花市へ

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月19日 台北

今週は新規感染者ゼロの日が3日もあったので気も緩んだのか、昨日、しばらく行かないことにしていた花市へ母と行った。みんな同じような気分だったのか、ものすごい人出だった。脇にある大安森林公園もものすごい人出。天気は曇っていたけど気温は30度以上あって、風がいい気持ちに吹いていた。芝生には敷物をしいてピクニックする人たちのグループが数メートル離れて混みあい、おしゃべりしたり、寝転がったり、みんなでゲームのようなことをしたりしていて、ああ私にもこういう時があったなあと思いながらその横を歩いた。まるで過去を見ているようだ。大勢の人が集まって楽しそうに動くのはもはやほとんどテレビやスマホの画面の中だけで、そういう映像を見ると私はすぐに、これは今のことじゃないからね、と無言で確認する癖がついている。

 

公園内のローラースケートリンクでは、幼稚園から小学生くらいの子どもたちがお揃いのヘルメットをかぶり、スケート靴の刃の代わりに車輪が一列ついた靴をはいて、先生の合図で一斉によたよたと滑り出している。リンクの外側はおじいちゃんやおばあちゃんらしき人たちが囲んで、見守ったり写真を撮ったりしている。歩道の脇には自作ラブソングをギターで弾き語りする男性が、その少し先に「盲人街頭藝人」とのぼりを立てて往年のヒット曲をキーボードで弾き語りする女性が、また少し先に同じく「盲人」と赤字で書かれた看板を立て、台車の上にスピーカーを乗せてカラオケで歌謡曲を歌う女性が、お互いに距離をとって、通り過ぎる人たちのうちの誰のためでもなさそうな歌をうたい続ける。はなから洗練など目指していない彼らの音楽は、木陰のベンチに座る身綺麗な家族連れやおしゃれした若者カップルたちのおしゃべりの背景にしっかりと流れていて、それは不釣り合いなようでとっても調和している。そのことに気がつくと、ああ台湾だ、台湾にいるんだという気持ちが私の中にわあっと湧いて、私は思わず「台湾だね」と母に話しかけて笑う。そんな私たちとすれ違っていくのは、手をつないでのんびり歩く白髪の夫婦、私たちのような母娘、両親と子2人の4人家族、小さな自転車で走り回る子ども、散歩する犬とその飼い主、大胆に肌を出したリゾート風ワンピースやショートパンツの女の子グループ、一人黙々と歩く人。とにかくどこを見渡しても湧いて出た虫のように人がいて、春らしい陽気にあふれている。

 

花市の入り口には「保持社交距離」と書かれた看板が一応出ているが、この人出なのでそういうわけにもいかない。せめて人にぶつからないよう注意するのが精一杯というところ。高速道路の高架下の駐車場で毎週土日に開催されるこの花市にはいくつも見どころがあって、様々な植木や切り花、種、肥料、園芸用品はもちろんのこと、食べ歩きできるおやつやお茶などの飲みもの、台湾各地の農産物、金魚、風水グッズ(一部の鉢植えもそうだが)などを売る店もある。私は蘭の店を一件一件ゆっくり見て回るのが特に好きだ。蘭の花は、濃い緑とむせ返るような湿度の中に咲くのが一番美しいと感じる。日本で胡蝶蘭というと、金持ち風の歯医者の窓辺や高級に見せたいスナックの調度品というイメージが私にはどうも強くて、胡蝶蘭は何も悪いことをしてないのにあんまり好きになれなかった。本当はもしかしたら、花が全部咲き終わって曲がった茎だけ無意味に残った愛でようのない姿になると、それまでみんな大切そうに扱っていたくせに「もう咲かないしねえ」と平気で生きたままゴミとして捨てる、それを許可するかのように、たくさんの鉢植えが作られ高級品のように売られていることが好きになれなかったのかもしれない。20代の頃久しぶりにこの花市に来て驚いたのは、鉢植えのブーゲンビリアが大量に咲きまくっていることと、お祝い用になりそうな立派な胡蝶蘭が150元とか200元で山のように並んで売られていることだった。何か見間違えているのではと驚き、しっかり値札も入るように写真に撮った。でも当時の私の興味の中心は都市や人やカフェや夜の街にあって、花、木、自然には大して興味がなく、花市も母にくっついて年に数回行くくらいだった。

 

母が「欲しいの見つかった?」と私に声をかける。信義路の入口から中へ入っていったところに、山野草のような雰囲気の、小さくて地味なようでしみじみと美しい蘭の花をたくさん売っているお気に入りの店があり、そこでじっくり小さなプラカップに入れて並べられたさまざまな蘭をひとつひとつ見るのがとてもたのしい。どれも風変わりで美しく、腋唇蘭なんてうっとりする名前がつけられていたりする。母が子どもの頃、母の故郷宜蘭の山には野生の蘭の花がたくさん咲いていて、母たちは平地から来たカハツ(タイヤル語で「閩南人」)に言われたとおりにそれを摘み取っては麻の袋に詰め、バカみたいに安い金と引き換えにその袋を渡したという。日本の業者が台湾の山に自生する溢れんばかりの蘭に目をつけて現地の人に委託して根こそぎ持っていったという話もあるから、日本人が閩南人を、閩南人が原住民を、という搾取の構造だったのかもしれない。花市にいると母はそんな話をしなかった。「今度自分で買いにくるよ」と私は母に言った。だいたい私はここ2ヶ月無職同然で、食事も寝床もすべて母の世話になっている。

 

おばあちゃんが亡くなって、花市に母と蘭の花を買いに来たことを思い出した。心臓の悪かったおばあちゃんは、山で何度も発作を起こして倒れてはみんなをびっくりさせて、大病院から近いという理由で台北のこの家で母が面倒を見ることになった。当時アメリカに住んでいた私の部屋が空いていたのでそこへシングルベッドを2台入れて、おじいちゃんとおばあちゃんがしばらくここに二人で暮らした。あの頃はこの家もまだリフォーム前で、私の部屋には今も残っている造り付けのクローゼットと同じ木材で作られた机と本棚があって、小学生の私がそれを使い、私が日本へ引っ越した後、代わりにこの部屋に入ったいとこ兄妹がそれぞれ順番に使った。みんなの使ったその造り付けの机の上に、花市で買ったオレンジと黄色の間ぐらいの色合いの小さな胡蝶蘭を飾って、その脇に水の入ったグラスを置いた。

 

「おばあちゃんってそういえば私の部屋で暮らして亡くなったね」と母に言うと、母は「そうだよ」と私の顔を見た。部屋には洋服や下着、スカーフ、膝用サポーターなど、おばあちゃんの身につけていたものがまだいくらか残っている。その中からいまだに「重ねて小さく折りたたんだ1000元札が時々出てきてね」と母が言う。忘れっぽくなったのを気にして、必要な時すぐにお金が出せるようにあちこちへ分散させてしまってたのだろう。おばあちゃんはお札を必ず紅包(ホンバオ)という真っ赤な封筒に包んでしまっていた。紅包はのし袋、ポチ袋のようなものだから、誰かにもらったのか、それとも誰かに渡すつもりだったのかもしれない。おばあちゃんは孫もひ孫もたくさんいて、玄孫までいた。おばあちゃんが亡くなってもう6年も経って、今頃になって出てくる紅包はもう赤がすっかり色落ちして、膝用サポーターに色移りしたピンクの染みさえ茶色くなってね、と母が言った。