Daffodil

今日もうららか。歌い出しちゃいそうだった。

パリに行ってしまった友人の麗ちゃんのうららという字は、うららかのうららだったんだ。今はじめて気が付いたけど、確かに名前の通り、うららかな日の午後みたいな顔をしたかわいい人。元気かな。

 

友人にいただいた美味しそうなきのこのパテを食べたくて、昨日久しぶりにバゲットを買ったのが、長くて食べ切れないので、今日はバゲットを食べ切るために、じゃがいもとにんにく、ベーコン、牛乳、白ワインでスープ作ろうかな、と思っていたところに宅急便が届いて、白菜、大根、人参、ほうれん草など立派な野菜をたくさんいただき感謝。新鮮なうちに早速いただかなくては、と、スープの中身をじゃがいもから白菜と大根に変更。家で適当に料理していると、こうして目的がちょっとずつズレていく感じが楽しい。宅急便の箱の中には可愛らしい日本水仙の花束も入っていて、お菓子の入ってたジャーを洗って花瓶にしてテーブルに飾った。とってもいい香り。水仙って、ちょっとニラみたいな葉っぱなんだね。小さくてかわいい花。十数年前、水仙のこと英語で Daffodil って言うって知った時、心の中がぱあっとした。この可憐な花々は本当にそんな音を立てていそうで。

 

昨日の Eri Liao Trio @ 吉祥寺 音吉!MEG、お越しくださったみなさま、お店の柳本さん、どうもありがとうございました。お客さん少なかったけど(マンツーマン!)音楽を気楽に味わって楽しんでくれる人たちが聴きに来てくれて、とっても嬉しかった。ファルコンや小牧さんのようなミュージシャンと一緒にいろんなことをライブで試せることはとってもありがたい。昨日は特にそんな気持ちになった。2015年の夏から、もうすぐ5年もこの二人と一緒にこうやって音楽やっていられるなんて、世の中には意外にもやさしいところがあるんだな。MEGにはまた5月末以降に出演することになりそう。皆さんどうぞまたよろしくね。

 

今日は午後の間に横浜で用事を済ませ、港の方へまたちょっと散歩。この間来た時よりずっとあたたかくてしあわせ。

象の鼻テラスのガラス窓の中で、たくさんの人たちが動き回っていたので近寄ってみると、ちょうどダンサーの安藤洋子さんが「ARUKU」というワークショップをやっているところで、終わりの15分だけ覗くことができた。今みたいに歌うようになる前、私はずっと踊ってて、また踊りたいなあと最近ぼんやり思っていたところだった。ダンサーではない人も対象の歩くワークショップで、直視するのが大変なくらい、いろんな人たちが本当にいろんな格好で歩いていて、その中で安藤さんが楽しそうにしているのを見てたら、私も自分の身体と一緒に、私の身体に連れて行ってもらいながら、もうちょっと先まで歩いてみたい気分になって、港沿いのボードウォークをずっと山下公園まで歩いた。夕方4時を過ぎる頃、たくさんの人たちが私のようにお散歩したり、ベンチに腰かけたり、写真を撮ったり、人々が話すのを聞いていると、日本語、中国語、韓国語、何語かわからないけどどこか東南アジアの方らしき言葉、よく似て少し違うアジア人たち、もっと目鼻立ちのはっきりして浅黒い肌の人たち、水の上には黒いカモが浮かんだり、その上を白いカモメが飛んだり(カモにメつけたらカモメになるのね)、木々にはスズメや鳩もいて、こういう風にいろんな動物たちが水辺に集まっている場所にいるのがとっても好き。人間も、こうやって水辺に集まる動物の仲間なんだなあと思ってほっとする。

 

夕方4時を回るころ、太陽が沈んでいく港の西の方には横浜の街が広がっているので、鵠沼の海から見えるような圧倒的な夕日は建物が立ち並ぶ向こうにあり、ビルの隙間からもほとんど見えない。でも海の水は私の見えない空も全て映すから、東側の穏やかな水色の空と、西側の太陽が強く輝き出す空と、両方の空の色が水面にずっと広がって、波が静かに寄せて揺れるたび、青と黄色の太い筋がキラキラとずっと向こうの水平線の方まで揺れて、そのきらめきの中にカモたちは浮かんで揺れて、私の足元ではちゃぷん、ちゃぷん、と波の当たる音がする。下を覗くと、ただのコンクリートというより、まるで海の底にある古い建物の上の舞台のような形をしていて、後からこの公園は関東大震災の瓦礫を埋め立てて作られたのだと知った。この間もそう思ったけど、横浜の港の水は意外にも澄んでいて、よーく覗いていると水中に潜ったカモがすーっと泳いでいくのが見えて、水面に上がってくると、カモはぷるぷるっと濡れた頭を体をふるわせる。カモの潜っているあたりの水面に細かい泡がぷつぷつ弾けて消える。その水面も、もっと向こうの水面も、青と黄色の光沢のきらめく細いひだの並ぶ紗がいくつも重なるように、波のたびに動いて揺れて輝き、こんなドレスがあったらきっと素敵だな、とか普段考えもしないようなことを考えた。あんまりにも美しくて、こんな色があることを忘れたくないと思って、少し暗くなるまでしばらく眺めた。あそこに浮かぶカモになって、すーっと潜って水面から顔を出したらどんなだろう。

 

贅沢な気持ちになったので、もうちょっと贅沢をして、横浜駅東口まで船で帰る700円の切符を買った。元町・中華街駅まで中華街の中を歩いて、媽祖でお参りしてから帰りたいとも思ったけど、それにはもう時間が遅かったし。今度このあたりに来る時は氷川丸の中にも入ってみたい。家に着くまで、三日月が高く輝くのをずっと見た。

V

あんなに寒かった数日間が嘘のように、なんとまあよく晴れた。コートもいらないほどあったかい。朝ゴミ捨てに外に出たら地面も濡れて春のようだった。

 

ピアニストの岡野勇仁さんに「エリ先生(勇仁さんはみんなの名前に先生をつけて呼ぶ)もそろそろ自分語りとかされないんですか?」と、去年の夏、サブリナ、拓馬、マルコ、とみんなでリハをした後、エチオピアレストランで夕食を食べる前に立ち寄った四つ木の公園のベンチで聞かれて、その時は、いや、うーん私そんなことするのかな、って確か答えたんだったのに、ものの見事に毎朝自分語りをするようになった。勇仁先生にはそんな私が見えたのかしら。

 

ベランダのお花に水をやってたら私も外に出たくなって近所のスーパーへ。あたたかくて飛び跳ねるような気持ちで出かけたんだと自分でも思っていたら、出てみると、確かに嬉しいんだけども、少し戸惑う。1月だし。春の、芽吹いてくるような気持ちにならないのはそりゃ当然だった。私は外が寒いことに慣れたり、暖かい部屋の中を楽しんだり、うら寂しい冬の景色を味わったりしようとしていたんだった。富士山がまだ真っ白なのを見て、少しほっとする。太陽はあたたかいけど、部屋の中にいると外からの風はまだ冷たくて足先が冷える。スーパーの帰りに薬局へ寄って、マスクを買って帰った。窓を開けて、少し冷たい風を部屋の中に入れた。外に出て一番うれしい気分になったのは、大家さんの敷地の土の地面に大きな大きな水たまりが出来てたことだった。

 

遠くに海の音が聞こえる。郵便屋さんのバイクがエンジンをかけたまま停まっているのが聴こえて、また走って、また停まって、と繰り返して、少しずつ音が小さくなり、走り去って聴こえなくなった。

 

こんな風にいきなりあたたかくなる日、植物って一体どんな感じでそこにいるんだろうな。鳥とか猫とか虫とかも。

 

昨日中国語の話を赤須翔くんとしていて、「この漢字は日本語ではこういう意味だけど、どうして中国語だとこういう意味なのかな、まあ順番的には逆なんだろうけど」とかそんな質問をされて、そのまま漢字についていろいろ話し合ってたら、気になってきていろんな漢字の象形文字をネットで調べはじめてしまった。漢字のことってこれまであんまり考えたことがなかったけど、象形文字ってこんなに楽しいものだったのね。白い紙に自分も試しに書いてみたら、もっと楽しくなった。歌と似てるな、と思った。

 

いつも歌っていると、特に外国語で歌っていると、この言葉(歌ってる時なのでつまり音とリズム)によって示したいと思うことを人間の声を使って表現したい時、人間ってこういう音とリズムを選んでるんだ、というのがとっても不思議で面白く感じる。そしてどの言語も今と何百年前、千年単位の昔では全く違っていて、そんな大昔じゃなくても80年代、90年代くらいの日本人の話し方だって、時々テレビで昔の映像なんかで出てくるのを見てると、今の日本語とはリズム感や音のそもそもの出し方や口腔内での響き方が全然違うように感じる。なぜか体の奥がもぞもぞして、別に恥ずかしくなる必要もないのに、恥ずかしいみたいなくすぐったい気持ちになる。

 

今夜は吉祥寺のMEGという元々ジャズ喫茶だったお店で私のトリオのライブなので、弾き語りの時にはあんまり歌わないようなジャズのスタンダード曲もきっと歌うと思うんだけど、スタンダードを歌っていると、曲の最後、フレーズの最後の言葉が "love" という曲が多い。一番最後の言葉、音なので一番耳に残るし、大事に歌いたいと思っているからか、私はいつもこの love という言葉でその曲が終わる時、「ラー」と、私の舌先が私の口蓋のアーチに触れて、なぞって下りて歯の感触に当たり、舌を離して、息を伸ばし、でも最後私は下唇を噛まないと、v としないと、この音は愛という意味を持たないということにゾクっとする。愛のような感覚は人類、もしかしたら哺乳類、みんなあるんだろうけど、その感覚を表現するために、ここから遠く海を隔てた地では、みんな、少し開いた口の中で自分の舌をなぞらせ、息をはき、下唇を噛んできたんだなんて。

 

厚木へ向かうのか、軍用機の音がすごい。

柏尾川

いよいよ寒くなった。何もしたくない。昨日から風も強いし、雨も降ってる。シナモンと胡椒は相変わらずおいしい。お風呂ばかり入りたい。でも早朝が冷たく暗くても、夜が明ければやっぱり明るい。灰色の空も、寒々しい灰色のまま明るい。それにしても風の音ってどうしていつもこんなに胸がドキドキするんだろう。

 

旧正月の頃ってこんなに寒いんだなあと思ってたら、幼稚園の頃、母が旗袍を買ってくれたことを思い出した。いかにもよくある色と柄だったから、たぶん母は市場かどこかで買ったんだろう。私が自分で選んだかどうかは思い出せない。自分で選んだならピンクのにしたはずだと思うけど、そう言えば小さい頃は一番好きなものがいつもうまく言えなくて、「好きなのを選んでいいんだよ」と言われてもなかなかピンクのを指差せなかった。だからもしかして私が自分で「これがいい」と言ったのかもしれない。テロテロ光る赤いサテン地に金糸で梅の花咲く枝がたくさん刺繍してあって、立襟の付け根とそこから脇にかけて斜めに中国紐の飾りボタンが四つくらいついていて、長袖。生まれてはじめて着た旗袍。「過年の時に着るんだよ」と母はすぐに洋服ダンスの中に仕舞ってしまって、私は何日もワクワクした。台湾も昔は旧正月の時期はデパートでも市場でもお店はみんな閉まったので、母に手を引かれていつもより人出の多い街へ、鹹蛋や香腸など、私の大好物かつ日持ちのしそうなものなどを買いに、背の高い大人たちに混ざって、母からはぐれないよう長い列に並んで、頭の中はあの真っ赤な旗袍でいっぱいだった。

 

生まれ育った台北のマンションに住んでたのは私と母の二人だけだったけど、今に至るまで、母と二人っきりになったことはほとんどない。母は七人兄弟だったから私にはいとこがたくさんいて、祖母は五人姉妹だったので母にもいとこがたくさんいて、よって私にはたくさんのはとこもいた。大家族で一つ屋根の下に住むことの多い台湾で、私と母が二人暮らしをしているというのは、周りにはきっと相当心細く見えただろうし、母の兄・妹・いとこ達は決して楽じゃない仕事をしながら子育てをしていたから、経済的にも精神・体力的にも余裕がなかったのだろう。おばあちゃんは様々なおじおばのところから代わる代わる誰か子どもを、順繰りに連れては手をつないでうちへやって来て、連れて来られたいとこ達はうちのマンションから幼稚園に通ったり、年の離れたはとこはうちから大学へ通った時期もあったし、小学校だったいとこは、私の世話や遊び相手をしながら、今にして思えば一学期分くらい平気で学校を休んでいた。

 

その年の春節は珍しく、家に私と母の二人だけで、私はやっとこさお気に入りの旗袍を着て、髪型も、母がいつもよりちょっと可愛く整えてくれて、とってもいい気分だったが手持ち無沙汰だった。母は向こうで台所仕事か何かで忙しくしていて、私はなんとなくリビングの壁際に立っていたのを覚えている。寒いからと母に白の分厚いタイツを穿かされて、「恭喜恭喜恭喜你呀」とくり返す春節の歌をひとりで延々と歌った。母と二人でテレビを見て、当時テレビのチャンネルは、中視、台視、華視の三つしかなくて、チャンネルを変えたければ画面横にあるチャンネル名の書いてあるボタンをカチッと押して、押すとボタンが光って画面が切り替わった。まだ台湾が戒厳令下にあった時代。春節用の歌番組で誰かが「梅花」を歌うのを見たような気もする。その年の春節じゃなかったかもしれない。爆竹の音を聞きたくて、いつもより遅くまで起きていたかった。台湾で過ごした春節なら、もっと家にみんなが揃って、それかもしくは私と母が誰か親戚の家に行って、にぎやかで楽しかった年が必ずあったはずなのに、旧正月と言うと思い出すのは、赤い旗袍にワクワクしたあの気持ち、背の高い大人に混ざって並んだ長い列、お気に入りの旗袍を着て、上機嫌だけど手持ち無沙汰なあの気持ち、ひんやりした壁、母と二人しかいない家の中で、聞いたか聞かなかったか、下の通りからする爆竹の音に喜んだようなこと、チャンネルの三つしかないテレビ、どれも少し寂しい色合いをしている。

 

寒い季節はそういうものなのか、日曜日、京急に乗って、品川あたりでふと窓の外を見下ろすと、第一京浜には人も車もまばらで、その人気ない広い道路をぼーっと眺めてたら急に、まるで自分がみるみるその寂しさそのものになってしまいそうに感じて、あわてて自分で自分の手の指を触った。あの覆いかぶさるような寂しさが、第一京浜のものなのか、私から出てきた何かだったのか、なんだったのかわからない。

 

同じ日の夕方から、戸塚LOPOでライブだった。このお店で演奏するのは2回目で、私はLOPOの真横を流れる柏尾川という川が好き。東海道線が戸塚に停まる間によく見えて、地味な感じでいいなあ、いつか行ってみたいなあと思ってたので、はじめてLOPO出演のお誘いがあった時、なんとあの柏尾川沿いにあるお店だと知って俄然楽しみになった。桜が植えてあるから春はきれいなんだろう。ここに来るのは2度目。前回は夏だった。

 

戸塚の駅の周りは再開発の成果らしき大きな建物、住宅も大きなマンションが多くて、全部人間が作るものなのに、作れば作るほどますます人間味が吸い込まれてなくなるような雰囲気がある。東京地方には雪の予報もあった寒い日、リハを済ませて、電車から見えた川沿いの枯れすすきの方へ散歩に行ったら、思いの外、川はいろんな生き物で賑わっていた。枯れ草色と対照的な、鮮やかで色とりどりの傘をさした小学生の女の子たちがストーリー仕立ての動画を撮ろうと走り回って四苦八苦している向こうには、たくさんの鴨、真っ黒いのや、いわゆる鴨色というのか、顔らへんが緑っぽいのから、茶色っぽいのから、それより少し体が大きくてペンギンみたいな白黒で頭の上に羽根がピラピラしているもの、サギなのか、川の際を細長い脚でゆっくり食べ物を探し歩く白いのと黒いの、セキレイたちの群れ、桜橋という橋の下というか橋の裏側のくぼみのところにズラリと鳩が並んで休み、カラス、雀、走る人、買い物袋を下げた人、犬の散歩をする人、子ども、写真を撮る人、猫に餌をあげる人、そしてたくさんの大きな黒い鯉。こんなに水鳥が来てるから川の中には小さな魚もたくさんいるんだろうな。夏にはじめてここに来た時、私のいる岸の向こう側で鯉の写真を撮ってははしゃいでいた若い中国人カップルのことを思い出した。

 

ライブも、打ち上げも、本当にどうもありがとうございました。ここに来たから会えた人たちと会えて、すごく嬉しかった。みんなにお世話になりました。また会おうね。

 

そろそろ支度をして、藤沢でお世話になっている方々と新年会。今週は宴会続きだね。

農暦1月1日

今日は農暦1月1日。旧正月。新年快樂,身體健康,鼠年大吉!

 

除夕、つまり大晦日が昨日の夜で、台湾ではその前の日から旧正月のお休み。親戚たちからLINEやfacebookで吉祥話と呼ばれる「鼠」の音にかけたおめでたいフレーズが飛び交って、そういう台湾人の験担ぎ大好きなところが大好き。ああ懐かしいなあ。台湾で最後に旧正月を迎えたのはもう随分前のこと。みんなの家の玄関に、春聯という吉祥話を書いた赤くて細長い紙が入り口を囲むように貼られているのを、うらやましい気持ちで眺めた。台湾に住んでいても家族に漢人のいない私の家には漢人文化もそこまで入っていなくて、うちの玄関は1月末になってもまだクリスマスの飾りがまだついたままで、「キラキラしてめでたそうだからこれでいいよ」ということになっている。せめて「福」の字だけでも買って貼ってみたいなと思って色々見たけど、きっと母に「なんか台湾人くさいね」と言われるのが落ちだし、ひっそり自分用に、ノートパソコンのスクリーンを玄関に見立ててスクリーンの上左右に貼れるようデザインされた春聯シールを買って、それで旧正月ということにしたのだった。

 

漢人の文化にはやはり憧れがある。日本の文化にも、一時期もっと憧れがあった。日本に長く住んで、台湾に帰ることも、自分が台湾から来たこともほとんど忘れかかっていたような頃、特に憧れがあった。周りの友人やその家族みたいに日本人になってみたかったんだと思う。

 

除夕の夜は年夜飯と言ってみんなで集まってご飯を食べる習わしがあり、日本にいるとそんなこと一緒にできる家族もないのですっかりしていないけど、昨日は近所の亀吉にゆみちゃんが薬膳スープをなんとお鍋ごと持って来てくれていた。除夕だからとかではなくて、鵠沼的赤須BARというイベントで提供する飲食として、ちょうどこの間台湾で買った薬膳スープの材料に鶏肉を入れて煮込んだスープや台湾の食材など持って鵠沼まで車で来てくれていて、すっかり私はその恩恵に授かってしまった。ゆみちゃんの薬膳スープがあんまり美味しくて、最近は京島界隈でも評判だそうで、本当に美味しく、みんなでおかわりして二杯ずついただいてて、思いがけず立派な年夜飯となった。ゆみちゃん、翔くん、ありがとう。

 

旧正月なので台北の母に電話していたら、ベランダの手すりに鳥が止まった。一瞬のことで、私を目を合わせると首を傾げてまた向こうへ飛んでいってしまった。雀とかよりちょっと大柄の鳥だったけどなんという名前なんだろう。ムクドリかな。下の植木のところには、抹茶色したかわいいメジロが二匹、母と話している間ずっと何かを突っついていた。

 

今夜は久しぶりにQのみなさんとご一緒できて、みんなで焼肉の会。みんなで集まってご飯食べるのって、大好きなのとちょっと苦手なのと二つの気持ちがいつもあるんだけど(それもあってお酒をたくさん飲んでしまっているような)、演劇という形式の中に身体を置いて、歌をうたったり自分の声を発したということは私の去年の大きな出来事だったし、何ヶ月も一緒に稽古して本番も迎えたみなさんと揃って焼肉できるなんていかにもお正月でうれしい。ひとりが好きなのとみんなが大好きなのと、うまく両方して生きていきたいな。

 

昨日はそういえば、大学の後輩の鈴川くんとなんと日本大通り駅付近でばったり出会ったのだった。横浜地裁の前にテレビカメラや取材陣が集まっていたので、何かな、と思って覗き込んだりしながら歩いていたら、「井坂さん?」と声をかけられた。大学までの友人の間で、私はエリちゃんでなければ井坂さんだ。急に印鑑が必要になって、門前仲町のはんこ屋さんで出来合いの井坂の印鑑を買って横浜に来たところで、さっそく道端で「井坂さん」と呼ばれた。十数年ぶりの鈴川くんは、弟さんと一緒に、港へ向かう美しく整備された道を晴れ晴れと歩いていて、そんな姿を見ることができてうれしかった。地下へ入ってみなとみらい線に乗ろうと思ったら、向こうの方に横浜駅へ行くバス停が見えたので、もう少し横浜を眺めていたくてバスに乗ることにした。長年愛用していたカバンの持ち手が壊れて、横浜駅でトートバッグを買って、荷物を詰め替え家に戻った。

 

調べて見ると、昨日は横浜地裁で津久井やまゆり園の事件の第8回公判があったのだという。

神様のやさしさ

昨夜はビキがごはんを作ってくれて、彼女の家でワインを開けて、二人でゆっくりいろんな話をした。しあわせであっという間の時間。朝早くビキは会社に出かけてしまったので、私は昨日彼女が座ってた窓辺の席に座って、持ってきたパソコンを広げ、昨日のおつまみの残りを片っ端から平らげながら、こんな風にブログを書いたり事務仕事をしたり、「もう熟してるから食べな」と手渡された立派な柿をいつ食べようか、彼女の脱ぎ捨てていった部屋着を着ながら考えている。

 

私には兄弟がいないが、兄弟のように感じる友人はいて、ビキはその中でも特別な存在だ。こういう友人に出会えることは本当に奇跡のようなことだと、神様のやさしさってこういうことかなと、会って話すたびに思う。「私のソウルシスターだからね」といつも言ってるけど、それくらいのちょっと薄っぺらい響きの言葉でも使わないとクラクラしそうなくらい深いつながりがあると思ってる。同い年で、私と同じようにお母さんが台湾人で、台北に生まれ、台北で小学校の途中まで過ごし、日本に来て、NYに留学し、そこで出会ってからずっと、時間が経つほどにどんどん近い存在になっていくように感じる。彼女は私よりも長くNYに残って、学校をちゃんと卒業して、働いて、しばらくして日本に戻ることを決め、私は一足先に東京に戻っていたので、東京で仕事を探す間彼女は私の家に住み、その後彼女は香港へ行ったり、私はまたNYに行ったりしたけど、また二人とも日本に戻り、東京でライブがあって帰りが遅くなる日なんかは今度は私の方が門前仲町にあるビキの家に泊まるようになった。

 

「人は誰も時代の子であることから逃れられない」という高校の倫理の先生の言葉がいつも頭に残っている。ビキと話しているとよくその言葉が浮かぶ。ビキというか、ビキを通してビキのママ、私のママ、その娘たちとしての私たち、つまりあの時代、60年代、70年代の台湾で、いろんな意味で必ずしも恵まれてはいない環境を生き抜いてきた女性たちとその娘たち、親戚など周囲の人たち、中でも女性たちの人生がこうも激しく、こうも似通っている(特に壮絶さにおいて)というのは、みんな時代の子だったというわけで、似た者同士集まっては語り合って笑い飛ばしながら過ごしていくのが一番たのしく、これからまた続きを生きていってみようかねという力になる。もちろん、一番人に言いにくい、一番大きな声では言えない(こんなブログに書けないようなね)ことが一番とびっきりの話で、そういうのをシェアできる人は親戚以外ビキだけ。こんな人がちゃんと世界にいて出会えるんだもんね。私たちは秘密結社のように、外ではそんなことはおくびにも出さず、いたってふつうに生活して、そういうふつうの生活や仕事の楽しみも味わって、時々二人で会えば、他の人に話してもただ辛そうなだけで面白くもないかもしれない話のひだのひだまで味わって、たっぷり笑って、寝て起きたらまたお互いの生活に戻る。

 

ビキちゃん柿ごちそうさま。私に食べるよう勧めたのは、皮むくのが面倒で億劫だからでしょう。知ってるよん。今度ここに泊まりに来るときは、どこかで柿を一山買ってきて、

「これ食べな、体にいいんだよ、對女生最好,一天吃一個,妳不會生病」

とおばが母に言うみたいなことを言いながらビニール袋ごと有無を言わさず手渡して、ビキのありがた迷惑してる顔を見たら、彼女が会社に行ってる間に全部皮をむいてタッパーに入れて冷蔵庫にしまって、テーブルの上にメモを残してから出かけよう。今日はまずのんびりさせてもらったわよ。ごろごろしながらアプリでポルトガル語練習したり。お皿の上の私の食いかけのクッキー食べてね、親愛的。愛妳永遠,永遠。

角砂糖

今日は雲が多いけど、なんとか晴れ。暖冬に慣れてしまったせいか、風の強かった昨日はとても寒く感じた。

 

ライブに来てくださる方からよくお菓子をいただくので(皆さまいつもありがとう)毎朝コーヒーかミルクティと一緒にお菓子を食べる習慣がすっかりできてしまって、今日みたいに時々お菓子が切れた日はあたふたしちゃう。棚の奥をあさったら、何年か前に買ってそのまま忘れてた沖縄産の黒糖が見つかったので、引っ張り出してきてボリボリ。そういえばおばあちゃんは砂糖、特にコーヒーに入れるような角砂糖が大好きな人で、母がせっかくかわいいシュガーポットに詰めた角砂糖を「ちょっとだからいいでしょ」と言って、結局全部ボリボリ食べて、次は台所から母の買った角砂糖の袋を探し出してきてまたそれも全部ボリボリ食べた。そんなおばあちゃんの様子を見て母はいつも、同じタイヤルの村で育った母の幼馴染が生まれてはじめて喫茶店に行った時、テーブルの上に置かれたポットの中の角砂糖に興味を持ち、試しにひとつ齧って、それがあんまり甘くておいしいのでそのままどんどん食べはじめて、お店の人に見つかって「おい何してるんだ、この野蛮人」と怒られても、おいしくて止められず、ついにポットが空っぽになるまで全部食べた、という話を、何度でも、笑いながら眉をひそめてくり返した。何度も何度も聞いてる話なのに、おばあちゃんは毎回ヒャアヒャア笑っては、「ウィー、蕃人だからこれは本当に仕方がないでしょう」と言って、ボリボリと角砂糖を食べ続けた。

 

もうすぐお菓子が切れそうなことには気付いていたので、この間、いつもより少し早く帰れた日、藤沢のデパートに寄った。たまには少しいいお菓子でも自分用に買ってみようかと思って、地下の食料品売り場に行き、一周歩いて、そのままなんとなくエスカレーターを上って出てきてしまった。明治屋でしか売ってるのを見ないヨーグルト(よく買った一番安いやつ)や泉屋のクッキー、天ぷらやお惣菜を選ぶ母くらいの年の女性、いろんなものがとっても懐かしかったのに、懐かしい気持ちだけ味わったらなんだかもうそれでよかった。DEAN&DELUCAで焼き菓子でも買って帰ろうかと思ったけど、もう胸がいっぱいで、そのままデパートを出て、図書館の返却ポストに本を返し、お花がいつも元気なので気に入ってるお花屋さんを覗いて、フリージアと豆の花を買って住宅街を通ってゆっくり家に歩いた。

 

昨日は千歳烏山までレッスンへ。レッスンと言っても、私は特別なメソッドのようなものを教えられる訳ではないし、せめてピアノで伴奏して、一緒にリズムをとって一緒に歌をうたっているという方が正確なんだろうけど、それでも何年もレッスン続けてくださる方がいるのは本当にありがたいことだ。歌と自分との関わりが、人前で一人で歌う以外にいろんな形があるということは、私にとっても大事なことだと思っている。

 

レッスン後、食事と紹興酒をいただきながらいろんな話をして、バスに乗って成城に出て、駅ビルに入っている三省堂に寄ってぷらぷらして、まだなんとなく名残惜しく、駅前のスタバでコーヒーを飲んでから電車に乗った。この独特の懐かしさはなんなのだろう。下町ではない東京の持つあの清潔でスノッブで少し浅はかな感じが、全く好きじゃなかったのに懐かしく、もうちょっとそこに身を置いていたくなる。少しずつ日本も変わっていって、いずれ消えていくものだからだろうか。

新富町

生まれて以来私にもやっと台湾との縁が出てきたようで、最近ひょんなところから本当によく台湾関連の話が舞い込んでくる。というわけで台北の実家のベランダの写真。

 

藤沢は今朝も晴れ。台北の空より青が薄く、7時過ぎてもまだぼんやり早朝のピンク色が残っている。昨日より寒い感じがして、昨日の残りのわかめスープをさっそく温めた。

 

昨日新富町に行ったことを考えている。というか、行ってすぐに帰ってきてしまったことを考えている。どこかへ行く時は二つくらいのことをセットでする方が心が落ち着いていいんだよ、と先日言われたのを気にしているのか(お参りに行く時は帰りに参道のお団子屋さんへ寄ってお団子とお茶を、とか、映画を見た後はどこか喫茶店に入ってコーヒーを、とか)昨日、中央区役所で用事を済ませ、区役所のベンチにちょっと座っただけで帰ってきてしまったことをやんわり後悔している。区役所は地下鉄の駅の改札からすぐにあるので、地上に出て30分もしないであっけなく用事が済んでしまって、名残惜しく、でもあんまりのんびりすると帰宅ラッシュの時間になってしまうし、結局さっさと藤沢に帰ってきてしまった。せめて築地まで歩けばよかった。ふたが半分開いたままみたいな気持ちだ。

 

最後にあの辺りへ行ったのは、父が死んだ時だったか。区役所で、番号札を引いて自分の番号が呼ばれるまで、どのベンチの誰の隣に座って待っていようか考えながら見回してみると、たぶん60代後半くらいの人だろう、全体的に寸の短い茶色っぽいツイードのジャケットを着た顔の大きな男性が、両膝の上に手をグーにして乗せ、足の短い民族特有の重心でベンチにしっかり腰を下ろしていた。ああいう感じのいわゆるジジくさくて堅苦しくて懐かしい愛おしいような上着ってどこで買うのか、あの年配の方々はどんな時にああいうものを買うんだろう。肌寒くなってくる頃に奥さんが買ってくるんだろうか。同世代の男の友人達はまだ誰もあんな服を着てないけど、それぐらいの年頃になってくると自然とあんなのが好みになって心地よく感じられてくるのかな。父も休みの日には家でもあんな典型的年配男性のジャケットをよく着ていて、休みなのに肩の凝りそうな普段着だなと思って見ていた。懐かしくなってこの人の横に座った。

 

あんまり父のことは普段考えない。母とは今もちょくちょく電話していろんな話をするけど、父はもう死んでしまったので話題にも上らないし、そもそも、私が物心ついてからの両親は仲がいいとは到底言えないような夫婦で、両親が争うたび、私は日本語も母語じゃないし何かと分が悪い母の味方として戦いに加わり、父に関しては若くて美しい母にさんざん嫌な思いをさせた日本人の男、という印象が強かったが、何と言ってもこの二人は結婚したくらいだし、話はそんな単純ではないよなとようやく最近思うようになった。

 

「ニッポン複雑紀行」というウェブマガジンの、アメリカ人の祖父と沖縄出身の祖母を持つ黒島トーマス友基さんという方について、全く同じルーツを持つ下地ローレンス吉孝さんという社会学者の方が書いたインタビュー記事を読んだ。内容は非常に深く、それでいて文章と写真の親しさに満ちた温度感が素晴らしく、私もニッポン複雑仲間だし、前半も後半も最初から最後まで惹きつけられてしまった。特に、取材後記として下地さんが最後に書いた言葉にハッとしたので、ちょっと引用。

 

「ルーツ」について話すとき、とかく外国につながりのある方の親(もしくは祖父母)について語りがちだ。「語り」や「生き様」は誰でも均等に記憶されるのではない。不均衡に残され記憶されるのだ。

  

私ってどうだろう、と思ってみると、私の場合も、日本人父と台湾原住民母だと、台湾原住民母について話すことの方が圧倒的に多い。最近の台湾ブームもあってか台湾のことを聞かれることも多く、先住民族について興味があって知りたいという人も多いので、語る機会そのものが多く、私自身もっと若い頃には台湾原住民について研究したり書いたりしたいと思っていたし、そう思ってたはずが今じゃ人前で台湾原住民の歌を歌って、自分でも原住民の言葉で曲を書いて演奏したりしていて、そうかこれは私がここしばらく日本に住んでいるからというのもあるんだな、と思った。もし私があのまま日本に越してくることなく、台湾で生まれた台湾の女の子として育ち、台湾の学校へ通って思春期を過ごして大人になったら、そうしたらもしかして私は日本人だった父のことこそを周囲に積極的に語っていたかもしれない。いまだに原住民に向けられる根深い差別的眼差しをうまく躱し、自分の身を守るためにも。

 

ルーツって人生のいろんな場面を左右する大変なことでもあるけど、でも捉え方やその時の環境次第みたいな部分もあって、そんな程度のものだよなとも思う。そしていくら私が父のことを語らなくても、出かける前、洗面所でいつものように化粧をしていると、マスカラを塗ろうとして鏡に近づく自分の顔が、突然まぎれもない父の顔に見えて、何度まばたきしても横を向いても、お化粧を最後まで終わらせて髪を整えても、どう見ても父の顔をしていることはしょっちゅうある。

冬生まれ

わかめスープやっと飲めて満足。おいしい。韓国へもいつか行ってみたいな。アメリカではチャイナタウンの次にコリアンタウンにお世話になったし、ソウルには大事な人だと思える友人がいる。

 

昨日はお昼の演奏だったので、終わったら早めに家に帰ってゆっくりしようと思っていたのが、数年ぶりにピアニストの太光くんとドラマーの匠平くんに思いがけず出会い、うれしくなって久々にセッションして楽しくなったあまり、終電に乗って不思議な駅で降りてしまった。降りたことない駅だったので商店街や住宅街の入り口をちょっと散歩して、まだ開いていたラーメン屋さんでほうれん草ラーメンを食べて、はじめてのひとカラ。「中央フリーウェイ」や「まちぶせ」を何度も歌って、始発に乗って、自宅近くの駅に着いてもまだ空は暗く、切った爪みたいな三日月が空の高い方で輝いていた。近所のお庭が暗い中ごそごそしていたのでたぬきかと思ったら、サーフボードを自転車に積み、海へ向かう準備をしている人だった。サーフィンはしたことないけど、サーファーの生態って動物のようで好きだ。

 

今日もよく晴れて、電車の中から外を眺めていると、どの街にも光があふれていて、どこにでも住んでみたくなる。午後高田馬場で打合せがあったので、お昼過ぎに家を出てぽかぽかの小田急線に乗った。藤沢駅からスイッチバックして西へ向かって走る間、江ノ島が見える南向きの席に必ず座る。高い建物が全くなくて、空が広く、海は見えないけど、この家々の向こう、空の下にはずーっと海が広がっていて、家も何もなくてただずーっと海があるだけなんだと想像しながら広い空を眺めていると、とっても気分がいい。少し走って線路が右に曲がり、電車が北へ走るようになると、私の体はそのまま西向きになって、湘南台へ行く途中、畑やビニールハウスが広がる向こうに真っ白い富士山が大きく現れるのを見る。大和のあたりまで、富士山は建物の間からずっとちょこちょこ見えていて、たぶん大山とか丹沢とかなのか、もっと手前にある山々も迫り来る山脈となって現れて、何度見ても「うわっ」と思う。私と向かい側の座席に座っている人たちは、自分たちの背後に富士山や他の山がいくつもそびえているのなどまるで無関係かのように、スマホを見たり、眠ったり、本を読んだりしていて、その雄大な山々と手元をちょこまかいじる人間の対比を見ているとなぜだか、「大丈夫」と励ましてるような、逆に励まされているような、循環する気持ちになってくる。都内まで移動時間が長いので、本当は電車の中でもっと読書したりしたいんだけど、いつもこの景色を見るのが楽しみで、持ってきた本もほとんど読まずに、町田あたりで人が混んでくるまでずっとぼーっと外を眺めて、立つ人が増えてきて窓が見えなくなると、今度は急に睡魔に襲われて、新宿までそのまま爆睡してしまう。

 

高田馬場では戸山口から降りて、グーグルマップに言われるままに、路地裏を歩いて早稲田通りに出た。お豆腐屋さんや焼魚の店など古い飲食店に混ざって、いろんな国のいろんな食べ物のお店があり、うらやましくなる。歩きながら「あーいい匂い」と思わず口にしてしまって、キョロキョロすると麻辣湯のお店の裏口が見えて、私はやっぱりスープが好きなんだな。

 

冬は好きじゃないと思ってたけど、光があふれていたり、スープがおいしかったり、山がきれいだったり、結構好きなのかもしれないと最近気付いた。冬生まれだし。

雪の日

雪。

雪が降るとなんとなく左耳が聴こえなくなる。畑にはたぬきの足跡。そのままその上に雪が積もるかな。

ベランダから手を出してみたけど、しばらく手を伸ばしていても、なかなか私のてのひらの上に雪は落ちない。時々、小さく削った氷のかけらがちょこんと乗って、みるみる溶けて小さな水滴になる。最後にこうやって手を伸ばしたのがいつだったか覚えてないけど、雪の空の中の自分の手がずいぶんしわしわに見えた。少し日にも灼けて、こんな手をしていたんだな。部屋の中でいつも見ている自分の手と全然違うように見える。

 

昨日は久しぶりの幡ヶ谷でライブ、お越しくださったみなさまどうもありがとうございました。

いろんなところでライブをしていると、いろんな思いがけない人たちに会えてとてもうれしい。20年ぶりの松岡くん。またね。ライブ後、いつも来てくれるお客さんたちと一緒に、最近松岡くんが取材しているというおちんちんむきむき体操の話をみんなで聞いた。ネーミングに思わずギョッとしたけど、そう言われてみれば、男の子の子育てってわからないことばっかりなんだろうな。出産経験のない私は、自分の身体からおちんちんついた男の子が出てくることを考えるだけでひっくり返りそうだ。

そんな話をしてたら終電ギリギリになってしまい、小田急線の改札まで高山さんが一緒に走ってくれた。高山さんは足が早くて、高山さんを必死で追いかけてたらギリギリだったはずの終電がいつの間にかまだまだ余裕になっていた。走って疲れたのか、ハッと目を覚ましたら電車が自分の駅の一駅先に着いていて、慌てて降り、小雨の中いつもより少し長く歩いて帰った。

 

窓の外を見てたら外に出てみたくなったので、今日はスーパーまで歩いて買い物に。コーヒーフィルター買わなきゃいけなかったし。朝つくった適当たまごスープがおいしかった、というか、たまごスープに入れた胡椒がすごーくおいしく感じたので、胡椒がたっぷり味わえるスープをまた作りたいと思い、わかめスープの材料を買った。今日はもうお腹いっぱいだからまた明日かな。久しぶりに牛肉も買ったし、わかめとにんにくと一緒にごま油で炒めてからスープにするのが楽しみ。NYで友人と夜中歩いてテイクアウトを買いに行ったコリアンタウン、LAでおばに連れて行ってもらったコリアンタウン、あのとき飲んだスープのおいしさが忘れられない。

 

雨でも近所ならいつもかっぱを着て自転車に乗っていくので、雪の降る中を傘さして歩くのは手が冷たくても楽しい。スーパーのある通りに出るのに大家さんのお家の敷地を通って近道していいことになっていて、畑もしている大きなお家なので、土の上を歩けるのがうれしく、夜は前が見えないくらい真っ暗になるのも好き。雪を避けてか、鳥たちがいつもより下の方にいて、お庭の木の内側の低いところの枝にこっそり止まっていたり、いつもより私の近くにいる。大きな桜の木を囲むように様々な植物が植えてあり、お花が咲くのもたくさんあるんだけど、今はリコリスが咲き終わってしぼんだ花をつけたままなのと垣根のツバキくらい。昨日まで咲いてた花はもちろん今日も咲いていて、花はあんなに開いたままで、雪の重さや冷たさをどう感じているんだろう。満開のツバキの大きな白い花は今にもこぼれ落ちそうに美しく、ツバキの花が枯れていく時の、あの恐ろしい死のシミのような茶色が真っ白い花びらを端からどんどん侵食していくのが、ものすごく残酷だと感じる。

 

寒いから今日はもうずっと布団にくるまってる。布団大好き。最近すごく機織りをしてみたいので、布団の中でちょうどよさそうな織り機はどれかしらと探し中。

 

明日はお昼から国分寺でクローズドのイベント。視覚障害児(者)親の会のニューイヤーコンサートに、ジャズドラマーの大江さんを通じて呼んでいただき感謝。どんな曲歌おうかな。

 

越谷、吉祥寺、上尾

ライブやリハが続くとぜーはーするけど、でも歌ってないと今度はまた別のところがぜーはーしてくるし。

1/11越谷ごりごりハウス、1/12吉祥寺バオバブ、1/13上尾プラス・イレヴン、みなさまどうもありがとうございました。

 

越谷、本番前に郵便ポストを探して駅周辺を歩き回ってもどこにもないので調べたら、駅前からは少し離れた郵便局まで行かないとなさそうだったので、散歩がてら住宅街を歩き、途中商店街でこちらに手を振る人がいると思ったら対バンのジョー長岡さんだった。満月の大きな晩で、越谷はほとんど人通りのないところにも小さな飲み屋がちゃんと点々とあって、こういうところで飲んでいるのはどんな人だろうとお店の中を覗きながら歩いていると、路地裏の小さな焼き鳥屋からベースのうのしょうじさんがトコトコ出てきて、結局ジョーさんとうのさんと私で本番ギリギリまで、駅近くのいつも流行っているお店でたこ焼きをつまみに飲むことに。ジョーさんとうのさんはリハの間も野毛の飲み屋街がいかに最高かについておしゃべりしていて、いいなあこの人たち、と思っていたので、さっそく越谷の道ばたでそれぞれにバッタリ会って、一緒に飲むことになって楽しかった。例によって何を話したのかよく覚えていないけど、楽しい時間。こうやって誰かと知り合っていけるのはうれしい。ライブではアンコールに宇海ちゃんに歌ってもらって私はピアノを弾いて楽しかった。

 

吉祥寺、バオバブ陽介さんのかけるタイの音楽にチャーリーさんが手をひらひらさせてゆらゆらずっと踊っていた。バオバブってなんかすごく大好き。いつも投げ銭でやってくれるのも好きだし、ライブとか関係なくただご飯食べに来てるお客さんがいるのも好き。セットの間の休憩中は必ずDJが音楽かけてくれるようになってて、陽介さんのお店のそういうところも最高。私も今じゃミュージシャンのように振舞ってるけど、20代まで、せいぜい家で一人でピアノ弾いてるかカラオケで歌ってるくらいなものだった。でもDJが朝まで好きな音楽かけ続けてくれる場所があったおかげで音楽と親しむいろんな方法を知って、"Last Night A D.J Saved My Life" って名前のディスコ曲があったけど、当時の私にとってこのタイトルは全然大袈裟じゃなく、その通りだったな。私もみんなが踊るための曲を歌ってみたい。

「12日ゆきちゃんって台湾好きの子、DJで呼んだよー」と陽介さんから連絡があって、ゆきちゃんは Crowd Lu の “OH YEAH !!!" や宇宙人の大瀧詠一カバーとかかけて、ポップスならではの多幸感があふれていて、ああいいなあと思った。いつも口ずさんじゃうような同時代のポップスがあるだけで、日々を過ごすのが随分と楽になるんだった。この日一緒にライブしたfuera fueraもチャーリーさんもみんなポップスのいい曲いっぱい書いていて、私はみんなの曲をよく口ずさんでいる。生きやすくしてもらってたね。ありがとう。

 

上尾、久しぶりの自分のトリオ。あんまり何も決めないで行く。よく一緒にバンドやってるなってくらい、音楽的に三人とも全然違う方向見てたりするんだけど、バンドってそれくらいでいいのかもな、と、このバンドやってると思う。みんな同じようなこと考えてるなら、別にわざわざバンドなんかになって音楽しないでいいしね。

上尾はお客さんも上尾の顔ぶれというのがあって、その人たちに会えるのがいつもとっても嬉しい。

 

昨日は久しぶりにリハもライブも打ち合わせもない日で、個人的な用事をしに朝から横浜と藤沢を行ったり来たり。横浜はいつもあこがれ。なんだろうな。道が広くて、人が少なく、夜は暗くて、ぽつぽつと明かりがきれい。横浜の人になってみたい。あんまり時間がないのに、少しいい気持ちになりたくて、家でも電車の中でもチェックできる書類を眺めるのにわざわざ喫茶店に入ってコーヒーを頼んだ。

 

水辺にいると楽になる。すごーくお金がない時でも、自転車で海に行ったらスーッとするし、波を見ているのが好きだったけど、最近はあまり動きのないように見える水を見ているのも好きになった。なんの変化もないようで、じーっと見ているとけっこういろんなものがそわそわと動いていて、そういう小さな変化を見ているのも心が落ち着く。曇り空の日、どこを見ても寒そうでうら寂しい枯れ果てた冬の水辺の景色も、ああ寂しくていいと思うようになった。そう思って歩いていると、水仙の花が並んで咲いていたりする。

横浜の港には大きな客船が泊まって、向こうにベイブリッジ、手前に赤レンガ倉庫、左側にはみなとみらいの観覧車やインターコンチネンタルが光って、わりと新しい景色なんだろう、大した緑もない。水は冬で藻も生えないからか意外にも澄んでいて、2、3メートル下の底まで見えて、カモたちがぷかぷか浮いている。あんまり人もいなくて、曇ってて夕焼けもよく見えず、寂しいと感じるほどの風情もない。黄色いパイロット船が近付くと、カモたちは泳いで散って船を避けて、船が通り過ぎるとまた元の場所に戻ってきて浮かんでいる。15分くらいただそれだけを眺めて、なんでだか、少し落ち着いたような気持ちになる。

 

今日は久しぶりに幡ヶ谷へ。夜は寒そう。ベランダでいつまでも咲いていたラベンダーの花が少し枯れてきたので、茎の途中から数本摘んだ。明日は雪になるんだとか。

ゾロ目

ゾロ目の今日はいとこの誕生日。おめでとう。30になるけどいつまでも可愛いシンレイ。私と同じ家に生まれて育った唯一の人。あの家のあの光と影の時間の中で、私よりももうずっと長く過ごしてる。私が大人になって台湾に帰ったその年、シンレイの誕生日に師大のパン屋さんで大きなケーキを買ってみんなでお祝いしたのが懐かしい。あの頃はシンレイもまだ中学生で、今よりもっとたくさんの人があの家に住んでいた。

 

一昨日はスーパー新年会@下北沢lown、たくさんの方々がお越しくださりとっても嬉しかった。どうもありがとうございました。河村さんが自由にやっていいよと言ってくれて、自由にコーラスしたりしてとっても楽しかった。一緒に歌ってくれる人のいる合奏は特別に楽しい。わはははは!ってなったり、全然思ってもなかった声が湧き上がってきたりする。誰かの声に声を重ねるってすごく楽しいんだなあ。今年はたくさん合唱できたらいいな。

 

しかし40ともなるとなんだかんだ体調管理とか必要なんだろうな、昨日はお手伝いに行く予定をしていた友人たちのライブに大遅刻してしまい、みんなに会いたかったので頑張って起き上がって行ったんだけど、やってきた私の顔を見た翔くんをギョッとさせてしまった。具合の悪い時ほどすっぴんで出かけるものではないのね。

年明けに仁愛醫院で採血をしてから、貧血がちの人になってしまったみたいで困った。病院の帰りに大好きな台北の街を母と散歩して、母曰く私が「グニャリ」となって、ちょうど近くにあったスタバに入ってカモミールティを飲んでなんとか復活したつもりだけど、それから妙なふわふわした感じが続いている。冬が苦手というのもあるのかな。冬生まれなのに。せめて藤沢がぽかぽかしている場所でよかった。一昨日、朝まで打ち上げの後自宅に戻り、小田急線で相変わらず爆睡して藤沢に着く手前で目を覚ますと、窓の外に山々がくっきりきれいに見えて、車内はお天気でぽかぽかと、座っている人ほとんどみんな老いも若きもスヤスヤ寝ていてなんだかホッとした。

 

遠くに山が見えたり、川を渡ったりすると、心がすーっと晴れるようで本当に気持ちいい。

 

いろんな返信や何やかやとっても時間がかかってしまっていますが、みなさんごめんね。もうちょっと待っててね。

今日はこれからいろいろと準備をして、越谷で弾き語り対バンライブ。お近くの方ぜひきてね。

 

そして今日は台湾の総統選挙の日。昨日の夜もそわそわして眠れなかった。今夜には結果が出るだろう。今夜は台湾のうた歌おう。

鏡餅

おめでとうございます、と思わずお辞儀をしてしまう立派な鏡餅。この昆布。

昨日、とある新年会で演奏した平塚のサンライフガーデンというホテルにいらっしゃった。子どもの頃からホテルという場所が好き。いろんな人が交差して休むからだろうか。袖すり合う一期一会というのが好きなのかもしれない。水色っぽいロビーはホテルのロビーにしては珍しい色合いで、ふっと脇の方に小さな噴水があり、エレベーターはもう今ではどこも作らなさそうな、細工の施された木と鏡、やはり水色の空のような天井にちょっと家庭的な感じのするシャンデリアがあって、まるで鳥かごに乗って運ばれるように宴会場に向かいながら、あたたかい気持ちになった。

 

一昨日台北から戻り、最終日街中で起こした貧血と舌の付け根の口内炎で昨日もずいぶん弱っている気持ちだったけど、お昼、リハーサルに来てくれたベチコちゃんと河村さんの姿を見たら、だんだん元気になってきてしまった。こんなことだったら、重量オーバーなんて気にしないで頑張ってお土産をたくさん背負って帰ってくるんだった。おばから「台湾じゃこんなの着ないから」と、カナダ旅行用に買って一度しか着てないというダウンと、同じく一度しか履いていないというブーツをお下がりでもらって、せっかくなので小さなスーツケースにパンパンに詰めて持って帰ることにしたものの、ジェットスターに超過料金5000円ほど払うことになり、なんとかできた隙間にたったひとつ、セブンイレブンで買った營養口糧というビスケットを詰めた。昔からあるビスケットで、少し大きめの乾パンみたいで、徴兵された男の子たちが訓練の間に食べるようなやつなんだけど、たぶん昔からあるという理由で私はあの味とパッケージが好きだ。

「かわいい、かわいい」

とベチコちゃんが言って、かわいい手つきで面白い形に包みを開けてくれて、ファルコンの実家の黒豆や伊達巻やみかんをいただきながら、四角いテーブルを囲んで4人で座り、コーヒーを飲み、ギター、バイオリン、ギター、私は時々三線を手に取り、時々私が歌い、河村さんが歌い、時々私と河村さんはコーラスをする。朝から雨で寒々しかった家の中に、パッと晴れた窓の外からさんさんと日がさしてきて、音楽が流れて、こんな時間をいろんな人と分かち合いたいと思った。どうやったらできるんだろうな。音楽が本当に美しいものだと思えるのは、いつもこういう何気ない日常の時間の中にある時だ。夏の間、友人のサブリナ一家がうちに泊まっていた時。キッチンでサブリナが鼻歌みたいにジョアン・ジルベルトの歌ったワルツを歌い始めて、向こうの部屋でのんびりしてた拓馬が、何とはなしにその歌にクラシックギターで伴奏をし始めて、そうやって両親が音楽を始めてしまって、かまってもらえずぐずり始めるマルコを、サブリナが見かねて抱っこしてあやしながら歌い続けて、そんな時、私はすっかり平和な頭になって、生活と音楽ってなんて美しいんだろうと思う。

 

鏡餅と全然違う話になっちゃった。そろそろ支度して今夜は下北で昨日の幸せなリハの続き。スーパー新年会というタイトルのライブです。今日もよく晴れて、今日がどうかいい日でありますように。

 

あ、大事なご連絡!

昨日平塚サンライフガーデンの新年会で私の弾き語りCDを買ってくださった皆様へ。

付属の小冊子の製作が間に合わず、一部の方にCDのみ先のお渡しとなってしまいました。小冊子郵送いたしますので、どうぞこちらよりメッセージください。ご連絡お待ちしております!

夢のような

つくづく私はすぐにいっぱいいっぱいになってしまう人間で、いろいろな大事にしたいことが、間に合わず、すぐ過ぎ去っていってしまう。それなのにいろんなことがしてみたくて、あの人やこの人に会いたくて、これはもう筋トレのようなことをしていかないといけないんだろう。

 

さっきまで台北にいた。母、おば、いとことそのもうすぐ結婚する彼氏、おじいちゃん、と会えた。おじいちゃんは私のことがわかるようなわからないような感じだったけど、なんとなくわかってるのかもしれない。耳があまり聴こえず、目もあまり見えないおじいちゃんの世界の中で。3年ぶりに帰る実家には私の部屋があった。母の部屋も、おじいちゃんの部屋も、いとこの部屋も。みんなそこにあって、おばが泊まりに来る時「私ここが一番気持ちいい」と言って寝るソファもあり、3年どころか最低10年はそこにあるはずの香水の瓶がまだ母の部屋の鏡の前に、タンスには昔の私が気に入っていた下着と母の下着、いとこの誰かの子どものまだ小さかった頃の下着が隣り合って、下の段には私が大学生の頃着ていた真っ黄色のセーターやピンクのラメの入ったセーター、もう着なさそうなジーパンやヒョウ柄のスカートもある。母が日本で使っていた小さな鏡台は私の部屋に置かれ、母が買ってくれた赤いソファベッドはおじいちゃんの部屋に、おじいちゃんはよくベッドから落ちるので、落ちてもうまくソファベッドに着地するよう真横にぴったり並べて置かれていて、壁やドア、床には母がソファを運んだ時につけた傷がぎゅうぎゅうついていた。

 

あたり前のようにいて、あたり前のように帰ってきてしまった。日本に戻る前、舌の付け根にできた口内炎が今も時々痛むのを確かめているくらいで、あとはなんだか全て夢のようでもある。あたり前の夢というのはあるんだろうか。

 

新年早々世の中はすさまじく、焦るようにニュースを読んでいるが、一体どうなるのだろうか。

 

セーターばかり持っていったので、昼間の台北はちょっと暑くて、クローゼットにかけてあった19の時サンフランシスコで買ったデニムのワンピースを着て外に出た。40歳の私になど買ってやったつもりはなかっただろうに、お世話になります、と思いながら袖を通した。はじめて行ったアメリカで見かけたLEVI'Sの大きなポスターでは、よく似たデニムのワンピースを着た女の子が誰かの運転するバイクの後ろにまたがり、その人に体を預け、長い髪をたなびかせていた。そんなのに憧れて、試着して、悩みに悩んで、思い切って買ったのに結局あんまり着なかったんだなあと懐かしく思い出しながら、1月でも緑深く日差しの強い台北の街を母と並んで歩き、薬局でアレルギーの薬を買って、昔よく覗いた、きれいな茶器、きれいな肌触りのよい布で作られた小物やチャイナドレスの並ぶお店を久しぶりに覗いて、近所の古い家がリノベーションされてできた新しいカフェに入った。頼んだカフェラテは30分くらい出てこなくて、ワインボトルに入れて出された水を飲みながら、母といろんな話をした。いろんな話をする時はいつもこんな感じで母と近所のカフェに行ったんだった。

 

家に帰ると、宜蘭の山から下りてきたおばが着いていて、おばは相変わらず美しくてうれしくてホッとした。おばが微笑むたびに、声を出して笑うたびに、頷くたび、私はとてもうれしくなる。髪が少し薄くなったけど、それでも美しい人は何も損なわれず美しいんだと思った。ご飯を食べながらテーブルで話し、ご飯を食べ終わってお茶を入れて、残りのおかずをもうお腹いっぱいなのにちょびちょび突っつきながら話をし、みんなで食器を台所に持って行って、母が流しで洗い物をして、おばはおばあちゃんが生きてた頃いつもそこに座って母に指図したり終わらないおしゃべりをしていたピンクの椅子に腰かけて、私はその横に立ったりして、私たちはまだ話をしている。この家から人やものが少なくなってしまったからか、洗濯機の回る音が家の中で共鳴して、リビングの手前の廊下を歩くとシンギングボウルのような倍音が聞こえる。

「えりにも聞こえるんだ。ママおかしくなっちゃったのかと思った」

と母が、まるでおばけを見たみたいな顔をして言う。そうそう、おばの息子の小吉にも聞こえるらしい、と、やっぱりおばけの話みたいに言うので、私は痩せて背の高い小吉がうちの廊下をそろそろと聞き耳立てながら、幽霊のように足音立てずに歩いているのを想像する。

 

早くまたみんなに会いたい。会うだけでどうということはないんだけど。随分遠いところに来ちゃったんだな。

明日からリハやらホテルでの演奏やら、またそれもすっかり遠いところの話のようだ。全部が遠いような近いような、夢のような。

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

年末年始のドタバタ終わってやっと一息。

昨年も本当にたくさんの方々にお世話になり、去年も一年最後の日まで無事歌って過ごすことができ、お正月も元旦からたくさんの素敵な方と一緒に歌って過ごすことができ、とってもありがたいことです。どうぞ今年もよろしくね。

写真は天王洲のOTTAVAスタジオの中の注連飾り。私もいつか自分で作ってみたいな。

 

年末年始を堪能しすぎて今日までブログUPできずにいたので、この数日間を振り返りながら再開しようと思います。

 

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