーブルも戻し、立派な肉と大きな魚がそのまま私たちの昼ごはんになった。

 

一日外がうす暗くて、外も20度と台湾にしては冬の日のように寒い。今ぐらいの時期は雨が多くて、冬の乾いた寒さ(乾冷)と分けて「濕冷」という。おばは黒地に桜柄のちゃんちゃんこの下に更に黒いダウンのベストを来て、ベランダで赤いプラスチックの椅子に座って背中を丸めてタバコを吸っている。死んだおばあちゃんの趣味でうちにはやたらたくさんちゃんちゃんこがあり、そのちゃんちゃんこ趣味はいつの間にか母が受け継いでいた。母は私にも、これを着なさい、と赤の絞り染めのちりめんのちゃんちゃんこを渡した。母のはお揃いの紫だ。来客用ちゃんちゃんこもある。「日本でみんな着ているでしょう」と母は言うけど、そうだったっけ。東京での生活の記憶は母の中でみんながちゃんちゃんこを着てる夢と同化してしまったのかもしれない。私はキャミソールと薄手のカーディガンにパジャマのズボンで、母は「あんた見てるとこっちが寒い」と言い、おばは「她已經習慣在日本啦」と母に言う。こんなに長く台湾にいることになると思わなかったので、自分の服をほとんど持ってこなかった。クローゼットに私の高校生、大学生の頃の服、おばかいとこか母の服があり、そのあり合わせを着ている。

 

「そのパジャマのズボンはえりのよ」

 

と母が言う。脳梗塞で倒れた父が日医大病院から石和温泉のリハビリ病院に転院になり、お見舞いの帰りに寄った石和のイオンで母が買ったパジャマだ。15年くらい前のこと。母と私は文京区に住んでいて、私たちはイオンというものを石和ではじめて体験し、イオンはすぐに母のお気に入りの場所となり、父のお見舞いに行った日は母が必ずイオンの大きな買い物袋を提げて帰ってくるようになった。このパステルオレンジのネルのパジャマもそんな風に「すごい安くなってた、でもいいでしょ」と自慢げに値札を私に見せたあとくれた。パジャマの上だけないのは「おばあちゃんが気に入って本当は全部着たかったけど、太ってるから下のズボンが入らなくて上だけ持っていったよ」と言う。パジャマの下なら上に何を着てもそれなりに様になるけど、逆ってなんだか難しそうだな、と、やわらかなオレンジ色したパジャマの上だけ着てああでもないこうでもないと下をとっかえひっかえするおばあちゃんを想像した。おばあちゃんはこの台北のマンションから台湾大学病院に運ばれて亡くなった。父もそうだった。

 

東京で昔住んでいた家の近くのセブンイレブンの店員さん二人がコロナウイルスに感染したとニュースで知る。無事回復されますように。私はスリーエフ派だったけど、いつも親切にしてくれたあの店員さんは元気だろうか。近くの串カツ田中のお兄さんとかお姉さんとか。お弁当屋のお父さんとか。中国人らしいお嫁さんとか。みんな元気でありますように。

疎開のような

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月3日 台北

4月になった。

スケジュールのページに詳細更新していますが、今月出演予定だったライブ全ておやすみします。延期もしくは内容変更にて開催。この大変な中変更に対応してくださったみなさん、本当にありがとうございます。みんなが無事でありますように。

 

苦しいね。親しくしていた日本の人たち誰にも会えないが、みんななんとかやってるんだろうな。それ以外にどうしろと。

 

3月4月というのはそこらへんでたくさんの花が咲き出して、そのせいか空気も明るくなって、駅まで歩くのさえ本当にうれしかったし、小田急線で電車が藤沢駅に入っていく前の、空が一気に開けてきたと思ったら桜がわあっと並んで咲いてるてっぺんのところが窓越しに、あ、あ、と見えてきた2年前、ちょっと遠いけどここに引っ越したいなと思ったんだった。みんなどんな気持ちで過ごしているのだろう。私はまだ台湾にいて、ここには春らしき春がない。いつも何かしら咲いているのだ。とても見事に。ベランダではベゴニアの木の薄いサーモンピンク色した花たちが私の頭上で房になって咲きこぼれ、透けた花びらを落とし、私の家で、下の家で、ななめ向かいの家で、ブーゲンビリアの木々が満開の花のように、赤、白、さまざまなピンクの苞が小さな花を真ん中に包んで群れとなり枝を伸ばし、鳥たちがそこに飛んできて止まっては歌い、シダが生い茂り、外を歩けば大小のランがそこらで咲き、公園の木の幹にはカトレアが咲き、夜は月桃とアンスリウムの白い花が揺れている。駐車場のガジュマルの気根が揺れる。名前を知らない花々が咲いている。パンノキは3階建より高く、うちわよりも大きな葉を落とし、教会の庭や猫のいる花壇の脇に青いバナナが実っている。美しいというよりほかない場所にいて、私はここには春がないような、何か取りこぼしてしまったような、私などいない向こう側の世界で春が咲き出しているようで、死にそうに心細くなったりしている。「そっちにいる方が安全だよ」「ここにいる方がいい」と誰もが言い、私もそう感じるけれど。

 

この数週間、特に役割のない人間という感じで息をしている。寝て起きて食って寝て。久しぶりに母の世話になり、母は祖父の介護をしながら当然のように私を受け入れ、部屋をくれ、食事をくれている。祖父にご飯を食べさせる母の横に時々一緒に座る。母を見ていると、この人は何か世界に負い目でもあるのか、または前世で何かあったか、とつい頭をよぎってしまうほど、みんなの世話をすることでエネルギーを循環させている。

 

おばの躁うつが悪化し、「ひとりで家にいるのはやめなさい」と病院の先生に言われたというので、昨日からおばも私たちと一緒に住むことになった。祖父、母、おば、私。清明節の連休が終われば、母とずっと同居している私のいとこが山からバイクで帰ってきて、私たちは5人暮らしになる。祖父、母、おば、私、いとこ。山ではホンイーの飼っている猫がまた子どもをたくさん産んだそうで「1匹連れて帰ってきてもいいかな」といとこが言っている。2年ほど前に母の飼ってたみーちゃんが死んで、私たちはいまだにずっとみーちゃんの話をしている。

 

母が時々ソファやベッドでごろごろしている姿を見て私はやっと安心する。美しい母からせめて柔らかさが損なわれないでほしいと願いながら、私は寝て起きて食って、夜はゴミ捨てに行って、雨じゃなければその後で近所の公園に散歩に出かける暮らしをしている。

 

今朝「ライブどうしよう」と連絡があった。もし私が日本にいたなら今日一緒にライブをする予定だった。

 

歌って生活できるなんて、そんな奇跡みたいなことあっていいのかなと、活動している真っ最中にそう思っていたのだからしあわせ者だった。実家に戻って最初の頃は、ピアノを弾いたり、歌ったり、新しい歌を作ってみたり覚えてみたり、色々してたけど、ついに何もしなくなった。世界が変わってしまったのだ。でも随分前から、歌に関してはもう死んだ人の歌ばかり聴いていた。

 

変わってしまった世界の向こう側で、私の友人たちは今日も、少し注意深く支度をして、注意深く出かけ、演奏し、注意深く帰ってきているのだろう。そうするよりほかどうしろと。友人だった人たち、と書いてしまって慌てて書き直した。私のいるところから、みんなのいるところがあんまりにも遠い。身体的にも、日本人は台湾に入れなくなり、台湾人は日本に入れなくなった。まあナニジンとかあんまり関係ないよとみんなと善意で話せてた頃、こういう具体的なことまでは想像できなかった。東京はどうなってるんだろう。ひとり実家へ疎開に出てしまったみたい。