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愛着

 お正月も旧正月もどんどん過ぎて、日本に戻ってまだ一週間経っていない。ずっと街にいたせいか、ここに戻ってくるとホッとする。なんということのない川と松の木と、冬の日の乾いた空気。海に近い片瀬の方では人のお庭の梅がもう咲いていて、思わず私は声が出る。私もふわっとマスクを外して、梅のにおいをかいだ。こんなところを散歩したりして年老いていくのはいいな、今老人になってもいいくらいだな、という気持ちになって、いやいやまだこれからでしたね、と思い直す。日本を離れている間、全く日本のことなど恋しくならなかったのに、たった3週間ぶりで、なんだろう、こういう晴れた日、この静かな住宅地でゆっくり自転車を漕いで、私の背中から太陽がダウンをぽかぽか温めてくれて、川や梅の匂いをかぎ、誰かとすれ違い、水鳥を見たり、私は胸がしめ付けられるような気持ちになる。出会い直しているのに、まるで別れていくように苦しい。海辺ではそうならない。海辺で海を眺めて、私の気持ちはただひたすらに晴れわたって、遠くの希望のようなものとひとつになってそこにいるような気持ちになる。

 

 郵便物を取りに藤沢駅の方まで行くのに、西浜から向かうのでいつもと違う道順になる。前世何があったのか知らないが、私は背丈の低い地元スーパーというものに非常に強い愛着がある。交差点にあるフジスーパーはまさにその愛着の対象で、かといって別にここで買い物をするわけではないのだけど、2階も屋上駐車場もないその姿がただとっても好きで、最寄りのフジスーパーよりここの方がずっと好き。このままずっとあってほしいという気持ちが強くある。こんなふうに晴れている日は余計にそう思う。という気持ちでゆらゆら自転車を漕いでいると、私は行く予定のなかったパイニイに行かなくてはならない気持ちになって角を曲がる。赤い看板が見えて、よかった、ここだ、と思う。ここもしょっちゅう来るわけではないのに、私は問答無用でパイニイが好きだ。確かにパイニイはパンもごはんも美味しいけど、だから好きとかそういう問題ではなくてとにかく好きなんだというこの気持ちは、14歳くらいの私がまだ私の中にいて、その私はここに母と一緒に来ている、その気持ちだ。実際の母はパイニイに来たことはない。それでも私はここに母と来ている。今の私と14歳の私が連れ立って、母も自転車で、私たちは一列になって自転車を漕いで、母が前を走り、私は母の後ろを、列になって前後ろで走っている。実際の母は、いとこからもらった電動自転車で大安森林公園の近くの電柱に激突して吹っ飛び、「阿姨你還好嗎?」と台湾の親切な若い男の子に助けられ、自転車は道にぶん投げたまま歩いて家に帰ってきた。それっきり母は自転車に乗らない。でも私は今、母と一列で自転車を漕いでここに来て、新屋敷の橋を渡り、パイニイの階段をのぼってドアを開け、丁寧に並べられたいろんな種類のパンを全部眺めて、そこから4つ選んで買う。背丈の低いスーパーは、もっと大人になった私が一人で行く。

 

 昨日海で落としたと思った母の指輪は、今朝、自分の部屋の机の下、床の上に転がっていた。光っていてすぐわかった。昨日何度もここを探したのに。拾ってすぐに指にはめた。昨日、大事な予定を遅らせてもらって家中をくまなく探し、家の中にないなら、と外に出て自転車置き場から玄関までの地面を探し、あとはもう海を探すだけかと思った時、やっと私は指輪をなくしたと受け入れる準備ができた。今朝も、今日からの私は母の指輪がない日々を送るんだともう一度自分に言い聞かせた。二人の友人に指輪をなくしたと伝えた。もう一人に言おうかなと考えていたところだった。

 

 昨日いただいたお弁当がとても美しい。一晩たっても、ししとうの焦げ目もツヤも、しば漬けも美しい。同じく美しいそぼろや、その下の思いがけないうずらや、綺麗に敷かれた細い海苔、その下のちょうどよい量のごはん、という形をとって私の前の四角い箱に収まっている一体何を、私は今食べているんだろう。

浜辺のアインシュタイン

いろいろなことがもう全く終わっていないのだけど、やっぱり見に行った。浜辺のアインシュタイン。

見に行って本当によかった。感動してめずらしくtwitterに投稿してしまった。最近ようやくSNSとの付き合い方がなんとなくわかってきた。少なくとも嫌いじゃなくなった。

 

時々、たどり着くのが妙に大変になってしまう行き先というのがあって、なぜだか、それが私にとって意味のある行き先になることが多い。昨日も、まず一緒に観に行こうと言っていた友人がコロナになって来れなくなり、一緒に来てくれそうな他の友人数名に連絡してみるが全く見つからない。ああチケットがもったいない、まあ2席使ってたっぷり観ようか、と思いながら、早起きして少し仕事をして家を出て、ところが今度は電車が遅延、横浜に着くのが遅くなり、しかも会場をすっかり勘違いしていて、勘違いしているということを、しーんと静まり返った県立音楽堂にたどり着いてようやく気がついた。ぷぎゃー!となって、あわてて、せっかく頑張ってのぼったあの坂をまた下り、桜木町駅まで戻ってタクシーに乗り、県民ホールへ。タクシー代ピッタリ1000円。

 

来れて本当によかった。開始後20分ほど経って到着し、1階最後列へ案内され、他の遅れてきた人々といっしょに、端から詰めて座って観た。4時間の公演ということで途中休憩があった。私はたまらなくなっていて、わーっと歩いて外に出た。県民ホールは、ホールを出てレンガの階段を降りるとすぐそこに山下公園があって、もう水辺なのがいい。歩きながら、さっきまで合唱の人たちが反復し続けていた旋律を私も歌っている。ぐるっとホールの周りを犬みたいに大きく一周して、ずっとその旋律を歌って、向かいにあるパスポートセンターになんとなく入ってみたりした。コーヒーを飲みたくなり、デイリーヤマザキに入った。あそこのデイリーヤマザキは、おいしそうな豆腐とか、素朴な手作りっぽいパンとかが売っていて、そしてコーヒーもラテとかいろんな種類がないのがなんだかよくて、店員さんもさっぱりして気の利く気持ちいい人だ。コーヒーを淹れながらスマホを眺めていると、一柳慧さんの訃報が流れてくる。えっ、と声が出た。最後にお見かけしたのは、そういえばこの県民ホールだったなと思い出していたところだった。あれ、そろそろ休憩終わりかしらと思ってホールに戻ると、もうホワイエにも誰ひとりいなくなっているのが見えて、熱いコーヒーを持ったまま、こぼれないように気をつけながら走る。このコーヒーはもう飲めない。受付のところで火傷しそうに熱いのを無理やり一口飲んで、「すみません」と謝りながらそこに置き、案内係の方二人に小走りにリレーされるような形で席へと案内してもらう。「お席がわからない、今いらっしゃったんですか?」と尋ねられ、「いや、さっきも遅れてしまったので・・・」と口ごもる。席は列の真ん中の方にあるので、すみません、すみません、とまた言いながら、足を畳んで小さくなってくれている他のお客さんの前をなるべく体を細くして通る。でも私は、浜辺のアインシュタインを半分観て、もう、こういう私の仕方のない営みが、人間の仕方のない営みが、それでも肯定されているような気持ちにすでになっていた。上演中、さっきデイリーヤマザキで店員さんがあっためてくれたフレンチトーストが膝の上のエコバッグの中で、ずっとあたたかかった。

 

中華街を通って石川町から帰り、前の日に雨に降られて置いてきてしまった自転車を取りに、片瀬江ノ島まで乗っていく。電車を降りると、ホームから目の前に月が見える。県民ホールの斜め上、山下公園とホールの間の空にも、雲に隠れながらぼんわり月が光っていた。江ノ島では雲が退いてぴかぴかと輝いていた。十三夜。134に出ると、月は私の後ろになって、歩いていると見えない。それもいいなと思った。私の後ろに月があるのも。土曜の夜だからか、江ノ島の飲食店はどこも賑わっている。みんなが集まって食事しているのを眺めながら、少し華やいだ気持ちで、自転車おきばまで歩き、すべるように漕いで家へ帰った。

ひかりのうま

大西くんが撮ってくれた私。八戸。

 

蕨、高円寺からそのまま八戸、と続いて、藤沢に戻り、阿佐ヶ谷から越谷、そして大久保。今日でやっとちょっとひと段落。ずーっと藤沢から出ないで海と家を往復してるのも大好きだけど、最近こうして自分の体をぶんぶんとあちこちへ飛ばすようにするのも好きになった。というか、ついていけるようになった。拡散している私とここにいる私、両方ともそのままに、常にずーっと流れ出していくような感じ。その中で、一人でいたり、誰かといたり、私も誰かもあまねく遍在していて、うたうことも今までよりもっと好きになってきている。歌う感覚が変わってきている。よろこびもかなしみも一緒なんだなあと、うたの中では思えるようになった。

 

今朝は見たことのないような黄色い空全体の光で目が覚めた。少し遠くで雷が低い音でごろごろ鳴り続けている。台風。雨が降って、虫が鳴いていて、今日はおやすみなのに結構車が通る。雨が弱まると、虫の声がさらに聴こえる。鳥も。オレンジや赤の傘が通り過ぎるのを見るのが好き。窓を開けると、湿気の粒々のしんと冷える感じがして、私の部屋の床がペタペタとしてきて、寝具を足の甲で触ると、冷えてしけった感じがする。台湾の冬を思い出す。傘は眺めているぶんには赤やオレンジが好きだけど、さす時は透明がいい。傘の下から、透明のビニール一枚向こうの、雨の世界、曇り空、ポツポツという音、濡れもせず感じられるあの不思議な気分。外が明るい時間の、歴然とした曇り空は好きだ。

 

今日は書類仕事の日。ずっとブログが書きたいと思ってたのに、やっぱりそう思った時に書かないと通り過ぎてしまうね。でも八戸でのことはもう一度思い出したい。細かいことはもう書かなくてもいいなと思うけど、書いておきたいのは、私はエレガントな人間性というものに触れたと思ったから。そしてそのことに非常に深く救われた。今そう感じているよりもっと深く、私は救われているんだと思う。魂とか精神の優雅さみたいなものが、その人にはそう言われてみればいつもふんわり漂っている。私はそのことになんとなくしか気がついていなかったけど、まるで自分が不当に罰されているような不合理にすっぽり入ってしまっていた時、音も立てずに、まるで美しい馬の精がそこにいるみたいに、私が倒れて傷つく前に、その人の精神がもう守ってくれていた。このような出会いがあるんだね。友情。祝福されるべき人。願わくば、私の歌が、大きな祝福への呼び水のひとしずくと、きっとなれますように。

井沢さん

チラシを送りに郵便局へ行く途中、通り道にある近所のクリーニング屋さんの店先に工事の作業員の人が3人座り込んでるから、あれ?と思ったら、閉店のお知らせが貼ってあった。呆然としている私に「こんにちは〜」と真ん中に座ってる作業員の人が声をかけてくれた。1ヶ月くらい前に閉店していた。ということは私は1ヶ月この道を通ってなかったんだ。通った気もするけど、工事してなかったから気が付かなかったのか。お店の中はすっかり空っぽになっていた。あんなにたくさんの服がびっしりとかかって、小さな工場みたいにいろんな機械があったところ。店主のおじさんは、おしゃべりではないけど何かと話してくれる人で、会話をいろいろ覚えている。閉店のお知らせには、60年間ありがとうございました、と書いてあった。60年間毎日いろんな服を見てきただけのことがあるな、と思った。60年間。私がクリーニングに出す服と言ったらよっぽど大切にしている服で、おじさんはその私が大事にしている服を、いつもふんわりきれいに仕上げてくれて、受け取りに行くと、その服について、私がうれしくなるようなことをポロッと言ってくれるのだった。

 

衣装用に買ったお気に入りの白いワンピースが、そろそろ私も年齢的に微妙かなあと思って着ていなかった間にいつのまにやらシミができていて、その時もあわてておじさんのところに出しに行った。数年放置してたから大丈夫かな、白だし、ちょっといい生地だし、と心配だったけど、受け取りに行くと、もちろんシミもきれいになって、ワンピース全体がまるで空気が入って踊り出しそうに軽やかになっていて、

「あなた、これ着てもっと遊びに行ったらいいよ」

と、おじさんは言ってくれた。それだけですごくうれしくなった。ここ最近は素敵だなと思う服はほとんど衣装になって、プライベートで遊びに行くときはかえってどうでもいい格好でリラックスしてしまう。でも素敵な服でどこかへ遊びに行くって、すごくたのしいことだったもんね。お気に入りだったのに、雨で濡れたままうっかり袋の中に入れっぱなしでくちょくちょになってしまったトレンチコートも、やっぱりふんわり踊り出しそうにしてくれて、買った時より素敵になってて、さっそく着て出かけたら、たのしくなって思わず飲みすぎて、どこかにベルトを落としてきてしまってまだ見つからない。おばがせっかくカナダで買ってきたのに「あったかすぎて気絶しそう、台湾でこんなの着たら気が狂う」と私にゆずってくれたダウンコートも、おじさんが、

「これはね、ものすごく上等なコートですよ」

と言いながらとても丁寧にたたんで大きな袋に入れてくれて、私はそうしてくれるおじさんのことも、そんないいコートをあっさり私にくれてしまったおばのことも、ああ大好きありがとうと思いながら、なんとも満たされた気持ちでふかふかのコートを抱えて、尼寺を通り、畑の横を通り、一歩一歩かみしめるようにして家に帰った。

 

おじさんはなぜだか私のことを「井沢さん」と呼んでて、わざわざ訂正するのもな、と思ってそのままずっとあのクリーニング屋さんでは私は井沢さんで、スタンプカードも井沢で更新してもらったし、タグにもずっと「井沢様」と達筆で書かれてあった。きっといつぞや、私みたいな、本当に時々しか来ないけど、その時々来る時はいつもすごーく大事そうな服を持って、決死の表情でお財布を握りしめていた(おばのコートはクリーニング代が6000円もした!)井沢さんがいたのかもしれない。

 

これからどこのクリーニング屋さんに行ったらいいだろう。60年間ああやってみんなとみんなの服を大事にしてくれたあのおじさんが、きっと元気でゆっくり休んでいますように。

state of mind

今月はライブが少ないからたくさん海に行けてうれしい。海に関してはルーティンが決まっていて、夕方くらいになったら一旦作業をやめて、徒歩か自転車で海に向かって、途中コンビニでビールかワインを買って、海に着いたらタオルをひいてからまず泳いで、そして本を読みながらゆっくりお酒を飲んで、日が暮れたら帰る、それだけ。大してお金もかからないから(ビール代くらい)毎日でもできるし、そして毎日このようにしていると、本当にしあわせな状態になる。かつて私が20代の生きづら女子だった頃、Happiness is a state of mind って友人に言われて、こんな状況下にある私にそんな坊さんみたいなこと言われても、と思っていたけど、あれから15年以上かけて、やっとそういう state of mind の中に自分を入れてあげられるようになった。海のおかげ。浜辺で本を読んでいて、時々ふと顔を上げると、目の前にある世界があんまりにも圧倒的に美しくてびっくりする。しばらくそうやって胸を打たれたまま、特に何を考えるわけでもなく、ただ、はあーってなって、ぼーっと海とか空とか雲とか眺めて、そういうのを繰り返している間にだんだん日が暮れてきて、パキッとした光の強い青い世界が、とろーっと、世界中全部とろーっと包むみたいにピンクっぽくなって、いろんな境界線がとろとろしてきて、昨日はそうやってうっとりするほどとろとろしてきたところで、ふと回りを見たら、いつもよりちょっと人が増えていた。少し暗くなった中を子どもがはしゃぎ声を上げながら走ってきて、ちょっと離れたところにはポータブルソファでワイングラスを傾けてる女子3人組がいたり、またちょっと離れたところには夕焼けの方に向かって並んで座る夫婦が、みんなちょっとずつお互いから離れて居場所をつくっている。

 

いつも波打ち際ギリギリのところに大きい椅子を出して、そこに座って本を読んでいる人がいる。遠目からしか見てないけど、もじゃっとした髪で、私なんかは誰がどう見ても「私、海に行くんです!」という格好で海にいるんだけど、このもじゃっとした人はいつもちょっと厚着で長ズボンで、海感が全くない。そんな感じで波打ち際ギリギリに座っているので、すごく目立つよなあと思っていたら、その人はいつの間にかいなくなっていて、その代わりにというわけではないけど、飲みものや食べ物が入ってそうなバスケットを持った子ども連れの人たちがまた少し増えて、半月がきれいに光っていた。

 

帰りにFUJIスーパーに寄ると、例のもじゃっとした人が買い物カゴを持ってそこにいた。あ、と思ったけど別にどうというわけでもなく、のんびり売り場を回って、お会計が666円で、自転車に戻って鍵を開けて、さあ行こうと思ってスタンドを蹴ったら、ドーンと花火が上がる音がした。

「今日7時から茅ヶ崎の花火なんだって」

と話すサーファー二人組が私の横を通り過ぎた。私も早く帰ってベランダからちょっとでも花火を見ようと思って、花火の音を聞きながら自転車をこぎ、家に着いて、先日友人が持ってきてくれたワイン(これは私が前に彼女の家へ行った時に買って行ったもの)の残りをグラスに入れて、ベランダへ出た。ベランダから見て斜め右の方に、直径20cmくらいの、赤い大きなハートが上がった。お隣さんのとこの子どもたちもベランダにいるみたいで「見えるよ」「でもちっちゃい」とか言っているのが聞こえる。さっきスーパーで買ったお花をいけなくちゃと思い出して、一旦部屋に入ってとりあえずお花を水につけ、ワインを注ぎ足してもう一度ベランダに出る。花火はポンポン上がっていて、うちの周りはとても静かで、虫の声と時々通る車の音だけがしている。大きな大きなくす玉みたいな、大体どの花火大会でも最後の方に上がる花火が上がって、「あ、これで終わりだ」「もう音しかしなくなった」と隣の子たちが言い、カラカラと戸が閉まる音がする。一日の終わり。私も部屋に入って、ママに電話する。LINE越しに大きくなった愛之助を見る。また作業の続きをしてみるけど、しあわせすぎるのかワインが効いてるのか仕事にならない。あーもういいや、と思って寝っ転がる。こういう時間が若い時の私にもあったはずなのにね。いろんなものがこんなにも調和していている時間があって、奇跡と呼ぶのか幸福と呼ぶのか、そういう時間が必ずあったはずなのにね。

掰掰肉

STAXでのライブの後、友人の家に泊めてもらって、久しぶりに朝のテレビの音を聞いた。友人夫婦ものんびりできる朝だったのか、シャキシャキしてる朝の感じじゃ全然なくって、友人はテレビの前のラグの上でごろごろ寝っころがってるし、だんなさんの方はパジャマからパジャマとそう変わらない服に着替えて、そっか、そういえばこの人と会う時って仕事帰りでもいつもこんな服だったな、と思い出して心が和んだ。テレビではひたすら台風のニュースをやっていて、台湾や宮古島が3Dっぽい天気図に出てきて、こうして見ると台湾って大きい。那覇の空港では、なんとか東京に戻ろうとする人たちが大行列をつくっていた。

ラグの上で腹這いで寝そべっている友人が、カッと頭をあげ、開いてない目で私の方を見て、うわごとのように聞き取れない言葉を発している。

「えっとね、ポットにお湯が入ってるって言いたいみたい」

だんなさんがにこにこしながら翻訳してくれて、私はテーブルの上に置きっぱなしの昨日ビールを飲んだグラスを水ですすぎ、ポットのお湯を入れて飲んだ。このだんなさんはまるで空気がおいしいみたいないい声をしてると前々から思っていたけど、こういう時に聞くとますますいい声だな、としみじみお湯を飲んだ。

 

ドイツにも無事行って帰って来れたし、いろいろなよいことがあったから、これは神様にお礼しなくちゃなと思って、江の島へ行った。友達のこともそうだし、STAXでもそうだし、その前も、その前も。リハビリもいいみたいで、参道の長い階段がずっと楽になっている。

テレビであれだけ台風のニュースをやっていて、天気予報も雨だったし、実際すごく曇っていて、来てみると江ノ島にはほとんど誰もいない。まだ朝早かったのか、お店もほとんど閉まっていて、どこから来たのか、蛍光色ピタピタのサイクリングウェアとサングラスの人がひょっと現れて、 "Good morning!" と私に挨拶をした。そのほかはまだ若そうなかわいい三毛猫、妙に真剣なカップル1組、釣り人。貝作もまだ開店準備をしている。

 

江の島をぐるっと稚児ヶ淵の岩屋まで、森にも寄って、時々雨がぱらつきながらも無事に一周できたと思ったら、ゴロゴロと雷が鳴り、結局ずぶ濡れで帰った。ここまでずぶ濡れになるのは久しぶりだな、と思いながら自転車を漕ぎ、もう急ぐのもどうでもいいくらい完全に濡れしょぼたれていたので、いろいろ思い出しながらのんびり漕いだ。一応レインコートを持ってきていて用意がいいつもりだったけど、ここまで降ると私のペラペラのレインコートでは役に立たず、しっかり入ってきた雨が袖のたわみに溜まっていた。

こういうことが昔、まだ母が日本にいて、私たちが荻窪に住んでいた頃もあった。確か中3の夏休み、井の頭通りの三浦屋まで母と自転車で一緒に買い物に行って、その後に確かすかいらーくでお茶をしていたら大雨が降ってきた。もう少し小降りになるまで待つんだと思ったら、母が「行こう」と言った。確か母は髪が肩くらいでパーマをかけていて、ヘアバンドをしていて、黒い半袖のカットソーを着ていた。私は濡れるのは嫌だと思ったし、実際途中まで嫌だったけど、時々前を見ると自転車を漕ぐ母の後ろ姿がなんとなくうきうきしていて、それを見ながら帰っているうちに、だんだん私もたのしくなってきた。母にはきっとずぶ濡れで家に帰った思い出がたくさんあったんだろう。当時の私にはなかったそういう思い出が。ママたちが小さい頃、大体傘なんてあったのかな。母も私も、服のままプールに飛び込んできたみたいにびしょびしょになって、でも家に着くと母はすぐ母に戻って、手際よくバスタオルやらを出してきて私の世話をした。思えばあの母は今の私くらいの年で、リハビリのたび大きな鏡に映る私の二の腕は、嫌なくらい母に似ていて目がいく。掰掰肉。バイバイ肉。そんな中国語は子どもの頃には知らなかったし、その頃にはもしかしたらなかった言い方なんだろうけど、嫌味で味わい深いのがいい。

雨の時間

空がすっかり秋になったなあと思っていたら、大家さんの桜が、上の方の葉っぱが2枚、もう黄色くなっていた。風がとてもやわらかくてやさしい。

 

風のことをよく考える。風が私の輪郭をいつも教えてくれる。ここに住むようになって一番よかったのは、風のことかもしれない。海もそうか。海と風はどこか同じことなのかも。

 

大学生の頃内山節先生という人の授業が好きで、先生はよく時間のことを話していた。ぐるぐる循環しながらくり返す時間。過去から未来へと向かって真っ直ぐ進む時間。先生はすてきな声をしていて、話しながら黒板に丸をぐるぐる書いて、その真ん中をシュッと通りすぎていく長い矢印を引いた。そのことを思い出していたら、太極陰陽図、あのよく太極拳好きの人が着るようなTシャツにプリントされてる白黒の二つ巴みたいな図を思い出した。あれって、私も去年はじめて知ったことなんだけど、あの図って、静止でも平面でもなく、常に動き続けている立体の断面図だそうで、どういうことかというと、陰と陽は常に絡み合いながら(ツイストドーナツのように)回転し続けていて、ぐるぐる回転しながら、過去ー現在ー未来というベクトル方向へ動き続けていくのらしい。このことを知ってから、あの図のことを考えるたびに感動するのだけど、昨日は特に、引地川沿いの遊歩道を歩きながら、手を前に出して左右の指を回転させて、交差させて、こういうこと? と考えてまた感動していた。

 

というのも、このところ、やっぱり奇妙なことが続いている。

昨日もまた妙な日で、たった1時間くらいの間に、 スマホ、パソコン、と立て続けに目の前で壊れていった。まずは出先で iPhone がぽろぽろ壊れはじめた。それはもういつ来てもおかしくなかったというか、長年使っている初代のSEなのでだいぶ前からこうなる覚悟はできていて、早く帰ってパソコン立ち上げていろいろ皆さんに連絡しなくては、と江ノ島から自転車で急いで帰って MacBook を起動したところ、立ち上がって数分、「プスン」と音がして、画面が真っ暗になり、充電のランプがはじめて消えた。壊れた。いかにも最後の息を吐いたような感じで、ああこれはもう戻ってこないな、と思った。こういう時、今までだったら意地のように蘇生させようとした、そしてなんとかできてきたけど、なんとなく今回はもうこれで最後だな、というのがわかった。

 

とはいえびっくりして、だって私は急に誰にも連絡できなくなった。すごいこと。だって一昨日くらいには、それこそ過去が現在に絡み合いながら前進してくるみたいに、10数年ぶりの友人からメールで連絡がきたりさえしていたのだ。それがこんなにあっけなく、ついさっきまでメッセンジャーで密に仕事のやりとりしてた人とも、それこそプツッと、途切れたっきりつながりようもない世界に今私いるんだ、と思うと、たとえそれが束の間であったとしても蒸発できる世界にいるんだと思うと、ひんやりするような感覚がした。

 

引地川の遊歩道から交差点を曲がって、蔦屋の二階で新しい MacBook を買った。帰りちょっと雨が降って、買ったばかりのパソコンがなるべく濡れないように、ビニールでぴっちり包まれてるから濡れるわけないんだけど、パソコンの入った紙袋を抱きかかえて歩いた。雨は小降りで、途中ドラッグストアに寄って炭酸水を買ってお店から出ても、雨足は変わらないみたいだった。ちょっと濡らしてみたくなって、抱えてた紙袋を下ろした。雨がいいにおいがする。小学校の理科の時間で、海の水が蒸発して雲になって、それが雨になって地上のわたしたちに降る、という図をノートに描いた。本当にそんなような匂いがする雨だった。

ジャズの神様

昨日の海。久しぶりに泳いだ。波にかき回される。

15時半ごろ、作業がひと段落して、泳ぎに行こう、と思って、しまいっぱなしになっていた水着をつけて家を出る。こういう行動に出るのはほんとうに久しぶり。ああ、何か取り戻してきている、というか、もともとあった私がむくっと、少しずつ、「出てきてもいいよ」と言われたように感じているんだろう。ちょっとずつ顔を出してくれている。こういうのは見逃してはいけないな、と思った。

 

水着で出歩くのは、この辺の人にとっては普通のことだが、私にとっては大変久しぶりだった。水着のような格好と、実際に水着とは当たり前だがやっぱり違う。下着だって水着と変わらない形してるのにね。この辺の水着で出歩く人たちは、大人も子どももよく日に焼けている。私はほぼ真っ白。特に足。腕はベランダと自転車でちょっとだけ焼けている。顔も、「もっとたっぷり日焼け止めを塗ったほうがいい」と母に言われたくらいには焼けている。

 

この1週間ほど、とても不思議なことがいろいろとあった。村上春樹の『東京奇譚集』に出てくる「ジャズの神様」を思い出した。村上春樹の場合は、まさにジャズの神様そのものがいたずらしているような、でも本当に、ちょっとしたこととはいえまさに奇跡のような話で、あれを読んだら、確かにジャズの神様っているんだな、と思わざるを得ない。実際、私にもそんなことがジャズについて確かにあった。(ナンシー・ウィルソンのライブで奇跡が起きた。私のもとに。)でも今回の場合は、ジャズの神様と、あとまた別の神様たちがもう数名、どこかずーっと上の方で、どうしようもない私を見てみんなで笑いながら、「どれどれ」と、私の背中をぽーんとひと突き、そして私は、寝過ごした山手線の車内からそのままぐるぐるぐるっと、過去と現在が交錯する渦に巻き込まれるようにして数日間を過ごし、溺れそうになったところを、今度はまた思いがけないところから手を差し伸べられて、ありがたくその手につかまってするする素直に上がってきてみたらば。

今までとちょっと違うところに上がってきたような感じなのだ。同じ景色なのに。

 

 

 

今日も晴れてるから泳ぎに行こう。夏の名残り。

その前にシャワーを浴びて、郵便局へ行かなくちゃ。来月台湾の南投で開催される国際口琴祭(台湾では初の試みのよう)へ直川さんが参加されるというので、母へのお土産を託すことにした。お土産はベルリンで買ったのど飴など。母にも愛之助にも、2020年のコロナの頃からもうずっと会ってない。子猫だった愛之助は巨猫になってしまった。

 

土曜の午前中なら郵便局やってると思ってたら、そうじゃなかったみたい。前からそうだっけ。そうしたら藤沢まで出なくちゃ。そうしたらジュンク堂にも寄って、どこかに紛れて無くなってしまった『東京奇譚集』をもう一度買おうかな。そして海へ行って、読んで、泳いで、ワインクーラーも持っていきたい。ここ数日で私のもとに起きた様々なこと、まるで誰かの誕生日みたいに、全て祝福するみたいに。

i am running into a new year

 

また新しい年。みなさまどうもありがとうございました。もえるゴミとびんを出して普通の朝に戻った第一日目。寝正月、おいしい日本酒のお正月でした。

 

いろいろとあった2021年、年末、大好きな人たちとたくさん一緒に演奏できて、本当にしあわせだった。ありがとうございました。大好きな人たちと言っても、それぞれの公演のためにはじめて出会った人の方がずっと多いライブだった。なんだろう。みんなすっかり好きになってしまった。そういう自分が戻ってきてうれしかった。翔くん、ゆみちゃん。最後2日間は志宏さん。本当にありがとう。私の命の恩人たち。そしてビキ。

 

あんなに覚えるのが大変だった志宏さんの曲たちが、あちらこちら、頭の中をずっと回り続けていた。みんなと打ち上げの後ホテルに戻って、ちょっとだけ寝てチェックアウトした帰りの電車で、あの日はすごく寒くて、電車の窓から見える遠くの雲の輪郭がいつもと違ってふんわりちぎれていた。その雲の形をずっと見ていたら、みんなの音楽のあちこちが、順番に、違う順番になって、戻ってきて、また戻ってきて、私は感動していた。気付いたら眉間にしわが寄っていて、きっとまるで辛いような顔をしていた。泣くのをこらえていたんだけど、なんでこらえたんだろうな。大船駅に電車が止まって、観音さまを見なくては、と思って、座ったまま少しかがんで窓の外を眺めた。足元があったかかった。

 

朝まで好きな人たちといられるのはなんてしあわせなんだろう。すごく疲れたけど、たのしい時間の中に、そのまま私もなくなっていっちゃえばいいくらいだったので、疲れてようがなんだろうがよかった。朝方、会いに行きたかった友だちの待ってくれているお店を、知らない人が一緒に探してくれた。なんて久しぶりなんだろう。渋谷の裏の方の、さっき通った道ばかり、知らない人と何度も行ったり来たり、そんなに悪い街じゃないのに?、と思った。坂がたくさんあって、小さなお店がたくさんあって。どうしてあんなに嫌いになっていたんだろう。このあたりを大好きだった時があった。その頃最高においしいと思っていた魚を出すお店はまだあって、ホルモンを出すお店はなくなっていた。どこかにホテルの鍵を落とした。レインボーカントリーは見つからなくて、鍵代2000円を払って部屋に戻って、ベッド脇のコンセントでスマホを充電しながらゆみちゃんと電話して、意識が途切れていたのに口はしゃべっていて、外がハッと明るくなった。

 

大晦日、電車が私の駅に入って、さっきまで明るかった空が急に翳って暗くなった。少し残念に思っていたら、窓の外にたくさんの白い小さな雪の粒が降ってくるのが見えて、ドアが開いた。私はホームに降りて、空を見上げると雲が光っていて、雪の粒もたくさんたくさん光って、大人や子ども、犬、たくさんの人が道を歩いていた。いつも通りカラスが飛んでいて、トンビもゆっくり飛んで行った。雪の中を、さわれないほど小さな一瞬の雪の粒たちが、ずっと上の方から、私に見えるそこかしこに降り落ちてきては消えていく中を。

 

新しい手帳に、Lucille Clifton の詩を書き写した。

 

 

i am running into a new year

and the old years blow back

like a wind 

that i catch in my hair

like strong fingers like

all my old promises and

it will be hard to let go

of what i said to myself

about myself

when i was sixteen and

twentysix and thirtysix

even thirtysix but

i am running into a new year

and i beg what i love and 

i leave to forgive me

 

 

今年もよろしくお願いいたします。どこかできっとお会いしましょうね。

 

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久しぶりに

大変久しぶりにブログ。みなさんお元気ですか?

日本に戻って、時々ですがライブもするようになりました。ほとんど動いていないサイトですが、SCHEDULE だけは細々更新しています。お出かけはまだあんまりお誘いしにくいですが、zoomイベントなどもあるのでよかったら見てみてね。

 

人前で歌いにくい状況だからか、いろいろとお話する機会も増えて、これはこれで楽しい。台湾原住民の歌をうたって、ライブでは歌は歌として聴いてくれればそれでよかったので、あえて話そうとは思わなかった。別の機会でいろんな形で話せるのはうれしい。ずっと誰かに話してみたかったことはいろいろある。

 

写真は畑に行く途中。ひまわり畑に猫がいた。

最近友達の畑を手伝っている。この日の収穫は、ナス、きゅうり、トマト、赤じそ、青じそ。

 

うちの愛之助もずいぶん大きくなって、母によると今ちょうど発情期らしい。発情期も猫によって違うみたいで、先代みーちゃんの場合は、母と電話していても母の声がもう聞こえないくらい絶叫し続けていたが、愛之助はぶつぶつぶつぶつ言うんだとか。母にLINEする時はいつもビデオ通話にしてもらって、愛之助にいろいろ話しかけてみているけど、画面越しだからか、もう忘れられたのか、ちょっとはこっちを見てくれるけど、私にはちっともぶつぶつ言ってくれない。母や叔母には、深夜早朝、みんなの枕元で何やら懸命に話しかけているそうで、眠いから相手にしないでそのまま寝ていると、またぶつぶつ言いながら今度は腹の方へ移動し、母や叔母の腹の上に乗って、両足で力一杯、ふみ、ふみ、ふみ、ふみ、するらしい。愛之助にふみふみされるなんて、私には超うらやましいけど、母はいちいち起こされてたまらないらしく、「こっちでやってよ」とクッションを投げたら、愛之助はかわいそうに、情けない声でにゃーでもみゃーでもなくまたぶつぶつ言って、結局はそのクッションの上に乗って一生懸命ふみふみしていたという。愛之助に幸あれ。

 

そんなわけでライブをぼちぼちするようになったので、ここもまたぼちぼち更新してみようと思います。

毎日雨だけど、みんなも元気でね。

親戚と週末、記憶

このあいだの週末は台南で働いているはとことそのお母さんがうちに泊まりに来ていて、にぎやかだった。二人は南投のブヌンで、私たちタイヤルとは言葉も習慣も見た目も、ひとくちに原住民といってもずいぶん違うが、それでも原住民同士というのは漢人相手とは違ってずいぶん気が許せるもので、母もうれしそうにしている。台北は相変わらず毎日暑く、日中は気温38度を超え、昼間の人混みなど体感温度で40度くらいありそうだ。普段南投の山に上に住んでいるはとこのお母さんは、すっかり台北の熱気にやられて、出かけてはぐったりとして帰ってきて、リビングにござを敷いて倒れて寝ている。このおばさんは昔から寝息がプシューッっと機関車のような大音量で、今回はじめてこのおばさんに出会った愛之助は、ピアノの下に隠れて、顔だけ出してじーっとおばさんのお腹が上がったり下がったりするのを観察している。おばさんは、南投の山の畑でとれたトマト、ぶどう、ピーマンなどの野菜や果物と、タイヤル語でヤホフ、タナと呼んでいる野菜を、おみやげにとたくさん持って来てくれた。ヤホフは特に暑い時、これをゆでた汁を飲むと体が楽になるといって、ちょっとした薬草のようにしておばあちゃんがよく飲んでいて、私も大好きだ。時々このへんの市場でも売っているので、漢人たちも食べているらしい。レストランや食堂で出されているのを見たことないけど、どうやって食べてるんだろう。日本語ではなんと呼ばれる植物なのか、そう言われてみれば調べようと思ったこともなかったが、東京の道ばたでも雑草と一緒に生えているのを見かける。世田谷の深沢あたりに、特に見事にヤホフが茂っている小さな公園があって、あの頃は犬を飼っていたので、散歩のついでに母と採ってきて、茹でて食べて汁を飲んだ。苦味がある菜っ葉というのはおいしいが、ヤホフもそんな感じ。タナはまたヤホフと全然違う感じで、このまま化粧品になりそうな強い香りと独特の少しメンソールっぽい味がして、薬味野菜のような感じと言えばいいのだろうか。茎の根元の方にはバラぐらい立派な棘がある。山で採れたばかりのヤホフとタナのスープは涼しい味がして、一気に飲んだ。

 

お返しにというか、うちの冷凍庫の中にちょうどいとこの夫が獲って持ってきてくれたキョンの肉があったので、炒めてみんなで食べた。おじいちゃんや一番上のおじさんが元気だった頃は、冷蔵庫を開けるといつも何かしら野生動物が入っていて、ムササビ、リス、猿、鹿、キョン、このへんは冷凍庫の常連で、食べきれないほどだった。小さめの動物は特に顔がついたまま入っているので、台北育ちのいとこなどは、うちの冷凍庫を覗いては、「また動物の死体が入ってるー」と眉をひそめながら、その横のアイスを取ったりしていた。

 

台湾に帰ってくるのも久しぶりなので、キョンを食べるのも久しぶりだ。キョンの肉は鹿よりも柔らかく、生姜、ニンニク、米酒(焼酎っぽい)、醤油がメインの、紅燒という台湾でよくある味付けにして炒めるとおいしい。週末にたくさん炒めた残りがやっと昨日食べ終わって、夜、母と二人でニュースを見ながら、骨の端っこの軟骨をかじり、骨髄を掻き出して食べた。直径2cmくらいの腿の骨で、ゆっくり時間をかけてしばらく楽しめるので、最後の夜のたのしみに取っておいていた。両手でつかんで、かじってもしゃぶってもなかなか剥がれてこない軟骨を、少しずつ歯でこそぎ落とし、それだけやっていると疲れてくるので、途中でツマミみたいにして、骨をかち割ったところにお箸を突っ込んで、中から骨髄をほじくり返して食べる。骨に張り付いている筋を爪で剥がし、少し残っていた肉も一緒についてきた時はちょっとしたごほうびのような気持ち。かち割られた骨はあちこち尖っていて、気をゆるめているとこちらに刺さってきそうだし、軟骨の周りの筋は私なぞの歯で30分ほど齧ったくらいではまだまだ剥がれなくて、こっちの歯が先に欠けるんじゃないかと時々心配になる。生涯虫歯ゼロ、歯並びも完璧に美しい母は「我々原住民はこうやって骨かじってるからね」とよく自慢していたが、少し前、体調を崩したと同時に歯ももろくなったようで、奥歯が少し欠けてしまって歯医者にかかった。そんなことがあったので今では慎重になっていて、果物ナイフを左手に持って、少しずつ軟骨と骨の間にナイフを入れながら「被せたのが取れたらまためんどくさいからね」と上手に食べている。殺して、さばいて、切り分けて、袋に入れて、冷凍して、解凍して、炒めて、その全ての後でも、キョンはしっかりと存在しているようだった。いつまでも骨をかじっている私と母を、愛之助はうらやましいのか、まばたきせずに(そもそも猫はあんまりまばたきしないか)じーーっと見つめて視線を離さず、なんだか圧力を感じてやりにくいなあと思っていたら、そのままの姿勢で眠ってしまった。紅燒の味付けは猫には濃い味すぎるのか、舐めには来なかった。

 

こんな風に暮らして、2月にこちらに来てからもう5ヶ月も経つことになるので、すっかり日本が遠い。日本でいろんなところで歌って生活を立てていた自分が、藤沢が、東京が、今台湾でこうして暮らしている私とあんまりにも連続性がないので、日本にはもう一人私が並行して存在しているんじゃないかという感覚さえある。日本で生活していたみたいにここでも生活しようと、たとえば歌などパフォーマンスをする場所を探してそこでライブしたり、コンサートしたり、新しい友人をつくったり、稽古をしたり、舞台に立ったり、リハーサルをしたり、打ち上げで飲んだり、あそこへ行って、あの人に連絡をして、あんな順序をたどればだいたいあんな風になるんだろうとわかっていても、不思議なくらい全くそういう気がおきず、体も全くそうは動かない。一体なんでなんだろう、どういうことなんだろう、と最初のうちは思いつめていたけど、もうあんまり何にも考えなくなった。何にも考えないようになってきて、台北という都会の真ん中でただ日々暮らすことにも気付けば慣れてきて、この街でただぼんやりと原住民マイノリティ(もしくは日本人マイノリティ)のはしくれとして生活していると、全く予想しない瞬間に、思ってもみなかった記憶の端々が強烈によみがえることがある。辻堂の、団地のところにある広々した焼肉屋さんで、友人家族とごはんを食べた。タッチパネルで注文をした。あんなところに行ったのは、海浜公園でフェスがあったからで、焼肉食べたのとはまた別の友人たちが出演していて、私たちはそれを見に行った。少し雨が降っていた。少し濡れた芝生が気持ちよかった。笹塚の、京王線の高架の横の、セブンイレブンのある交差点は、ギラギラと光が反射していた。夏だった。あそこのATMでお金をおろした。あのギラギラしたアスファルトの地面と、セブンイレブンの看板を私は何度も思い出す。思い出す私の目線は地面から斜め上くらいだけど、実際にほんとうに私の目はそのへんにあって、あの景色を見たんだろうか。そんなに何度も行っていないはずなのに、あそこのことばかり、いつも突然、頭の中が乗っ取られるように思い出される。左前方には暗い高架下があった。右へ大通りに出れば、甲州街道と高速の高架下があった。うるさくて暗くて空気が悪くて、ラーメン屋のとんこつスープの煮詰まった臭いが古本屋さんの真横の排気口から吐き出されていて、てんやが、異様に安いお弁当屋さんがあった。お弁当屋さんのレシートはなんだか妙で、脱税してるんじゃないかと友達夫婦は噂した。

 

明日は東大のゼミの発表会、愛之助の予防接種。

居之安

曇り空。師大の赤茶色のタイルの向こうに雲の合間、少しだけ空が見える。ほとんど風がなく、北のベランダも空気がむっとしているけど、南側のこちらもやはり風がない。時々なんとなくでも吹いてくる風が涼しい。母がホースでベランダの植物に水をやっていて、生ぬるい匂いがする。

 

愛之助の猫砂、近くで売っている安いの(でもパッケージは可愛い)を使っていたが、母といとこがどうやら猫砂の粉塵に反応しているようで、毎日咳をしたり、くしゃみをしたり、かわいそうなので、バイト代が入ったら早速新しいタイプに買い換えようと、ここ最近毎日ネットで猫砂レビューを読んでいた。おから、おがくず、紙、とうもろこし、クリスタル、粘土(鉱物)、ざぶざぶ洗って再利用できるエコ仕様・・・。こんなに種類があるんだとは。こんなにある中から選べだなんて大変だなあと思っていたのが、読んでいる間にだんだんはまってきて、最初は台湾のサイトで中国語で読んでいたのが、そういえば日本ではどうなんだろう、と日本語でも読み始め、ふむふむ、アメリカから輸入している粘土タイプに良さそうなのがあるけど、これは本国でも売れているのかしら、と日・中・英3ヶ国語で猫砂レビューを読むのが日々のたのしみになってしまった。語学がいつ何の役に立つかは、勉強中には全くわからないもの。役に立ったのか時間の無駄だったのか、よくわからないけど、ひとまず注文した猫砂は揺すっても何してもほとんど粉塵がなく、母やいとこは何も感じてないみたいだけど、感じてないということはアレルギー反応もしてないということだし、まあいい知らせ。

 

猫砂を触るというのが私はとっても好きで、愛之助の世話の猫砂関連の部分はすべて私が買って出ている。砂を平らにならしたり、ウンチやおしっこをスコップですくい取ったり、少しかさが減ったら砂を足して、足した分の砂の山を、また平らにならしたり、どこかにおしっこが飛び跳ねてできた小さなかたまりが紛れていないか、砂の中を入念に調べたり、どれもこれもなんて楽しいんだろう。ただ砂を平らにしていると無心になって、何もない箱庭療法みたいで、禅寺の庭みたい。それとも子どもの頃の砂遊びの記憶なのかな。お団子つくって、大事に大事にまあるくして、最後にこわすのが、もったいないようだけどすごく楽しかった。中だけ湿っていて、外側から乾いてきて、手で持つとぼろっと崩れる砂団子。愛之助も猫砂が大好きで、小さい時は猫砂の中でコロコロと楽しそうに一人で飛び回って遊んでいた。今は流石にそこまでではないけど、私が猫砂の方へ行って何かしようとしているのを感じとると、どこかからかすっ飛んできて、ウンチかおしっこか、ぷるぷる気張りながらどっちかを出してくれる。「これは俺様の猫砂だ!」というマーキング行為なんだろうか。私は流石にそこまで砂に執着ないので、出してくれたうんこかおしっこをまたスコップですくって取って、チームプレーのようでたのしい。

 

9月の豊岡演劇祭がついに正式に開催決定となり、Qの稽古も8月から始まると制作のまきこさんから連絡があった。岸田賞の授賞式もヨーロッパ公演も全てキャンセルになってしまったから、やっとみんなと稽古ができて、歌うことが、ダンスができて、本番もできる、しかも市原佐都子さんの大好きな作品、額田大志さんのイケてる(!)音楽、それがとってもうれしく楽しみな反面、今日本に戻るというのは、ああ、なんと悩ましいことなのだろう。台湾から眺める東京、日本というものが、本当にガラリと変わってしまった。事務作業的にも、飛行機はまだ運休だらけなので、予約している東京行きのフライトを航空会社がキャンセルする可能性があり、そうなるとまたチケットを一から取り直さなくてはならない。周りの話を聞くと、予約しては運休、予約しては運休、と3〜4本続いて、当初の予定から1ヶ月以上遅れてやっとチケットが取れたという人もいる。運だめしみたいななんだろうし、運があってもなくても、日本に着いたら着いたで、まず空港でPCR検査、その結果待ちに1〜2日ほどかかり、その後も14日間の隔離をしなくてはいけない。自主隔離をどうやってしたらいいものか、ネットで情報を探しているけど、自主隔離できるホテルなど宿泊施設の情報も、条件も、かなりあいまいでバラバラ。そもそも「自主隔離」という言葉が、いかにも誰も責任を取らないでいいようにこしらえている言葉なのがあからさまで、そうだった、そういう国ジャパンに帰るのだったと改めて感じる。こんなのをまじめにお金払って自分でやるのが馬鹿馬鹿しくなってくるし、果たしてみんなはどうやって、どんな「自主隔離」をしているのかしら。

 

そんなわけでまた少しブログも時間が途切れてしまいましたが、バイトで隔離費用を稼ぐ日々、家族のこと、特に私の国籍のことなど、いろいろ向き合ってドタバタする日々です。体調もまずまず落ち着いてきたあたりで、ホッとしながら改めて身辺を眺め回してみると、非常にプライベートなことから、仕事のこと、もっと大きなことまで、これだけいろいろ考えなきゃいけないこと、やらなきゃいけないことオンパレードなんだから、そりゃあひとまず準備運動に疱疹くらい出るよな、という気分になってきた。愛之助といっしょに猫砂でもいじりながら、ぼちぼちやらんとね。台南で看護師をしているはとこから、日本に行くならこれを着ろ、と防護服が郵便で送られてきた。

 

母が「早く早く」とあわてて部屋に呼びにきたので何かと思ったら、おじいちゃんのトイレに虹が出ている。世界中こんなことになっているし、我が家にも様々なエネルギーが行き交っているのか、数日前には私の目の前で、机の上に置いたさわってもいないマグカップが突然、まるでコインが湧いて出てくる手品みたいにチャリーンと音を立てて、割れた。マグカップが突然そういう風に割れるということがすぐに理解できなくて、愛之助といっしょにきょろきょろしていたら、カップの底から1/4あたり、ぴーっと横にまっすぐ5cmくらいの裂け目ができていて、そこから私のミルクコーヒーがゆっくりじわじわと、たっぷりした形のしずくになって染み出していた。私の部屋のドアにかけていた壁飾りもとれた。この家に戻ってきた15年前、師大夜市にあった中国風の雑貨や古いポストカード、おしゃれな文房具などを扱うお店(もう無くなってしまった)で見つけたもので、てかてかしたサテンの布でできた家にかわいい刺繍がしてあって、その下に「居之安」とやはりサテンの布でかたどった三文字が連なり、そのさらに下に中国結びのフサフサ飾りが付いていた。ドアを開けるたびにこのフサフサが揺れるのに以前から目をつけていた愛之助が、最近けっこう高いところまで跳べるようになって、ついにジャンプし、私の居之安をつかんでちぎり取り、居之安がばらばらになって落ちた。安らかに居るというのはたしかにますます難しい。

端午節

端午節を過ぎると暑くなる、とみんな言う。端午節の前日、台北は38.2度にもなって、これ以上どう暑くなるのかドキドキしていたが、曇ったりちょっと雨が降ったり、さっきもまた雷も鳴って雨が降り、暑いのに体が慣れてきたのもあって結構快適に過ごしている。体もだんだん元気になってきてる。

 

台北で端午節を迎えるのはずいぶん久しぶりで、ずいぶん久しぶりにちまきを食べる。うちの台所の裏のベランダで、おばたちといとこたちとみんなでちまきを作ったのが懐かしい。羅東の閩南人と結婚したおばあちゃんの妹ヤキユクイがそこの家で覚えた作り方が、おばからおばへと伝わって、ちまきを作る習慣などなかったタイヤルの我々も毎年作るようになった。なぜなら美味いのだ。おばたちはそれぞれ一人ずつ、豚肉、干ししいたけ、竹の皮、鴨の卵を塩漬けにした鹹蛋、ピーナッツ、もち米など、自分の担当する材料を人数分買って持ち寄る。一人当たりだいたい50個包むので、5人集まればちまき250個分の材料を買うことになり、ピンポンが鳴っては、重そうな袋を抱えたおばが入ってくるのが、いかにもこれから何かが始まりそうでワクワクした。ちまきは包む人によって、なんだか少し形が違うので、どのちまきを誰が包んだのか、だいたいわかる。きれいなちまき、不恰好なちまき、あるおばのちまきは、まるでそのおばの何かを象徴しているかのような妙に意味深な形をしていて、そこに置いてあるだけで、誰からともなくふつふつと笑いが込み上げてきて、「ちょっとあんた一体どんな手つきしてるのよ」「そのペロってなる手よ、それが変」「変じゃないよ、ほら、みんなと同じでしょ」と、おばがやはり少しペロっと変な手つきをする。一方、ちまき界のモデルのようなほれぼれする形をしたちまきを包むのは母の妹で、ただしこのおばは酒飲みで、途中、お酒が回ってきてくると皮と皮の間からもち米がこぼれきてぐしゃぐしゃになり、50個全て美しく包めたことはなかった。そんなおばたちも、今年は皆それぞれ、躁鬱、乳がん、糖尿、などと体調が悪く、一人のおばはいろいろあってちょうどこの端午節の週末、長年住んだ台北を離れて環山の家に帰ることになった。もう誰も集まろうとも、集まるのはやめようとも言い出さなかった。環山に帰ると言っても、その家はおばが環山の人と結婚したばかりの頃に数ヶ月住んだだけの家で、私たちの故郷の部落からは山を越えて車で数時間行かないと着かない遠くにある。おばの夫は亡くなってもう長く、齢七十を過ぎて、おばは誰もいない、何十年も住んでいない山奥の家にひとりで帰ることになり、いつもなら一緒にちまきを包んでいたはずだったおばたちみんなところに泣きながらのLINE電話があった。

 

金曜日、端午節の朝に母が市場へちまきを買いに行った。私はまだ顔面ヘルペスの回復途中で、傷口に汗が入ったり、市場の人ゴミでまた妙な菌が入ったりして悪化するといけないというので、せっかく台湾にいるのに私は役に立たないというわけで、愛之助と家で留守番。朝から太陽が出てよく晴れていたが、前の日より爽やかで、それでも母は大汗をかいて帰ってきて、そのままのびてしまいそうであわてて冷房をつけた。母によると東門市場はいつもよりさらにものすごい人、そのほぼ全員が絶対にちまきを買って帰らなくてはならないミッションがあるので、ちまきを売っている辺りには殺気が立ち込め、「あなたちゃんと前に進んでくれる?」と母は後ろから怒られ、必死にゲットしたちまきが満員電車のカバンのように人波にさらわれそうになるのを、なんとか手元にたぐり寄せて帰ってきた、と12個の戦利品を袋から出した。6個は客家のちまき、残り6個はキーツァンと呼ばれる黄色いぷるぷるとした具のないちまきだ。客家のちまきは最近日本でも売ってるような中華ちまきとはまた違って、もち米のところが白く、真ん中に大根の漬物などたっぷり具が入っている。キーツァンは具も味もなくて、冷やしてはちみつをつけて食べるのが美味しい。あんこ入りのもおいしいが、後ろの人の殺気にやられた母は買うのをあきらめたらしい。

 

近所の雑貨屋さんで紙銭とお菓子と飲み物を買い、市場で買ったフルーツ、ちまき、豚肉も一緒に供えて、ご先祖様に端午節の拜拜(パイパイ)をする。私が小さい頃はパイパイなんかしなかったけど、「私たちもカハツ(閩南人)の場所に住んでるんだから、カハツのガガ(しきたり)を見習うのがいい」と言って、母も最近はよく家でパイパイするようになった。寒い時のパイパイは、紙銭を燃やすとあったかくていいが、夏は炎が一層熱く、汗で眼鏡が滑り落ちそうになる。最近の紙銭は煙の立ちにくい環保(エコ仕様)のものが多く、雑貨屋さんではいつも環保をすすめられる。昔からの紙銭のザラザラした触った感触と違って少しつるつるして、よく燃えるように一枚一枚折って火にくべるのに、指が滑ってやりにくい。大小のお札を全て火の中に入れて、ひととおり燃えて炎が消えたら、燃えさしを棒でつついて、奥まで全部灰になるように、くすぶっているのをひっくり返して空気に触れさせると、焦げた紙銭にもう一度オレンジ色の炎がきらきらと輝き、そこにまたボッと火がついて燃え始めるのがとても美しい。美しいと感じる私は人間なんだなあと感じる。

 

台湾のお参りのいいのが、お供え物は、パイパイが済んだらすぐに下げて食べてOKというところだ。廟にお参りに行く人も、いろんな手順を踏んで念入りにパイパイをして、と思ったら、持ってきた袋を広げて立派なフルーツやお菓子をまたその中にしまって持ち帰る人が多い。端午節のお供えのちまき、果物、お菓子はそのまま母と私の朝・昼ごはんとおやつになった。小さい時は何個でも食べたかったちまきも、もち米を消化するのに時間がかかるようになったのか、一日一個、最大でも二個でもう満足だ。

 

環山に戻ったおばのことがずっと気になっている。台北に住んでいる間は数年に一度しか帰ってなかったおばの家は、部落の人たちに空家扱いされていたらしく、おばが帰ってみてわかったことには、酔っ払いたちの麻雀場所にされていた。荷物を持って台北からゆっくり環山に向かって、着いたらもう暗くなっていたので、部屋の中に散乱している酒瓶と積み上がっているゴミを脇によけて、とりあえずの寝る場所をつくってそこで一晩休んだと母のところに連絡があった。ちまきの作り方をヤキユクイから一番最初に教わったのはこのおばで、ちまき作り歴もおばたちの中では一番長く、一番手際がよく、私にもいつも包み方を教えてくれたが、うまく覚えられないまま終わった。おばたちの中で一番年上で、一番美しく、チャイナドレスを着てダンスホールで働いていた若い頃のおばの写真は、京劇の看板女優のような飛び抜けた存在感があって、その横に、おばに買ってもらったチャイナドレスを着たまだ10代前半の、女の子の顔をした母がいる。

 

買ってきたちまきは、おいしいけど母も私もあんまり手をつけていない。端午節の週末も終わったのに、まだ半分以上、冷蔵庫の中で眠っている。

折り返し

やっと抜けた。

しばらくブログも書けなかったので、近況報告をすると、みるみる感染症にかかってしまいました。しかも顔から。面の皮っていうけど、これは厚いに越したことはないですね。薄くてつらかった。久しぶりに生き地獄へ行って、今また現世の修羅場へ、折り返し地点を回ってくるっと、よろよろ歩き出しながら時々地獄の方を振り向いてみたりしている。あーつらかった。針の山に顔面からダイブしたかのようでした。やっとよくなってきたので、振り返りを。書きでもしないとやっておられん。

 

ブログが途絶え気味になった頃、6月に入った頃から目の周りの赤みがどんどん悪化。熱っぽくて痛いけど、前に同じようなことになった時かぶれのひどいのだとお医者さんに言われたし、今回もきっとただのかぶれ、次の朝まで待とう、と思って横になっても、痛くてとても眠れない。起き上がって電気をつけて鏡台の前に座り、鏡に自分の顔をうつしてみると、腫れているせいか顔がいつものひとまわり大きく、赤紫色したのっぺらぼうのようになっている。腫れで膨らんだ顔からはほとんどの凹凸がなくなっていて、鼻も半分くらい、下の方だけもり上がって穴、という感じ。まぶたの上の赤かったとこにはぷつぷつができていて、小さいけど、ただごとではないオーラを発している。気になって、リビングのソファでブランケットをかけてごろごろしていた母のところへ、「これってあんまり普通な感じじゃないよね?」と顔を見せに行くと、母は遠慮なく、うぎゃっ、と、おそろしいものを見てしまったという動作をした。痛くてたまらんし、目の上のぷつぷつも増えてるし、ここは都会だし、わざわざこのプロセスが進んでいくのを待つ必要もないだろうと思って、夜中、タクシーに乗り、台湾大学病院の救急へ行った。筋肉注射を左腕に、皮下注射を右腕に打たれる。打たれたところを揉みながら立とうとするも、うまく立ち上がれない。「大丈夫ですか? この注射、時々めまいがする人がいますから、15分くらい座ったまま安静にして、何もなければそのままえお家に帰って大丈夫ですよ」と声をかけられて、「ハオ」と返事をする自分の声に力が入らず、妙に高くてへなへなしている。足が震え出して、全身が震え出して、猛烈に寒く、両手が黄色く、足先が紫になり、呼吸がうまくできない。真ん中が下の方にくの字に折れたベッドがやってきて、しばらくそこに寝かされ、血圧がほぼ正常に戻ったところで家に返された。「赤みも少しずつ引いてきてますよ」と帰りがけに看護師さんがにこやかに励ましてくれたが、どれどれと鏡で確認する気力もなく、そのままタクシーに乗って家に帰った。

 

翌朝、鏡台の前に座り、赤みが引いているとは思えなかった。というより、私の顔面はもはや赤いかどうかが主な問題ではなくなっていた。のっぺらぼうだった顔はさらに腫れて膨らんで、いびつな形の納豆粒が超巨大になったような形だ。そこにかろうじて入った切れ目のようなのが両目で、なんでか垂れ目になっている。目を開けようとしてもなかなか開かず、鏡にくっ付くようにしてよく見ると、昨日のぷつぷつから出てきた膿が上下睫毛の根元まで垂れて、まぶたの間でねっとり糸を引いている。ぷつぷつは目の下のエリアにも広がっている。私全体で考えればほんの小さな部分のできごとなのに、猛烈に痛くて、今この瞬間というのを耐えるのが精一杯で、時間が全く過ぎていかないことばかり気になる。集中力も行動力もないので、本も読めないし、音楽も、バッハの無伴奏さえ聴けない。先生にしっかり塗るように言われた薬を塗ってみると、塗ったところがそのままぷつぷつになっていく。まるで黒魔術だ。母は母で同じようなことを思っているのか、

「この間、エリが〇〇さんにお面を被せられてる夢を見たって言ったでしょ、あれほんとに気持ち悪い夢だった。絶対あれのせいだよ。あの人ホニだから」

という。ホニは、タイヤル語でいうケガレのような意味合いで、代々ホニの家系というのがあり、あそこの部落にはホニがいる、と噂されたり、何か悪いことが起きるとホニのせいだということになったりする。私の目のぷつぷつも、母の中では〇〇さんのホニのせいになっていて、話はさらに拡張し、どうやら母の部屋に出るおじさんの霊もまた私のぷつぷつに関係しているということになっていた。私が部屋で休んでいると、リビングの方から、母がおばたち数名に電話をかけているらしき声が聞こえる。私のタイヤル語力では会話の全てを理解することができないが、「あのホニの仕業に違いないらしい、こんなことほんとは言っちゃいけないけどね」「ウィー、あんなの人間の顔じゃないよ」などのフレーズと、大げさな抑揚、テンション感、そして台湾大学病院、注射、軟膏などの中国語の単語が聞こえてきて、どう考えても私の話をしている。母はこういう時すぐ電話をして気分を発散できる相手がいて、その方がいいんだろう。母の声がとても活き活きとして生命力に溢れている。

 

昨日行った救急にもう一度行って、ちっともよくなってないじゃないかとエリの顔を見せに行くのがいい、というのがおばたちと母の総意のようだった。母はすでに出かける支度をしていて、普段の私だったら、また救急に行ったって仕方ないよと断るけれど、家で寝ていたって辛いし、断るのも面倒だし、もうなるようになるだろうと、母と一緒にまた昨日の救急へ行った。出てきた若い先生は私と目を合わせてくれないが、私はマスクを外してうらっ返し、顔に当たる鼻から頬にかけての部分に、黄色い膿が目くそ鼻くそのようにべっとり張り付いているのを見せた。先生は「不夠強」、今の薬じゃまだまだ弱いということを言って、パソコンのキーボードをばちばちと叩き、さらに強い塗り薬をくれた。帯状疱疹なら体の片側だけですしねえ、そうですよねえ、と当直の先生たちが私を少し眺めた後、やっぱりかぶれなんだろうという結論になった。

 

お会計を待っていると、横に座っていたおばあさんが「なんでそんなに腫れてるの?」と私にたずねた。こんなおぞましい顔でも見知らぬ人が話しかけてくれるというのはありがたかった。もごもご答えていると、おばあさんは私が話し終わるのを待たずに、「悪い虫に刺されたんだ、悪い虫に刺されたんだ」と念仏のように繰り返した。お会計はたったの78元で、「これなら毎日来てもいいわね」と母が突然ちょっとうれしそうにした。

 

もらったさらに強い塗り薬は、塗ってたった数時間で、見事に私の顔面を変容させた。小さなぷつぷつのあった一帯は、細かい半透明の水泡が隙間なくびっしりと、何列も何列も並んだ行列になって、行列は細かい水泡たちを少しずつふくらませながら、まぶたの下、目の周り一帯、こめかみ、眉間、鼻梁、小鼻、両ほほ、と、どんどん下にくだっていった。そして、おでこ、あご、首、肘の裏側、指の付け根、と、飛び地のように、間の空いた点字のような配置で赤黒いぼつぼつができている。眉間は皺が寄った状態で固定していて、しかめっ面をしている訳でもないのに、苦しくて困っている人の顔になっている。今後こうやって、巨大な納豆型の、のっぺらぼうなのにしかめっ面で、膿が糸を引き、水泡の行列が続き、赤黒いぼつぼつが点在し、こういう人として痛みと共に生きていくことになっても、これはこれでひとつの人生として受け入れるしかないんだよなあ、などと思いながら、夕方、少し涼しくなるのを待って、日陰をつたって、うつむいて、人をよけて、信義路の手前まで歩き、おばがいつも診てもらっている家庭医学の先生のところへ行った。先生は「細菌感染だと思います」と神妙な面持ちで言った。この先生はいつ見ても青白く神妙な顔をしていて、今回はそれがぴったりだった。台湾大学の先生に紹介状を書いてくれて、その場で予約を入れてくれた。予約は二日後だった。

 

翌日、母のいとこ二人から連絡があり、うちに拝みにくると言う。私の顔面が大変だという話はすでに親戚中を回っているらしかった。例の〇〇さんのホニ、それからこの家の地縛霊を拝むそうだ。彼女たちは30年ほど前から在家で仏教の修行をしていて、最初の頃は、水子や幼くして亡くなった妹や遠いご先祖を拝んでくれたというから、まあそれはどうも、と思っていると、「一人あたり2000円」と頼んでもないのに拝み料を請求してくるので、部落中でみんなから警戒されていた。さすがに今はもうそういうことはしなくなったが、頼んでないのに拝みに来るところは変わらない。そうやって徳を積むスタイルなんだろう。拝んでくれるのはまあありがたいけど、この顔で出て行ったらかえって心配されるので、私は具合が悪くて部屋で寝ているという設定にした。おばたちには何年も会っていないので会いたかったけど、顔を見せたら、これは・・・、と別途料金が発生するかもしれない。もしくは、自分たちではこのホニには太刀打ちできないから位の高い大師さまのところへ、と連れて行かれかねない。元気な時なら見物してみたいけど、今は動くのも辛い。

 

ピンポンがなると、母が私の部屋のドアを閉めに来て、リビングの方でおば二人、片方のおばのだんな、そしておばあちゃんの妹ヤキユクイが話している声が聞こえた。おばあちゃんが生きてた時はそんなことちっとも思わなかったのに、今こうして聞いていると、ヤキユクイの声は時々おばあちゃんの声そのもののように聴こえて、懐かしさでいっぱいになる。ヤキユクイは86歳、おばあちゃんが亡くなった時と同じ歳だ。ヤキユクイが、私の部屋の前の廊下を通って、トイレに歩いて行く足音が聴こえる。一歩一歩、ゆっくりしているが、杖もつかず一人で歩いているおばたちの声が高くやさしくなっているのは、きっと愛之助が出てきたんだろう。おしゃべりは3時間ほど続き、静かになったと思うと、おばたちが拝み始めた。日本でお葬式の時なんかに聞く読経とまた違って、まるで歌うようだった。帰る前に、みんながおじいちゃんの部屋に寄っているのが聴こえた。「頑張って、マシン」とヤキユクイがおじいちゃんの名前を呼んで、日本語で励ましていた。

 

1日待って、先生が書いてくれた紹介状を持って、また台湾大学病院へ。診察室に入ると丈の短い白衣を着た学生さんたちがずらりといて、「ああ〜重症ですね・・・」と、ワナにかかった珍しい鳥を見るように、ちょっと離れて私を囲んで、herpes simplex、herpes simplex、と数名がほぼ同時につぶやいた。邱先生といういかにも教授らしい人は、もう少し丈の長い白衣で、私の目をしっかりと見て「これはアレルギーなんかじゃないです。單純皰疹、単純ヘルペスです」と言った。授業を受けるような気持ちでこの病気と薬の説明を聞き、先生は付き添いで来ていた母に、治療すれば治るので大丈夫と伝え、診察が終わった。私は別室に移動し、黒い幕の前に座らされせて、学生さん二人が立派なカメラでずいぶんたくさん私のヘルペスの写真を撮った。学生さんたちは私の子どもになれるくらい若いのに、物腰柔らかで、親切で、不気味な私を価値ある人間のように扱ってくれて、おそらく非常に優秀で、なんと玉のように尊い人たちなのだろうとありがたかった。それだけでもう治りそうだ。

 

それからかれこれ2週間、やっと落ち着いてこうしてブログも書けるようになりました。感染症といえば最近はひたすらコロナで、でもコロナにかからなくたっていくらでも感染症はあるし、病気というのはどれもこれも辛いですね。病気ってなんなのだろう、今ここでこんな病気にかかるなんて、何か意味があるのかしら、と、せっかく辛い目にあったんだしと考えてみたかったけど、今回の感染病は、「んなもん知るか、いちいちお前が喜ぶような意味なんて何もどこにもねーよ」というエネルギーがものすごかった。自分の体が数時間であれほどみるみる変容していくのは、なんであれすごい。痛くなければもっと感動していただろう。途中からよく効く薬にめぐりあい、薬は薬でこれまたエネルギーがすごくて、私がベッドから起き上がろうとするたび、「いいから寝ろ」と、まるで後ろから大きな熊が私に手を上げ、バフォッ、バフォッと倒され、失神させられるようだった。あの病気のエネルギーも、あの薬のエネルギーも、少しずつ感じられなくなってきているということは、私自身が「んなもん知るか、意味なんかねーよ、いいから寝てろ」と、バフォッ、バフォッと、殴り倒すエネルギーになっているということだろうか。しばらくお留守になっていたブログも、リハビリがてらまた再開したいと思っています。バフォッ。

まぎらわせつつ

やっと目が覚めてきて夕方。5:30にいきなりピッと鳴ったと思ったら、愛之助が机の上にのぼってリモコンで冷房をつけていた。ミャアミャア言うからごはんをあげて、自分のごはんにはまだ早いので二度寝。起きたいところだったけど、薬のせいか、疲れているのか、全く起きていられない。ただ目のまわりが真っ赤になって腫れているだけでこんなに疲れるなんてなあ。どうせ今日は大雨だから、こうやって1日寝てるのがちょうどいいのかもしれない。母が近くの早餐店で朝ごはんを買って来てくれた。温かくてちょっと甘い豆漿、もち米をぎゅっと握った中にサクサクした細長い揚げパンのような油條、干した大根を漬けた菜脯、乾燥させた豚肉がでんぶ状になった肉鬆とが詰まった飯糰、ハムとチーズを挟んだ三明治。台湾で食べる三明治は他の国で食べるサンドイッチよりなんとなく味付けが甘くて、懐かしくておいしい。ここの店の飯糰ははじめて食べるが、具にコショウがきいていておいしい。母はいつも家でごはんを作るのが好きな人なので、こうやって朝ごはんを外で買ってくるというのは珍しい。おばがこの間「朝ごはんの入っている小さい赤白の袋が愛之助のうんことおしっこを包むのにちょうどいいサイズだ」と言ったからか。日本から戻ったばかりの頃なんて、母は外で何か買って来て食べていると「カハツ(タイヤル語で閩南人)の味と臭いがする」と言って嫌がって、おばに白い目で見られていた。できたての朝ごはんを食べて、中薬の入ったパウチ袋を袋ごと大きなカップに入れて熱湯を注いであたため、開けて飲んだらまた眠くなって、本を読んでいる間に眠ってしまって、起きたらもう3時になっていた。長い長い夢を見た。どこか知らない街で、浴衣を着てビーチサンダルで、靴下を手に持って、楽譜を入れるファイルを探していた。

 

私が寝ている間に母は市場へ行って、私の好物の蓮霧と仙草を買って来てくれた。私がいつまでも目を腫らして寝ているからかわいそうに思って買って来てくれたのかな、ありがとうママごめんね。蓮霧は私の大好きな果物で、日本では見たことがないが、これを小さくしたものをバンコクの路上で売っているのを見つけて、たくさん買ってホテルで食べた。フトモモ科ジャワフトモモというらしい。フトモモ科。やわらかい果肉に噛りついた側からあまい汁が垂れてきそうな名前だけど、日本人の異母兄に食べさせたら、一口かじって「なんだかりんごとナスの中間みたいだね、形はピーマン」と言った。確かにスカスカしていてあんまり甘くないから、甘味度で言えばおいしい水ナスくらいで、でもナスより歯ごたえはあるから、まありんごでも足しておこうか、という感じだろう。りんごほど赤くないけど、ピンクでもなくて、薄まった赤。見た目も一番近いのはピーマンかも。仙草の方はハーブみたいな草で、乾燥させて煮るとなぜか真っ黒い汁になって、それをゼリー状にしたものと液体のお茶状のものとある。そのままだとちょっと苦くて、ちょっと甘くすると、甘くて苦くて、いくらでも吸い込めそう。

 

夜になると蕁麻疹が出るようになってしまって、これはなんだろう。木曜日にマルセロがリリースした Sambalele Momotaro (サンバレレと桃太郎さん!)の動画を何度も見て聴いて、それからずっとポルトガル語の曲が聴きたくなって、今日は Elis & Tom を久しぶりに聴いて、今屋久島に住んでいるサブリナのアルバムを2枚聴いて、一人で Tristeza を歌って、私も何か練習してみようかなと思っていたら眠くなってきちゃった。なんでかわかんないけど、ポルトガル語の曲をかけていると愛之助がやってきて、スピーカーの前か後ろの窓のところに座る。ネコ語っぽいのかな。Rossa Passos かけたらまた来た。趣味が合うわね、子猫。それともただかまってほしいだけかな。ここしばらく毎日細々ながらポルトガル語をアプリで勉強中。好きな曲がいくつもあるので、いつか私もポルトガル語でうたってみたい。と思っていたら、マルセロが声をかけてくれて、ポルトガル語ではないけど、彼の曲にコーラスで、日本、ブラジル、他の世界のいろんな場所の人たちと一緒に遠隔で参加することになった。たとえヘッドホン越しの録音でも、誰かの声やギターを聴きながら、そこに自分の声を重ねて調和できることはよろこびだった。皆さんもぜひ聴いてみてね。

 

そういえば昔も湿疹がひどい時、歌って紛らわそうとしていたっけ、この家で。あの時はジャズのスタンダードだったなあ。

ランが咲いた

昨日はめずらしく吐き気がして、バイト以外の時間はぐったり。座っているのも難しいくらい気分が悪くなって横になっていたら、ぽんっとベットが弾んで、おばのところにずっとついていた愛之助が、寝ている私の顔の前へやってきた。お見舞いにきてくれたのね、このかわいいねこねこねこめ。

 

毎日朝から部屋の中も30度以上、生まれた場所とはいえ、慣れてはきたとはいえ、暑いものは暑い。アレルギー対策で母が買ってきたシャープの空気清浄機が、毎日ご丁寧に赤いランプをチカチカさせて「高温高湿なので危険です」とお知らせてしてくれる。中医のところにもそろそろ行かなくちゃいけないのに、歩いて15分くらいの散歩がてらちょうどよかった距離が、こうも暑いとえらい遠い。市場を通って行くのも、暑さに加えて、あの全身からアドレナリンを放出させた中高年女性の群れをかいくぐっていくのかと考えるだけで、家ならクーラーかければ涼しいし、愛之助もかわいいし、ああもう全く出かけていく気がしない。かと言ってまた具合が悪化してきても困るし、じゃあ近所の中医へ行ってみようということにして出かけたが、5分もあれば着くはずが、だらだら歩きすぎているのかちっとも着かない。向こうに郵便局が見えてきて、この熱気で頭がぼーっとしていたのか、金山南路をずっと真逆の方向へ歩いてきてしまったことに気がついた。道路の並木、木と木の間に並んだバイク、ファサードの下の額縁屋、水電行、饅頭店、キッチンのショールーム、和菓子屋、動物病院、じゅうたんカーテン屋、パロマガスの店、漢方薬と豆漿と餅店、果物屋、牛肉麺店、モスバーガー、コーヒー屋、印鑑屋・・・、隙間なくいつも何かがずーーっと並んで連なっているところに、その向かいの郵便局の手前に突然だだっ広い空き地が現れる。まるで何かの大きな間違いみたいに、木もない、雑草が生い茂ってすらない、枯れ草さえも短く刈られたただの無みたいな空き地がぼっかり口を開けて、あんまり急に現れるのでいつも私は面食らう。突然ここだけ空が少し広くて、青空さえほっとするようなしないような、なにか混乱した気持ちになる。空き地の横は、日本植民地時代の公務員住宅か何かだった木造瓦屋根の日本式建築の家々が、リノベーションされてまた新しい文化施設にされるんだろう、屋根を葺き替えられている。お昼休憩の頃、向かいのOKマートの前で道に座ってごくごくビールを飲んでいたガタイのいい男の人たちはこの屋根の上の人たちかもしれない。ビールでも飲むしかない暑さなので、私も一杯付き合いたいくらいだった。飲んだって飲んだって汗になって消えてしまうだろう。みんなどんどん飲んでね。暑いよね。

 

これまで通っていたクリニックは、私と同じくらいの女性の先生がやっていて、診療所の内装もこぎれいな婦人科のようなやわらかい雰囲気で、トイレなんて長居したくなるくらい素敵だったが、こちらのクリニックはモダンな雰囲気もありつつ、「俺は中医だ!」という主張がもっとストレートで、赤いもの、金色のもの、ツヤツヤしたもの、風水のよい竹がそこかしこにあって、これはこれでまたいい。病院の数メートル手前から、すでに道には中薬を煮出しているらしき匂いがプーンと漂い、そして台湾の病院らしく、入り口にも待合室にも電光掲示板があり、これにはかなり力が入っている。台湾はレストランから学校から、電光掲示板が大好きな国だ。この診療所では、受付の後ろの壁半分くらいを電光掲示板が占めていて、順番待ちの人たちの名前が上から順番に、名前の真ん中一文字を◯で隠してプライベートにも一応配慮して表示されている。順番がくると、宝くじの一等が出たかのように、自分の名前が真ん中に大きく表示され、色が変わってパチパチ点滅し、電子音の音楽が流れて、「廖◯理小姐、診察室へお越しください」と女の人の声の自動音声が流れ、それがまたなかなかの音量だがこの空間には調和している。ベッドで鍼を打たれている人たちと、薬草が数種類入った三角フラスコのような容器から出たチューブの先を肘に当てている女性の横を通り、診察室に入って、先生に自分と病の歴史を短くまとめて話し、手首を出し、ベロを出し、近頃の生理、排便、睡眠、仕事のストレスの様子を細かく伝える。この先生は中医內科、中医婦人科、中医小児科、中医皮膚科が専門だそうで、私が「最近子猫を飼いはじめて、アレルギーがあるのはわかっているけど、子猫のいない生活など考えられません」と伝えると、「好」と頼もしくうなずいて「あなたの薬の配合ができました」と言った。あなたの脈は典型的な血虚の脈、症状も重いし、生理後だから血を「補」しなくてはならない、とのことで、粉薬よりもよく効く煎じ薬が出された。私はふつふつとコンロで薬を煎じるのが大好きで、よしきたと楽しみにしていたら、台湾ではどうやら病院が1週間分の薬を煎じたものを一服分ずつ、小分けパウチ袋に入れて渡してくれるシステムが一般的らしい。「私たちが今から煮ますので、明日の朝11時に取りに来てください」と受付の女性が言った。塗り薬の養肌紫雲膏だけもらって帰って、箱に「ローズの香り」と書いてあるが、紫雲膏はゴマ油の入った軟膏なので、蓋を開けて匂ってみるとゴマ油とローズの香りだった。まあこれもありか、と思いながら、私は、私の中の世界と外の世界がうまくいかなくなってる間のところに、こうして先人たちに倣って、いろいろ入ったゴマ油をすべすべと塗りながら、今この場所でなんとかうまく調和していきたいと思っている。

 

愛之助のうんこを袋に入れて、キッチンの裏のベランダのおじいちゃんの使用済みオムツ入れに混ぜ込みに行くと、旧正月に花市で買ったランの花が、いつの間にかまたつぼみをつけて、こちらに向かって咲いていた。

ごろん

火曜日になっておばがスーツケースで戻ってきて、細いやさしい声を出して「你長大了」と玄関に迎えにきた愛之助を抱き上げた。おばは今日1日ずっと気分が悪そうにしていて、愛之助を少し撫でたりして、薬を1日3回飲むのでごはんはしっかり朝昼晩と食べて、あとはずっとソファで横になって、スマホのゲームをしたり、眠ったり。

 

去年からおばが、怖い、怖い、と言うようになった。今は埔里に住んでいるいとこの息子・大頭兵も、中学生になったくらいの頃だったからもう10年くらい前、怕、怕、怕、怖い、怖い、といつもいつも言うようになって、あの時いとこは夜KTVで仕事をしていて早朝まで家に帰れなかったから、山にいる自分の父親(母の一番上の兄)のところに大頭兵を預けた。みんなと一緒に狩りに行ったり、畑で野良仕事でもするのがいいだろう、と言って。おばは女なので狩りには行けないし、麗水街のこの家に来て母と一緒に住むようになったが、ますます怖がるようになって、母がベランダへ出るのも、トイレに行くのも、「ひとりにされると怖い、怖い」とおびえる動物のような目で文字通りガタガタと震えた。かと言って、桃園の自分の家に帰るのも怖い。母が買いものに出なくてはならない時は、早く帰ってきてほしいと懇願し、そうこうしているうちにおばは歩けなくなり、車椅子を使うようになった。ものすごく太って、ものすごく痩せた。太っていた時は毎日あんぱんを6個食べて、それも台北駅の地下街で売っている皮が薄くてあんこのぎっしり詰まったやつがいいと指定して、彼氏に買って来させた。彼氏は「どうして一気に食べるんだ」とおばに怒りながら、毎日6個お勤めのように買った。おばが、怖い、怖い、あんぱんが欲しい、と言うから。そしておばはあんぱんをひとつも食べなくなって、ガリガリに痩せて体重が40キロになった。

 

うちにはいつも車椅子がある。まだ家族で日本に住んでいた時、父が自分で歩けなくなって介護用に買ったもので、寝たきりになるすんでのところでなんとか父をこれに乗せて台湾へ連れて来た。日本で母がひとり、親戚も友人もなく、口のきける家族も私しかいない状況で父の介護を続けるのは、もう無理というところまで来ていた。父はその昔若くて羽振りのよかった頃「俺はファーストクラス以外乗る気がしないね、エコノミーなんて人間が乗るものじゃない。あれは奴隷船だ」と鼻で笑う嫌らしい金持ちだったが、私の買った格安エコノミーの適当な座席でも、今はもうJALに統合された日本アジア航空の方々は、空港でチェックインする瞬間から台北に着いて飛行機を降りるまで、車椅子の父をどこぞのVIPのように丁重に扱い、認知症の進んでいた父は顎の下を撫でられた老猫のように満足した。母と私は台北に着くまでの数時間、どうかお父さんがオムツにうんこを漏らしませんように、うんこしてしまってもどうかそのにおいが周りに漏れてきませんように、そればかり祈った。

 

父が死ぬと、今度はおばあちゃんが、膝が痛い、歩くのが辛いからイサカサンの車椅子を貸して、と父の車椅子に乗って買いものやら病院やらへ行った。私たち家族は父のことを死ぬまで、今でも、イサカサンと呼んでいて、アクセントは語尾のサンに置かれるタイヤル式だ。おばあちゃんが亡くなって、今度はおじいちゃんが歩けなくなってイサカサンの車椅子に乗った。こうなってくると、家に車椅子が一台あると何かと便利だということになってくる。おばも15年前、ちょうど私たちがこの家に戻ってきたばかりの頃、この車椅子に一度乗ったことがある。まだ、怖い、怖い、とも言ってなくて、大酒飲みで、うちに遊びに来て、自分で買ってきたお酒を飲み干して、台所にあった母の料理用の米酒を2本、どこかで大人しくしていると思ったらいつの間にか全部飲み干して、酔っ払って廊下をふらふらと、何回も何回も、同じことをくり返ししつこく、誰に言うでもなく言いながらふらふらと、時々いとこと私、遊びに来ていたいとこのいとこと三人でおしゃべりしていたこの部屋に入ったり、出たり、向かいの部屋に入ったり、出たり、そしてついにリビングへよろよろと躍り出た。リビングでは母がソファに座っており、この母は、おばの一番上のこの姉は、眉間にしわを寄せ、おばが何を挑もうが笑い出そうがわめこうが泣きつこうが、うんともすんとも返事をせず、一瞥もくれず、頑なに無視をする。おばはゆらめきながらもなんとかバランスを取って母の前に立ち、「你都不理我、你都不理我」とくり返し、どれだけ自分が苦しみを訴えても自分はかまってすらもらえないことをいたく嘆き悲しみ、おいおいと泣き始め、そのままよよと崩れていくかと思いきや、おばはぐらりと身体を持ち直し、「よし!」と気合いを入れて、まるでトライを取りにいくラグビー選手のように、テレビ台の横の古いオーディオセットの入ったガラスケースの下の段へと頭から突っ込んでいった。分厚いガラスが「ごん」と低く響いて割れ、おばの頭からみるみる血が流れだし、おばは自分の頭を触って、触った手に血がついているのを見て驚いて、わーんわーんと小さな子どものように大きな声で、最初の夫の名前をフルネームで一文字一文字、分けて叫んで吠えるように泣いた。ここまでくると、今の今までじーっと黙ってこそいたが心の奥底でふつふつと積年の怒りを煮えたぎらせていた母がついに、母が最も力を込めて発語できる母語・タイヤル語で爆発し、おばより更に大きな声で、はらわたから、この世界で苦しいのはお前だけだとも思っているのか、このパプ、クチ、動くなこの酔っぱらい、お前は馬鹿だ、酒に溺れた弱い人間だ、お前のその弱い心は腐ったうんこ、吐く息は腐ったうんこ、泣いて騒いで血を流せばこちらが同情するとでも思っているその弱い心こそうんこ、動くんじゃないこの弱いうんこ、ゆるいうんこ、お前の叫ぶ声は化け物の下痢、スプーリャック、お前は下痢だ、下痢の化け物だ、と怒り狂いながらおばの怪我の手当てをしようとした。お姉ちゃんにこんなにひどい叱られ方をして、いよいよ追い詰められたおばは、怒り狂う母より更に大きな声でぐわおーんぐわおーんと叫び泣き、母が頭の傷を確認しようとするのに抵抗する。母はいまいましそうに大きく舌打ちをして、暴れるな、パプ、ウットゥフ、クチ、クチルンガン、スプーリャック、ガァックスゥ、こんないい年していいかげんに静かにしなさい、と手を上げるとそこに、いとこのいとこが、

 

 「イサカサン的車椅子、借一下喔」

 

と、廊下の奥からさわやかに、父の車椅子を出してきた。看護師をしている彼女は、手際よくおばを車椅子の上に乗せ、床の血を拭くよう母に指示をして、母が床をきれいにしている間にタオルでおばの頭をおさえて簡易的に止血し、腰紐のようなものでおばの胴体と手足を縛り、「早く病院に連れて行かなくちゃ」と母の責任感に訴えかけた。

 

かくして私たちは、頭から血を流して泣き叫ぶおばを車椅子に縛り付け、土曜の昼下がり、人の行き交う和平東路を急ぎ足で、「どんな診療所でもこれくらいの手当てならできるから大丈夫、私も横で指示をするから」と言ういとこのいとこの声に従って、一番最初に見つけた「看診中」の札、産婦人科へと駆け込んだ。おばが車椅子に乗るのは、この時以来のことだ。今は病院の薬が効いているのか、怖い、怖い、とも言わなくなって、体重も適正体重に戻って、散歩するほどの距離は歩けないが、近所のコンビニや雑貨店にタバコや好物のピータンを時々買いに行ったり、家の中ではゆっくり歩いている。おばがいると愛之助は私のいる方へは呼ばないと来なくて、おばの寝っ転がっているリビングのソファの後ろの隙間のところに横になる。おばが追っかけっこも何もしてくれなくても、一人でしっぽを追いかけて遊んで、空気中の何者かを追いかけてハアハア息切れして、またおばの寝ているソファの後ろにごろんと横になる。

ギャウ

ああもう6月か。ゆあーん。ゆよーん。あついよう。

愛之助がうちに来て1週間。お手手が大きいからお前はきっと大きくなるね。もうあとちょっとでミーちゃんを抜いちゃいそうだ。

 

毎日毎日愛之助を見ていると、くしゃみも出て、目の周りがせっかくよくなったのがまた赤くなって痒くて、朝も目をごしごししながら起きて、今朝も鏡を見ると左目が少し腫れている。でも自分の体調管理は適当なところでごまかして、愛之助、愛之助、と猫にかまけていられることがうれしい。体調を整えて世界と調和しながら在るというのは大事なことだけど、何かのきっかけでそれが上手くいかなくなって、この皮膚に包まれているこの自分としてここに在ることが辛くなって、いやでもからだのことばかり、辛い、どうしよう、苦しい、どうしたらいいだろう、痛い、苦しい、とそんな気分でばかりいると、どんどんひとりぼっちになって、どこかで誰か助けてくれるのか、誰も助けてくれないのか、暗がりをスイカ割りのようにふらふらと、さまよいながらずっと奥の方まで行ってしまう。

 

愛之助が来てから遠出をしたくなくなった。ちょっと近所に出かけても、愛之助のごはんの時間のことが気になって、ああ9時までには帰らなくちゃ、と思うと、せっかく涼しくて快適な金石堂でぶらぶらしていたのに、立ち読みしていた本を閉じて棚に戻して、なんだか歩みが早くなって、ここからどうやったら最短コースで用事を済ませて帰れるかという頭になる。どうせ帰ったって子猫はどこかで寝ているだけで、私が玄関から「あいのすけー」と呼ぶと、ふぁーあ、起こされた、と伸びをして、てってってってと歩いてくるだけなんだけど、ちいちゃな愛之助がだだっ広いマンションに一人でいるのかと思うと、私の動作はみるみるいそいそし始める。私って過保護タイプだったんだなあ。人間の親だったら大変だった。

 

正確には愛之助はひとりっきりではなく、奥の部屋で寝ているおじいちゃんと二人だ。おじいちゃんの漢名は「好助」なので、愛之助と好助、助同士で寝ながら留守番。おじいちゃんは私のことをどう認識しているかよくわからなくて、「エリチャンガカニ、メチャウじゃないの?」と私とおばを時々混同しているみたいだが、愛之助のことははっきり認識している。おじいちゃんは昔からあんまり猫が好きじゃないので、母が、気にさわるとよくないから愛之助のことは隠しておこう、どうせ寝たきりだし、と何も言わずに、おじいちゃんに朝ごはんを食べさせていると、

 「ギャウが邪魔だ」

と、ひとこと言った。おじいちゃんは昔から丸太のように無口で、めずらしく口を開いてぼそっと発する一言は、重い。

 「ナヌギャウガ、ギャウなんていないよ、どこにいるよって言ったんだけど、せっかくそう言ってやったのに、ちょうど言い終わったところでどっかから愛之助が来てね。おじいちゃんのベッドの縁に飛び乗って、おじいちゃんのおでこの上に尻尾をふさっとたらしたよ」

 

その後もおじいちゃんは、私の目が痒くなった、ギャウをうちに連れてきたせいだ、と文句を言ったりしている。「呆けジジイのかっこしてるくせに、頭はハッキリしてるよ。ギャウになんの恨みがあるのかね、昔ごはんがなかった時に食べものでも取られたのかね」」と母は面倒くさそうにする。愛之助がおじいちゃんの部屋の窓辺に座って外を見ていると、おじいちゃんは無言のまま、愛之助を指差す。

 

愛之助が来てからミーちゃんのことをみんなで思い出すようになった。ミーちゃんはこんな風に犬みたいに、ご飯だよーってお皿をカンカン叩いたら、向こうから飛んで来たりなんかしなかったねえ。對啊、私、昔数えたのよ。ミーコが食べるカリカリはいつも7粒。才七粒、你相信嗎? 愛之助はほんとうによく食べるねえ、偉いねえ、アイズゥチュウー。よく食べてミーちゃんよりちゃんと長生きするんだよ。そうだよ、咪果が食べなかったのはやっぱり体が悪かったんだよ。野良猫だったからねえ、何回目のお産で生まれたかもわからない、きっと咪果のところにまで回ってくる栄養なんてなかったから、もう育たなかったんだよ。アイズゥチュウー、お前は第一胎、栄養まんてんだねえ。1週間でもうこんなに大きくなって、どれどれ。我看看、我看看。

 

母は愛之助を「廖咪果、廖咪果」と間違えて呼ぶ。廖愛之助、リャオアイズゥチュウーは長くて変な名前だ。フルネームでも漢字二文字で済む人も多いこの土地で、下の名前だけで三文字もあるなんて、アイズゥチュウー。長くて変で可愛い名前。廖愛之助、まるで森丑之助の相棒みたいだ。蕃人の家にもらわれた高級猫のアイノコ愛之助。蕃地の野良猫ミーちゃんの跡を継いで、蕃人の家にやってきて、蕃婦4人に食わされて、世話されて、追いかけられて、撫でられて、元高砂義勇隊員の蕃丁に嫌われて、指をさされて、走り回って、かけのぼって、飛び上がって、好きに寝て、日に4食たべて、外を眺めて、ぷるぷる震えて、息をハアハア切らして、肉球にしっとり汗をかいて。人類学者の森丑之助、台湾の山地をめぐって蕃人を観察しただろうけど、蕃人たちだって丑之助をよくよく観察していたに違いない。2020年の蕃人は愛之助を観察するよ。今度はこちらもしっかり写真を撮って、記録を書いて。

わけがない

今日も暑い。室内は31度。雨が降らないので外は随分暑そう。窓辺にお香を焚いたら愛之助がなんだなんだとやって来て、においを嗅ごうとして近付いたら毛の先がちょっぴり燃えて、びっくりして逃げた。ケモノのにおい。私はアレルギーもちで、猫大好きないとこもアレルギーもちで、二人で廊下をはさんでそれぞれの部屋でくしゃみをし、鼻をかんでいる。でもこんなにかわいいものが私たちに悪いわけがないもんねえ。

 

「日本人なら蕎麦が食べられないわけがない」と言って、父がそばアレルギーの私を何度も蕎麦屋に連れて行ったことを思い出す。荻窪の本むら庵というお蕎麦屋さん。ここはちゃんとしたお蕎麦屋さんで、お店を入るとすぐのところに石臼があって、蕎麦粉から自分で作って打っている。そこまでするからにはきっと美味しいんだろう。最後に行った時、私は小学四年生だった。お店の人が出してくれたお茶を飲んで、なんとなく口の中がむにゃむにゃと気持ち悪くなったけど(そば茶だったのか)父にも母にもそのことは言わなかった。当時の母はまだ日本に来て2年で日本語も苦手で、今の母からは信じられないほど無口で、3人で出かけると、いつも父ばかり一人でベラベラと喋った。「こうやって喰うんだ」と父が見せるのと同じようにして蕎麦を食べると、みるみる喉の中が塞がってくるようなおかしな感じになって、私は「ちょっとトイレ行ってくる」と言って、トイレで休憩した。子どもの頃、トイレにいると妙に落ち着いて、私はトイレで長居するのが好きだった。便器に向かって食べたお蕎麦を少し吐き出してみると、ぬるぬるしていて喉にねばりつくようだった。もう何度か吐き出して、ぬるぬるしたものはもっと出てきて、もう吐ける蕎麦もないのに、ぬるぬるは止まらずにどんどん出てきた。とにかく大量に出るし、喉にへばりつくので、がんばって指を突っ込んでぬるぬるとねばねばを引っ張り出しては吐き出していると、様子を見に来た母がびっくりして、慌てて父に何か伝えに言った。出せるだけ出して洗面台で口をゆすぐと、けっこうすっきりした気分になった。席に戻ると、父が「お前デザート食べるか?」と聞いて、お、やった、と思ったが、いつの間にか母がものすごく怒っていて「私帰る」と席を立とうとした。母はあの頃よくそうやって突然帰ろうとすることがあって、そう言う時、父はいつも、あわてているのを隠すように笑い出して、「まあいいから、待てよ」とその場を取り繕おうとした。母の怒りがおさまらない時は、母は本当にそのまま一人で帰ってしまうか、時々父が「馬鹿野郎、いい加減にしろ」とテーブルを叩いて怒鳴り出して大げんかになることもあったが、この時は、父も母もさすがに私のことが心配だったのか、結局デザートなしで、お会計をして3人で大人しく家に帰った。帰り道は父だけ一人で前の方を歩いて、「私がトイレにいる間、お父さんになんて言ったの?」とこっそり母に聞くと、「娘が死にますって言った」と答えた。

 

あれがちゃんとした蕎麦を食べた最後の記憶で、それから少し後、給食のお蕎麦を残して担任の先生に無理やり食べさせられた小学六年生が死亡したという新聞記事を読んだ。父は私に何も言わなかったが、あれを最後に本むら庵へも行かなくなって、「日本人なら蕎麦が食べられないわけがない」とも言わなくなったから、娘は蕎麦を食べて死んだので日本人じゃありませんでした、というオチになったらさすがに洒落にならないし、悪趣味が過ぎると自分でも思ったんだろう。その後私たちは荻窪から引っ越して、私も入り口に石臼のあるお蕎麦屋さんには注意するようになったが、ニューヨークでSOHOを歩いていると、おしゃれなレストランに「HONMURA AN」と看板があるのを見かけた。もしやと思ったら、やはりあの荻窪の本むら庵がニューヨークに店を出していて、アーミッシュの作るソバ粉で蕎麦を打っているらしい。

 

今でも蕎麦は一応食べないようにしている。「どうしても食べたい時は、救急施設のある病院の中で食べてください」とアレルギー検査をしてくれたどこかの医者に言われたが、それから随分経ったし、いつだったか、久しぶりに日系の飛行機に乗ったら機内食で小さなカップにお蕎麦がちょこっと出てきて、隣の席の人に差し上げる前に、気になって匂いを嗅いでみた。どうせたかが機内食、これは蕎麦という名のニセモノ、蕎麦風味の細長いデンプンだろう、とたかをくくって食べてみると大正解。ぬるぬるもねばねばも呼吸困難もなく、無事に「蕎麦」を食べることができた。麺つゆとネギの味がした。

 

お蕎麦屋さんという場所は、どんなとこでも雰囲気がそれぞれによくて、夜中の富士そば、ライブ前に腹ごしらえに行く駅前のお蕎麦屋さん、家の近所のお蕎麦屋さん、海の近くでサーファーが若主人をしている少し洒落たお蕎麦屋さん、田舎の道沿いで車を止めて入るお蕎麦屋さん、どこも好きなので、さすがに一人で行くことはないけど、誰かがお蕎麦を食べたいと言えば私も一緒に入って、ビールとおつまみを頼んで適当にしているか、お腹が空いていれば天丼を頼み、お茶が出てきたらお水に変えてもらっている。そういえば台北にはお蕎麦屋さんがあるのかしら。お寿司屋さん、焼き鳥居酒屋、いわゆる居酒屋、鰻屋、とんかつ屋、鉄板焼き屋、焼肉屋、牛丼屋、モスバーガー、そんなのはよくあるけど、お蕎麦屋さんはまだ見かけていない。ちなみにうどんの方はというと、烏龍麵と呼ばれてこちらのいろんな麺に馴染んで夜市でもそこらへんの食堂でもよく売られている。「うどん」がこっちの人の耳には「ウーロン」と聞こえて、麺の太さ・柔らかさもなんだか気に入られたんだろう。

 

蕎麦が何も悪くないのと同じように、愛之助も何も悪くなくて、アレルギー源を除去するようにとどうせ誰かが知った顔で言うんだろうが、そんなの何もわかってない奴の戯言だよねえ、愛之助。クイックルワイパーの回数も増えたし、師大夜市でさっそくコロコロクリーナーを買ってきて、ベッドも毎日コロコロしている。コロコロは「優の生活大師」というブランドのもので、「さわやかな空間にかわって、/過敏源に離れる/アレルゲンの働きを抑える!」と、なんとも味わい深い日本語がパッケージに書いてあるのはグーグル翻訳かしら。 

 

愛之助は窓辺にごろんとして葉っぱが風に揺れるのを見ているのが好きみたい。そうこうしているうちにどこか向こうの方で鳥の声がして、時々こっちにまで飛んできて止まって、今日はついに、すぐそこの鉢でカノコバトが土の中からミミズを引っ張り出して食べているのを目撃して、愛之助は窓辺でぷるぷると身構えた。そろりそろり、ティッシュ入れの上に前足をついて立ち上がって、オコジョのように胴長になってびよーんと伸びて、目を丸くして見つめている。首をひょこひょこさせて土の中を突っつくハトにも興味があるし、そのくちばしの先でぷらぷらしているミミズにも興味がある。向こうではどこか景美のあたりで雨が降り出しているんだろうか、時々吹いてくる風と一緒にふわーっと雨の匂いがして、久しぶりに風の匂いを嗅いだ。

敦南店の最後一天

すでにiPhoneの中は愛之助の写真だらけ。せめてブログでは自制して3日に1度は愛之助のいない写真にしなくては。毎日毎日君はなんて可愛いんだ!今も窓のへりでベランダから鳥を観察中。抱っこするとちょっと大きく重くなってるのがわかるし、エサを食べている姿の骨格が前よりしっかりしてきて、走るのも、長い棒の先にもさもさのついたのをいとこが縦横無尽にぶんぶん振り回すのを追いかけている間にものすごく早くなって、リビングのソファの上を一瞬で飛び去って、ソファからテーブルへ、テーブルから床へ、駆け抜け、飛び移り、まだまだ物足りなさそうにくるっと向きを変えて、廊下のいちばん奥まですっ飛んでいった首の鈴がチリリリリリと聴こえる。サバンナに放ったらチーターのように駆け出していきそう。でも帰ってきてね、愛之助。全てのことが新しくて、興味があって、ゆらゆら揺れるもの、音のする方、何かが動く方、動きもしないもの、噛んだら気持ちよさそうなもの、引っ掻いたら、寝っ転がったら、両手で挟んだら気持ちがよさそうなもの、全部にビクビクしながら、ふわふわのやわらかい長い体で、まあるい目で、尖った爪で、生え揃ったばかりの乳歯で、長い長いひげを伸ばして、少し遠くから眺めて、抜き足差し足、近付いていく。尻尾を立てたり、下ろしたり。そしてすぐに疲れて、ゴロゴロとのどを鳴らして、ごろんと横になって毛づくろいをし、フッとため息をつくと、寝る。

 

愛之助と話している間に、中国語って一音節の言葉がたくさんあっていいなあと思う。あっちはみゃーとかふぁーとかくーとかぐぁーとか鳴いているが、こっちもぱおーとかちーとからーいとかくゎーいとか似たようなもので、日本語の表記では表しようのない様々な音を一声立てて鳴いている。もしかしたら昔々の人は、音節を増やしていくより前に、口をいろんな形にしてみて、ベロもいろんな形にしてみて、空気をあちこち当てて震わせて鳴らせて、いろんな音を出せるだけ出して鳴いて何か伝えようとしたのかな。ちなみに猫はマオ。もうちょっと可愛く呼ぶならミャオミー。猫に「みゃおみー」って呼びかけたら、それだけでもうお互い同じ言葉で話してるみたいじゃない?

 

そういえば私の名字は廖と言って、リャオと読むのですが(エリリャオのリャオは名字なので、時々芸名だと思われているけどただの本名です)これが意外とみんな中国語圏以外では聞き取りにくいみたいで、初対面の人に挨拶をすると「エリ、、、ニャオさん?」、まさかそんな、という困惑した顔をされることがある。エラ・フィッツジェラルドとか、カート・ローゼンウィンケルとか、あんなに長くて言いにくそうな名前をみんな平気で言うのに、

 「エリ・リャオです」

と言うと、短いは短いけど聞き慣れないから覚えにくいのか、

 「エリリャオさん・・エリリャオさん ・・」

と、口の筋肉が確かにそういう風にも動くことを確認するように繰り返されることがよくある。アメリカでも一緒のようなことで、

 "So your name is.... Eri... Nyaw?"

と、コロンビアでも先生が眉間に皺を寄せて私を見た。同じクラスにいた中国系アメリカ人のジェニファーは Yao という名字で、私たちはヤオとニャオだと思われたのか、ジェニファーは授業が終わると私のところに来て、さっきの先生はアジア人に偏見がある、だいたいヤオと言うときのあの「ぃやーぁお」という言い方が侮蔑的だし、エリの名前がニャオなのか聞いてくるのだっておかしくない?、そもそもコロンビアのこのコースは白人ばかりで、黒人もラティーノもアジア系もネイティブも、マイノリティが全然いないじゃないか、こんなことは自分が今まで通った学校ではじめてだ、と怒った。私は正直自分がニャオではないと説明した瞬間が自分にとってその授業一番のハイライトで、とてもコロンビアにおける人種問題まで考えが及ばず、そうか、アメリカの中でマイノリティとして育つと、こういう場面で憤りを感じるべくして感じたりするものか、と関心した。言われてみれば、確かにコロンビアの Writing Program はどの授業に出ても非白人の学生は一人か二人だった。私はマイノリティであると感じる前に外国人だと感じていて、でもオーストラリアから来ていた留学生と比べると、一口に外国人と言っても英語が母語で英語の名前の白人と自分とでは、外国人として感じる疎外感もまた質が異なるものだろうなと思っていた。

 

今日はいとこの夫も台中で休日出勤、いとこは部屋で一人のびのびとしている。近所の青田街に住んでいる友人と、朝ごはんを食べに行った後に大安森林公園の近くでヨガ、その後光點華山へ行って「ラストエンペラー」のデジタル修復版を見に行くという、いかにも休日のOLっぽい予定を立てていて、私も誘われていたが、一緒に行くはずだったいとこの友人が生理で辛いというので延期に。家で一緒に水餃子をゆでて食べていると、いとこが、

 「姐姐,明天是誠品敦南店的最後一天呢」

と言った。そうだった。台北の本好きな人なら必ずなんらかの思い出がある書店、誠品敦南店が閉店するというので、蔡英文をはじめたくさんの人がお別れをしに訪れている。私も25で台湾に帰ってきた時、この本屋があるおかげで自分の生まれた街が大好きになって、誇りにさえ思った。ある時期の私にとって、本屋さんと言ったら世界中でここ以外なかった。きっといとこもそうだったろう。24時間営業していて、みんな地べたに座って本を読んだり、本棚が丸くなっている部屋もあったり、国内外のたくさんの雑誌があって、店内のレイアウトはいつもうきうきして、静かで、まるで想像上の素敵な図書館と本屋の中間みたいな場所だった。当時の私は夜行性だったので、眠れない時など、タクシーに乗って「誠品敦南店」と運転手さんにひとこと言って、115元を支払って降り、丸い入り口の階段を上がって、奥の方の売り場まで歩いて写真集や画集など、高くて大きな美術本を何冊も抱えて、段差になっているところ座り込んで片っ端から眺めたりした。「夜の誠品って変態がいるんだって」とよく噂されたが、私は出会わなかった。本以外にも、ミュージアムショップみたいに素敵な文房具や雑貨なんかも売っていて、オーガニックの化粧品をいろいろ試したり、イタリアらしい色合いのメモ帳を高いけど思い切って買って、結局もったいなくて使えなかったり(まだ藤沢の家の机の引き出しにある)、蔡國強を知ったのはここのギャラリーだったし、カフェはコーヒーが美味しくて、世界のいろんな音楽が揃ったCD売り場もあって、上の本屋で働いていた友人から教えてもらったビル・エヴァンスの Conversations With Myself を買ったのも、グールドのバッハを買ったのもここだった。年末になると手帳はいつもここに買いに行って、天才バカボンのカレンダーもここで買って、クリスマスカードもここに見に来て、MOMAのポップアップのカードを何年か続けて買った。敦南店の近くには当時台北でも珍しかったベーグル屋さんがあって、ぶらぶら本を見ていると彼氏から連絡があって、待ち合わせて二人でコーヒーとベーグル食べたりした。入り口の前にずらっと並んだ露天のアクセサリー売りたちは、あの頃流行っていたルイ・ヴィトンのダミエ柄を模したスーツケースのような箱をぱかっと開けて、そこに品物を並べ、取り締まりの警察が来ると、またそのケースをぱかっと閉じてさっと逃げた。あれからもずっとあそこで品物並べていたんだろうか。こうやって思い出していると、なんて懐かしいんだろう、やっぱり私も今からタクシーで行かなくちゃ、という気持ちになるけど、同じ思いの人たちは多いのだろう。店の中に入るのに200メートルの行列ができているとニュースになっているのを見て、膨らんだ気持ちもしぼむ。なくなっちゃうんだ。

歌ってとった

わかってはいたけど毎日愛之助ざんまい。家族が集まっても猫の話ばかり。野良だったみーちゃんと違って、愛之助は人の家で生まれて、ずっと人に囲まれているからか、人のそばにいるのが好きみたい。今もそこに寝ているのですよ。そろそろ中医に行かなくてはいけないのに、愛之助がかわいいし、外は雨がすごいし、なかなか出られない。中医は、あなた近所なんだからちょくちょく来て様子を見せてと言って、薬を3日分しか出してくれない。たしかに私の調子を見て薬の配合をちょいちょいと変えているらしく、けっこう味が変わる。

 

去年ゲストで参加した東大のゼミが今年もあるというので今朝はそのミーティング。zoomにもちょっと慣れてきたかも。こういう形で知った顔を久しぶりに見ると、そうだった、この人にはこんな特徴があったな(前髪が目にかかりそうだった、とか、会話の途中でふっと止まる、とか)と画面越しにひとつひとつ思い出せるのが楽しい。それにしても学生だった頃の私はあんなに学校に行けなかったのに、今見ると学校って、面白そうな大人たちが面白そうなことしてる場所だったんだな。18の私には全くどうでもよかった。大人になりたいと思って、興味もあったのに、そこにいる大人たちからは離れたい離れたいと思っていた。あの位の頃に元気にポコポコ子どもを産んで、今くらいから若い人たちに混ざって学校へ通う方が私にとってはきっといい順番だったんだろうけど、まあ何を今更。

 

ミーティングの後は、愛之助のエサを水でふやかしている間に自分もお昼ごはんを食べて、そしてバイトのミーティング。同じzoomミーティングでも、こっちはお互い思い入れがある相手ではないので、顔を見て話したいとも思わないし、メールより話が早いからお互いに声だけ、画面共有しているエクセルファイルをざーっと見ながら、ばばばばっ!と話して終わる。なんて気楽なんだ。パジャマだし。たぶん向こうも。今日は声の主からフィードバックをもらっていると、その向こうからカチャカチャッという音と誰かの口笛が聴こえてきて楽しかった。それ以上先の想像をしないでいられる相手なのも気楽でいい。

 

愛之助はベランダの鳥の声に興味があるみたいで、私の机によじ登っては、そこから窓のヘリに座ってじっと網戸の向こうを眺めている。本来の主食だもんね。カノコバト、タイワンオナガ、シロガシラ、クロヒヨドリ、メジロ、名前がわからないけどあの小さな小さな私の親指くらいの鳥。そのうち愛之助が大きくなってベランダにも出て行くようになったら、どんなことになるのか。この間まで昼間からキャッキャキャッキャ鳴いて、壁を自由に走り回っていたヤモリも、心なしか鳴く回数が減っている。あのヤモリの先祖はミーちゃんのおもちゃにされていて、本人の方はいつも命からがら逃げ出していたが、噛み切られた尻尾の方は、廊下でひとりピクピクと動いていた。

 

ここのところずーっとボーっとしていた私にしては今日は忙しい日で、ミーティングとバイトの後、久しぶりになんと歌った。鼻歌とかではなく、自宅で音源を聴きながら歌っている様子をなんとiPhoneでビデオに撮って、依頼してくれた友人に送った。私は前から、自分がメインで歌って、誰かがその伴奏をする、といういわゆる歌手の定型的スタイルがあんまり好きじゃない。シンガーでメロディをうたうとなると嫌でもシンガーが中心になってしまうし、そうあるべきでもあるけど、でももっと歌も伴奏も分かち難くひとつでありたいといつも思っている。それはシンガーが誘いかけることのできることのなかで一番素敵なことでもあるから。

 

今日録音したのは、友人が来週発表する曲のコーラス。現在のところ全く機会がないんだけど、コーラスというのが私はとても大好き。寄り添える側になるというのはいいものだ。この作品では日本やブラジルやいろんなところの人たちがコーラスで参加するそう。みんな知ってる日本の童謡で、日系ブラジル人の友人は小さい時にお父さんが歌ってくれたんだとか。台湾でもこの曲は実はよく知られているので、また作品がリリースされた時に、お知らせがてらそのことも書いてみたい。

 

それにしても。音源越しではあったけど久しぶりに誰かと歌って、歌うのってやっぱり楽しいなー。楽しかった。ありがとうねマルセロ。ちょこっと生き返ったよ。

ようこそ愛之助

愛之助が来てからすっかり猫中心の生活に。迎えに行った日もギリギリまでお母さんのお乳を飲んでいたから、いきなりお母さんから離して大丈夫かみんなで心配したけど、人懐っこいのか忘れっぽいのか、夜泣きも全くしないし、全部の部屋のあらゆる角のにおいを嗅いで、3日ですっかりうちの人のようにしている。いとこも会社を早目に切り上げて帰ってくるようになって、毎晩みんなで愛之助を囲んで遊んでいる。ソファからテーブルへ飛び移れるようになって、椅子の背の上でバランスを取って座れるようになって、愛之助は毎日ひとつひとつできることが増えていく。「60を過ぎると、今まで自然にできていたことがひとつひとつ、できなくなっていってさみしい」と母が数年前言ったのを思い出す。その反対が愛之助で、母も60から何年も過ぎてしまった。私の目には母は前と大して変わらないように見えるけど、全然違うよ、と本人は言う。

 

夜中から大雨が降っている。梅雨なのにここ数日ほとんど雨が降らなくて、雨が降り出す前の、空気中に水蒸気が限界まで集まって集まって、この盆地が風の吹く隙間もないほどぎゅうぎゅうにつまった熱気で蒸しあがって、やっとのことで雨が降った。この時期の台北は曇りの日でも30度はあって、雨の降らない日が続くと、二日目にはもう歩くのも息苦しくなってくる。中医はおととい舌診で私のベロをみて「濕!」とひとこと言った。台北の空気中の湿気は私の中にまで入り込んで、私の舌をふやかし、膨らませているようだ。日本の漢字の湿という字は、ここの湿気にはあっさりし過ぎている。繁体字の濕は、左側にも下にも水滴がしたたっていて、残った右上の空間も、いかにも上の方から蒸れた湿気が垂れてきているようで空気もじっと動かなさそう。そんなことを考えていると、藤沢の、海からそのまま風と一緒に上がって来て降ってくるような雨がふと思い出されて懐かしい。

 

台北の実家に予想以上に滞在することになって、なんだか体調を崩したり、家の中はこんなに楽なのに一体どうしてなんだろう、と思っていたのは、もしかしたら自分の体をもう一度都市という場所に戻すのに戸惑ってしんどかったのかもしれない。今ではやっとちょっと感覚を取り戻して楽しめるようになってきたけど、最初のうちは、空が見えない、砂がない、海が遠い、土が見えない、星と月が、夕焼けが、ないものばかり並べてしまって、私ってこんなに何もないところにずっと住んでいたのかと愕然としたりした。確かにもう少し若い頃の私は、人間同士とか人間がうごめいている街のいろいろの方に興味があって、土や空を眺めているより、人の顔色や仕草、表情、装い、言動、街の景色、夜の賑わい、新しくできたレストラン、昔から続くお店、そんなものに一喜一憂していた。そういった私がもうほとんど離れてきたものたちと、その代わりに毎日どんどん親しむようになっていた空や川、砂との連続がうまく見つけられず苦しかったが、ベランダや公園やそのへんにいる鳥たち、前も見えず他に音も聞こえないほど圧倒的な雨、この二つを眺めていると少しほっとすることがわかった。

 

先日の順子先生のzoomゼミの最後に、「台湾と日本とどっちがいいですか?」という質問がゼミ生からあって、とっさに「台湾かな」と答えたけど、ゼミが終わってzoomを切って、子猫を迎えに行く支度をしながら、ほんとうにそうだっけ、と考えた。あの時あの瞬間、みんなと一緒に話したりして楽しくて「今ここがいい!」とちょうど思っているところに、ここしばらく世話になって申し訳なく思っている母が向こうでうろちょろ何かしているのをどこかで気にしている自分がむっくり出てきて「台湾」と言ったなと思った。当然のことながら、日本も台湾もどっちもいいしよくないし、どっちも大事なので、本当は両方をもっと行き来できたらいいんだろうなと今でも思うけど、違う国というのは、やはり自分の意思とか想いとか周到な準備とかが全部遮断されるような、ただ距離として遠いだけではなくて、何かバッサリ、ぷっつり、切り離された上で、遠い場所でもあるのだ。日本に行けない。台湾に行けない。郵便が届かない。送れない。コロナのおかげでこのことに久しぶりに気がつけたのはよかった。台湾という存在そのものが示しているように、国、国、とみんな言うけど、国というルールやシステムが肥大して参加者も増えていく一方で、国ってなんなのか、ずっとはっきりしないままで、移動の自由なんてものも、そのあいまいな「国」の都合次第でなくなる。スマホをすいすいしながら安いチケットを探して、パスポートとお財布さえあればなんとかなる、と言って飛行機に乗って、生活費さえ稼げれば私は自由に移動できるんだと思っていた。まだ台湾でもみんなコロナに戦々恐々としていた頃、ビザが切れたまま不法滞在しているインドネシア人を中心とする外国人労働者たちが、感染しても捕まることを恐れて病院へ行かず、そのまま新型コロナウイルスの媒介人となって、台湾中の外国人コミュニティからコミュニティへ、そこからさらに台湾人へと市中感染が大規模に広がるのではないか、とニュースなどで取り上げられていた。保険証を持たない外国人が病院に行くときは、パスポートか居留証を見せなくてはならない。私もこのままこの家でずっとぼーっとしていたら、私は家族と過ごしながら、自分の生まれた家の自分の部屋で不法滞在者になって、そうか病院に行けないのか、と思った。

 

小さい頃、日本へ行くのはいつも大ごとだった。母と私が時々日本へ行く時だって、夏休みなんだから1ヶ月もすれば台湾に帰ってくるとわかっていても、おじいちゃんとおばあちゃんがいとこの手を引いて山から下りて来て、台北に住むおじさん家族、おばさんと子どもたち、どこから来たのかいとこのいとこ、そんな親類縁者たちが10人くらい、まずこの家に集合し、みんなで家を出て麗水街でタクシーを拾って、2台に分かれて台北駅へ向かい、駅のバスターミナルの窓口で國光號の切符を買って、バスの座席を何列も占領して、桃園空港まで、みんな一緒に来てくれた。外国へ行くのがあんまりにも大層なことだったし、空港へ行くことだけでも大層なことになってしまって、見送りは一大行事、礼拝にでも行くようなちょっといい服を着て、出かける前におばが私の髪をとかして、どこかで買って来てくれたリボンを髪の結び目につけてくれた。もう会えないことだってあるかもしれない、と大人たちはどこかで思っていて、子どもたちもちょっとした旅行気分でふざけて遊びながら、バイバイと手を振る時になると、どことなくやってくる陰のようなものを感じた。

 

それにしても雨が止まなくて、止まなくて。愛之助はどこかな。

夫婦、JASONS、たのしみ

この家にはいろんな人が住んできた変遷があり、今の私の部屋は、ものごころついてから7歳まで私の部屋で、その後母と私が日本へ移住し、台北日本人学校に新しく赴任してきた若い先生家族にこの家を貸したので、そこの家の子どもがきっと私の部屋を自分の部屋としたんだのだろう。結局母が「やっぱりあんまり人に貸したくない」と言い出して、母の弟家族がここに住むことになった。母の弟は、結婚前にここに住んでいた時期もあったのでここに住むのは二度目。今度はもう奥さんと子どもがいて、その子どもというのがホンイーだ。私の部屋には私の使っていた子ども用ベッドがあったので、ここはそのままホンイーの部屋になり、しばらくしてホンイーに妹ができると、この部屋には二段ベッドが入って、二人の子ども部屋になった。妹が大きくなって二人の部屋を別々にすることになり、この部屋は妹の方が受け継いで、二段ベッドの空いている方には、おばが来て寝たり、いとこたちのお母さんの実家・南投ブヌンのいとこが台北で看護師をしていた時期そこに寝たりしていた。妹が高校を卒業し、台南の大学に入って、卒業後はオーストラリアへ数年行くことになったのでこの部屋もしばらく空いて、二段ベッドは山の家に持っていき、シングルベッドを2台入れ、おじいちゃんとおばあちゃんが台北で病院に行く時などにはここに泊まった。いとこの荷物は廊下を挟んで向かいの部屋に移されて、そこがそのままいとこの部屋になって、台北に戻って会社勤めしているいとこは今そこに住んでいる。週末になると、この間結婚した夫が台中からやってきて、そこはいとこ夫婦の部屋になる。

 

彼らの週末婚は、時々いとこの方が台中へ行くこともあるが、たいていは夫がこっちにやってくるので、今週末も私の部屋の向かいは夫婦の部屋だ。二人は一応新婚だけど、いとこは大学に入って最初に付き合った彼氏とずっと付き合ってそのまま結婚したので、夫になる前から彼はうちによく泊まりに来ていたし、結婚したといっても今までと特に変わらない。台北の多くの人たちがそうであるように、この二人も食事は朝ごはんからほとんど全てを外食で済ませているので、この家で一緒にごはんを食べることはほとんどない。台湾の人はあんまり自炊をしない。小さいマンションだとそもそもキッチンのない部屋も多く、あっても暑いから家の中で火を使いたくないという人も多いだろうし、せっかくご飯をつくってもすぐにダメになって、このくらいの時期には朝作ったものが夕方にはもう酸っぱくなっていたりする。ちょっとした外食のできる安い食堂がそこら中に大量にあるし、屋台も夜市もコンビニもたくさんあって、よっぽどの田舎でないかぎり、家を出て5分も歩けば食べものに困らない。逆に言うと、日本的な感覚でいうとかなり辺鄙な場所でも、10分も歩いたら何か食べられる。徒歩10分というのは、台湾人にはかなりの距離なのだ。そんなわけでうちの若い夫婦はほとんどずっと出かけていて、家で見かけるのは、早朝か夜遅くに家でごろごろしている時、もしくは洗濯のときくらいだ。洗濯はすべて夫が担当していて、これは台湾ではちっとも珍しいことではない。この国では料理、洗濯、買いものなど家事はすべて夫の仕事、じゃあ妻は何をしているかといえばその全体の指示と命令、そんな感じなのだ。いとこ夫婦もまさにこのスタイルで、せっせといとこの分の洗濯物もきっちり干している夫の様子を眺めながら、いいなあ、あんなに家事してもらえるなんて、私も台湾人と結婚したいなあ、と日本人的気分で眺めていると、「いつまで干してるの? まだお皿も洗ってなかったよね?」と鬼姑のように、いとこは部屋から出てきもせずに夫に向かって叫んでいる。母や私には決して使うことのない声でまくし立てるので、横で聞いていると最初のうちはドキッとしたが、台湾では夫婦間コミュニケーションってこんな感じで、こんなとき夫は大体へへへとただ笑っている。口答えはしない。喧嘩にも言い合いにもならない。

 

今日はずっと雨も降らず、暑い。せっかく炊いた玄米がダメになってきたので、母が洗ってザルに入れ水を切り、試しにベランダに出したらタイワンオナガがさっそく食べに来た。ベランダにたくさんやって来るどの鳥を見ても、色合いと模様がそれぞれに美しくて感心してしまう。人間もそういえば、カラフルで派手なファッションが好きな人は南国の鳥みたいに見えたり、日本のおばあちゃんがグレーとかなんともいえない紫とか深緑の洋服を好んで身につけてるあの色合いは公園の鳩っぽい。このタイワンオナガも、人間でこういうシャープな色合わせが好きな人いるよね、という感じの、頭、下半身、長い尻尾は紺のように光る濡れた黒、体の真ん中はベージュがかった明るい茶色で、お腹のところだけ白、嘴は真っ黒で大きい。ユニクロでおしゃれしてみたみたいな感じ? 目はまん丸くて大きくて、なんでかわからないけど口を開いてぽかんとしているのをよく見かける。

 

夜は母と散歩の代わりに、古亭駅のちょっと先まで歩いてJASONSというスーパーへ買いものへ。東京で言うところの成城石井みたいな輸入品の品揃えが多いスーパーで、品物もちょっといいのが置いてある。今朝の豆漿づくりで大量発生したおからで蒸しパンをつくってみようと思っていて、私は薄力粉さえ買えればどこでもよかったので、何もこんなに高級なスーパーに来なくてもよかったが、味噌を買いたいと言う母が、JASONSには美味しいのがあるから言うので、久しぶりだし一緒に来た。まだJASONSが微風廣場の地下にしかなかった15年前、私は時々わざわざ出かけて行って、輸入物のめずらしいオーガニックのハーブティなど買って、おいしいかおいしくないか何とも言えないお茶をいれては、騙されてもいいわと素敵な気持ちになっていた。今日は製菓材料のコーナーに行ってみると、日清のいわゆる普通の薄力粉が輸入品として日本円換算で1000円くらいで売られていて、私はあの頃もこうやって騙されていたのかと、こうもあからさまにわかると複雑な気持ちになった。仕方ないので、少し高いけどどうせならとニュージーランドの薄力粉を手にとると「せっかく日本の売ってるのに、こっちにしないでいいの?」と母がわざわざ聞いてくる。

 

さて明日はたのしみが続く日。午後はついに青学の順子先生のゼミのゲスト。初のZoomトーク、Zoomライブをしてみる予定。そしてそのあと、ついに子猫を迎えに行く。

のどかな

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月23日 台北

朝から午後まで雨。夜にゴミ捨てに出ると、すっかり雨が上がっていて久しぶりに地面が乾いている。何日も雨が続くと言われてその気になっていたが、意外に早く上がってしまった。

 

10日ぶりに中医に行って、かくかくしかじか、先日救急にかかった時のすさまじい顔の自撮り写真など見せながら一部始終を話して、また薬を処方し直してもらい、鍼を打ってもらった。脈診だけでも自分でできるようになったらいいなあ、とうらやましい気持ちで私の手首に当てられた先生の三本の指先を眺めた。自分の脈を毎日観察してみたら私もそのうち少しわかるかしら。今朝は母も東門で買い物がしたいと言うので、一緒に家を出て、市場のところまで一緒に歩き、私が診察してもらっている間に母は買い物を済ませて、「市場の中のセブンのイートインで座って待ってるね」とラインがあった。荷物持ちが来てくれるということで、母は普段よりずいぶんたくさん野菜を買いこんでいて、迎えに行くとすでに私が持つ用の荷物がいくつかの袋にまとめてあった。葉野菜は雨のあたったところからすぐにいたんでしまうので、売りものになるものが少ないし、今後しばらく雨が続けば収穫できないというので、葉のやわらかい空芯菜、大陸妹、A菜などと呼ばれる球にならないレタスの一種、雨水が中に入り込みやすいキャベツなんかはずいぶん値上がりしている。雨だったが土曜日なので人出も多く、若い人たちのグループやが家族連れが目立って、相変わらずマスク姿の人が多いが、それでも愉しげな雰囲気がある。平日の朝の東門は、アドレナリンの漲る百戦錬磨の女性陣が群がる中に、メモ片手におつかいしながら混乱して家の女性に電話する男性などちらほら、その中を負けじと分け入ってお店の人とやり取りするのもたのしいが、こういう休日のちょっとのんびりした市場を歩くのもたのしい。傘と傘が、お店のテント屋根とテント屋根が混み合って、お昼を過ぎると雨も激しくなり、足元がずぶ濡れになった。市場を出てきたら母も私もお腹が空いて、帰る途中にある湯圓屋さんに寄って、母は雞絲餛飩麵を、私は鮮肉湯圓を頼んだ。こんな道端のざっくばらんなお店でも、注文する時にはお店のおばさんが母と私のおでこに額溫槍を当てて体温を測った。

 

夏が近付いてくると、家にアリが増える。日本でよく見るアリより小さく、体が赤みがかっていて、触覚が長く、動きがとにかく早い。私のノートパソコンにも、毎日2、3匹、キーボードの隙間から中の方へ入っていこうとするのがいて、見かけるたびに指でつぶして仕留めるのが長年癖になっているが、最近、アリを殺すたびに思い出す詩がある。書いた人の名前も思い出せない詩なので探しようもないが、この詩の中で、女の人は「ああ、また来た」と何気なく虫を殺す。いつもそうしているように。でもこの時ばかり、この女の人は虫を殺した直後、ハッと考えてしまうのだ。どうして自分は虫を殺したのか。殺していいのか。殺した自分に問いかけて、女の人は自分に、「鬱陶しかったから」と答える。鬱陶しいからという理由で、その時自分にとって鬱陶しかったという理由だけで、自分は何かを殺していいのか。あの詩の中の、自分に呆然としてしまった女の人のことを、台北でアリを潰すたび私は思い出す。このアリたちはすばしっこくて、動き方が直線的ではなく、常にこちらの予想していなかった角度でどんどん高速移動して逃げ回るので、殺す側としては大変やりがいがある。軽く押しただけでは指を離すとまた動き始めるので、集中して、素早くしっかり捕まえて潰さないとうまく仕留めることができない。動き回るアリたちを無心になってひとつひとつ潰していると、快感に近いような静かな感覚がある。25歳でこの家に戻った時、私はこのアリ潰しにはまった。母が殺虫剤を買ってくると言うのも、私がやるから大丈夫と断ったほどだ。今はアリの巣ごと駆除できるエサのようなものがところどころに置かれてあるので、以前ほど次から次からアリが出てきて這い回っていることはないが、それでも時々出てくるアリを、私は潰して殺している。あの詩を読んでから、気がむくと1匹くらい逃してやるようなこともするけど、キーボードの隙間からパソコンの内部に入って行ったら基盤のどこかがおかしくなって本体ごと壊れてしまうかもしれないし、このMacBookも買ってずいぶん経つから、修理も難しくて新しいのを買わなきゃいけないとなったら高い。それが私がアリを殺す理由だ。でも今ここにパソコンがなかったとしても、ここをアリたちが数匹通って行けば、私はなんの気なく潰すだろう。なんとなく邪魔だから。目障りで気になるから。鬱陶しいから。

 

ゴミ捨てのついでに、近所のペット用品店に、猫の爪とぎ用のおもちゃを買いに行った。いとこのところの子猫がそろそろ産まれて2ヶ月経つのでもう母猫のお乳も飲ませなくていいそうで、近日中に引き取りにいくことになっている。子猫は全部で5匹いて、母は他より毛が長くておっとりしたオスの仔猫を欲しがっていたが、同じのに目をつけた姪っ子が先に引き取りに来て連れて帰ったらしい。それ以外の3匹も早くからすでに引き取り先が決まっていて、うちには誰にも選ばれなかった子猫が来ることになった。どんな奴だろう。

 

ペット用品店のある永康街のあたりは今日も相変わらず人が多い。台湾のお店一般は、開店が遅いかわりに閉店も遅く、服屋、パン屋、果物屋、本屋など、夜の10時くらいまで開いているところが多い。お店に入ると「らぁしゃいませ〜」とこちらでよく聞く訛りの日本語で、まるで和食のお店かのように挨拶された。日本のペット屋さんの台湾店というわけでもなさそうだが、ここは品物も日本製がたくさんあるし、猫たちがちゅ〜るを好むように、ここの人たちも日本のものが好きになって、しまいには日本語で挨拶してみたくなったのかもしれない。青いくじらの絵が描いてあるくじら型のガリガリと、緑色のうんちスコップを買った。それ以外は、トイレも、数年前の猫砂も、咪果(ミーちゃん)が使っていたお下がりがまだ残っている。

 

鳥を眺め、脈をとり、アリを殺し、猫をもらう。私ののどかな土曜日だ。

A Smile

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月22日 台北

今日も一日雨。テレビでは、屏東や高雄など主に南部で川のようになった道路を車やバイクがばしゃばしゃと通っていく映像が流れる。ただの梅雨のはずだが、まるで台風が来たかのような様相で、いくつかの都市では停班停課、会社も学校も雨でおやすみ。「今会社のすぐ向かいまできてますけど、渡れないので出勤は無理です。深すぎて」と会社に電話したと街の人がインタビューに応じている。

 

おばの彼氏の実家は台南のはずれにあって、こんな風に大雨でどこもかしこも浸水する日は、たくさん魚が流れてくるのだそうだ。田舎なので、自宅の敷地内に池をつくって魚を養殖している人も多く、特によく飼われているのは吳郭魚というなかなか風流な名前で呼ばれているティラピアの種類。大雨がふれば、洪水と一緒に、誰かのところで飼ってる吳郭魚の群れが次々と、自分の家の前の川のようになってしまった道に、プールのようになってしまった庭に、どんどんどんどんと流れてきて、獲っても獲っても獲りきれないほどなんだそうだ。拾ったものは俺のもの、みんなで鍋を出してきて、どこかから流れてくる魚を片っ端から獲ってはゆでる。そんなわけで台風の時期にはたくさん吳郭魚を食べられるのだという。吳郭魚はスーパーでも市場でもいつでも売られていて、値段も安い魚だが、少しねっとりした鯛のような白身の肉でおいしい。

 

今日も結局ほとんど家の中で過ごした。うちは台北のマンションの7階なので、浸水もない代わりに吳郭魚も流れてこないが、家の中で埋もれている宝というのはあるものだ。母がいつだか東門市場で実演販売しているのに見惚れて買ってきてそのまましまって忘れていたという豆漿マシーンを発見した。キッチンにはちょうど母がこの間買った黒豆があったので、さっそく洗って水に浸し、もう気温も高いので3時間も浸せばじゅうぶんで、3時間半後にはできたての黑豆漿を飲んだ。おいしい。作ってみて久しぶりに思い出したが、そういえば豆漿を作るたび、説明書には書かれていないが、マシーンの底に大量のおからも作られるのだった。できたての豆漿が毎日飲みたいので、毎日このおからの山をどうにかしなくてはならない。豆漿愛飲家と同時におから研究家になるしかないのかも。ニューヨークではヨーグルトの中にそのまま入れてかき混ぜてごまかしたり、卵の中に混ぜこんで無理やりスクランブルエッグにしたりしていたが、食べても食べても、そんなくらいでは毎朝大量発生するおからに全く消費が追いつかず、見なかったことにしてコンポストの中にそっと入れることもあった。当時住んでいたアパートのフランス人ルームメイトの元奥さん(ポルトガル人)がEM菌の大ファンで、ルームメイトと離婚して引っ越していった後も定期的に彼のところへEM菌を届けにきていたから、夫よりもEM菌が好きだったというか、夫よりEM菌を信じていたのか。とにかく私たちルームメイト4人は共同して生ゴミをバケツに集めて、その上に元奥さんが持ってくる bokashi というEM菌ふりかけのようなものをまぶし、バケツが一杯になったら1週間くらい寝かせて、元奥さんと彼女のEM菌仲間たちが堆肥づくりをしている近所の市民農園まで持っていった。彼女は気性の激しいとってもいい人で、みんなの大事な友人でもあったので、EM菌がなんなのか誰もよくわかっていなかったが「とにかく本当にすごくいいんだから」と彼女があんな熱烈に主張するんだから、その菌を介して、時々彼女と会って、お互い元気にやってるか確認するのもまんざらでもなかった。日曜日の指定された時間に市民農園へ行くと、かわいい野良着姿の彼女のほか数名の女性がいて、「毎週EM菌パーティやってるからよかったら遊びにきて。みんな大歓迎!」と声をかけてくれた。めいめい自分のつくった bokashi を持ち寄って、においを嗅いでみたり、どうやってつくったかをみんなでシェアしたりして、EM菌を使った食べものやドリンクの味見をしたりするらしい。コーヒーかすでつくるbokashiを研究しているとも言っていた。

 

元奥さんに最後に会ったのは、ルームメイト4人とその友達と、大勢でブルックリンのロシア人街にあるビーチへ行った時だった。ビーチから住宅街へ出る手前に草むらのような狭い道があって、そこを通っていると、なんと向かいから彼女がひとりで歩いてきた。誰も彼女に連絡をしたわけじゃないのに、突然現れたのでみんなでびっくりして、「Oh my god!なんとなく海が見たくなって来てみたら!」と麦わら帽子の彼女は両手を広げて大げさに笑って、うれしくなってみんなでハグをした。その少し後のことだったか、彼女の再婚相手から、彼女が交通事故でほぼ意識不明になってしまったと連絡があった。彼女は、よっぽど遠いか、よっぽどの吹雪、ハリケーンの日でもないかぎり、ニューヨーク中を常に自転車で移動していて(「移動のために排気ガスを撒き散らすのは人間のエゴだ」というのが彼女の主張だった)、ヘルメットを被った彼女が車に混ざって猛スピードで通り過ぎていく姿を私も目撃したことがある。地下鉄で移動するよりこの方が断然速いし、運動にもなる、と得意そうにしていたが、その日、彼女は自転車移動中に車に衝突し、衝突の衝撃で何メートルも体が宙をふっ飛んだらしい。幸い大きな怪我はなかったが、打ちどころが悪かったのか、少しでも体を動かそうとすると猛烈なめまいがしてとても起き上がれず、自宅に戻ってからもずっと寝ていて、目が覚めている時間も1日に数分ほど。何をすることもできず、毎日ただ寝て、時々目が覚めて数分するとめまいが起きて、また寝る、というのが彼女の人生になった。その年のサンクスギビングの日、彼女からのメールが再婚相手を通じて私たちのところに届いた。その夫が冒頭に書いたメッセージによると、数日に渡って彼女が少しずつ口述した文章を彼が書きためて私たちに送ってくれたそうだ。今でも毎年サンクスギビングに、同じようにして書かれた彼女からのメールが私たちに届く。手紙の最後はいつも、A Smile と結ばれている。

 

台湾でニュースを見ていると、何よりも交通事故のニュースが多いことにびっくりする。ここはなんと交通事故が多い場所なのだろうと思っていたが、毎日見ているうちに、そういうことではなく、これはみんなこの画面が見たいんじゃないか、台湾人というのはこういうのを何度も見ないと納得できないんじゃないか、と思うようになった。どうやらショッキングなシーンがあるものほどニュースになるようで、日本では免許更新の時に試験場の部屋の中で見させられるような、夜中に車が激しく衝突して逆さにひっくり返ったシーンや、右折するトラックにバイクが巻き込まれていくシーンなど、後ろの車のドライブレコーダーからもらった映像を編集しているのか、真後ろから撮ったであろう白黒の映像に、「ここに注目!」と訴える赤い矢印がピコンと現れ、特に目立ったところもない街中の道路の普通の車の、あと数秒後に事故にあうことになる人の真上を指して光っている。事故の瞬間の映像は何度もくり返され、その後インタビューされるのは目撃者ではなく、その矢印が指していた、包帯ぐるぐる巻きで車椅子に乗った人、病院の担架の上の人、もしくは泣き叫ぶその家族だ。インタビューから引き出されるのは不注意を反省する言葉ではなく、ただいつも通り生活していたのに、あの事故がいかに突然襲いかかってきて、いかに激しく、理不尽だったか、という言葉だ。毎日毎日交通事故というのはこんなにいくらでもあるのか、と毎日目を見張っているが、日本だって、ニューヨークだって、知らないだけで毎日毎日あるだろう。ごく普通に生活している人々の頭上に突然、あの赤い矢印がピコンピコンと降りてくることが。

五行

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月21日 台北

今日は一日雨が降って、梅雨らしい日。しばらくこっちにいたら、27度くらいでも涼しいなと思うようになってしまった。そういえば小学生の頃、夏休みの日記帳に「きおん28ど」とよく書いたな。窓の外にはベランダのあっちとこっちでカノコバトが2羽、雨宿りしている。雨の日は鳥もこうやってただじーっとしているんだなあ、と私もじーっと眺める。雨音の向こうからどこかで小さな鳥が鳴く声が聴こえる。うちのハトたちは雨の間はほとんど鳴かない。雨粒に濡れたくないのか、首を縮めて丸っこくなっているのが可愛らしい。

 

私の方もどうも出かける気がしないので、ずっと家で過ごした。おかげでこの間古本屋さんで買った中国医学の本をゆっくり読めて、とてもたのしい。本草綱目って「中医監修!アレルギーに効く薬膳」なんて本と一緒に並んで本屋さんに売ってるものだと知ってびっくり。さすがに本格的すぎて手が出せないので、もっと読みやすいものを買ったが。私の両目も、この間大学病院で救急にかかってから1週間経ってずいぶん落ち着いたので、なんとか火事も鎮火できているような感じなんだろう。じりじりと奥に燻っているのは、もう一度中医に出直して気長にやっていこう。また市場をのぞいて帰るのも楽しみだし。病人の小さな贅沢。

 

こちらにいると、その辺の誰もがプチ中医師みたいなのでおもしろい。あの食べものは「寒」だからあなた今食べない方がいいわよ、とか、女の人はとにかく「補」した方がいいのよ、とか。中でもみんながよく言うのは「火氣大」というやつで、ちょっと唇が乾燥していると火氣大、口内炎ができると火氣大、吹き出もののできた人を見つけては「あなた火氣大なんじゃない?」とひとこと言って、誰かのイライラのとばっちりを受ければ「あの人火氣大すぎるのよ」。この間私も口内炎ができて、そういえば口内炎って中国語でなんて言うんだったか忘れてしまったなあと思って、そばにいたおばに聞くと、「火氣大よ」と言う。「そうじゃなくて、ちゃんとした病名っていうか・・・○○炎とかさ」ともう一度尋ねてみても、「それが火氣大なのよ」とくり返すので、まあそういうことか、私も火氣大なのか、ととりあえず受け入れた。

 

中国医学は食べものと直結していて、心身の状態によって食べるとよいもの、食べてはいけないものがある。もちろん様々な状態が時に矛盾しながら変化の中で組み合わさっているのが人の心身なので、○○を食べれば誰でもガンが治るとか、毎朝△△コップ1杯で免疫力アップとか、そういう単純なことではなく、刻々と変化していく雲の色かたちや畑で日々成長する作物を眺めるかのように人間の心身を観察し、その時々の人間が、その時々の空と大地の間にある自然の中の一つの小宇宙として、どのようにこの世界とより調和した状態であることが可能か、そこを目指す上での一つのやり方が「食べものと直結」なのだそうだ。北京出身の中医の友人に「これが古代中国からの思想全ての基礎で、中医ももちろんこの思想の中にあるんだよ」と教えてもらった時、私はとっても感動したのだった。

 

とはいえ、食べもの&健康についての安易なキャッチフレーズはみんな大好きだ。これに踊り踊らされ一喜一憂する、それすらも好きな人であふれているのは、日本も台湾も一緒。しかもこちらは何しろ歴史が長いので、みんなこういうのがもっと熱狂的に好きなんじゃないかとよく感じる。とにかく万物が陰陽に、そして五行にわかれているので、当然あらゆる食べものも陰陽に、そして五行に分かれており、それらの食べものを同じように陰陽五行の間をただよう現在の自分の体に取り入れて自然世界と調和をはかる・・・と書いているだけで気が遠くなりそうだが、みんなこれをそこそこ厳密に生活レベルで実践している。たとえば食事の際は各テーブルに、あなたもちゃんとこの掟を守っているか、頼んでもないのに見張ってくれている監視員のような人が最低一人いると言っていい。一緒に食事をしている全員が監視員だったという場合もある。日本では最近自粛警察という言葉が生まれているようだが、この監視員たちも言ってみればごはん時に登場する自粛警察みたいなものかもしれない。日本の場合みたいに、どこかに通報したり、丑三つ時によその家に匿名の怪文書を貼り付けに行くわけではなくて(いや、そういう人がどこかにいてもおかしくないかも?)、基本的には直接当人に言う。ものすごい直接的だ。「ちょっと、あなたその顔、ニキビ。すごいよね? この麻辣鍋、ぜったい食べちゃダメ。え?もう食べちゃったの? 今すぐその箸置いてください。こんなに悪質なニキビができるって、あなた体質が『燥熱』よ、麻辣鍋なんて一番食べちゃいけない。『上火』してそのニキビ、もっと悪化してもっとひどくなるよ。あなたは何か他のもの頼まないと。私が探してあげる」と勝手にメニューからこちらの食べるものを選んで注文しようとしてくれるのは、よくある光景だ。これはここでは親切のひとつの形なんだと思っている。このタイプの監視員は、同じテーブルにいるあなたの不調を探し出すと、食べてはいけないものを食べようとしているあなたを現場で捕まえて、その食べものを取り上げ、水を得た魚のように活き活きと、ありったけの知識を動員してあなたと世界の陰陽五行バランスを整えるべく、積極的に動いてくれる。いわゆる余計なお世話というやつなんだろうが、見ていて結構おもしろいし、私はそこまで食べものに執着もないので、せっかく選んでくれたならじゃあそれを食べてみようかと思える。かく言う私も、ついに中医の本をたのしく読むようになったので、このまま近い将来陰陽五行警察になってしまわないよう気をつけなくちゃ。

 

じーっと雨宿りしてたと思ってたカノコバトがいつの間にかいなくなってる。この家で聴く雨の音は、外で聴くよりずっと大きくて、いつも大雨みたいで外に出るのがますます億劫になるけど、雨の音って屋根のある場所で聴くにはとってもいいものだ。これから数日雨が続くようで、南部は早くも水害の季節、明日は道路が膝くらいまで浸水するので注意してくださいと天気予報で言っている。湿気でじっとり空気が重い。

520

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月20日 台北

今日は台湾の蔡英文の任期2期目の就任式とのこと。防疫を考えて式典を縮小し、就任演説は屋外の芝生の上に椅子を並べてあっさりやっていたのが、かえって開放的ですがすがしい雰囲気だった。今回の内閣はずいぶんオジサンばかりな印象。

 

私は台湾の国家行事をテレビで見るのがけっこう好きで、今日も朝の9時からの中継を見たいところだったが、ちょうど先日のエアコン工事のつづきで内装屋さんの羅先生が家に来たので、作業が終わるのを待って羅先生と母と私とリビングでおしゃべり。うちのような原住民の家族はなかなか漢人の友人をつくるのが難しいが、この人は元々おじ(母の弟)の学生時代の友人で、今ではすっかりうちの家族の友人になっている。母はこの人に頼んでリフォームもして、そういう大がかりな作業で人数が必要な場合は、羅先生のところで雇っている中国人など数名のチームで作業をしに来るが、昨日は、先日のエアコン工事の際、取り付け用の穴からコンクリートの壁にネズミのおしっこ跡があるのを発見した、その処理の仕上げをするために一人でやって来た。羅先生は髪の毛がほとんど無くなって、昨日はちょうど真っ赤なTシャツを着ていたので、アメコミに出てくる真っ赤なあかちゃんデビルみたいだった。いつもとっても腰の低い人で、うちに入る時も出ていく時も、作業を始める前も、終わってお茶を出される時も、飲み終わった時も、にこにこと細い目で拱手(三国志で見るような、拳をもう片方の手でくるむ中国式挨拶)をしながら「感謝、感謝」と何回でもくり返す。それでいて自分の考えがしっかりある人で、のんびりとおしゃべりしていても、私や母が話す内容がおかしいなと思えばすぐに「不是」と、はっきりこちらの目を見て、いやいやそうじゃないんだよと伝える。逆にこちらが話すことに賛成している場合は、細い目でにこにことこっちを見て、時々エヘヘと声を出して笑う。羅先生のところも、このコロナ騒ぎで新規オープンするカフェやホテルの客室リフォームの内装の仕事など、随分多くがキャンセルになってしまったそうだ。でも空気がきれいになった世界の映像が見られてよかった、と言う。台湾がいかに無計画な開発でこれまで自然を破壊し続けてきたか、山の上にずらりと並ぶ高層マンション群のバカらしさ、住むところは足りているのに投資目的でそれを買う人たち、許可すべきでない建築計画にも収賄で目をつぶり、私腹を肥やす官員たち、山と木がなくなり、梅雨に雨が降らなくなった町、暑い日が増えて扇風機だけでは暑さをしのげなくなった生活。そんな話をして、そろそろ同業者の仲間と会議があるからと立ち上がり、今日は520、総統の就任式だね、你們女強人的時代啦、あなたたちのような強い女性の時代だよ、と笑って、拱手を何度も振りながら、羅先生はエレベーターに入っていった。

 

夕飯時のニュースで、就任式の映像が少し流れた。日本の首相の就任式ってあまり記憶にないけど、台湾のは楽しい。日本のように天皇もいないし、「まつりごと」としての儀礼の部分が政府の行事の中に残っているので、就任式と言うより、就任の儀。こちらでは<520就職>という大学生の就活フェアみたいな言い方がされるけど、それもかえって演劇みたいでついつい見たくなる。私はこの就任の儀の司会というのが特に好きだ。典礼は司会進行係が二本立てになっていて、ちょうど大相撲における行司(かけ声担当)とNHKのアナウンサー(中継担当)がいるような感じ。総統をのせた黒塗りハイヤーが総統府に着き、ドアが開いて蔡英文が出て来た瞬間、「おな〜り〜〜!」と言っているのだろう、画面に映らないどこかからかけ声が聞こえてくる。総統府の美しい白亜の階段の前には、赤絨毯に沿って衛兵たちがズラリ整然と並んでいる。今日は制服の仕様が2色あって、黒、黒、白、黒、黒、白、と並んでチェスの駒のようだ。総統の蔡英文を先頭にした列が近づいてくると、号令がかかり、衛兵たちは「やすめ」の足を開いたポーズから、銃を抱えた「気をつけ!」になる。階段には明るい紫色の大振りの花がたわわに咲いた胡蝶蘭とヤシの葉がふんだんに飾られ、総統たちはその間をどんどんのぼっていく。また号令がかかると、列が通り過ぎていった後ろの方から、ゆっくりで硬いウェーブのように、衛兵がタイミングを揃えて、ビシャッ、ビシャッ、といちいち音を立てて銃を下ろし、やすめの体勢に戻る。総統たちは就任式の行われる部屋に入って着席し、いよいよ就任の儀が始まる。

 

「典~禮~開~始~~〜」

 

総統府典礼科の司儀のかけ声が響く。ちょうど行司が「せん〜しゅう〜らく〜〜」と間をのばして言うような感じだが、最後の音の処理のしかたが全く異なるのが聞きどころだ。おなーりーも、千秋楽も、言葉尻は音程がゆるやかに低くなっていくので、通常の会話の強調して発音するとこうなるのかな、と思うが、この典礼科の司儀の場合、最後の音の音程が、日常会話ならここかな、というあたりより随分高いところから始まる。そしてゆるやかにさらに上がっていく。最後の音なので長く引きのばし、その結果一番耳に残って、私はいつもこの上がっていく上昇感にワクワクするが、母はどうも好きになれないらしい。「この人ちょっと耳おかしいんじゃない?」と今日も司儀に文句を言っている。

 

就任の儀で私がもう一つ好きなシーンは、総統が巨大印鑑をもらう儀式だ。邪馬台国で卑弥呼たちが金印もらったようなことだから、漢民族ってこんなことを今に至るまでもう何千年もやってるのかと思うと恐れ入るというか、立派な印鑑をあげたりもらったりするのがみんなよっぽど好きなんだろう。國璽と呼ばれるこの巨大印鑑はふたつあり、両方とも玉(翡翠)が使われていて、ひとつはまだらな緑色、ひとつはベージュの混じった白。どちらも3〜4キロあるそうで、蔡英文も重そうにヨイショと受け取る。もちろんこの印鑑授与の場面になると、司儀がそれぞれ璽の名前を、部屋のどこかから珍しい鳥のような声で啼き叫ぶ。

 

私が司儀のファンになったのは前回の蔡英文の1度目の就任式の時で、この司儀は私以外にも多くの人の注目を集めた。というのも、この人はとても声が大きかった上に、最後の音を叫ぶ時、しばしば声が思いっきりひっくり返ってしまって、思わず吹き出してしまうのだが、これはむしろ潔いのだ。2016年の総統就任式での派手なひっくり返り以来、この司儀はお茶の間で破音哥(裏返り先輩)と呼ばれたりしたが、その後しばらく存在を忘れられていた。だがまたいつかの国家行事の時、「唱〜國〜歌〜〜〜〜!」と国歌斉唱のかけ声を担当した司儀が、ニワトリのように声がひっくり返ってしまったと思ったらそのまま、ゆるやかにどんどん音程を上昇させていった。「この声は裏返り先輩だ!まだいるんだ!」とみんなで笑って喜んだりした。

 

ちなみに今日5月20日は総統就任式の日でもあるが、台湾を含む中国語圏で、520は愛を伝えるバレンタインデーのような位置付けの日なのだそうだ。今は懐かしきポケベルの時代、メッセージで文字を送ることができず、数字しか送信できなかったので、人々は「我愛你」と送る代わりに、それに発音の近い数字を並べて「520」と送ってアイラブユーを伝え合っていたという。そんなわけで毎年5月20日は「我愛你」の日。しかも今年は2020年5月20日ということで「愛你愛你我愛你」の日、愛して愛してたまらん日になって、台湾でもたくさんのカップルが入籍したらしい。みんなおめでとう、末永くどうぞお幸せにね♡

君がなることのできたすべて

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月19日 台北

呼ばれたので振り向くと、こんにちはジジ。

 

今日は久しぶりにじゅんこ先生にzoomで会って、来週の青学のゼミの打ち合わせ。打ち合わせというもの自体が久しぶりでちょっとドキドキしたが、「この時期は、とにかく無理しない!ドタキャンOK!ゼミでもこれが常々合言葉」と、先生はとってもやさしかった。ゼミ生のみなさんはそれぞれ自己紹介として「生活の中の音楽について」を話してくれるそうなので、私も話さなくちゃ。っていうかその話がしてみたい。

 

ということで早まって書いてみよう。今日耳にした音楽。ひとまず楽曲として誰かが作ったものに限って振り返ると、

 

  • 朝リビングの方から聴こえてきたピアノ曲の断片たち。母は掃除なんかしているときに古典音樂台というクラシックFMをかけておくのが好きで、今日もきっとそうしていたんだろう。このラジオ曲のDJはみんな中国語の発音がとても優美で(おそらくそのように意識して発語もしてるんだろう)あまり考えずに聴いているだけでとっても癒される。
  • お昼ごはんの後片付けをしている間、みんなのお気に入りのキッチンのピンクの椅子に腰かけた母がスマホで懐メロ動画みたいなのを楽しそうに見ている。私は考えごとをしていたのであんまり相手にしなかったが、「ねえねえ、これどう聴いても費玉清にしか聴こえないよね」と堪えきれないように私に話しかけた。費玉清というのは、ついこの間引退した1955年生まれの台湾の有名歌手で、70〜90年代くらいまでずっと第一線でいくつもヒット曲を出しており、それこそ国境を超えて、世界の中国語圏でこの人の歌声はとにかく愛されている。(ちなみにじゅんこ先生のゼミには『越境と音楽』という素敵なタイトルがついている。)ニューヨークでお世話になった中医の先生の奥さんは、わりと最近の中国からの移民で、費玉清の大ファンだった。母のスマホ画面を覗くと、「すごいでしょ、このインド人」と母は得意そうににこにこしている。画面では、おしゃれなとんがり帽と民族衣装を身にまとった南アジア人らしき男性が、中国版 American Idol といった感じのキラキラした舞台で、朗々と、費玉清の往年の名曲を訛りひとつない中国語で歌っている。「すごいね、どこの人だろう」と言うと、母がまた得意気に「尼泊爾なんだって」と言う。日本のインドカレー屋さんはほとんどネパール人が経営していると聞くが、母の中でもインドとネパールは同じになってしまっているらしい。「中国の映画や音楽が好きで、ずっと費玉清のファンでした」とそのネパール人は審査員に熱くアピールし、母は「中国じゃないよ、台湾でしょ、何言ってるのよ」とムッとする。
  • 友人が送ってくれた曲をダウンロードして聴く。素晴らしいオリジナル曲の他に、小野小町の和歌に曲をつけたもの、ミルトン・ナシメントが歌って有名な曲に島崎藤村の歌をのせたもの、ハワイの曲に万葉集・古今集の歌をつけたもの、などなど・・・最初その話を聞いて「まあ随分けったいなことを」と思ったが、聴いてみるとすごーくいいのでびっくり。ナシメントの曲はメロディを覚えててもポルトガル語ができないので鼻歌でしか歌えなかったが、島崎藤村の、しかも有名な歌が歌詞になっているとすぐに歌えてうれしい。気付くと私もこのけったいで素敵なナシメント藤村を歌っている。そを、そを、そを・・・
  • ナシメントを聴きたくなったので、この島崎藤村の曲の元歌が入っているアルバム「Clube da Esquina」をSpotifyで聴く。ブラジル音楽は全く詳しくないけど、ずっとすごく好きだった。アルバムの1曲目、なんと私が20代の頃クラブでよくかかっていた曲だった。思わず立ち上がって、しばしひとりで部屋踊り。こんなところで再び出会うとは。踊り出すほど大好きなのに、不思議なことに、曲名を知りたいとも、歌ってる人の名前を知りたいとも、このギターは誰が弾いているんだろうとか、誰の作曲だろうとか、今の今まで頭をかすめたことすらなかった。正直に言うと、歌詞の意味が気になったこともない。何もこの曲にかぎらず、日本語だろうがポルトガル語だろうが、自分の話せる言語であろうがそうでなかろうが、実はすべての歌について私はいつもこんな感じで、私は音楽を色々知っていると思っているけど、その一方でびっくりするほど何も知らない。こんな私がシンガーだなんて、ミュージシャンだなんて、歌手だなんて、音楽家なんて、そんなものを名乗る資格はないんじゃないかと悩み、勉強しようと頑張ったこともあるが、どれも中途半端に終わった。こんな私でもシンガーでいいんだと安心できたのは英語のおかげだった。観察したかぎり、音痴、ビヨンセ、小学生、地元クワイヤーのおばさん、ボブ・ディラン、自転車をこぎながら熱唱して通り過ぎていく人、歌が大好きでクリスマスにはいつも家族で小さなコンサートをしたという友人の父親・・・つまり歌さえうたえば、上手だろうがなんだろうが、プロもアマチュアも英語では誰もが一律に singer で、Youtubeで時々見たピアノの鍵盤を前足で押さえて遠吠えしてる犬なんかも singer なのだった。英語の、英語の人たちの、こういう十把一絡げな包容には何度も救われた。20代の私が真夜中、地下に降り、重い扉を開け、光を浴びて踊っていたナシメントのあの曲は Tudo o que você podia ser という題名で、ポルトガル語の原題をそのまま訳した邦題もついていた。君がなれた全て。

 

太陽と月とともに 君は夢見た 

この先はもっとよくなっていくのだと

先へと続くさまざまな道で、輝く星になるのだと

君のなりたかったすべてに

 

・・・・

 

  • クリアファイルとのりを買いに師大夜市の文房具屋へ、そして和平東路沿いの地下にある古本屋・茉莉二手書店へ。この間見つけてからちょくちょく行っていて、いとこもここがお気に入りらしい。全体的に照明がおさえめで、チョコレート色の内装で売り場もスッキリとしていて落ち着く。マスクと手指の消毒はまだ必須で、マスクなしでは入店もできない。ここでもうっすら小さな音でクラシックのピアノ曲が流れている。台北では、心を落ち着かせたり、ゆったりとリラックスした時間を設けたいのであろうさまざまな場で、小さくクラシック音楽が流れているのを耳にする。TASCHENのシャガールの小さな画集が126元で買えてうれしかった。
  • 母と二人で夜ごはんを食べる。母がニュースを見ようとしてリモコンを押し間違え、普段見ない仏教チャンネルが出てきたのでそのまま見てみることに。ソファに座ったお坊さんが、自分のしあわせは自分のもの、他の誰かに支配されないように、というような法話をする番組に続けて、「中華成語故事」という子ども向け故事成語の番組になった。時代は三国時代の魏、出演者は全員子どもだが、セットもなかなか本格的、みな当時の衣装を着てそれぞれの役を演じている。主題歌も子どもたちが歌っていて、曲調はリアーナ風のポップなダンスチューン(!)だが、歌詞は最初から最後まで故事成語について歌っているので、ついつい釘付けになって最後まで聴いてしまう。
  • 病院の先生から、この1週間は寝る前に生理食塩水を浸したガーゼで両目を30分冷やすように言われている。救急に駆け込んだ時と比べるとさすがにもう腫れはほぼ引いているが、赤みはまだちょっと残っている。30分目を閉じて横になってなくてはいけないので、この時間はいつも古典の朗読を聞いているが、今日は母と茉莉二手書店の影響で私もクラシックを聴いてみることにした。うちの近所の粗末な骨董屋でも、ランニングシャツにサンダル履きのお店のおじさんがいつも店先に出した椅子に座って、母と同じクラシックFMをかけながらお茶を飲み、客など興味もなさそうな様子でぼーっとしている。こういう風に聴くクラシックもいいもんだなあと常々思っていた。ラジオ局のホームページに行って放送を聴くと、どうやら夜の11時台はクラシックではなくジャズの時間で、リズムも元気も異様と言いたいくらいにいいピアニストだなと思ったらオスカー・ピーターソンだった。番組ではギターにジョー・パスを加えたカルテットのアルバムが紹介されていて、オスカーは、猛烈に弾いて、弾いて、弾いて、弾いて、私はなんだか途中で吹き出してしまう。このオスカーのぶっちぎりで弾きまくるピアノザウルスみたいな演奏と、夜のしじまに典雅な文人のような響きで語る中国語DJの取り合わせを聴くのははじめてで、まだ口の中で二つの味がうまく混ざり合わない。ピアノやドラムを「琴」とか「鼓」と上品な中国語で言うので、うまく視覚イメージできないでいる。番組の最後にアルバムのタイトル曲、私の大好きな曲、Tadd Dameron のバラード、If You Could See Me Now がかかった。この曲はオスカーのピアノソロで始まり、静かに、ゆっくり、曲が少しずつ進む。オスカーはそういえば very good singer でもあった。この曲はピアノでもやさしく歌うようだった。私にジャズを教えてくれた先生や友人たちもどこかでこの曲を歌っている声が聴こえるような気がして、とてもしあわせだった。

とおく

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月18日 台北

そういえば3年前、ブログに次のライブの告知文くらいしか書いていなかった頃(というか、ミュージシャンのブログなのだから、ライブのお知らせをして少しでもみんなに知ってもらって、少しでもライブに来てもらおう!と深刻になってしまっていた頃)、久しぶりにちょっとした文章を書いたことがあった。私はその頃はじめて自分のバンドのCDを録音したところで、当時の自分たちの記録としてとってもいい録音ができたと思ったので、「せっかくだから少し売ってみよう!」と意気込んだものの、何をどうしたらいいのか全くわからない。いろいろ読み漁っても音楽ビジネスのことはちっともわからないし、正直なところ、どこの誰にもわかっていなさそうで、ただ「CDはもう売れない」ということだけは全会一致で賛成という感じだった。思い切ってある人に連絡を取って相談しに行くと、「エリさん、何か書いたらいいんじゃないですか?」と言われた。実はその人に相談などするずーっと前から、私は何か書いてみたらいいんじゃないか、と自分自身うっすらそう思っていた。でもそんなことを人に言おうものなら、その前に音楽をちゃんとやれ、と返されそうだし、そうやって想像しているだけで、あ、そうだ曲書かなくちゃ、ピアノ練習しないと、新しい曲覚えなくちゃ、アレンジしないと、などと一人で勝手に追い詰められていってしまって厄介なので、こんなことは誰にも話さなかった。その人は「音楽活動の一環としてこういう本を書いている方もいますよ」と本棚から、私と同世代くらいの女性シンガーによる写真集とエッセイの一体化した感じの本を取って、こんな人もいるので参考に、と見せてくれた。礼を言って手に取ったが、わかったから早く私を家に帰して私にも書かせてくれ、と、自分で相談に行っておいて心の中でブツクサとぼやき、ページをめくっては、私よりどこか解放されていそうにも見えるその女性の写真をぼんやり見つめた。

 

ちょうど同じ頃だったか、CDのジャケットを作ってくださった画家の小池アミイゴさんが代々木上原で、「あなたの唄は、なんていうか、かなしみがベターっと貼りついてるんだよね。なんかあったの?」とコーヒーを飲みながら早口で私に尋ねた。なんと私のうたはそんな風に聴こえているのかとびっくりしたが、ぎくっと思いあたるふしもあった。その時アミイゴさんにはうまく言えなくて「家庭環境があんまりよくなかったからですかねえ」とか返事をしたんだと思うが、私はかなしいという感情を決定的に覚えた小学生の頃の記憶がハッキリとあり、私はそれを当時夏休みの絵日記に書いていたはずだった。絵日記のことはたった今思い出したが(今私がいるこの部屋で、今私が向いているのと同じこっち側の壁の方を向いて書いていたはず)、出来事そのものについては、3年前、CDを売るという動機で文章を書いていたら30年ぶりに思い出したのだった。

 

この文章のことを、今朝思い出した。新型コロナウイルスにみんながもっと怯えていたまだ寒い頃、青山学院大学のゼミでゲストとして何か話してほしいと連絡をいただいて、まだまだ先だと思っていたその授業ももう来週のことになったし、さて何話そうかなと考えていたら、ふとその3年前に書いた文章のことが頭に浮かんだ。今日は朝から部屋のエアコンの工事でバタバタし、工事の人たちへ何か飲みものでもと雑貨店へ行ったら、ちょうど暇そうにしていた雑貨店のおばさんがお釣りをくれつつ「あなた日本の仕事どうしてるの? 台湾でも歌ったらいいじゃない、どっかあるわよ、もう台湾は大丈夫よ」というところから、馬英九の台北市長時代と総統時代の悪政、そして外省人たちの住むぼろ家の並んだ眷村がいつも謎の出火により一夜にして焼失し、しばらくするとその土地は必ずいつも政府の土地として綺麗な建物や公園に生まれ変わっていることへの怒り、あそこもそうだった、あそこもそうだったでしょう、とおばさんがどんどんヒートアップしてきたところでどこかの業者が商品の入ったダンボールを持ってきて、私はおばさんに拜拜(バイバイ)と言って家へ戻り、エレベーターが1階まで降りてくるのを待っていると、中から出てきたのは空っぽのダンボールを載せたカートとちょうど作業を終えたらしき工事の人たちで、飲みものを渡してお礼を言うのになんとか間に合った。二人いたうちのリーダー風の人が「仕事が早いでしょう」とうれしそうに私に言った。その後、部屋の模様替えを今するしかないと母が言うので、あっちの机をこっちに引っ張ったり、こっちの棚をあっちに引っ張ったり(模様替えは母の長年の趣味)を手伝って、午後はちょっとしたお手伝いのバイト、夕方微熱が出たのでごろごろし、夜は交通事故と火災が大好物なのだろうとしか言えない台湾のニュースを見ながら母と二人でごはんを食べて、先ほど自分の部屋に戻り、やっとまたあの文章のことを思い出した。クラウド上のファイルにアクセスしてみると、最後の編集履歴は2017年の7月だった。

 

私としてはとても大事なことを大事に大事に書いたつもりだったが、読んでみてもらったたったひとりの人が「うーん、あんまりよくわからない」と言うので、それからなんとなくそのままになっていたんだった。今読むと、うーん、確かに他人が読んでもよくわからないだろうな、という部分はあるが、私にとって非常に大事な話であることに全く変わりはなかった。そのことは覚えていた通りだったが、驚いたのは、3年前の私はあんなにはっきり思い出していたことなのに、今の私は全く思い出さなくなっていることがある、ということだった。歌うとき、遠く遠くへ行ってしまうものたちに歌いかけているような気持ちに時々なる。遠く遠くへ行ってしまうものたちについて、もう一度書いてみるのもいいかな。

新鮮豆漿店

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月17日 台北

今日は夕方から今年一番目の台風「黃蜂」が台湾に接近するという。どうやら黃蜂は当初の予想よりも台湾から大きく東側に外れて進んでいるようで、雨の降る気配もないが、それでも空は遥か上の方でかき回されているのだろう。今朝の空は一段と爽やかに晴れ上がって、雲に邪魔されることのない太陽は光が強く、とってもきれいな青がまぶしい。台北は三角形のような形をした盆地にあり、汚れた空気がたまりやすいのだという。ちょっとした small talk というか、エレベーターで誰かと乗り合わせる時など、挨拶ついでに「今天空氣不好」と言ってお互いにしかめっ面をし合ったりすることもしょっちゅうだ。だけど今日は本当に空がきれい。きっと空気もいつもより澄んできれいだろう。カノコバトもこの好天で機嫌がいいのか腹が減ったのか、今朝は私の窓辺を歩いて部屋の中の私をのぞいている。ここしばらくずっと寝込んでいたのでヒナの姿を見ていないが、このハトはちょうどヒナくらいの小ぶりの体つきで、しかしヒナにしては飛ぶのも歩くのも餌をつつくのも上手で、首も羽も模様がしっかりしている。もしかして私が寝ている間にヒナはこんなに成長したんだろうか。

 

そろそろ体も具合が悪いのをやめて起きてみようと思ったのか、空を見ていたら「豆漿を飲みたい」とはっきり思った。この大好きな朝ごはんが日本では気軽に手に入らないことが、私はいつもちょっと不満だった。(今は西川口の駅ビルで売っているそうですね。)ニューヨークにいた頃、英語のクラスに中国出身のビンビンという女の子がいて、毎朝、桶のように大きな丸いタッパーいっぱいになみなみと入った豆漿を学校へ持って来ていた。ビンビンは授業が終わっると同時に、さも忙しそうに教室を飛び出していくので、ゆっくり会話をしたことはなかったが、とにかくあの汲み立てらしい新鮮そうな豆漿が私は気になっていて、Hi や Bye の挨拶だけは欠かさずにしていた。ビンビンは英語が達者ではなかった。半分くらいはそのせいだと思うが、授業中の発言内容にもあまりキレがなく、大抵が凡庸あるいは突拍子もなかったが、自己紹介が非常に積極的だった。一番最初の授業の時に、「私の名前は Bing-Bing です。中国から来ました。私はアメリカでビジネスをしたいと思っていますが、この Bing-Bing という名前では真剣にビジネスをしているという信用が顧客から得られないと思います。だから先生、私にアメリカ人の名前をつけてください」と、その日初対面である先生に突如詰め寄ったので、クラス全員がビンビンという名前を一発で覚えた。

 

ある朝、ビンビンはめずらしく遅れて授業にやって来た。すでに席についているみんなの間を歩いて、唯一空いていた一番前の真ん中の席にすわり、いつものように荷物でパンパンの鞄を下ろし、鞄の中からノートと筆記用具を出し、そして防水フィルムの張ってあるテカテカした紙袋の中から、いつものように丸いタッパーを重たそうにして取り出しているようだった。このクラスの先生は、学生が授業中に朝ごはんを食べることをむしろ推奨していたが、たとえそうでなかったとしてもビンビンはきっと同じように豆漿を持参して授業に出ただろう。Soy milk がヘルシーだというのはすでにニューヨークあたりの人たちの常識になっていた。授業中の教室のどこかから豆漿の湯気が上がっているというのは、毎朝豆漿を飲む国に生まれた私の目にも奇妙な光景だったが、多様性や人目を憚らず奇妙であり続けることを絶対善として共同体に迎え入れたい人の多いあの街では、ビンビンの朝ごはんに物申す人は、少なくとも目立つ形ではいなかった。だいたい彼女はこの朝ごはんのために、毎朝、熱い液体の入った大きな丸いタッパーという大層運びにくいものを、信仰のように、抱えて歩き、通勤ラッシュのバスに乗り、バスの揺れに耐え、守り抜いてこの教室まで来ているのだ。そのような屈さない意志というのも、あの街では評価されるべきもののひとつだ。その時だった。まるで体の大きな人が銭湯で、周囲に遠慮がちに少しずつ湯船に浸かっていくかのように、びしゃーっと何かあふれ出ていく音がして、黒板に大事なことを書いていた先生が振り向いた。ビンビンがタッパーいっぱいの豆漿をぶちまけたのだ。ビンビンは席に座ったままだった。ナプキンなど拭くものを持っていた人数名がさっと駆けよって、これくらい何でもないよと励ますかのように床を拭いた。それだけではナプキンが足りないのは明らかだったので、ドアの近くに座っていた誰かが何か拭くものを探しに教室の外へ出た。もしくはこの惨事をいいことに一瞬席を外したかったのかもしれない。私は奥の方の席でぼうぜんとしていた。私よりもっと奥の席に座っていた誰か親切な人が飛び出していって片付けに参加したが、私はただ傍観していた。ビンビンも傍観していた。ビンビンの服にこぼれた豆漿をトイレから取ってきたペーパータオルで誰かが拭いた。

 

その学期の終わる頃、私はビンビンから新品の豆漿マシーンを130ドルで買った。ビンビンはどこかの店のチラシを私に見せて、ほら、他の店だと150ドル、この値段で売ってあげるからあなたは20ドル得したよ、と説明した。豆漿マシーンは実家にある象印の卓上マホービンくらいの大きさで、大豆を付属品のカップ1杯分入れて、線のところまで水を入れたらスイッチを押し、マシーンがごうごうとすごい音を立てて30分ほどで豆漿ができる。今まで自分が買ったことのある機械の中でも一、二を争う素晴らしい品物だと思った。使用後に洗うのが多少面倒ではあったが、毎朝できたての豆漿が飲めるよろこびを思えば、カッター部分についた大豆の殻をきれいに取り除くくらい何ということはなかった。昔誰かにもらったミキサーは、洗うのが面倒くさくて、ポタージュか何かを作るのに1、2度使ったきりキッチンの奥でほこりをかぶっていたが、この豆漿マシーンはほぼ毎朝使った。ビンビンに言われた通り、寝る前に大豆を水につけてふやかし、朝起きて顔を洗う前にスイッチを入れた。一度に1200mlほどの豆漿ができたが、それ以上少なく作ることはできないので、ベトナム料理屋でフォーをテイクアウトした時に手に入れた縦長の汁物用タッパーに入るだけ入れて、入りきらない分を出来たてのうちに飲むことにしていた。当時4人いたルームメイト達(フランス人、デンマーク人、アメリカ人、イタリア人)が珍しがって、一度試しに飲ませると皆おいしいと言ってくれたが、「冷蔵庫のタッパーに入ってるの、好きに取って飲んでいいよ」と言って出かけて帰ってきても、タッパーの中身が減っていることはほとんどなかった。

 

 

 

母がベランダの掃除をしている間に、潮州街の先にある豆漿店へと歩いた。日曜の朝の台北は静かだ。朝から気温は31度と高いが、全く日陰のない道を歩いていても、道の照り返しさえ気分がよいほどさわやかに晴れていた。豆漿店というのはだいたい朝ごはんか夜食、もしくは休日のブランチに訪れる場所であり、早朝から昼まで開いている店、夜から早朝まで開いている店、24時間営業の店などに分かれており、この新鮮豆漿店は朝5時半から昼までやっている。ちょっと前までは中正紀念堂の周りに、掘っ建て小屋のような豆漿店など朝ごはんを売る店がいくつも連なっていて、観光客も多いこのエリアは早朝から朝ごはんを求める人とバイクの群れで交通がぐちゃぐちゃになっていたが、きっとそのせいで何か施策が講じられたのだろう、あの掘っ建て小屋の店のほとんどが今はもうない。今でも道端にテーブルと椅子を出して営業している店が数件残っているが、その横には、調理道具やお皿を残して空っぽになった小屋に政府のお知らせの紙と立入禁止のロープが貼られていたり、あるいは人のいない公園のような緑地ができていたりして、すっきりしたが少しさびしい。国の発展とはこういうものなんだろう。掘っ建て小屋の周りが混沌と渋滞している台湾は、新型コロナウイルスの封じ込めに成功して国際社会に誇れる台湾ではなかったかもしれない。この新鮮豆漿店も、中正紀念堂横の掘っ建て小屋のひとつとして、1955年からつい数年前まで営業していた。今では住宅街の中に移転して台北屈指の「老店」として静かに朝ごはんを売っているここの豆漿は、いつも少し焦げた味がして、カップの下の方に溶け残った砂糖がたまっていたりして私の好みではない。でも時々買いに行くのにちょうどいい懐かしい味がする。

夢とうつつ

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月16日 台北

数日間ブログおやすみしていました。ただいま。ちょっと両目が緊急事態になっておりまして、今日やっと開いてきました。やっとコンタクトが入れられるようになって、開眼間近。

 

蕁麻疹が出たな、湿疹も出たな、というところまで来て、ライブも稽古も予定もないし、ここしばらくは中医に通いながら飲みぐすりと鍼でのんびり過去の悪事を清算し、今後の人生に備えるべく治療を続けていこうと思っていたけど、両目の周りがどうもおかしい。時々痛むようになったなと思っていたら、数日前、みるみる腫れ上がり、そうこうしているうちに気付けばのどの内側が猛烈にかゆい。アレルギーっぽいし、手元にあったアレグラを飲んで一晩様子を見てみようと思ったものの、どんどん痛みが激しくなって寝付けず、呼吸を整えながら3時間ほどなんとか横になってみるも、眠れない。どうなったかちょっと見てみようと思って鏡をのぞくと、赤くなって頬骨のあたりまで丸く腫れ上がった中に、左右対称の傷口のように目が、2mmほどかろうじて開いてそこにあった。パンパンに熱をもって腫れていて、指2本でこじ開けないと目がこれ以上開かない。鏡の中の変形した自分の顔を見て、これは救急でも大げさではなかろうと、早朝、大通りまで歩いてタクシーを捕まえ、台湾大学病院の救急へ向かった。ここの救急はいつも野戦病院のように混み合っているが、早朝から来る人はあんまりいないようで、何時から働いているのか、職員の人たちはテンション高くおしゃべりしたりして比較的くつろいでいるようだった。救急車の邪魔にならぬようこそこそと脇を歩いて、入口のところで受付をして中に入ると、看護師さんが私を見るなり、「うわっ、その目・・・を診てもらいに来たんですよね」と、ゲラゲラと笑い出した。まさにその通りなので、「對啊」とまったり返すと、まるで聞き分けのない犬についてぼやく飼い主のような気分になって、ふわっと気持ちがほぐれた。見るからにヤバいという状態は、家にいてもカフェにいても肩身が狭いが、病院の中ならかえって気楽で、コミュニケーションものびのびできるものだ。

 

台湾大学病院は、実家から一番近い救急病院なので、ここには結構よく来る。おじいちゃんがずっとここにかかって入退院をくり返しているし、父もここに入院して死んで、おばあちゃんもここに入院して亡くなった。母の一番上の兄であるおじさんも昨日からここにかかることになったそうだ。おじは母の実家がある宜蘭の山にずっと住んでいて、これまでに何度も畑で倒れては自分で起き上がってきていたが、2ヶ月ほど前、何があったか、山から降りる道路を運転中、カーブで曲がらずにまっすぐ突っ走り、ちょうどガードレールのないカーブだったのでそのまま崖を飛び降りる形となった。運の良いことに、おじとおじの奥さんを乗せた車は崖下の木々に引っかかって、車の前半分だけ飛び出した格好で動けなくなり、おかげでなんとか助かったそうだ。普通なら畑で倒れた時点で病院に行くと思うが、ここまで大事になってようやく病院へ行くというのが私の家族だ。おじは聖母醫院という宜蘭の病院にしばらく入院した。このカトリックの宣教師が建てた病院は、原住民などの貧困層に低額もしくは無償で医療を提供してきた歴史があり、宜蘭あたりの原住民は部落の診療所では手に負えない病気や怪我の際には大抵ここにかかるが、「聖母醫院に行くと生きて帰ってこない」とも言われていて、それでもみんなここへ行く。事故後聖母醫院に入院したおじは、みんなが噂する通り、容態が悪化する一方だったので、台北に住むいとこ(おじの娘)もいよいよあわて始め、母の強い勧めを聞き入れて台湾大学病院のおじいちゃんの担当医に診てもらうことにし、いとこ(おじの息子)が山からおじを車に乗せて台北まで来たのだ。こんなことになってしまって、とビデオ通話で、おじの奥さんが泣きながらおじにごはんを食べさせようとしている様子が母のスマホ画面に見える。おじはすっかり痩せこけて随分年取ってしまったように見える。

「頑張ってよ、アバ」

と涙ぐんだ母が思わず、おじに間違えて声をかけている。「アバ」とはタイヤル語でお父さんだ。あわてて言い直しているが、弱ってしまったおじの雰囲気は確かにおじいちゃんに似ていなくもない。母の後ろでおばがこらえきれず笑っている。おばは鬱の薬が効いているのか、それともお兄ちゃんの一大事にあたって火事場の馬鹿力のようなものが湧き上がっているのか、ビデオ通話を切った後も、度々いとこに電話をかけては、病院で先生に訴えるべきことを思いついたそばからテキパキと伝えている。

 

台湾大学病院の舊大樓と呼ばれる旧館は、日本統治時代の1921年に完成した建物で、1998年に台北市指定の古蹟となったこともあり、今も当時の姿を残して使われている。当時の総督府(今の総統府)を出るとまず目に入る目立つ場所にこの病院が位置しているということで、日本政府もかなり見栄を張ったのだろう。正面の椰子の木が印象的な南国風コロニアル建築で、噴水を囲むアーチ型の車寄せを横目に玄関へ続く石段をのぼり、ローマ様式の柱の間をくぐると、ホールはいつ来ても病人と付き添い人で溢れかえっており、弧を描く高い天井の頂点に色合いの違うガラスをはめた天窓からふり注ぐ自然光が明るい。玄関の左右にはコーヒー屋と弁当屋が、いつもなんらかの割引の看板を出していて、中央をまっすぐ明るい方へ歩いて行くと中庭が見えて、鯉の泳ぐ池が、木枠の窓のさらに向こうには行き交う人々が見える。見舞い客としては何度も来ているこの場所だが、病人として来るのは今回がはじめてだった。

 

この病院に来るのはちょっとした楽しみでもある。というのは、病院の地下がフードコートになっているのだ。こればかりは新大樓(新館)の方が豪華だが、舊大樓でも私には十分だ。香港風の皮蛋と細切り肉の入ったお粥や、ご飯にローストダックの乗ったお弁当、ベジタリアンのお弁当、パーコー麺、ルーロー飯・・・、「ここで入院するのが夢です!」と言いたくなるほど、台湾のおいしい食べものがいくらでもある。私が一番気に入っているのは、フードコートの脇を歩いていった方にあるコーヒー屋さんだ。ここは半地下で、煉瓦造りのアーチ型の窓の横に座席があって、座ると外の緑が見える。見るも無残な姿で病院に来るようなはめになっても、ここに座ってのんびりしていると、少し優雅な気分でいられるのがありがたい。アーチ型というのは、なんでだか、優雅なような気分にさせられる。レジで特大(Lサイズ)のラテとベーグルを注文すると、「荘園にしますか?こっちの方がいい豆になりますが」と聞かれた。荘園という言葉は、中高生の頃日本史の授業で墾田永年私財法について習って以来ほぼ全く目にしていないと思ったが、最近の台湾ではどうやら品質のいいコーヒー豆を栽培するプライベート農園のことを「荘園」と呼んでいるようで、このルイーザという台湾のコーヒーチェーン店ではコーヒーを注文すると、荘園にするかどうか必ず尋ねられる。何かいにしえの言葉を唱えるような気持ちで、「ならば荘園で」と私は自分のラテをランクアップした。

 

薬のせいか、体が単純に疲れているのか、目が開かないので閉じてしまうからか、今朝まで食べて薬を飲んで寝る、というのを1日に3回ずつくり返して過ごした。26で入院した時と同じような感じだ。夢とうつつが入り混じる。

さまよう

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月11日 台北

昨日は朝から調子が悪く、夕方には大雨。久しぶりにどしゃ降りの中を歩いた。数年間体調がよかったからすっかり忘れていたけど、体が悪いって本当にひとりぼっちね。みんなにもっとやさしくできればよかった。

 

Qの稽古でいつも一緒にセカンドソプラノ歌った牛仲間のはるみさんから連絡。週に何度も会っていろんな話をしてたから、思わずグズグズと泣きごとを言って、少し気が楽になった。はるみさんラブありがとう♡ はるみさんに言われて気が付いたけど、私だって地球や人間社会の一員なのだから連動して身体が反応したっておかしくないもんね。そういえば私たちは今日、コロスのみんなと俳優さんたち、佐都子さん、スタッフの方々、他に誰が一緒に行く予定だったか、今頃みんなで東京からドイツへ出発して、世界演劇祭とそれに続くドイツ公演に向けて稽古を重ねる予定だった。予定は吹けば飛び、風が吹けば桶屋が儲かり、このコロナ禍では誰が儲かっているのか。

 

一番具合が悪かった20代と比べたら30分の1くらいましな状態とは言え、40代だからか、これっぽっちで体がぐったり疲れてしまう。寝ていても身体がこわばっているようであんまり休めている気がせず、背中の上の方に疲れが溜まってきている感じがする。次回の坂口恭平の躁鬱大学で、心臓と肺の休ませ方を伝授してくれるそうなので、私もそれを参考にしてもうちょっと上手に休みたい。

 

若い頃は、夜中に体がつらすぎて眠れない時にとる行動が、どうせ眠れないんだったらと起き上がって、無理やりお化粧して着替えてタクシーに乗って踊りに行く、だったのだから、上手に休みたいなんて言ってる今となっては同じ人間のとる行動とは思えないというか、うらやましいくらいの離れ業だ。どうせ眠れないんだし(だったらクラブへ踊りに行こう)とか、同じ寝込むなら(アフリカで寝込んでみたい)とか、若くて不快な私の身体はそれでもいろんなところへ私を運んで、不健康で不キゲンでさみしくて時々ふしあわせそうだった私と、知り合って友になってくれたやさしい人たちとも出会えた。無茶をしたツケは確かに払ったし、もしかしたらまだ払っている途中なのかもしれないけど、こうではなかった私の人生なんてないのだから。

 

踊りに行かない代わりに、最近は部屋を暗くして横になって、万葉集と更級日記の朗読を交互に聞いている。部屋が暗いのは同じだけど、10数年経って、ミラーボールのきらめきは空気清浄機のさまざまな表示の赤青のランプに、朝まで踊らせるDJは上野誠先生の解説と加賀美幸子さんの朗読にとって代わられたということか。更級日記は高校の時から好きだったので、そうそうこれこれ、と思い出しながら聴いているが、万葉集の方は一度も興味を持ったことがなかったので新鮮でとっても面白い。台北の家のベッドに横になり、上野先生が「ノートに三角形を描いてください」とラジオ越しに指示するのに従って、頭の中で、北に耳成山、東に畝傍山、西に香具山を思い浮かべようとして、私はどの山にも一度も行ったことがなければ見たこともないな、と考えていると、そういえば奈良の時代の人たちも、見たことも行ったこともない唐を思い浮かべて、唐のような街並みの中で生活したんだし、そういえば私の小さい頃の台湾だって、大陸へ行くことは禁じられていたのに、学校では中国史を学び、街の通りは今でも、青島や瀋陽など、大陸の地名が付けられたままだなあ、と大の字になって心であちこち彷徨っていると、向こうの部屋でおじいちゃんがおしっこをしたらしく、母がタイヤル語で「オムツ取り替えるよ!」と耳の遠くなったおじいちゃんに叫んでいるのが聞こえる。

 

台湾は今日で28日連続国内での新規感染者ゼロということで、街中もマスクをする人しない人が半々、師大路のスタバの大きなテーブルは飛沫防止のアクリル板で区切られてはいるが、防疫対策というより自習室のような雰囲気になって長居するお客の間になじんでいる。母の日当日だった昨日は、私の具合が悪かったのもあって、いつもどおり母と自宅でごはんを食べて過ごしたが、外はレストランも軒並み満席、ホールケーキも軒並み売り切れだったようだ。

 

昨日の夜は、友人が話題にしていた Erykah Badu と Jill Scott のライブ配信のアーカイブを、寝る時間までの暇つぶしのつもりで横になって聴いた。ああ懐かしいなあと思って聴いていたら、何日ぶりだろう、いつのまにか無意識で声をあげて笑っていて、わあこんなに喜んでるんだ私、と気が付いてびっくりした。それぞれの自宅にいる二人が、思い出話を挟んだりしながら1曲ずつ自分の曲をかけていくんだけど、ああもう、なんて懐かしいんだろう。懐かしいことが増えていくというのは、生きている愉しみなんだな。そうなのよ、私もこんな歌をうたいたいのよ、こういうのがやっぱり最高なのよ、などと酔っ払いのように思ったりして、一緒に口ずさんだり、ハモってみたり、その間は具合が悪いのも忘れた。20代の頃、どうせ寝込むなら、と思いきって行ったケープタウンの友人宅で留守番をする間、持っていった「Mama's Gun」を大きなスピーカーからかけて、窓もドアも開けて、薄暗くなった庭の芝生の上で友人の猫ジジを、ほんとうに嫌がって見えないところへ逃げるまで追いかけ回してひとりでわはははと笑った。エリカが Didn't Cha Know をかけて、あのイントロのふわふわと上昇するエレキギターの一音で、クレインモンドの夕暮れの色合いと、庭の芝生の肌ざわりと、白い壁、ジジのやわらかい毛が、ずっと忘れていた風景が浮かんだ。あの時も具合が悪かったけど、身体的な不快感はあの風景ほどはっきりとは思い出せない。音楽とこういう付き合いができるのはとても久しぶりでうれしい。これだけでも、しばらくライブもなくなって演奏もしなくなった意味があったかもしれない。

母親節の週末

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月9日 台北

今日も台北は34度。暑いのは暑いけど、日差しが明るくて少し風もありとっても気持ちがいい。

 

今日も中医診所へ。市場は今日も相変わらずの人出だ。土曜日なので入り口付近にはストリートミュージシャンたちが投げ銭箱と一緒に陣取っていて、金山南路を挟んでこっち側では白人パーカッション二人組がなにやらリズムを、あっち側ではカラオケ伴奏にのせてバイオリニストがアメージング・グレースを演奏している。台湾人って妙にアメージング・グレースが好きだよなあと常々思っていたが(そういえば日本人も)、食べものの周りに真剣に群がる男女がごった返す市場のBGMとして、この喧騒にも不思議と違和感なくあの五音階の調べが溶け込んでいるのを聴いていると、まるで生まれ故郷を離れ、台湾の風土に根を下ろして別人として生まれ変わり、現地の人々に囲まれて風変わりだが充実した人生を謳歌しているかつての友人の姿を偶然見るような戸惑いと、いや、これはこれでいいじゃないかと受け入れてしみじみとする感慨がある。市場は朝早い時間が一番混み合うが、お昼に近付く頃になっても、信号が青になるたび、横断歩道を大勢の人が買いものカートを引いて渡ってきては、小さな入り口から入りきれずあふれかえり、そのあふれた人たちに買ってもらおうと野菜売りがアスパラの束を片手ににじり寄ったり、あまり積極性のないグァバ売りは地面に並べたグァバの隣で遠く向こうを見たりしている。一昨日は鈴の音とともに祈祷をあげていた市場内の小さな廟も、今日は買いもの袋を抱える人たちの一時休憩スペースになっている。このにぎわいを見ていると、思わず日常が戻ってきたと言いたくなるけど、疫病が流行ろうが終わろうが、人は食べなくては生きていかれないのだから食べるのだ。「台灣人不想死」と皆が言うのが聞こえてくるようだった。「台湾人はとにかく死にたくないんだ。」市場の中はまるで食べものを求めれば求めるほど死なないのだと皆が信じているかのようだ。

 

昨日は朝早くおばの彼氏が車でおばを迎えにきて、今日は朝早くいとこの母親・阿玉が山から車でいとこを迎えにきて、家は母と私とおじいちゃんの3人だけになった。今週末は母親節、母の日の週末で、台湾では一大イベント、つまりみんなでレストランへ出かけてごちそうを食べる週末で、この土日はなんとなく街が華やぐ。母の日には外でごちそうというのは世界中の華人共通の習慣なのか、5月第2週の日曜日、NYのダウンタウンのチャイナタウンもフラッシングも、少しおしゃれして胸に赤い花をさした中高年の女性たちがあっちにもこっちにも、その笑顔は晴れやかだったりこわばったり様々だったが、彼女たちはその日間違いなく街の主役だった。母の日とは自分の母親に感謝する日というよりも、「祝天下的母親」とよく言うように、この天下すべての母親、産む性を祝福する日なんだろう。レストランは丸テーブルを囲む三世代くらいの家族連れでいっぱいになっているのが外からも見えて、私は道からそれを見ているだけでうれしくなった。いつか私もここに家族ができたら、母の胸にカーネーションをさして、家族みんなでテーブルいっぱいの料理を囲んで・・・と妄想していると、まるでそれだけで親孝行したかのような気分にちゃっかりなった。

  

阿玉は「ヤキヤワイの畑にいっぱい生えてきたから」と、ビニール袋に詰めたゆでたタケノコを3袋持ってきた。ヤキはタイヤル語でおばあちゃん、ヤワイは私のおばあちゃんの名前だ。本来は亡くなったら「ヤキ」ではなく「カキ」と呼ぶのが正しいそうだが、そういう古く正当なタイヤル語は今はほとんど誰も使っていない。おじいちゃんがいなくなってしまったらこの言葉を生活の中で自然に使う人はいなくなるだろう。阿玉は母が私と日本に移住した間ずっとこの家に住んでいたが、私たちが戻って少ししてから台北での仕事をやめ、山で自宅を改造して民宿を経営するようになってもう10年以上になる。「山に住んでから媽媽はおしゃれも化粧もしなくなった」といとこがよく嘆いているが、母の日だからだろう、今日はあてたばかりのくっきりしたパーマで、明るい茶色に染めたばかりの髪がジェルで濡れてツヤツヤしていた。ある程度の年齢になると山の女性たちは昔から、母の日、クリスマス、春節、運動会など、みんなが集まるイベントごとが近付いてくると、ぞろぞろと山から降りてパーマをあてにいく。美容師の側としては、すでにパーマのかかった髪にまたパーマをかけてくれと言われるのだから、より強いのをあてていくしかないのだろう。おばさんたちの頭のキツかったパーマはさらにさらにとキツくなって、私の目には髪が毎度チリチリと痛んでいくように見えるが、みんなにとってパーマは美的なものというよりむしろ儀礼的なものなんだろう。ヤキヤワイも生きていた頃いつもパーマをあてに行っていて、家に帰ってくると櫛を水につけ、鏡の中の自分を見て「マントヒヒみたいな婆じゃ」と可笑しそうに、懸命に髪を引っ張って伸ばしていた。

 

母から「タケノコと一緒に炒めたいから」と、中医の帰りに市場で五花肉を買ってくるよう言われた。採れたてのキュウリひと山50元、五花肉(豚バラ)ひとブロック130元、有機豆乳ひと瓶120元、飲みぐすり4日分、中医の先生お手製の敏感肌用クリームが今日の私の収穫。中医の先生は、透明ビニールのカーテンの切込みから両手首をさし出す私の脈をとり、ビニールごしにベロを診て、ようやく「ずいぶん進歩したね、あとちょっと加油よ」と満足そうに言った。見た目の方はあんまり変わってない感じだが、気分の方はたしかによくなっている気がする。先生は私と年がひとつしか変わらず、横になりながら鍼を打たれるのを待っていると、いつも白衣の下はランニング用スパッツだったりする先生の足元が、今日は細かいプリーツのロングスカートで、裾に向かってエメラルドグリーンのグラデーションが揺れていた。

 

昼ごはんを食べて薬を飲むと、またふらふらと眠くなり、夕方ごろむくっと起き上がって近所のカフェへ行った。カウンターの端の席からカップルが立ち上がってお会計するのを見計らってそちらへ移動したところ、店の猫たちも同じことを考えていたのか、後ろのテーブル席に座る人が私の肩を叩いて、「あなた、見られていますよ」と指差す先を見ると、エスプレッソマシンの横から白に薄いトラ柄の大きな猫がじっとこちらを見ていた。しばらくするともう1匹、よく似た同じ柄の大きいのがやって来て、最終的に2匹は私の右と斜め前の至近距離から動かなくなり、二方向からこちらをじーっと凝視した。放っていると、1匹は横で丸くなり、もう1匹は前でおすわりの格好のまま、目を閉じて眠りはじめて、ひとつ席を空けて隣に座ったパソコンで作業する髪のうすいおじさんが手を伸ばし、画面から目をそらすことなく、慣れた手つきで丸くなった猫の背中をなでた。

 

家に帰る前に雑貨店に寄って卵を買った。母はいつもここで赤い卵を100元ぶん買っている。赤白縦縞のビニール袋を1枚取って、袋に卵をひとつひとつ、だいたい100元ぶんくらいかなという量を入れる。時々卵に茶色っぽい鶏の毛がついているのがいかにも新鮮で好きだ。今日の卵はこの間よりひと回り大きい感じがする。雑貨店の女主人はいつも厳密にマスクをしているが、今日は外している。だらんとしたあざやかなな赤一色のTシャツを着て、入り口で店番をしながら売上を数えていて、袋に取った卵を秤に乗せて量ってもらい、115元を支払って「拜拜(バイバイ)」と挨拶すると、「拜拜」と、はじめて見るうっすらピンク色の口紅をひいた唇をひらいて、薄化粧の顔でにっこり笑った。

たのしみ

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月8日 台北

ずっと家にこもっていたが、最近散歩以外にも外に出るようになった。行き先は近所のカフェか中医診所か。帰りに市場やスーパー、本屋に寄ったりもする。近所の金石堂書店はこの間まで入り口に検温と手指の消毒をする係の人が立っていてものものしかったが、昨日中医の帰りに立ち寄ると、もうそれもなくなっていて、立ち読みの人、座り込んで読む人が戻っている。隣の鼎泰豐には20分待ちと表示されていた。観光客がいなくてもこんなに混むものだったのかと感心する。外国人のほとんど入れなくなった台湾だが、こんなことになる前、ここはいつも観光客を中心に1時間くらい行列ができていて、大学病院みたいな電光掲示板に自分の番号が表示されるのをガイドブックをじっくり見ながら待つ人たちや、外国だから解放されているのだろう、日本国内では見かけないほど大声ではしゃぐ日本人たちなどが入り口付近に群らがっていた。台北に観光で来る日本人のほとんどがここに小籠包を食べにくるので、ちょっとした知り合いから親しい人まで、台北に来たことのある人のほとんどが私の実家から徒歩5分くらいのところでうろうろしていたのかと思うといつも不思議な気分になった。鼎泰豐は最近、道の向かいに席数のより多い新店舗をオープンしたところで、当然ながらどちらの店も、中を覗くのも心苦しいほど客がいなかった。観光客も地元民もいなかった永康街だが、このところ着々と人が戻ってきている。

 

日本ではみんなどうしているんだろう。カフェとか行ってるのかな。やってるのかな。小籠包屋なんて不要不急だろう。藤沢に引っ越してからは自分の家がいつも心地よくて、パソコンを持って外に出たりなど一度もしなかった。実家はつくづくありがたいけど、自分の家があるってやっぱりいいもんだ。母が台湾から遊びに来てくれるのがいつもすごくうれしくて、なけなしの有り金をはたいてもてなしたが、途中からそれが母をかえって不安にしていたようだった。

 

ファルコンから、ブックカバーチャレンジというののバトンを回してもいいかと連絡があった。回していいか連絡くれるなんてみんな律儀だな。だいぶ前に水ゐ涼ちんからもうたつなぎというのを回してもらっていたが、目の前に出されたバトンを取れずにおろおろしたまま1ヶ月ほど経ってしまっている。走る方のリレーも私はそんな感じだった。応援するのはすごくワクワクして運動会でいちばん大好きだったけど、自分が走るとなると、バトンは落とすわ、みんなが勢いよく走ってくるから拾いにくいわ、偶然うまく拾って走り出しても、歓声が聞こえると思うと、エースのような人なんだろう、私の横をスーッと見事に駆け抜けていくのだった。

 

私の父は時々本を書いたりする人で、家には敷地内に独立した書庫があって(たぶんそれが父の長年の夢だった)脳梗塞を起こしておそらく文章が読めなくなっていたはずの頃も、休みの日はよくひとりで書庫にこもって本をあれこれ並べ替えたりしていた。それに対して私の母は、自宅の中に何万冊とある本を一度も手にとってみようとも思わない人だった。家具の一部、主婦として整然と片付けてみたいが手をつけにくいもの、っていう感じだったんだろう。母方の親戚で本を読む人っておそらくほとんど誰もいないんじゃないだろうか。どの親戚の家へ行っても本棚というものを見ない。さすがは文字のなかった原住民、と思ったりするけど、原住民全てがうちのようではないので、単純にうちの人たちが本を読まないというだけのことなんだろう。私はというと、中学生の途中くらいまで、特に小学生の初めの頃は本当にたくさん本を読んでいた。日本に引っ越してはじめて通った日本の小学校の図書室の、シャーロックホームズの棚、江戸川乱歩の棚、広島・長崎の棚をよく覚えている。大人になってからもなんとなく本は読んでいるが、あの頃ほどにはっきりと物語を欲する気持ちがあったことはなかったな、と、昨日寝入りばなに聞いた更級日記の冒頭の朗読で思い出した。

 

 

あづまじの道のはてよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりはあやしかりけむを、いかに思ひ始めける事にか、世の中に物語といふ物のあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなる昼間、宵居などに、姉、継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、所々語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでか覚え語らむ。

 

 

* * * *  

 

中医の先生に、夜は11時までに寝るようにとバナナを食べないようにと言いつけられたのをしっかり守って寝た。日本ではライブのない日は11時台に寝て5時6時に起きていたのが、こっちでは仕事もなく暇なせいか、夜更かしの朝ねぼうに戻っていた。中医の先生はあんまり状態が良くなっているとはいえない私を見て、「あなたあんまりにも『虚』すぎる」と言って、粉ぐすりを調整し、鍼は前回眉間の上、第三の目でもありそうな位置に一本だけ打ってそこから血を出したのが、今回は頭頂から足にかけてあちこち打って、右のすねには鍼の上にお灸のようなものを乗せて火をつけていたようだ。具合が悪いのはあんまりうれしくないが、中医に行ってあれこれ話してあれこれ摩訶不思議なものを飲まされたり、寝かされて針を刺されたりするのが私はとっても好きで、心身ボロボロでも楽しみがあるというのはいいものだ。メディスンマンとか鍋に薬草や動物の頭なんかを入れて煮出している魔女たちに会いに行ける資格が病人にはあるのだ。今度の飲みぐすりはシナモンのような味がして少しピリッとする。いったい何が入っているのか、ごはんを食べてこの薬を飲むと、たちまちふらふらとして起きていられない。昨日は昼ごはん後すぐに寝てしまって夜ごはんまで起きられず、今日もまた昼ごはんの後ふらふらと寝ていたが、外が明るいうちになんとか目が覚めて、あわてて支度して10分ほど歩いたところにあるスタバへ行った。15年前も私はここによく来ていて、当時とあまり変わらないので懐かしい。冷房が異様に効いているところまでそのままだ。

 

病院の帰りにはいつものように市場に寄って、母とおばといとこのお土産に、太ったバナナひとふさの半分を最近気に入っている果物屋で、刻んだタロイモを乗せた横巻きで平べったい饅頭6つを道端で買い、通りがかった八百屋で茄子2本とグァバ3つを買ったらおじさんが細ねぎを数本おまけしてくれた。台湾の茄子は日本の茄子より細いかわりに長さが40cmくらいあって、こっちに帰ってきて久しぶりに茄子を見るといつもたまげるのだが、今はちょうど時期だというのもあってか、昨日市場に並んでいたのは長さ50cmほどあり、しかも細いのの山の中に日本の茄子と同じくらい太いのが隠れているのを2本見つけた。迷わず両方つかんで買って帰った。おばと母が「こんなの私じゃないよ、エリが買ってきたんだよ」と台所で太いバナナと長太い茄子を洗いながら笑い転げている。

島ふたつ

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月6日 台北

調子に乗っては体調を崩すくりかえし。私はこりないなあ。今日はちょっといいかしら。これはさっそくまた調子に乗っているのかな。

 

昨日の台北はとっても暑かった。ここ3日ほど33、4度の日が続いていて、続けば続くほど暑くなってくる。ニュースでは南投で38.3度だと言うので、ますます暑い気分だ。家の中にずっといるのが耐えられなくなって、前から公園に行く途中に見かけて気になっていたカフェに出かけた。入り口にはメーデーの連休後はマスク着用と手指の消毒が必須だと台北市から言われているからみなさんそうしてねとメモ書きがあり、紐にぶら下がった消毒スプレーがぶらぶらしている。広々したテラス席があり、中も広々していて気持ちがよさそうで、猫が1匹、席の間をゆっくり横切っていくのが外から見える。このカフェの床は私の好きな磨石子地板で、ちょっと古めの建物でよく使われている、とにかく台湾中どこにでもある典型的な床材なので、きっと安くて耐久性があるのだろう。白、灰色、まだら、黒、緑がかった黒など大小の石をコンクリートに混ぜたのを磨いて平らにしているので、ちょっとピカピカした灰色コンクリートの地にさまざまな石の断面が模様のようになっている。昨日、新しい服を着てその広々した磨石子地板のカフェに行って、カウンターの端っこでのびのびといろいろ読んだり書いたり考えたりして、時々どこかで猫がみゃあみゃあ鳴いているのが聞こえて、ほどよく涼しくてコーヒーも美味しく、とってもいい思いをして、お会計をして、帰りにスーパーできゅうりとミニトマトとオクラを買って家に戻った。部屋でカバンを降ろし、なんとなくそわそわするなと思うやいなや、体の奥から突然逆毛が立ってくるように、暗く切羽詰まったような熱と寒気の両方が、濁流の勢いでもうもうと右目下まで一気に押し寄せてきた。私が発作と呼んでいるタイプのじんましんだ。こういう時のじんましんは大判で、今回は私の右目の下に、ふくらみが二つ、大きな地震の後に急に海上に現れた小島のように、こつ然とできた。暑い日だったせいか、鏡にうつった自分の顔を眺めながら、この島に小さなヤシの木が一本ずつ立っているのが見えてきそうだなあなどと思った瞬間、今度は急激に後頭部から目の前が真っ暗になるかのように、再びあの熱と寒気が私に襲いかかって、なんとか正気を保とうと部屋の中をぐるぐる右往左往し、ついにどうしようもなくなってタオルをつかんで浴室へ行き、がたがた震えながらシャワーを浴びた。流水をなるべくやわらかくしてその下に立っていると、少しなだめられるようで心身が落ちついていく。憑きものがふるふるおさまっていくような気配が感じられたので、シャワーをとめて、あがって服を着て、キッチンではと麦の入った緑豆湯を一碗食べて薬をのみ、まだずいぶん早かったが横になった。病気は力だとよく言われるが、こんなにも直接的に私を突き動かすものがあるとしたら、それはたしかに力なんだろう。私の外と中が出会って反応して私の中に湧き上がる制御できない力。その力が私から波のように引いていくと、残された私はぐったりと動けなくなる。「エリがヤキみたいになっててびっくりした」と純粋な驚きと心配の混ざった顔で母が言った。ヤキとはタイヤル語でおばあさんだ。一度ためしにあの力がもうもうと私を支配するままに、そのまま私自身が、小さな島ふたつ生まれるほど大暴れしてみたらどうなるんだろう。

 

今30度なのがもはや涼しく感じられる。もうすぐ雨が降りそうな曇り空が朝から続いている。

 

機内持ち込みサイズのスーツケース半分ほどの冬服しか荷物に入れてこなかったので服がなく、持ってきてたキャミソールと引き出しに見つけたおばあちゃんの薄手のピンクのまあるいひまわり柄半ズボンばかり毎日着て、とてもラクちんだ。着道楽だったおばあちゃんが市場で3着100元の夏用の柄違いの半ズボンを買ってきて、母とおばに1枚ずつあげて、一番気に入ったこの柄のは自分の部屋着にしていたらしい。どこへ出かけるわけでもないので、私は最近家の中でも散歩するのも寝るのも市場もスーパーもこの格好で、ああなんてラクなんだ、と思ってしあわせに過ごしていたら、「あんたが毎日その格好でうろうろしてるのもう耐えられない、家の中でも外でもいつもそればっかり着て、哪有這樣的」と母にまくし立てられ服屋へ連れて行かれた。私は美しい服や仕立てのいい服をあれやこれや着るのも、いつも決まった適当な服で適当に過ごすのもそれぞれに好きだが、母親としてはまた別の想いがあるんだろう。母もさすがに私のことをわかっているもので、おじいちゃんの服を買いに行くから一緒に来てくれない?、とまず声をかけてきた。服を買えと言っても私が聞き入れないのは予想がついたらしい。そういえばおじいさん用の服ってどんなところで買うんだろうと興味を持ってついていくと、着いた先は台湾で言うところのZARAのようないわゆるファストファッションの大型チェーン店で、ちょっと意外に思った。この店はいつ見ても空いている。大量に重なって並んだ服の数々を見ていると、悪条件で休みなくカンボジアあたりの工場で働かされる女性たちが頭に浮かび、と同時に、その安さについつい心がおどって「ねえねえ、これ119元だって」と母にうきうき話しかけている。3階の男性服売り場でおじいちゃんのシャツを数枚見繕い、2階の女性服売り場へ降りたところで、母が「ちょっとのぞいていっていい?」と私に聞いた。あんたいつも同じ服で・・とまくし立てられたのは、私もなんとなくスカートなんかを物色し始めたその時だ。縫製工場で劣悪な待遇で働く人たちへの罪悪感と、40にして母親の世話になっている罪悪感と、目の前の母の私にたまには違う服を着て欲しい願望と、目の前で叩き売りされている服の山と、結局私は目の前のものにふらふらと、夏服を上下1着ずつとワンピース1着、そしてサンダルまで母に買ってもらって、せめて買い物袋は自分で持って歩いて帰った。罪悪感と言うが実は、久しぶりに洋服屋さんで母と二人、あれがいいとかこれがいいとか、それはババくさいとか、それはおじさんのパンツみたいだとか、こんな服えり昔着てたね、とか、これおばあちゃんが好きな柄だよね、そうだよこんな感じの水玉の何着も持ってたよ、とか、そんなどうでもいい話をしながら服をさわって歩き回るのが、たのしかった。

 

雨が降ったら帰ろうと思っているのに、なかなか降らない。今日の台湾の新規感染者は1人。イギリスからの帰国者だ。国内での感染は24日間発生していない。天気予報のようにチェックするようになってしまった。

五月に

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月3日 台北

五月になった。

いろいろメールをくださったり心配して連絡くださった方々にお返事もできないまま。ありがたいメッセージをいくつもいただいてとてもうれしかった。けどうまく言葉でそう返すことができなかった。もうちょっと待ってね。しばらく非常に落ち込んでいて、今やっと「落ち込んでいました」とここで言えるくらいにはなって、回復し始めているんだろう。元気になりたいと思うようになってきたので、のんびりあともう少し。

 

のんびりした気分でなるべく過ごすようにしてるけど、外は真夏さながら。昨日も今日も34度もあって、家の人がみんなそれぞれの場所で扇風機の風に吹かれてごろごろしている。今日も近くの文房具屋にいろいろ買いに行きたかったけど、家でじっとしていてもじんわり汗をかくので、日中は外出をあきらめ、みんなにならって長い長い昼寝をした。文房具屋、特に師大夜市にある2階建ての文房具屋さんは私の長年のパラダイスで、暑い時期は冷房も効いていてまさに極楽。でも今日はがまん。今週の中半、少し調子がよくなってる気がして、調子に乗ってちょっと出かけたらまたすぐに寝込んでしまったので、なるべく用心している。木曜日、朝、中医クリニックまで歩いた帰りに東門市場を通って、立派なバナナ、実の先に枯れて茶色い花の名残りまだくっ付いている獲れたてのをひとふさ107元で買って、家に戻ってお昼ごはんを食べた後、豆乳がどうしても飲みたくなって、瓶を持って近所の豆乳屋さんまで買いに行き、ついでにセブンイレブンで予約していた母・おば・おじいちゃん3人分のマスク2週間分9枚x3、全部で27枚を受け取りに行って、マスク受け取りに来た人限定セールでコーヒーLサイズ買5送5(5杯買ったら5杯プレゼント)だけどいいですか?とレジでお兄さんに言われると久しぶりにコーヒーも欲しくなり(最近眠れないのでやめていた)、でもLサイズ10杯はさすがに多いので買1送1にして、無料分1杯をレシートにメモしてもらって1杯だけ持って家に帰り、夕方、母とおばと3人でバスに乗って、いとこの家へ生まれて1ヶ月ちょっとの子猫5匹を見に行った、それだけで夕食後に身体が音をあげてしまった。少しでもどこか不調だとアレルギーを起こしやすくなる体質で、猫の毛に反応したのか(いとこの家は子猫5匹に加えて、その両親猫、大型犬1匹、小型犬1匹、と非常に動物が多い)下唇の左半分だけ異常に腫れ上がり、アレグラを飲んで、自分の使った食器も洗わないままベッドで横になった。ここ数年たいした養生もせず、容量の小さい私としては非常に忙しく、それでも体調を崩さずに毎日過ごせたことは20代以降の自分を思い出せば奇跡的だった。喉元過ぎれば、と言うけど、面倒な体質のこともほとんど忘れて健康体の気分で過ごしていて、そんな私に心身もかろうじて同意してくれていろんな無茶を許してくれていたのかもしれない。そういえば私には数年に一度、寝てばかりの日々というのがやってくる。学生の時にはじめて行った大学のカウンセリングルームでは「それは一度死んで、また生き返っているんです」と言われた。小学校の時の同じクラスの南くんと髪型までそっくりの南さんという若いカウンセラーだった。そう言われてみれば、家賃と食費を免除してもらって横たわっていられるのは死人と同じで、免除してもらえる代わりに、つい2ヶ月前まで大切にしていた生活、収入、少なかった貯金、仲間、友人、彼らとの時間、仕事、楽しみだった新しい仕事の予定、家、少ない持ち物、好きだった場所、風景、それらすべてから遠く離れてどこにも手が届かない。家賃と食費は私の日々の主たる悩みで、特に家賃の悩みからは解放されたいものだといつも思っていたけど、まさかその悩みと引き換えにそれ以外すべてと言ってしまいたくなるほどこんなに多くのものと引き離されているのがやはりショックなのか、私と仲のよかった人はびっくりするだろうけど、こちらに来てほぼ全くお酒を飲んでいない。2ヶ月くらい一口も。飲もうという気持ちにならず、スーパーのお酒コーナーを時々眺めて素通りしている。

 

ほんとうは今ここほど冷えたビールがおいしいタイミングもないだろう。五月といえば、時々肌寒かった花ざかりの春の奥から突き破ってこみ上げてきらめく新緑、すがすがしい陽射し、木陰のやさしさ、私が覚えているのはそういう季節だったが、ここ台北では五月はただひたすらに蒸し暑く、空、雲、大気、全てのしかかるように重く、昼の間は太陽に熱されてぶ厚いもやの中を口を結んでのっそり搔きわけて歩いて、頭の上を時々飛んでいく鳥が道につーっと影をつくる時は、一瞬暑いことを忘れる。日が沈んで夜になるとようやく息がつける。よく昼寝するせいか夜中もしばらく目が冴えて、タオルケットから出した脚に窓から涼しい風が吹いてくるのが一日で一番気持ちいい。

 

昨日も文房具屋に行った。文房具屋へ行くのがリハビリのようになっている。空っぽなファイル、まっさらなノート、何も記入されていない現金出納帳や領収書、芳名帳の間を目的もなくぶらぶらしていると、治癒されるような感覚がある。売り場の中で一番大きなノートを一冊買って、和平東路を渡り、仙草と黒糖の入った大きなミルクティを買って、まだ立ち入り禁止の師範大学キャンパスの端、鋼鉄でできた多辺形のテントのような師大美術館の外壁沿いにある、いつもあまり人が座らないベンチに腰かけた。夜にこのベンチの横を通りかかると、時々、脇にかばんを置いてひとり、飲みものを手にのんびりしている女性がいる。家に帰る前の自分一人の時間をたのしんでいるのか、ぼんやり足を組んだ特徴のない姿が印象に残っていた。ベンチに腰かけた私は太いストローからちゅうちゅうと仙草ゼリーもミルクティも同時に、あっという間に全部吸い上げてしまった。もっともっと吸い上げられる気分だったが、カップの底にはミルクティが1ミリほど残るばかりで、吸おうとしてもストローがごぼごぼ言うだけで、水分とゼリーで腹がふくれていた。歩いて家に戻る前に、母のお気に入りのパン屋さんに寄って、ドライフルーツ入りのカンパーニュ、かぼちゃのパン、衣をつけて揚げたカレーパンのような見かけをした客家酸菜というおかずパンを二つ、母とおばへのおみやげに買った。台湾ではしばらく新規感染者ゼロの日が続いた。「ここで気を抜いてはいけない」とCDCの記者会見では陳時中が毎朝毎晩穏やかな口調で国民に語りかけているし、日本で報じられているように「封じ込めに成功」なんてことは誰も言わないけど、マスク姿で用心する台北の人たちも、社交距離について神経質になることは自然とやめたようだ。気がつけば私も。労働節(メーデー)の連休中で、小さなパン屋さんもいつもより人が多く、トングとお盆を取る前に手を消毒する人は少ない。

 

近くの活動中心(公民館)の花壇にパイナップルが突如にょきっと現れた。スーパーに並んでいると目立つけど、あざやかな花たちの間でこうして生えているパイナップルは地味で、夜いつもここを通っているのに気がつかなかった。食べごろまで育って誰かに刈り取られるまで、毎日見に来たい。

生存以外に

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月23日 台北

キッチンでコーヒーを淹れようとしたら、ドリッパーの縁のところに小さなかたつむり。緑色だから間違えたのかな。ホンイーがこの間山から持って来たキャベツと一緒にここまで来たんだろう。母が「あなた外で暮らしなさいよ」とつまんで窓から投げようとしたのでその前に。

 

昨日は「感染症の哲学」というオンラインワークショップを途中から視聴した。Zoom上に6人の日本、韓国、中国、香港の哲学者たちが集まって、新型コロナウイルスに関連するいろんな話をするというので、家で暇だし、無料だし、ちょっと見てみようかとなんとなく申し込んだが、夢中でノートをとって最後の最後まで聞いて、一人一人登壇者が退出して、主催スタッフの方々が業務連絡をし始めるまで聞いてしまった。日本語で人々が会話している声と内容を聞いて、そこに心を投げ出し没頭することのできた時間が持てたのは久しぶりだった。

 

台湾ではありがたいことに感染拡大もなんとかコントロールされているようで、死者数も比較的少ないこともあってか、コロナウイルスはやや日常化してきている感覚がある。私自身も不安な気持ちで生活することはほとんどなくなったので、このワークショップを機会にそろそろ自分の通ってきた気持ちを振り返ってみようかなと思った。

 

私がしばらく最も深刻にとらわれていた考えは、私が今ここで死んだら、誰が日本で私の死亡届を出してくれるんだろうというものだった。感染については、そもそもできるだけ防ぐけどそれでもかかるのが病気だし、治療については運も含めてまかせるのみなので、この二つについては割り切れる。でも私が台湾で死んだら、死んだ私は日本で誰の手によってどうやって処理されるんだろうか。

 

台湾で死ぬことは何も心配していなかった。埋葬については一応自分の希望を母に伝えたし、ここには家族がたくさんいるので、母が取り乱したとしても、たくさんのおばやいとこ達が一番いいように心を込めて考えてくれて、母のことも支えてくれるだろう。そこで終われたらいいいのだが、私には日本国籍があるので、日本に死亡届を出さなくてはならない。私は日本に家族がいない。一般的に日本人が外国で死ぬ場合、大使館とか領事館とかそういうところに死亡届を出せばいいはずだが、日本は台湾と国交がないので戸籍業務を行う在外公館もなく、死んで3ヶ月以内に日本で届出をしなくてはいけない。このことは父が台湾で死んだ時に知った。あの時はひとまず私が一人で日本に戻って死亡届やら諸々の手続きをしたが、あんな感じで私の死亡手続きをするために母は日本に行くのかな、と考えてみると、それは母がかわいそうだし、その前に台湾と日本の間を当分自由に行き来はできないだろうし、母には呼吸器疾患があるので、今の日本に行けと言われても怖いだろう。かと言って、あの時私が父にしたような手続きを家族以外の人に「死んだらお願いします」とは頼みづらい。でも家族がいない人だって当然死ぬよな、と「死亡届 家族がいない」とネットで検索してみると、わかったことには、家族以外にも同居人、家主、地主、家屋管理人、土地管理人などが私の死亡届を出せる人たちなのだった。最悪の場合は大家さんが私の死亡届を出してくれるのかと思うと、今更ながら、みんないろんな死に方をするんだなと思った。そんな風に必死で自分の死亡手続きのことを考えながら、ふと、別にこれまでそんなにきちんと生きてもこなかったのに、死ぬ時ばかりきちんとしてても妙かなと思って、やっと少し力が抜けた。今はここでこんな風に書けるが、悩み考えていた時期、私は本当に真剣で、自分の死がどう扱われるのかについて非常に切迫した思いがあった。不安や心配よりもっと重たい気持ちだった。

 

きっかけになったひとつは、イタリアで司祭が相次いで亡くなっているというニュースだった。1ヶ月ほど前、いつものように母とテレビの前でお昼ごはんを食べていると、中国語の字幕が被せられたCNNの映像が流れ、イタリア北部の様子を伝えた。その頃すさまじい勢いで感染者数が増えていたのがイタリアで、教会の床の上を埋めつくすように並んだ木の棺のイメージと、人のいない教会で慌ただしそうに動く司祭たちの姿を私はテレビで何度も見ていた。その日のニュースは、その司祭が死亡したというニュースだった。家族が感染者を看取ることは感染防止のために許されず、今ひとりで死んでいく感染者に寄り添えるのはただ聖職者たちだけなのだとすでに報じられていた。司祭は、ひとりで息を引き取っていく感染者の額や頬に触れて最後の祝福を与え、その結果ウイルスに感染して亡くなった。司祭の死は連日続いた。看取られない死。祝福すると死ぬ。私はソファに座りながら、そのまま体が沈みこんで地下3階あたりの暗いところへ降りていくように感じた。かなしみがあり、うまく言葉にならないそれ以外もあった。

 

昨日のオンラインワークショップ「感染症の哲学」の中で、國分功一郎さんがイタリアの哲学者アガンベンの言葉を紹介した。新型コロナウイルスのパンデミック後に発表した文章の中で、アガンベンは「生存以外にいかなる価値ももたない社会とはいったい何なのか?」と書いたという。

 

生存以外にいかなる価値ももたない社会とはいったい何なのか。

 

 

台湾での新規感染者数が一桁になって落ち着いてきた頃、死亡届のことをやっと口に出してみたいような気持ちになって、夜、母と大安森林公園を歩きながら話した。公園内からMRT大安森林公園駅出口につながっているあたりで、夜はちょうどこの辺が一番明るく、台北市のシェア自転車YouBikeの駐輪場とその向こうに並ぶビルが見えて、少しずつ花が咲き始めている月桃と歩道を挟んで小さな池がある。池の周りは時々ブルーの電球でライトアップされ、真ん中らへんに謎の湯気が上がっている。池の中では大体いつもゴイサギがじっとしていて、水面にあめんぼの模様が見えて、覗いても見えないところでカエルたちが低くて変な声で鳴き合っている。

 

「私死んだら日本で死亡届出してくれる人いないからどうしようって思ってたんだけど、死亡届って家族じゃなくても大家さんでも出せるらしいよ。考えたら、家族いないでひとりで死んでいく人だっていっぱいいるもんね。大家さんも大変な仕事だね」

「お父さん死んだ時ってどうしたんだっけ。エリがやったの?」

 

何気なくではあっても、死亡届を気にしていたとを口にしてみると少し肩の荷が降りた。何かもう少しべらべら話したい感じになって、母と二人で、樹木葬と花葬と選べるらしいがどっちがいいか、とか、私は木だな、そうだよ花は植え替えとかするかもしれないけど木だったらずっとあるし、とか、エリもしばらくさぶちゃんとみーちゃんの遺灰の間に置いといてあげようか、とか、軽い話をして歩いた。そういえば、父とも総武線に乗ってこんな話をしたことがあった。

 

「いいか、俺が死んだらな、帰りの電車で骨壷をあそこの網棚の上に置いてこい。大丈夫だ、誰も何も言わないよ。俺はお墓とかああいうのは大っ嫌いだ。網棚の上に置いたら、その後骨壷がどこに行くか知ってるか?JR忘れものセンターだ。あそこはすごいぞ。誰かが取りに来るまでなんだってずっと保管する。俺は死んだら忘れものセンターのロッカーの中だね。永遠に保管されたいね」

金華官邸

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月21日 台北

下の階の家を覗いたらカノコバト。たぶんお母さんバト。うちのベランダの縁から、翼も広げずダイブするように下へ落ちて行くのをそういえばよく見かける。

 

このお母さんは、私たちがご飯を食べ始めてしばらくすると、いったいどこでどう察知しているのかパタパタパタ音を立てて飛んでくる。部屋の中がよく覗ける定位置があって、そこからじーっとこっちを見たり、ベランダの手すりを行ったり来たりして、立ち止まるとこっちを見ながら首をひょこひょこ「まだかな?」と言うように左右に動かす。私たちはたぶんエサ係だと思われている。ごはんを食べ終わってリビングでぼーっとしていると、またすかさずカノコバトがパタパタと飛んできて同じ動きでアピールを始める。エサは母が近くのスーパーで買った五穀米をあげている。普通においしいと思って食べていたけど、何が気に入らなかったのか母は「これあんまり美味しくないよね」と同意を求めるように言って、気付くと五穀米はいつの間にか使っていない植木鉢の受け皿に入れられて、毎朝ベランダに出されていた。最初は1日1回朝だけあげていたが、こっちが夕ごはんを食べていると、「そっちは2回食べてますよね?」とでも言いたいのか、お母さんバトがまた飛んできてはこちらを覗いてくるようになり、しまいには抗議のつもりか、まっすぐうちのリビングへ向かって飛んできてそのまま窓ガラスに激突するようになった。こういうコミュニケーションのとり方って人間にもあるよなあと今では思ったりもするけど、はじめは随分びっくりした。衝突してくる方もかなりの衝撃を全身で感じているんだろうが、目撃する側にも、肉弾になったハトがガラスの平面に「どん」と急にぶつかる重たい音や、その後もガラスがガタガタ震える振動を感じて伝わってくる衝撃がある。先月だったか、台北の何の変哲もないそのへんの道で信号待ちをしていると、向かいから横断歩道へと右折してきた車が私の目の前で2台続けて追突した。目の前で車が突っ込むのを見るのははじめてだったので、衝突音の大きさにしばらく呆然とした。はじめて相撲を見たときも、力士の肉と肉がぶつかるびしゃーんという音の、残響の尾ひれみたいなのまで空間に鳴り渡るのにびっくりした。小学3年生の頃には校庭で、誰かが蹴ったサッカーボールがこっちにまっすぐ向かってきたな、と思った瞬間そのボールを顔の正面で受け止めてしまったことがあったが、あのバシッという音は重く短かった。ボールを受けたと同時に目の前が真っ黒になって、その後も顔から始まるびりびりする余韻のようなものがしばらく残ってすぐには動けず、誰かが保健室に連れて行ってくれた。母は「ハトって目見えないのかね、ちょっとバカかね、あーびっくりした」とどうでもよさそうにぶつぶつ言ってたが、五穀米は今では1日2回出されているので、あの突撃は母にも少し影響を及ぼしている。

 

ヒナは2日に1回くらい私の前に来る。本当に目の前まで飛んできてくれるもので、ベランダで植木の手入れをしていると、バタバタと相変わらず不器用そうに飛んできて、私がいじってる植木のすぐそこに止まって目が合うので、一応小さく挨拶をしている。数秒滞在するとまたすぐどこかへバタバタと飛んで行く。向こうの屋根からこっちを見ているなという時もある。ヒナの首回りにはカノコバト特有の白黒水玉スカーフみたいな模様はまだできていなくて、ねずみ色で小ぶりで産毛がちょこっと飛び出しているカノコバト型のカノコバト顔の鳥、という感じ。手すりの上を歩くのも時々片足を踏み外してバランスを崩したりしていて、ハトにもハトらしい動作が身につく前の段階というのがあるんだなあと新鮮な気持ちになる。昨日は向かいのマンション目がけて飛んできたはいいが、着地できると思って飛んで行ったところがただの壁だったようで、何の出っ張りもない壁を前にして2、3メートル右往左往していた。右往左往する鳥というのもいるものだ。

 

33度もあった台北も突然20度台前半と涼しくなって、またみんながビーサンのままダウンを着ている。おばは家の中でもダウンベストを着て、ソファの上でも布団をかぶっている。雨が降っているので今夜の散歩はおやすみにして、夜、ゴミを出しにだけ外に出た。今ではほとんどマンションばかりのこの辺りも、私が子どもの頃には一戸建てがずいぶん建っていた。今でも年季の入ったコンクリートに瓦屋根の平屋がいくつか残っていて、開いている窓を少し覗くと、蛍光灯の白いあかりと食器棚、その上の置き物、日めくりカレンダーなんかが見えて、人がいる気配がする。たくさんあった木造で朽ちかけの日本家屋も年々減っていったがまだそれなりに残っていて、ほとんどが公共建築として美しくリノベされ、それぞれ文化的で歴史的なサロンとしての役割を与えられて再生している。うちから一番近いセブンイレブンの向かいには、この辺の一戸建てにしては敷地の広い家が昔からあって、ここは外壁が高くて中が全く覗けない。鉄の板のような大きな門の脇には大きなパラソルが立ち、そのまた脇に通常一人、時々三人くらいの警備員が昼も夜も立っている。ちょうどこのたいそうな家の前がゴミ収集場所になっているので、時間になると近所の人たちがここの家を囲むように、警備員に並んでゴミを持って集まる格好になる。夜8時45分、3台のゴミ収集車がやってきて前に停まり、作業員が荷台からオレンジ色の巨大なバケツを二つ降ろし、その中にみんなで順番に腐りかけた残飯や野菜屑なんかの汁を飛ばしながらどんどんと生ゴミをこぼしていき、特に蒸し暑い夜なんかはマスク越しでもなかなかの臭いが漂っているのがわかる。母は今夜もトラック後部の光る回転板を目がけてスタスタ歩き、おじいちゃんの大小便をくるんだオムツを詰めて口をしばったずっしり重いゴミ袋を遠心力で放り投げている。紙ゴミ回収トラックの列に並んでいる私の前の男性は、荷台の上の作業員に「包大人 Dr. P」と大人用オムツの紫色のロゴが印刷された段ボールを手渡して「謝謝」と言っている。毎晩他人の家の目の前でこうして大量のゴミや汚物をみんなでやりとりするというのはなかなか興味深いというか、この家の家主であるお金持ちだか偉い人は、それなりに心が広いかよっぽど事情がない限り引っ越したくなるよなと思った。この家には誰が住んでるのか母に何度か聞いたことがあるが、わからないと言われて特にそれ以上知ろうとしなかったが、そういえばゴミのトラックを待っている間、相合傘で腕を組んで歩く中年夫婦らしき二人組が目の前を通っていって、夫の方がこの家を指差しながら、行政院長がああだこうだと奥さんに話しかけていたのを思い出した。調べてみると、ここの家は金華官邸と呼ばれる行政院長、つまり日本でいう首相の官邸だった。ということは永田町の首相官邸の前に「乙女の祈り」を大音量で流してゴミ収集車が夜な夜なやってきて、赤坂あたりの住民が臭う生ゴミやうんこ付きオムツなんかを持って集まってはトラックに投げ入れるような感じか、と想像してみたけど、そんなことは日本では絶対にあり得なさそうだし、そもそもあのあたりに住む人はあんまりいなさそうだ。

むかしの寝具

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月20日 台北

お昼頃おばが戻って来て、気分が悪いと言ってすぐに奥の寝室へ寝に行った。週末もずっと気分が悪かったらしい。おばが寝ているベッドには普段母が寝ていて、これは私が本駒込で一人暮らしをしていた頃新宿で買ったものだ。木のフレームのマットレスを支える下の部分が、ちょうど15cmくらいマットレスの足がくる側と左右にはみ出るように作られていて、うっかりそこに足をぶつけると飛び上がるほど痛いことを除けば、そのはみ出たところにちょうど読みかけの本や飲み物の入ったマグカップを置けるのでとても気に入っていた。

 

当時私はあんまり体調がよくなくて、随分長い時間を寝て過ごした。20代の半分以上ベッドで寝ていたと言っていいんじゃないだろうか。人生ほとんど水平だよね、と同じような症状のあった友人と寝転んだまま電話して笑いあったりした。あれが20代の女性としての私だったんだなと振り返ると、誰も言ってくれなかったけど、結構かわいそうだったなと思う。茨城のり子の「わたしが一番きれいだったとき」という詩を思い出したりした。一番きれいなはずだったとき、私は一番醜かった。というのも全身性の皮膚疾患だったので、熱がこもって腫れぼったくなっていた体中の皮膚があかぎれの様に乾燥し、炎症し、皮がむけ、赤くひび割れて汁が出ていた。皮膚というのはこれほどの状況になってもこんなに余すところなく私という私を包むのかと思った。24時間痒みがあり、いつもなるべく強いている我慢をやめて思いきり掻きむしると、その最中と直後だけ無に近いような快感があり、一瞬の解放感を感じるもののやめればまた耐えがたく痒く、動けば痛く、汁が出て皮膚片が散らばった。中でも顔は一番症状がひどく、まぶたも口周りもひび割れて、目も口もうまく開かなかったが、隠しようもなかった。茨城のり子というより、どちらかと言えばヨブ記のヨブだったかもしれない。不思議なことにお風呂で湯船に浸かっている間だけはほとんど痛くも痒くもなく、病気なんてなかったみたいな気持ちになることができた。そのために長風呂が過ぎて、結果的に翌日の夕方まで動けなくなるほど疲れた。

 

いいマットレスを買うとそれだけでものすごくしあわせになる、と初ボーナスで30万のマットレスを買った大学時代の彼氏が目を輝かせて言ったのをずっと覚えていた。痛み、痒み、苦しみの多かった私にとって、いいマットレスは一筋の希望だった。でもマットレスは安いものでもそれなりに値段がするので、昔旅先で他に見当たらずやむなく買った上等のバスタオルを出して、試しにその代わりにしてみようと思った。お風呂上がり、なるべく肌にやさしくていい香りのするクリームを用意して、指ですくって両手の手のひらで合わせてあたためて、ゆっくり時間をかけて全身に塗った後、そのまま上に何も着ないで、ベッドの上に敷いた外国サイズの分厚い大判タオルの上に乗っかるようにして、うつ伏せになって寝た。そのころ音楽は痛みや苦しみのない場所へふっと意識を飛ばしてくれるものだった。好きなCDのスローテンポな外国語の歌をかけて、寝そべって目を閉じていると、まるでどこかからマッサージの上手い神様が現れてねぎらってでもくれたみたいに、体から緊張が離れていき、心も落ちついて、そのまますうーっと眠りに入ることができた。だけど朝方になると、結局私は体のどこかを掻きむしりながら目を覚まして、掻き終わっても痒みは治らず、動くと肌がバリバリと割れて痛み、それからまた数時間眠れなかった。ようやく起き上がった頃には、上等だったタオルが皮膚の裂け目から出た血と浸出液であちこち汚れていた。何度洗っても消えず、タオルを使っては新しく増えていく染みを数えていると、自然と心の奥の方までがっくりとした。

 

台湾の実家から出て本駒込で一人暮らしをすることになった時、ついにベッドを新調した。30万には遠く及ばなかったができるかぎりいいマットレスを買った。私の体調は最悪の時に比べると随分よくなっていたが、それでも不安定で、結局また症状が悪化して起き上がることも難しくなり、大学院入試の頃には顔中に湿疹ができて眉毛が抜け、体の皮膚も切れて痛く、もしくは痒く、だいたいいつもあちこち掻いたり手で押さえたりして過ごした。マットレスは私をものすごくしあわせにしてはくれなかったが、確かにいいマットレスだった。一番ひどい時より病気が悪化しなかったのも、もしかしたらあのマットレスのおかげで多少はよく眠れていたおかげだったのかもしれない。

 

おばが戻って来た少し後にまた玄関のブザーが鳴って、郵便物でも届いたかと思ったら、山からキャベツを届けに来たホンイーだった。姐姐、姐姐、どこにいるの、と玄関の方から私を呼ぶ声が聞こえて、スタスタとみんなの声がする方へ急いだ。ホンイーは台所でキャベツのたっぷり入った大袋を持って立ち、「你們還好嗎?」と私たちを気遣う言葉をかけながら重そうな袋を母に手渡し、その立ち居ふるまいには山に暮らす男性の自信のようなものさえ感じられた。台北育ちのホンイーも、山に住むようになってから随分元気になった。話し方はまったりと舌ったらずのまま、すっかりタイヤル訛りになって、なんだか発声もよくなった感じだ。いつもは着古した服かちょうど同サイズの母親のお下がりが定番だが、今日は新品らしい紺色のナイロンジャケットを着ていて、少し物も良さそうでよく似合っていた。「かっこいいいね、すごく似合ってるね」と声をかけると、「そうだよ」と当然のように言う。パジャマ姿のまま寝室から出てきたおばもにこにこしている。引っ越したばかりの頃はろくに芋も掘れず畑で大泣きしていたそうだが、今ではいとこたちの畑を手伝ってお小遣いももらっているのだから私よりずっと偉い。ホンイーのおかげで私は今週採れたてのキャベツが食べられる。ホンイーはスマホで写真を撮るのが大好きで、細かいことは気にせず、とにかくどこに誰といても、前から横から後ろから、人、風景、動物、大量の枚数を流れるように撮っていく。隣で世間話をしていたかと思うと、いつの間にか前に伸ばしたホンイーの腕の先のスマホ画面が自撮りの構図になっていて、会話の最中で急に間延びした声で「姐姐,一,二,三」と言うので、「私まだ顔も洗ってないのに」と文句を言ったつもりだったがもう撮り終わっている。少し前まではこんな風に写真を撮ってはすぐさまその全てを無差別にFacebookで公開していたが、映りが悪い、二重顎になっている他さまざまな問題のある写真をすべからくアップするので各方面から怒られ、最近はホンイーなりに厳選して公開しているようだ。

 

「姐姐、いつ山に来るの?早く来てよ。山が一番いいよ。空気がきれいでウイルスもないよ」

 

別れ際、鉄の門の向こうでそう言ってエレベーターに乗り、マンションの下で車の中ホンイーを待っている母親と一緒にまた山へと帰って行った。

 

夜の7時になってもおばは起きてこなかった。「このベッドすごく寝心地いいね、って言ってたよ」と母が言うので、そりゃあそうだ、あれは私が昔具合の悪い頃、どうせ寝てるくらいしかできないんだからこれくらい、と選びに選びぬいて張り切って買ったベッドなんだと自慢した。エリの持ってきた敷布団あるでしょ、あれもすごいよく眠れるよ、あれ寝たことある?すっごく気持ちいいよ、いとこのおばさんたち二人、うちに泊まった時あの敷布団で寝てね、床の上だからちょっと悪いかなって思ったけど、好舒服喔、なーんて気持ちいいんだろうって、二人とも朝起きたらすごい感動してたよ、她們真的很感動呢、と母があんまり手放しに称賛しまくるので、まるで寝具を通して私の方がたくさんたくさんほめられているような気持ちになった。そういえば母はずっとあんまり子どもをほめたりしない人だった。母自身あんまりほめられたりしなかったのかもしれない。でも母とおばたち3人が、みんな私の寝具の上で気持ちよく寝ているだなんて、そんなにもいいことをあの一番辛かった私はみんなにしてあげられていたのかと母を通して知って、報われるもんだな、とやっと思った。

花市へ

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月19日 台北

今週は新規感染者ゼロの日が3日もあったので気も緩んだのか、昨日、しばらく行かないことにしていた花市へ母と行った。みんな同じような気分だったのか、ものすごい人出だった。脇にある大安森林公園もものすごい人出。天気は曇っていたけど気温は30度以上あって、風がいい気持ちに吹いていた。芝生には敷物をしいてピクニックする人たちのグループが数メートル離れて混みあい、おしゃべりしたり、寝転がったり、みんなでゲームのようなことをしたりしていて、ああ私にもこういう時があったなあと思いながらその横を歩いた。まるで過去を見ているようだ。大勢の人が集まって楽しそうに動くのはもはやほとんどテレビやスマホの画面の中だけで、そういう映像を見ると私はすぐに、これは今のことじゃないからね、と無言で確認する癖がついている。

 

公園内のローラースケートリンクでは、幼稚園から小学生くらいの子どもたちがお揃いのヘルメットをかぶり、スケート靴の刃の代わりに車輪が一列ついた靴をはいて、先生の合図で一斉によたよたと滑り出している。リンクの外側はおじいちゃんやおばあちゃんらしき人たちが囲んで、見守ったり写真を撮ったりしている。歩道の脇には自作ラブソングをギターで弾き語りする男性が、その少し先に「盲人街頭藝人」とのぼりを立てて往年のヒット曲をキーボードで弾き語りする女性が、また少し先に同じく「盲人」と赤字で書かれた看板を立て、台車の上にスピーカーを乗せてカラオケで歌謡曲を歌う女性が、お互いに距離をとって、通り過ぎる人たちのうちの誰のためでもなさそうな歌をうたい続ける。はなから洗練など目指していない彼らの音楽は、木陰のベンチに座る身綺麗な家族連れやおしゃれした若者カップルたちのおしゃべりの背景にしっかりと流れていて、それは不釣り合いなようでとっても調和している。そのことに気がつくと、ああ台湾だ、台湾にいるんだという気持ちが私の中にわあっと湧いて、私は思わず「台湾だね」と母に話しかけて笑う。そんな私たちとすれ違っていくのは、手をつないでのんびり歩く白髪の夫婦、私たちのような母娘、両親と子2人の4人家族、小さな自転車で走り回る子ども、散歩する犬とその飼い主、大胆に肌を出したリゾート風ワンピースやショートパンツの女の子グループ、一人黙々と歩く人。とにかくどこを見渡しても湧いて出た虫のように人がいて、春らしい陽気にあふれている。

 

花市の入り口には「保持社交距離」と書かれた看板が一応出ているが、この人出なのでそういうわけにもいかない。せめて人にぶつからないよう注意するのが精一杯というところ。高速道路の高架下の駐車場で毎週土日に開催されるこの花市にはいくつも見どころがあって、様々な植木や切り花、種、肥料、園芸用品はもちろんのこと、食べ歩きできるおやつやお茶などの飲みもの、台湾各地の農産物、金魚、風水グッズ(一部の鉢植えもそうだが)などを売る店もある。私は蘭の店を一件一件ゆっくり見て回るのが特に好きだ。蘭の花は、濃い緑とむせ返るような湿度の中に咲くのが一番美しいと感じる。日本で胡蝶蘭というと、金持ち風の歯医者の窓辺や高級に見せたいスナックの調度品というイメージが私にはどうも強くて、胡蝶蘭は何も悪いことをしてないのにあんまり好きになれなかった。本当はもしかしたら、花が全部咲き終わって曲がった茎だけ無意味に残った愛でようのない姿になると、それまでみんな大切そうに扱っていたくせに「もう咲かないしねえ」と平気で生きたままゴミとして捨てる、それを許可するかのように、たくさんの鉢植えが作られ高級品のように売られていることが好きになれなかったのかもしれない。20代の頃久しぶりにこの花市に来て驚いたのは、鉢植えのブーゲンビリアが大量に咲きまくっていることと、お祝い用になりそうな立派な胡蝶蘭が150元とか200元で山のように並んで売られていることだった。何か見間違えているのではと驚き、しっかり値札も入るように写真に撮った。でも当時の私の興味の中心は都市や人やカフェや夜の街にあって、花、木、自然には大して興味がなく、花市も母にくっついて年に数回行くくらいだった。

 

母が「欲しいの見つかった?」と私に声をかける。信義路の入口から中へ入っていったところに、山野草のような雰囲気の、小さくて地味なようでしみじみと美しい蘭の花をたくさん売っているお気に入りの店があり、そこでじっくり小さなプラカップに入れて並べられたさまざまな蘭をひとつひとつ見るのがとてもたのしい。どれも風変わりで美しく、腋唇蘭なんてうっとりする名前がつけられていたりする。母が子どもの頃、母の故郷宜蘭の山には野生の蘭の花がたくさん咲いていて、母たちは平地から来たカハツ(タイヤル語で「閩南人」)に言われたとおりにそれを摘み取っては麻の袋に詰め、バカみたいに安い金と引き換えにその袋を渡したという。日本の業者が台湾の山に自生する溢れんばかりの蘭に目をつけて現地の人に委託して根こそぎ持っていったという話もあるから、日本人が閩南人を、閩南人が原住民を、という搾取の構造だったのかもしれない。花市にいると母はそんな話をしなかった。「今度自分で買いにくるよ」と私は母に言った。だいたい私はここ2ヶ月無職同然で、食事も寝床もすべて母の世話になっている。

 

おばあちゃんが亡くなって、花市に母と蘭の花を買いに来たことを思い出した。心臓の悪かったおばあちゃんは、山で何度も発作を起こして倒れてはみんなをびっくりさせて、大病院から近いという理由で台北のこの家で母が面倒を見ることになった。当時アメリカに住んでいた私の部屋が空いていたのでそこへシングルベッドを2台入れて、おじいちゃんとおばあちゃんがしばらくここに二人で暮らした。あの頃はこの家もまだリフォーム前で、私の部屋には今も残っている造り付けのクローゼットと同じ木材で作られた机と本棚があって、小学生の私がそれを使い、私が日本へ引っ越した後、代わりにこの部屋に入ったいとこ兄妹がそれぞれ順番に使った。みんなの使ったその造り付けの机の上に、花市で買ったオレンジと黄色の間ぐらいの色合いの小さな胡蝶蘭を飾って、その脇に水の入ったグラスを置いた。

 

「おばあちゃんってそういえば私の部屋で暮らして亡くなったね」と母に言うと、母は「そうだよ」と私の顔を見た。部屋には洋服や下着、スカーフ、膝用サポーターなど、おばあちゃんの身につけていたものがまだいくらか残っている。その中からいまだに「重ねて小さく折りたたんだ1000元札が時々出てきてね」と母が言う。忘れっぽくなったのを気にして、必要な時すぐにお金が出せるようにあちこちへ分散させてしまってたのだろう。おばあちゃんはお札を必ず紅包(ホンバオ)という真っ赤な封筒に包んでしまっていた。紅包はのし袋、ポチ袋のようなものだから、誰かにもらったのか、それとも誰かに渡すつもりだったのかもしれない。おばあちゃんは孫もひ孫もたくさんいて、玄孫までいた。おばあちゃんが亡くなってもう6年も経って、今頃になって出てくる紅包はもう赤がすっかり色落ちして、膝用サポーターに色移りしたピンクの染みさえ茶色くなってね、と母が言った。

曬太陽

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月17日 台北

そろそろここを野鳥ブログにしてもいいかなと思うくらい鳥ばかり見ている。人を見ていても心が安まらないが、鳥は安まる。地上7階からのこの景色も、畳みかけるようにビルばっかりで空もあんまり見えないしと息苦しく思っていたけど、そうでもないかもと思うようになった。巣立ったカノコバトのヒナがすっかり自分で飛べるようになって、どこにいるかなと、ここから見える建物の屋上を一つ一つ眺めてヒナの姿を探すようになり、そうしてやっと気がついたのだが、台北の空中の、私が引きこもって暮らすこの家のベランダから見える層には、すごくたくさんの鳥がいるのだった。人間は誰かが洗濯物を干したり取り込んだりしている以外、道を見下ろさなければほとんど姿が見えないが、鳥は常にいる。声も聴こえる。しかもかなりいろんな種類だ。7階には7階の世界があるものだ。よくこんな高いところにと思うが、蝶も時々飛んでくる。 同じ台北と言っても地上を歩くのとはまた違う構成員が台北の空中に暮らしている。

 

鳥たちは、ビルの屋上、マンションのベランダ、そこにある植木、手すり、給水タンク、屋上へ出る壁付きのハシゴ、アンテナ、庇、そんなところを転々と飛び回り、どうやらみなそれぞれお気に入りの場所というのがあるようだ。だいたい同じような時間に同じ場所に同じような鳥がいるから、思ってるほど鳥は自由に空を飛んではいないのかもしれない。毎日同じようなところで見かけるのでだんだん顔見知りになってくる。向こうはどう認識しているのか知らないけど、よく目も合うし、きっとお互いになんとなく「あ、あいつだ」というくらいの顔見知りの感覚。特に白黒まだらのドバトは個体によって模様が違うものが多くて、ああ、あれはこの間のあの、とすぐ判別できるだけに、行動も気になる。あんまり美しいとは言えない色合いで、鍛えすぎた筋肉バカみたいな体つきであんまり好きになれなかったが、向かいの庇でまだらで大柄同士のカップルがくつろいでいるのを何度も見ていると、だんだん愛着が湧いてくる。鳥たちの「くつろいでいる」という状態がわかるようになってきた。今まで鳥って、止まるか歩くか飛んでるかエサをつっつくか鳴いてるかくらいしか見たことなかったが、1日の時間の多くをこの「くつろいでいる」という状態で過ごしていることもわかった。考えてみればそりゃあそうなんだろうけど、完全にリラックスしている状態のドバトを、こっちものんびりした気持ちでぼんやり眺められるようになるまで気がつけなかった。投げられたパン屑に首をひょこひょこ急ぎ足でがっついたり、地上では高貴な雰囲気を感じられないドバドだが、屋上で太陽の光にあたりながらゆっくりゆっくり羽を広げている姿は、圧倒的に優雅だ。羽というのは体から離れてあんなに大きく美しく模様を広げていくものだとは知らなかった。 公園のドバトも王様の孔雀も同じ。

 

カノコバトのヒナは相変わらず着地が下手で、ドドドドタバタバタバタッといろんな植木の枝や葉っぱにぶつかりながらうちのブーゲンビリアの枝に戻ってくる。 日が暮れる少し前にはいつもそこに留まって、羽の下に隠れたうぶ毛を一生懸命くちばしで引っ張っている。 しっぽも少しずつ生えてきた。ちゃんと生え揃ったらバランス良く着地できるようになるのかな。しっぽのないヒナを見ていたら、お母さんバトのしっぽがすごく気になるようになった。ハトのしっぽってあんまり意識したことがなかったけど、思ったより随分長くて、普段は重ねて閉じているしっぽの羽は90°くらい扇子のように開く。鳴く時は口を閉じたまま、胸をふくらませて、喉を鳴らしているみたい。飛びながら、ぽぽぽぽぽ、とぶつぶつ言ったりもする。カノコバトの鳴き声は日本でよく聴くハトのとも違う。「まだ朝早いのに『トゥーリャッカロー、トゥーリャッカロー』って、すぐそこで何回も鳴いて、あれ結構うるさいよ。昨日全然眠れなくて、明るくなってやっとああ眠れるっていい気持ちになったところだったのに」と、日本にいる私に電話をすると母はいつも文句を言った。ハトが枕元で「もう起きる時間だよ」とタイヤル語で言うのが気になって仕方ないというのだ。へえと適当に聞き流していたが、ここに来て聞いていると確かにそう言っている。ヒナはまだこの鳴き方ができないみたいだ。昨日は母が用意したエサ皿の縁に飛び乗ったと思ったらバランスを崩して皿ごとひっくり返し、慌ててまたブーゲンビリアの枝にぶつかりながら戻って、お母さんバトにひーひーひーと小さな声で泣きついていた。

 

今朝またおばの彼氏がおばを迎えに来て、私がシャワーを浴びている間に「エリに私行くねって伝えてね」と母に言い残しておばが去った。彼氏も子ども家族と同居しているので、彼氏がそろそろ家に帰らないといけないタイミングで、おばも自分の娘家族と過ごし、みんなが学校や仕事に戻る頃またこの家へ戻ってくるんだろう。「ずいぶん体調よくなってきたみたい」と昨日の夜、ご飯を食べながらおばが言った。おばを見て久しぶりにお化粧したのかなと思ったのは、お化粧のせいじゃなくて具合がいいあらわれだと思うと嬉しかった。きれいな人がきれいだとそれだけでうれしい。おばに関しては特にそう思う。「先生からよく陽に当たるように言われた」と言って、昨日、うちに来てはじめてベランダでしばらく曬太陽していた。それまでおばはいつも母がベランダに出ようとすると「落ちそうで怖いからやめて」とお願いしていたらしい。4階の人が数年前屋上から飛び降りて亡くなった。私の小さい頃も、お隣さんが飛び降りて亡くなった。昨日の台北は日中33度もあったのに、おばはウールのセーターにダウンベストを着て日向に座って、さすがに暑かったのか、どんどん脱いで最後はヒートテック1枚になった。

 

右上唇にできた口内炎が猛烈に痛い。

14度

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月13日 台北

たった2年ほど少し田舎に引っ越しただけなのに、都会での暮らし方がいまいちよく掴めない。あんまりあちこち遊びに行けないし、人に会いにくいからかもしれないけど。東京やニューヨークに住んでいた頃は台北が楽しくて楽しくて仕方なかったのだが、今では海とか神社とか、平屋造りの家、青くて広い空、電線のある空、人の家のお庭、海へ向かう川、みかんのなる木、住宅地の畑、大家さんちの木々と花々、ただの空き地、ちょっとした駅前のにぎわい、いろんなところから見える富士山、線路沿いの草花、134号を平塚に向かう西日、だだっ広い薬局なんかが妙に恋しい。みんな元気かな。

 

台北は今日も寒くて、ほとんど布団に包まって過ごしたが、上はTシャツだ。バオバブでようすけさんから買った薄手で袖も短めのやつ。台北を歩いていると、上はダウンで下は半ズボン素足にビーサンという着こなしがすごく一般的で、真夏以外必ずたくさん見かけるこの人たちは一体寒いのか暑いのか、と常々不思議に思っていたが、今日ようやく、上下アンバランスな防寒がこの土地にはちょうどいいんだと体感できた。台北の寒さは寒いけどホンモノではないというか、今も14度だけど、本当の寒さなんて知らない土地のたかだか14度という感じで、14度の先に10度、5度、2度、、、このままその気になればマイナスになるんだぞ、という底知れぬ冷たい世界への入り口の14度と全然違って緊張感がない。私ってこんなところでぬくぬくと育ったんだな。

 

台北の街を歩いていると時々、もし母があの時私を連れて日本へ行くと決心しなかったら、あのまま私がここで母と入学手続きに行った金華國小に通い、金華國中に通い、高校受験をして、もしくは小中はあのまま日本人学校に通い、高校はその向かいのアメリカンスクールに通い、そういう少女時代を過ごしていたら私は今頃どんなだったかなあと空想する。カフェで同じくらいの年頃の女性を向こうの席に見かけたり、街で大学生くらいの、30代くらいの女性とすれ違うと、あり得たかもしれない自分の姿を一瞬想像する。「あの時はそれが正しいと思ってやった」と戸籍謄本をちらりと見て母が先日私に言った。母も70に向かうし、もうあんまりいろいろ尋ねたいとは思わなくなった。「そうだよね」とだけ相槌をした。

 

ちょうどお昼ごろおばがうちに戻ってきて、リビングでお昼ごはんを食べる用意をしているところだったので母とおばと3人でニュースを見ながら一緒に食べた。娘家族や彼氏と週末過ごせたからか、おばは少し元気そうに見えた。母もうれしそうにして、小さなこといちいちに朗らかに笑って、「エリと二人しかいないのに間違えて目玉焼き3つも作っちゃったなと思ったてたら、ちょうどいいところに帰ってきた」と横に座るおばの小皿に目玉焼きを取り分け、にんじんは目にいいし美味しいよ、キクラゲも身体にいいよ、特に女性にすごくいい、この豆は誰々からもらってあの人のところは農薬使ってないから自然でおいしい、あれもこれも、と少食のおばに勧めては断られてうれしそうに笑った。

 

カノコバトのヒナはうちのベランダを家のように思っているのか、朝も昨日の夜と同じブーゲンビリアの枝にいて、昼頃少しいなくなったかと思うと、3時頃バタバタバタとまた不器用な音を立てて戻ってきて、コルディリネの葉にぶつかったがなんとか藤の枝に無事止まった。ベッドで布団をかぶっている私から窓越しに毛づくろいするヒナが見えて、時々目が合う。何を見ているんだろうな。

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月12日 台北

ヒナは朝までペトレアの枝の隣にずっと寝ていた。窓から覗くと目が合って、枝から枝へ飛び移ってみたりしているのを見てから二度寝した。お昼頃、さすがにもういないだろうと思ってベランダに出ると、なんとまだ同じところでじっとしていたヒナが私に驚いて向かいのマンションの屋上へパタパタ飛んで行った。昨日より上手になったね。

 

道を挟んで、レンガ色のトタンのゆるい三角屋根のてっぺんに一人でいるヒナは、まるで突然自分だけ誰もいないステージの上にあげられてしまった子どものバレリーナみたいで、生えそろった羽で、ひとりぼっちで立ち止まって、じっとこっちを見た。カノコバトの目は黒くてまん丸くて、キョトンとしてるのにじーっと見てるような不思議な雰囲気があって、ヒナもまだ小さいけどしっかりカノコバトの丸い目をしている。少々毛づくろいなどしてから、ヒナはもうひとつ隣のマンションの屋根にしっかり飛び移り、するとこのあたりを居場所にしている白黒まだらで体格のいいドバトカップルがヒナの脇へと飛んできて、そして向かいのマンションの上によく見かけるクロヒヨドリも飛んできた。ヒナは本当はもうひとり兄弟がいるはずだった。「ハトってだいたい卵二つ産むのにね」と母がずっと不思議がっていたが、巣の周りの植木を整理したらこれ出てきたよ、見て、とうずらの卵よりやや大きいくらいの小さな白い卵を私に見せて、両手で挟んで温めるような動作をした後、「栄養になるから」と私の窓辺で小さな赤い花をひとつだけ咲かせている多肉植物の鉢にポンと置いた。

 

今日は最高気温17度と台北の人にとっては真冬のように寒い日で、昨日の夜からずっと雨が降り、玉山では雪が降り、街中でもダウンを着た人が多い。携帯代を支払い、雑貨店で卵を買って帰ってくると、やっと雨が止んで雲越しに夕日がさしてきた。またうちのベランダに戻ってきてブーゲンビリアの枝で休むヒナが日の光を浴びている。やはり17時前には寝るようで、昨日と同じおまんじゅうの体勢で動かずにいる。雑貨店の奥さんはレジを打ちながら「マスクは他の国に寄付するべきよ、台湾はこんなに作ってみんなこうして付けてるんだから」と何の前置きもなく母と私に言った。14日あたり9枚のマスクを買うのにみんな薬局に並び、これではまだ全国民に行き渡ってるとは言えない状態だ、なのに蔡政権はマスクをこの非常時の外交の道具に使って国民の安全と健康を犠牲にしている、と野党の国民党が批判していることに対して憤慨しているのだ。「助け合えばいいじゃない。他の国の人だって人間じゃない。マスクは節約して使えるよ」と、奥さんは自分のしているマスクをペロリと片耳のゴムを外してめくり、内側の針金が入っている鼻が当たる部分の右の方に、ボールペンか何かで4/1と日付が書いてあるのを見せた。鼻と口が当たるところを囲む大きさに四角く切ったガーゼが一枚、外れないよう上の方をぴたりと留めて付けてある。「毎日交換して11日間。你看。まだ使える」と言って、奥さんはまたしっかりとマスクを付けた。

 

コロナウイルスが武漢から蔓延し始めてから、母はまたケーブルテレビを契約し、私たちは毎日リビングのテレビの前でご飯を食べるようになった。感染が広がる世界各国のニュースの中にはもちろん日本についての情報もあり、安倍首相により緊急事態宣言が出されたことに従って日本のAV業界も停止するので、新作は5月6日以降まで出ないそうです、と女性キャスターが声色を変えず天気予報のように伝える。日本と同様、台湾でも夜の店での感染が発見され、社交距離を取るのが困難だからという理由で、酒店(キャバクラなど)と舞廳(ダンスホール)の営業が無期限休止とされた。失業したホステスと行き先をなくした客とは当然直接のやりとりによって経済活動を続けていて、取っ払いのフリーランスとなった彼女たちの仕事内容と料金相場を、女性キャスターは声色を変えず、意味ありげな間を作らず、天気予報や交通事故のように早口で報じる。中国語は全てが漢字の言語、世の中の全てが漢字とその音により表され、漢文が長く教養の証であった日本文化の中に育ってきたこともあるのか、私には「キャバ嬢」よりも「女公關」の方がひとりの尊厳を持った人間が選択する職業の一つらしく見え、聞こえる。もしくはせめてその建前が見え、聞こえる。

 

妊娠検査薬が過去にない売れ行きだというニュースもあり、画面には空になった薬局の棚、様々なメーカーの妊娠検査薬のパッケージ、女性にはおなじみのあの体温計のような形で真ん中の丸窓にくっきりと縦の線が表示されたテストスティックと呼ばれるもの、そしてちょっと困惑したような表情でコメントする薬剤師が映し出される。続けて、SARS後の台湾では経済的不安から出生率が落ちたというグラフを見せながら、専門家が「おそらく台湾の親たちは妊娠しても出産を選ばないだろう」とコメントした。私たち人間みんなの欲望はどんな形でどこへ潜っていくんだろう。

巣立ち、出戻り

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月11日 台北

朝巣立ったヒナが、夕方戻ってきた。

 

早朝、窓の外から、バタバタ、バタバタバタ、とひどく不器用な感じの音がして、もしかしてと思ったまま二度寝してごろごろしていると、ベランダから母が窓から私の部屋を覗いて「見た?行っちゃったよ」と声をかけた。バタバタはやっぱりヒナの音だった。母によると、掃除しようとベランダに出てきた母に驚いたヒナは、巣の中で立ち上がり、羽を大きく広げてバタつかせたかと思うとそのまま飛び立って、向かいの白いマンションの壁に激突。それがヒナの生まれてはじめての飛翔だった。運の良かったことに、追突したちょうど真下に庇があり、壁に沿ってひゅるひゅると垂直に落ちて行ったヒナは、庇の上で集っていた他の鳥たちの輪の中心にズズッと不時着したらしい。

 

朝5時を過ぎる頃、まずバイクが1台通り過ぎる音がして、それから少しずつ、あちらこちらで鳥が鳴き始める。私の家は台北の典型的裏通りの住宅街にあり、通りの両側とも長屋のようにマンションがびっしりと並び、前後左右の建物は私の部屋がある7階と同じか、やや低いか高いか。この街の作りがちょうど峡谷のようになっているのか、鳥たちの美しい鳴き声がまるで谷間のように瑞々しく反響して聴こえる。せっかくだからもっとよく聴こうと思って昨日の夜に窓を開けて寝たおかげで、毎日会いに行ってたヒナの巣立ちこそ見ることはできなかったが、せめて音は聴こえたなと思いながら、でもちょっとさみしいな、そのうち顔を見せに来てくれるかな、でも大人になってから来たら私見分けがつくかな、と心細かった。ここに来て今日でちょうど2ヶ月、自分の知っている世界がみるみる焼け野原になっていくのを、息を潜めてじっと眺めるしかないような気持ちで過ごした毎日だった。友人を招き入れることもなく、隠れ家になってしまったようなこの家に、まるで首に水玉のスカーフを巻いたようなかわいいカノコバト2人組が訪れて、ベランダの隅に巣を作り、昼も夜も卵を抱いて、ついにめでたくヒナまで産まれたというのは、唯一心から明るい気持ちになれる出来事だった。そんなのハトの方じゃ知ったこっちゃないだろうけど、人間がますます苦手になってしまった人間の私も、巣の中のヒナと目が合うと、何も考えずやさしい声になって人間の言葉で話しかけていて、落ちている花殻と落ち葉を拾いながら、私の身体の中でそっと響くくらいの小さな声で、浮かんでくる歌が自然に止むまで歌っていた。

 

4時に美容院の予約があるからといとこが出かける支度を始めると、朝からずっと真っ暗だった空からついに雨が大降りで降ってきた。美容院に行く気がここまで失せる天気もないな、と思いながら、こっちはコーヒーでも淹れようと思って台所へ向かうと、リビングでスマホをいじっている母が「また2匹来てるよ。片方小さいから夫婦かな、よく見えない」と言う。そろりそろり近付いてみると、伸びた藤の木の葉っぱのかげに確かに大小2匹並んで雨宿りしている。あの見慣れたくちばしはヒナだ。ハトってくちばしの成長が一段と早いのか、出来たてのかぎ爪のようなくちばしは、やっとハトらしくなったヒナの顔の中に釣り合わず大きく不格好だ。首を縮めてじっと丸くなっているお母さん(お父さん?)の隣で、濡れて寒いのか、肩から羽をわさわささせて落ち着かない。しばらくすると、親鳥に倣っておまんじゅうのように丸くなってじっと動かなくなった。ヒナこんにちは。全身の毛がまだふわふわしていて、お腹の下の方が白い。バラの花びらやベゴニアの花殻にまぎれて落ちているのをよく拾った、短くて白い小さなふわふわの毛。

 

リビングのピアノの椅子に座って、そのまま1時間ほどカノコバト親子を眺めて飽きなかった。親鳥は一人で飛んでいって、帰って来て、ヒナに餌を口移しして食べさせて、というのを2回繰り返し、3回目は帰ってこなかった。一人になったヒナは一人前に毛づくろいなどして、夕方5時過ぎにはペトレアの枝とコルディリネの赤い葉の間でおまんじゅうの姿勢のまま動かなくなり、外はまだまだ明るかったがどうやら寝たようだ。

 

真っ暗になった後も何度もリビングから窓の外を覗き、丸っこい影が見えるたびうれしかった。私の部屋の窓からもよく見えた。9時ごろ帰ってきたいとこは上機嫌で、ずいぶん短く切ったね、かわいい、かわいい、こっちの方がかわいいよ、と母もはしゃぐ声が聞こえた。私も混ざって、3人でニュースを見ながら話した。ニュースはほとんどがコロナウイルスにまつわる話題だ。先月入籍したばかりのいとこは、この疫情(と台湾で言う。日本語で短く言うならコロナ禍?)のために結婚式を延期することにして、台中への引っ越しも延期、週末に少しずつ荷物を運び出したり、台中に住むだんながうちに泊まりにくることもほとんどなくなった。テレビには総統や内閣の面々はじめマスクを量産し広く国民に行き渡るために貢献した人たちが次々と映され、それを率いた「マスク国家隊指揮官」という役職名にみんなで笑ったり、WHOという馬鹿馬鹿しいほど大きな欺瞞に、いとこが「会社でテドロスが話してるあの動画見て、今すぐあいつを殴りたいくらい腹が立って仕方がなかった」と再び飛び上がらんばかりに腹を立てたりした。これは私たち家族のささやかな幸せな時間なんだろう。おじいちゃんがいて、母がいて、私、いとこ。もしかして私は見送る人として、生まれたこの家にまた戻って来たのかなと思った。

くり返す

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月10日 台北

昨日はほとんど満月に見えた月が、今日は随分欠けて真っ赤だった。

 

昨日の散歩は気持ちがよかった。歩き自体は今日の方がよく歩けたけど、歩く気分は圧倒的に昨日が気持ちよかった。ガジュマルの木の間にウォーキング用の赤土の道がずっと前へと続くのを、今日の私は斜面の上から見下ろして、学校のグラウンドみたいだな、と子どもの頃走らされたことを思い出したりしたが、昨日の私はその校庭みたいな赤茶色の地面の上を、バレリーナみたいに両足を前後に伸ばしてまっすぐ先へ先へと何度もジャンプしたい、そんな気持ちで歩いた。そんなジャンプをしたのは高校の部活が最後で、バレリーナのように上手には飛べなかったし、それでも25年後に突然よみがえってきたのだから、身体は身体で語彙みたいなものがあって、記憶したり再生したり夢見たりしてるんだろう。今までみたいに歌ったり、お酒を飲んだり、長時間電車に運ばれながら外の景色を眺めたり、自転車を漕いだり、砂浜を歩いたり、常日頃していたことをしばらくしていないから、身体が思い出し作業に入ってるんだろうか。なんだかたまらなくなって、こんな時期に、と思いながら、雲門舞集の成人クラスに問い合わせメールをした。体があって、踊れるうちに。まだ誰かと踊れるかもしれないうちに。

 

今夜はメールの返事を書きながらマルセロが自宅で演奏しているライブ配信をかけて、とても心が安らいだ。トークはほとんどポルトガル語で話しているから何を言ってるのかわからなくて、そのことにも心が安らいだ。人の声を聴いていたいけど、意味が聞きたい訳ではない時がある。

 

ゴミ収集のトラックはいつものように「エリーゼのために」を流してやってくるが、ひと回し流れた後、台北市長が「我是柯文哲」と挨拶して社交距離(日本語では社会的距離)を取るようアナウンスする録音が続けて流れるようになった。台湾のゴミ捨ては日本とやり方がずいぶん違って、うちの近くは朝ではなく、夜、決まった時間にゴミ収集車が「エリーゼのために」か「乙女の祈り」を鳴らしてやってくる。それくらいの時間になると近隣の家々のドアがパタリパタリと開き、中からゴミを持った人たちが出てきて、いつの間にか近所の人たちが列になって、ゴミを片手にみんなで集合場所に向かい、そのままみんなでトラックを待ち構える。私はこの光景が好きだ。トラックは一般ゴミ、リサイクル(プラスチック類)、紙類の合わせて3台が並んで来て停まる。市長の声を聞きながら、近所の人同士互いにタイミングを計りあってトラックの左右に分かれて順番を待ち、私は紙ゴミトラックの荷台で作業する係の人に「謝謝」と束ねたダンボールを渡し、母は一般ゴミトラックの回転ドラム目がけ、おじいちゃんのオムツが詰まった台北市指定の水色のゴミ袋を遠心力で投げ入れる。

 

ゴミ捨ての後、母とスーパーへ牛乳を買いに行く。「みーちゃんにいろんな牛乳あげてみたけど、これ以外絶対舐めなかった」のが理由で、母は光泉というメーカーの牛乳しか買わない。帰り道、通りかかる壁一面に香港のデモを描いた木版画が貼られてあり、その横にはたくさんの付箋が隙間なく貼られ、どれも何かメッセージが書かれている。よく見てみようと思って近付いたところで、いとこから「姐姐、家にいる?鍵置いてきちゃった」と連絡が入る。私を姐姐と呼ぶ世界でたった二人のうちの一人。家にいるはずのおばは今朝彼氏が迎えにきて、また月曜に戻るといって出て行ったので、きっとブザーを鳴らしても返事がなかったのだろう。おじいちゃんってブザーは聞こえるんだろうか。「猫見てるからゆっくりでいいよ」といとこが言う。骨董屋街の脇の花壇のところにいるんだな、とわかる。お腹と胸もとの白い茶トラの野良猫があそこを自分の家のようにしていて、みゃあみゃあ鳴いてよく懐くので毎日複数の人に餌を与えられており、どんどん体型が丸くなってきた。気分が乗ってる時は、みゃあみゃあ言いながらそのへんまでお見送りもしてくれる。いとこは案の定、花壇の縁に腰かけている。その向こうに猫が丸くなって、そのまた向こうのベンチにロング缶のビールを2本並べて男の人が一人のんびりタバコを吸っている。いとこは母と私を見るなり「さっきまでもう1匹、新しい猫が来てた」と慌てて言う。そう言ったそばからその新しい猫が路地裏に現れ、まん丸い目で私たちを眺め、走って横切る。家まで30秒くらいを、笑ったり喋ったり、母といとこと私、3人で帰る。

いつも通り

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月9日 台北

やっと晴れた。空が明るい日に外に出られて本当にうれしい。都会の真ん中にいても天気がいい日はうれしくてむずむずする。

 

昼間の台北はまだそれなりに街が機能している。人が行き交っていて、近くの朝ごはんのスタンドも開いているし、いつものパン屋さんは相変わらずお客さんが多く、いつものカンパーニュが売られてて、いつものコーヒー豆屋さんは相変わらずマイペースで、いつものお兄さんがアコースティックギターを改造して作ったスピーカーから現代的な音楽を鳴らし、これはイギリスのDJによる電子音楽だよと教えてくれる。郵便局では封書や小包と番号札を持った人々が椅子に座って順番を待ち、窓口の向こうの郵便局員さんたちは仕事をしながらどこのお店の何がおいしいから絶対食べた方がいいとかそんな話をみんなで熱心にしている。埃っぽい古道具街はいつも通りお客さんがいなくて、店の前に椅子を出しておじさんたちが座って茶を飲み、「おい、マスクしろよ」などと言っているのがこれまでと違うくらいか。スーパーでは日曜日に75%アルコールを求めて並ぶ私たちに整理券を配ってた店員さんが、棚に野菜を整列させている。

 

いとこは満員電車を避けて、このところいつもより早く出勤している。電車が混むからそろそろ電動バイクで通うようにすると言う。

 

おばは今日病院で診察のある日で、予約の時間より1時間早く着くように家を出て、早く済んだと言って早々に帰ってきた。お土産に烤鴨を1/2羽買ってきてくれて、袋を受け取った母は、両手を広げて立つおばのナイロンジャケットににアルコールをしゅっしゅと吹きかけた。

 

おじいちゃんはいつものように1日2回ご飯を食べて、あとは大体寝ている。大体寝てるけど、時々部屋を覗くと目を開いてこっちを見ている。いつもちゃんと目が合うように思うが、「ほとんど見えてないみたいよ」と母は言う。ぼっと立ってる私を指さして、母が「えりだよ」と言ってもあいまいな顔をするが、「エリチャンだよ、私の娘」とタイヤル語で言うと思い出してくれる。タイヤル語のえりちゃんは「ちゃん」にアクセントがつくエリ・チャンになる。

 

母はいつものようにご飯を作り、おじいちゃんにご飯を食べさせて、私たちとごはんを食べて、おじいちゃんの下の世話をして、ベランダの植木の手入れをして、時々洗濯か掃除をして、スマホで免疫力を上げる食べものを調べて、facebookにいいねをし、時々長電話をし、買い物に行き、これまでほとんどつけなかったテレビを見るようになった。

 

私は夜散歩に行く。朝カノコバトのヒナを見に行く。日々草の種が育つ前につまみ取る。ニュースを見る。コーヒーを淹れる。鉛筆を削る。食器を洗う。お茶を淹れる。枸杞の実をひとつかみとってマグカップに入れ、お湯を注いで飲むとおいしい。メールの返事を書く。まだ書けていない返事のことを思い出す。伸びた髪をいつ切りに行こうか、鏡を見て手櫛で梳かす。髪が抜けなくなるまで繰り返す。

 

今夜はやっと月が見えた。とてもいい夜だった。月は丸く大きくとてもきれいで、まるで公園の電灯までもが森を照らす月のように見えた。それぞれの月の下、人々はベンチで寄り添い語らっている。私はいくつもの月と語らう人々を通り過ぎ、一番高く遠い月は、歩く私と同じペースでどんどん向こうへ、枝の上からビルの合間へと動き、道を曲がると見えなくなった。

折り重なって

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月8日 台北

おとといも夜は雨だったからか、昨夜の大安森林公園はいつもより人が多かった。最近夜に散歩するようになって、この公園は夜がいいんだなあと気が付いた。母が言うには犯罪防止のために、木と木の間が程よい間隔であけられ、人間の背丈くらいの空間がずっと向こうの方まで見渡せる。

 

名前に森林とついているが、セントラルパークみたいに自然が残されたエリアがあるわけでもなく、この街の中で木が多い場所なので、ということなんだろう。ゆっくり歩いても1時間かからず1周できるコンパクトな公園だ。私が小さい頃、ここには国民党と一緒に台湾へ来た移民たちのバラック小屋が隙間なく建ち並び、干された布団や洗濯物の合間でたくさんの人がごみごみと、室内はそれなりに整然と、生活していた。家々の間に店もあり、人の多い迷路のような通路を行って、朝ごはんの豆漿や燒餅油條を買いに母に連れられて来た記憶がある。安くておいしいと母が言っていた。大事なことだ。母か祖母か、誰かここに友達がいたのだろう。誰かの家でスイカを出してもらった記憶もある。玄関先に外の方を向けて椅子が二つ並べられ、一方にスイカの皿をひざに乗せて私が座り、もう一方にその家の人が座った。通る人や犬を見ながら食べた。

 

電燈はぽつぽつと明るすぎず、歩きながら周りを見渡すと、木々の下、公園内のいろんな散歩道のずっと向こうまであちこちを、人間たちがいろんな方向へ歩いているのが折り重なって見える。私が主に歩くのは、公園の縁に沿って赤土の敷かれたウォーキング又はランニング用通路だ。人が3人通れるくらいの幅の両サイドに背の高い木が植えられているので、前を見て歩けばちょっとした森を歩いているような気分になるし、公園の内側を見ると、電燈の下のベンチで一人スマホをいじる人、夫婦で散歩する人たち、仕事帰りの人、トレーニングウェアの人、犬を連れた人、地面を見ればミミズ、カタツムリ、野良猫、ゴイサギも歩き、速度もみな様々にあちらこちらで入れ違う。屋根のついた東屋ではいつものおじさんが譜面台を立てて、台湾の歌謡曲らしき5音階のメロディをアルトサックスで練習している。まだ初心者という感じで、抑揚がなく、全体的にすかすかと頼りない音でただメロディをなぞるのがかえっていい気持ちに聴こえる。

 

廊下の突き当たりにまだかすかに煙のにおいがする。3日くらい前に母がガスを消し忘れたぼやのにおいが少し壁に染み付いているみたい。母は自分の物忘れがひどくなったのがよっぽどショックだったみたいで、夜中台所にお湯を取りに行くと、電気もつけないまま、真っ暗な中、窓辺にお供えしているお水とお花の前で母が長いこと手を合わせていた。いつも髪をクリップで一つにまとめてあげてバタバタしている母が、肩下より少し長くなった髪を下ろして、足を揃えて静かに立っているふくらはぎを後ろから見ていたら、会ったことのない子ども時代の母がなんとなく浮かんでくるような気がした。

 

都会はもういいかなあと思って引っ越したのに、台北みたいな超都会にワープしてしまった。人が集まってはいけない都会。スーパームーンだというから楽しみに出かけた夜の散歩だったが、ここ数日ずっと曇った台北の夜の空はビルの灯りで赤くうす黒く、月はどこにも見えなかった。

イチヂ

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月6日 台北

台北は今日も雨。濕冷。

13時間寝た。とても気持ちのいい夢を見て、海が青くきれいで、相模川の河口のようなところをトロッコのような乗りものに乗って風に吹かれて通り過ぎて、幸せだった。

お昼もだいぶ過ぎて、のそのそリビングに歩いていくと、おばがソファに座っていた。

「いいのよ、何かしなくちゃいけないわけじゃないんだし」

と、言い訳じみた顔でもぞもぞする私に笑いかける。老眼鏡をして、スマホを持って、SUDOKUかソリティアか、宝石の種類を揃えて落とす無料ゲームのどれかをしている。うちに来てからというものおばは起きている間だいたいこんな感じだ。あとは薬のせいもあってかほとんど寝ている。おばみたいにかわいい人にニコニコと言われると、それもそうかな、という気持ちになる。何かしなくちゃいけないわけじゃないんだし。

 

ベランダでは母が花殻をほうきではいている。少し前にベランダの端っこのシダの根元にカノコバトが巣を作って、いつの間にかヒナが育っている。毎朝起きてすぐにベランダに出てヒナの様子を見に行くのが私の楽しみになった。ぼさぼさ頭のヒナがだんだんカノコバトらしい顔付きになってきている。話しかけるとヒナは巣の中でぐるぐる体を回し、私の方を見る。少しは認識してくれてるのかな。

 

夕飯みたいな時間に朝ごはんを食べた。清明のお供えだった大きな魚を食べ終えた。私が今日も相変わらず18の頃着てたキャミソール一枚でうろうろしているので、母が「あんたイチヂみたい」と言った。母の故郷のタイヤル部落で、どんなに寒くても服を着ない奴と言ったらタリ・ウインとイチヂ、この二人、それにエリも加われるよ、と言ってひとりで笑っている。あの人たちは服持ってなかったんじゃないの?とおばが言い、母は特に返事をしない。そもそもどうしてイチヂはあんな変わった名前で呼ばれていたのか、おばが母にまたたずねた。

「あの人嘘つきでね、仕事待ち合わせして『私イチヂに来る』って言うからみんな1時に行くけど、一回も1時に来たことないよ。いないよ。だからみんなあの人をイチヂって名前にした」

イチヂは何の仕事をしても長続きせず、いつもふらふらしていて、お腹が空くと親戚の家を回って食べさせてもらっていた。イチヂもイチヂの親戚も、部落の中で特に貧しかった。おばあちゃんが母やおばを叱る時、「あんたみたいに言うことを聞かない娘は今すぐイチヂのところに嫁にやるよ」と口癖のようにいつも言うので、母もおばもイチヂをなんとなく憎むようになり、おばに至っては、ある夜、坂の下を酔っ払って歩いてるイチヂを見つけて、坂の上からいくつも石を投げたと言って可笑しそうに笑った。

「うちの前の坂、あそこの下の方をイチヂが通っていくのが見えて、私思わず、そこにあった石を拾って思いっきり投げたよ。他の子がそうしてるって聞いて、私もそうしようと思って。こんな男の嫁になんて絶対になりたくないって思った。そうしたらあのイチヂ、下から私のことこうやって見上げて『誰がお前のことなんか好きかよ』って怒ったのよ。酔っ払って鼻水垂れてよだれ垂らして、ひどい姿で」

  

洗濯機がピーッと鳴ったので、いつも母が洗濯機の上に置いてる大きな洗面器に洗濯物を入れて、台所の裏のベランダに出て干した。母とおばと私の洗濯物は母の靴下がやたらと多く、和柄だったり、履き口にレースが付いていたり、足袋ソックスだったり、ショッキングピンクのモヘアだったり、すべすべしたシルクの二枚重ねだったり、種類も素材も多種多様で、よくまあこんなに集めたもんだと感心した。実家を離れてからずっと乾燥機を使っていたので、洗濯物を干す作業のいちいちが久しぶりでたのしい。うちは台北の中でもかなり古いマンションで、最近のマンションよりボロいが天井だけは高く、物干し竿がとんでもなく上の方にあり、先端が二股にわかれた長い棒を使って、その二股のところに洗濯物をかけたハンガーを乗せ、うまいこと竿に引っ掛けて干し、全て等間隔に並べて眺めているとちょっとした達成感を感じる。

 

昨日の夜は藤沢のパンセでライブの予定だったが、出られない私の代わりにハーモニカ奏者の倉井夏樹くんが出演してくれて、ファルコンとのデュオをライブ配信するというので、時間を合わせて部屋のノートパソコンの画面で観た。二人が演奏する向こうにガラス越しに江ノ電の灯りが時々さーっと通りすぎていく。会場から知った人のよく知った声も聴こえて、コメント欄にはいろんな人たちの声もあふれて、短い間だったがたのしい時間だった。人の前で歌うことを仕事にしながらその意味がよくわかってなかったけど、そうか、こうやってみんなで集まってちょっとたのしい気持ちになる場所をつくってたんだな、と思ったら、悪くなかったんだなと思った。久しぶりによく眠れてしあわせな夢を見た。

 

今日の夜は母とゴミ捨てに行こうとしたらちょうど、清明節の連休で山に帰っていたいとこが帰ってきた。いとこは早口でよくしゃべるしよく笑うので、そこにいるとにぎやかだが、会社勤めで毎日疲れて帰ってきて「ただいま」と言いながら早足で自室のベッドに直行して倒れこむことの方が多い。今日は玄関のドアを開けて「回來了」と言ったその口で続けざまに、

「さっき帰り地下鉄の駅でマスク付けてない人がいたんだけど、そしたらすごいスピードで職員の人がこうやって前に腕出して歩いて来て、『マスク付けてない人は入れません』って、その人速攻で追い出されてたよ」

と、私たちがさっきニュースで見たのと同じ光景についてものすごく早口で話した。今日から台湾の公共交通機関を利用する場合マスク必須となり、していない場合乗車できず、従わない場合は罰金15000元(日本円で約54000円)が課される。

清明

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月4日 台北

昨日は清明節。台湾の国民的お墓参りのこの日は例年よく晴れることが多いが、今年は曇り。おじいちゃんは寝たきりになってしまったので、母と私とおばの三人でベランダで簡易パイパイ(拜拜=お参り)。今年は多くの廟や霊園がオンライン墓参りサイトを作ってそちらを推奨し、どうしてもお墓参りをしたい場合は、時期を早めても「ご先祖様はわかってくれます」と政府が呼びかけたりもしていた。

 

パイパイは漢人の慣習なので、私たち原住民にはよくわからない。漢人と一緒に生活したことでもあれば別だろうが私たちはその経験がない。「パイパイは11時くらいにするのがいいって」とおばは彼氏から聞いたと言い、母は近所の雑貨店でお供えはどんなものを何種類揃えたらいいかを教わり、私はそれらを又聞きし、11時になると母がライターで線香に火をつけた。ベランダの植木を端っこに寄せ、リビングに置いている小さなテーブルを外に出し、魚、豚肉、鶏肉、果物、お菓子、飲み物、お茶碗にご飯、紙のお金を並べ、三人で一人一本ずつ線香を両手で持って、鼻の先あたりで前後に3回振り、それぞれにお祈りをし、みんなで紙銭を燃やした。紙銭は、環境に配慮した煙の少ないエコ仕様だった。お金が全部燃えたら、お供えした食べものを家の中に入れて、テーブルも戻し、立派な肉と大きな魚がそのまま私たちの昼ごはんになった。

 

一日外がうす暗くて、外も20度と台湾にしては冬の日のように寒い。今ぐらいの時期は雨が多くて、冬の乾いた寒さ(乾冷)と分けて「濕冷」という。おばは黒地に桜柄のちゃんちゃんこの下に更に黒いダウンのベストを来て、ベランダで赤いプラスチックの椅子に座って背中を丸めてタバコを吸っている。死んだおばあちゃんの趣味でうちにはやたらたくさんちゃんちゃんこがあり、そのちゃんちゃんこ趣味はいつの間にか母が受け継いでいた。母は私にも、これを着なさい、と赤の絞り染めのちりめんのちゃんちゃんこを渡した。母のはお揃いの紫だ。来客用ちゃんちゃんこもある。「日本でみんな着ているでしょう」と母は言うけど、そうだったっけ。東京での生活の記憶は母の中でみんながちゃんちゃんこを着てる夢と同化してしまったのかもしれない。私はキャミソールと薄手のカーディガンにパジャマのズボンで、母は「あんた見てるとこっちが寒い」と言い、おばは「她已經習慣在日本啦」と母に言う。こんなに長く台湾にいることになると思わなかったので、自分の服をほとんど持ってこなかった。クローゼットに私の高校生、大学生の頃の服、おばかいとこか母の服があり、そのあり合わせを着ている。

 

「そのパジャマのズボンはえりのよ」

 

と母が言う。脳梗塞で倒れた父が日医大病院から石和温泉のリハビリ病院に転院になり、お見舞いの帰りに寄った石和のイオンで母が買ったパジャマだ。15年くらい前のこと。母と私は文京区に住んでいて、私たちはイオンというものを石和ではじめて体験し、イオンはすぐに母のお気に入りの場所となり、父のお見舞いに行った日は母が必ずイオンの大きな買い物袋を提げて帰ってくるようになった。このパステルオレンジのネルのパジャマもそんな風に「すごい安くなってた、でもいいでしょ」と自慢げに値札を私に見せたあとくれた。パジャマの上だけないのは「おばあちゃんが気に入って本当は全部着たかったけど、太ってるから下のズボンが入らなくて上だけ持っていったよ」と言う。パジャマの下なら上に何を着てもそれなりに様になるけど、逆ってなんだか難しそうだな、と、やわらかなオレンジ色したパジャマの上だけ着てああでもないこうでもないと下をとっかえひっかえするおばあちゃんを想像した。おばあちゃんはこの台北のマンションから台湾大学病院に運ばれて亡くなった。父もそうだった。

 

東京で昔住んでいた家の近くのセブンイレブンの店員さん二人がコロナウイルスに感染したとニュースで知る。無事回復されますように。私はスリーエフ派だったけど、いつも親切にしてくれたあの店員さんは元気だろうか。近くの串カツ田中のお兄さんとかお姉さんとか。お弁当屋のお父さんとか。中国人らしいお嫁さんとか。みんな元気でありますように。

疎開のような

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月3日 台北

4月になった。

スケジュールのページに詳細更新していますが、今月出演予定だったライブ全ておやすみします。延期もしくは内容変更にて開催。この大変な中変更に対応してくださったみなさん、本当にありがとうございます。みんなが無事でありますように。

 

苦しいね。親しくしていた日本の人たち誰にも会えないが、みんななんとかやってるんだろうな。それ以外にどうしろと。

 

3月4月というのはそこらへんでたくさんの花が咲き出して、そのせいか空気も明るくなって、駅まで歩くのさえ本当にうれしかったし、小田急線で電車が藤沢駅に入っていく前の、空が一気に開けてきたと思ったら桜がわあっと並んで咲いてるてっぺんのところが窓越しに、あ、あ、と見えてきた2年前、ちょっと遠いけどここに引っ越したいなと思ったんだった。みんなどんな気持ちで過ごしているのだろう。私はまだ台湾にいて、ここには春らしき春がない。いつも何かしら咲いているのだ。とても見事に。ベランダではベゴニアの木の薄いサーモンピンク色した花たちが私の頭上で房になって咲きこぼれ、透けた花びらを落とし、私の家で、下の家で、ななめ向かいの家で、ブーゲンビリアの木々が満開の花のように、赤、白、さまざまなピンクの苞が小さな花を真ん中に包んで群れとなり枝を伸ばし、鳥たちがそこに飛んできて止まっては歌い、シダが生い茂り、外を歩けば大小のランがそこらで咲き、公園の木の幹にはカトレアが咲き、夜は月桃とアンスリウムの白い花が揺れている。駐車場のガジュマルの気根が揺れる。名前を知らない花々が咲いている。パンノキは3階建より高く、うちわよりも大きな葉を落とし、教会の庭や猫のいる花壇の脇に青いバナナが実っている。美しいというよりほかない場所にいて、私はここには春がないような、何か取りこぼしてしまったような、私などいない向こう側の世界で春が咲き出しているようで、死にそうに心細くなったりしている。「そっちにいる方が安全だよ」「ここにいる方がいい」と誰もが言い、私もそう感じるけれど。

 

この数週間、特に役割のない人間という感じで息をしている。寝て起きて食って寝て。久しぶりに母の世話になり、母は祖父の介護をしながら当然のように私を受け入れ、部屋をくれ、食事をくれている。祖父にご飯を食べさせる母の横に時々一緒に座る。母を見ていると、この人は何か世界に負い目でもあるのか、または前世で何かあったか、とつい頭をよぎってしまうほど、みんなの世話をすることでエネルギーを循環させている。

 

おばの躁うつが悪化し、「ひとりで家にいるのはやめなさい」と病院の先生に言われたというので、昨日からおばも私たちと一緒に住むことになった。祖父、母、おば、私。清明節の連休が終われば、母とずっと同居している私のいとこが山からバイクで帰ってきて、私たちは5人暮らしになる。祖父、母、おば、私、いとこ。山ではホンイーの飼っている猫がまた子どもをたくさん産んだそうで「1匹連れて帰ってきてもいいかな」といとこが言っている。2年ほど前に母の飼ってたみーちゃんが死んで、私たちはいまだにずっとみーちゃんの話をしている。

 

母が時々ソファやベッドでごろごろしている姿を見て私はやっと安心する。美しい母からせめて柔らかさが損なわれないでほしいと願いながら、私は寝て起きて食って、夜はゴミ捨てに行って、雨じゃなければその後で近所の公園に散歩に出かける暮らしをしている。

 

今朝「ライブどうしよう」と連絡があった。もし私が日本にいたなら今日一緒にライブをする予定だった。

 

歌って生活できるなんて、そんな奇跡みたいなことあっていいのかなと、活動している真っ最中にそう思っていたのだからしあわせ者だった。実家に戻って最初の頃は、ピアノを弾いたり、歌ったり、新しい歌を作ってみたり覚えてみたり、色々してたけど、ついに何もしなくなった。世界が変わってしまったのだ。でも随分前から、歌に関してはもう死んだ人の歌ばかり聴いていた。

 

変わってしまった世界の向こう側で、私の友人たちは今日も、少し注意深く支度をして、注意深く出かけ、演奏し、注意深く帰ってきているのだろう。そうするよりほかどうしろと。友人だった人たち、と書いてしまって慌てて書き直した。私のいるところから、みんなのいるところがあんまりにも遠い。身体的にも、日本人は台湾に入れなくなり、台湾人は日本に入れなくなった。まあナニジンとかあんまり関係ないよとみんなと善意で話せてた頃、こういう具体的なことまでは想像できなかった。東京はどうなってるんだろう。ひとり実家へ疎開に出てしまったみたい。

散歩

夜、てのひらくらい大きなカタツムリが目の前を通って行ったと思ったら、今日は朝から大雨。雨の音を聴いていたら、久しぶりに部屋で音楽を聴きたくなって、すごいいいよと教えてもらったまま聴くのを忘れてたRalph Townerの曲を思い出してSpotifyで探してかけて、そのままずっとRalph Townerを聴いている。

 

雨は少し外と遮断されるようで好き。東京でも雨が降ってるんだろうか。藤沢の家では、目の前が畑だからか、雨が降っても少し地面に染み込んでいくような音がした。台北のこの窓からは、みんなの家の庇やアスファルトの道を跳ね返る音がする。昔この家に住んでいたからこの雨の音が好きだった。

 

家の用事で先月から台湾に帰っていて、その間に世界がみるみる新型コロナウイルスの大流行で今までと同じようで違う世界に入っていってしまった。同じようで違うのはいつものことだけど、疫病のある世界というのを私はよく知らなかった。私は台北の家のリビングでTVニュースを見ながら、世界ってもっと直接的で、遠慮がないんだったんだと感じる。ベランダの縁や木々の枝に止まった様々な鳥たちが、様々に美しく鳴いている。雨が聴こえる。本当は3日前に私は日本に戻っている予定だった。私のしにきた手続きは、私が考えていたより公的で、個人的で、政治的・歴史的でもあり、実務的にも困難だったとどこかに資料を出すたびに知り、各所から連絡があるまで私は出国足止めになった。今夜は平塚で、明日の午後は鵠沼海岸で、ライブの予定だった。こうなってみると、平塚も鵠沼も、日本が、とても遠く感じる。自分が日本のいろんな場所で、夜な夜な人前で歌っては日銭を稼いで生活してたことも夢とか泡みたいだ。

 

今後しばらくのライブ予定は、コロナウイルスと私の個人的な事情と、両方の理由で中止・延期になるものが増えると思います。このホームページや私のfacebook、Twitterなどでその都度お知らせします。出演できなくなったライブについて、「ライブの代わり」をしようと思っています。何するのか自分でもまだよくわかってないですが、こことかSNSとかで何か出していく予定。みんななるべく無事でいようね。無事っていつだって難しいことだった。

 

いつもの帰り道が封鎖になってしまった。近所の大学のキャンパスを突っ切って帰るのが好きで、家の近くに出る裏口の小さな門の横には私の好きな大きな蓮霧の木がある。売るには小さすぎる実がたくさんなって、季節になるとそこら中にボトボト落ちて、あっという間に地面が汚くなる。大通りを、図書館裏のウッドデッキにつながる小さな新しい木の門から入って、この蓮霧の木の裏門から出て家の方に抜けるのが好きだったけど、一昨日くらいまで普通にそうやって帰っていたのが、昨日にはもう正門以外全ての門が閉鎖されていたようで、正門の横で、おでこで測る体温計を持った警備員が検温係をしていて、自分で手をアルコール消毒し、済んだら置いてあるスタンプを手に押して大学敷地中に入るようになっていた。近所のスーパーで買いもの帰りの母と私の手の甲にも、黒いインクで04と番号が振られ、人参やかぼちゃ、地瓜、キャベツ、香菜、エノキダケ、黒きくらげ、枸杞、干しエビ、お米、シママース、グアバの入った買い物用キャリーカートを私が引っ張り、母は豆腐、龍鬚菜、にんにく、豚肉の細切れの入ったエコバッグを抱えて、夜のキャンパスを、どこかの門がまだ開いていて、どこかにまだ家への近道が残っていないか、二人で歩いて回った。当然、正門以外の門はどれも工事用フェンスで塞がれていて、私たちが引き返してくるのを見ると、向こうから歩いてきた学生らしき若者たちもくるりと踵を返して引き返していった。まだ電気がついている校舎の上のほうから、上手に笛を練習している音が聴こえて、電気が消えたほうの校舎の入り口では揃いのTシャツでダンスを練習するグループがいて、閉店後のカフェの前のテーブルやベンチには、街灯の下で寄り添って座るカップルや、誰かと電話する人、一人で気功をしている女性なんかがいて、その横の歩道に大きなカタツムリが出てきたのを見つけて私が写真を撮っていると、母が「ここに変態がいたのよ。あんなの出して歩いて、気持ち悪い。せっかく散歩してたのに。ママあわてて警備員のところに行って『那邊有變態!』って言って、あれからこっちにも電気つけるようになったね」と言った。

 

外は雨が少し上がったみたい。相変わらず鳥の声と車の通る音がする。お昼ごはんの時間になったから、外にも人が溢れてくるだろう。

変わる

今日も晴れ。毎日晴れ。右側の窓ガラスがまだ曇っていて空の色がぼんやりとしか見えない。今日もうっすらした青。

 

今日もパキラの前に座って、なんの気なしにため息が出て、すると手前の方の葉っぱが何枚も何枚も、茎ごとみんなしてざわざわと揺れだして、茎が落ち着いて見えても葉っぱの半分くらいはしばらく細かく揺れていて、私は驚いてしまった。自分のため息なんてこの広い世の中では意味も影響もホコリほどもないものだと思ってた、というかそんなことを考えてみたことさえなかったのに、たかが私のため息のせいで、私の大事な小さな木の上の方の3分の1もがしばらく揺れ続けて、ごめんと言ってみてももう遅かった。

 

昔、ニューヨークの友人まきちゃんと、イーストビレッジからハーレムへ向かうバスの中でおしゃべりしていて、

「会社の同僚が横の席でめっちゃ大きいため息、ッハアアー、ッハアアー、ってつくねん。もう『あんたのため息で風邪ひくわ』って速攻言ってやったわ」

と、半分怒ったような半分笑ったような顔つきでまくし立てていたのを思い出した。この発言は、ため息の同僚とその周りの席の人たちに随分ウケたらしい。まきちゃんは大阪出身で、まきちゃんの英語もやっぱり大阪弁だった。ため息で風邪引くなんて本当におもしろいこと言うなあ、まきちゃんは、とその時私はケラケラ笑ったけど、今朝のパキラをみて、こりゃあ本当にパキラが風邪を引いてしまう、引いてもらったら困る、とあわてた。

 

風を感じると神様がいるみたいな気がする時がある。気持ちいい時もそうだけど、寒い日に吹く冷たい風の厳しい時や、さみしいような時もそう感じる。

 

川でも公園でも、水辺にはよくベンチが置いてあって、そういうベンチに座っていると、風が吹いて、横に座る人の髪が揺れるのが見える。風は見えないけど、見えない風が私の隣の人の髪を揺らし、じっと座る人のただ髪の毛だけが揺れているのを見て私はみんな孤独だなという気持ちになる。その人も私も、私たちの形は、静かに風が吹けば揺れて、変わる。

樂園

今日もいい天気。冬ってこんなに毎日いい天気だったんだっけ。冬が穏やかな季節だと今まで感じたことがなかった。暖冬ということなのかな。ブラジルもオーストラリアも随分燃えてしまった。

 

台湾にもうすぐ帰るし台湾文学でも読んでみようと思っていろいろ物色していたら、ある本について書かれた文章を読んでものすごく動揺し、息を吸うのも吐くのも苦しくなった。どうしていいかわからなくなって、とりあえず立ち上がってベランダの外を眺めると、外の景色すらいつもののんびりした感じが無くて、暗いと感じた。畑の横の道を小学生くらいの男の子たちがが五人くらいで歩いてくるのが見えた。いろんな色の服を着ていた。別に目が合ったわけでもないし、彼らにとって向こうのマンションの窓のその向こうでひょっこり立ち上がる私なんてただの風景の中の点に過ぎないのだが、なんでだか、私には外の世界と合わせる顔がない気がして座り込んだ。じっと床に座っていると背中の後ろで通りを車が通る音がして、その重く低い音が近付くたび、私の心臓の音がどんどん早く大きくなってくる。

房思琪の初恋の楽園。

房思琪的初戀樂園。

どうして自分がこんな風になってしまうのかわからない。まだ本を読んでもいないのに。でも私はあの台湾の本に書かれている空気を吸ったことがある気がするのだ。ただそれだけ。何が起きたというのだろう。私の身には似たようなことすら起きたことがないはずなのに。そうだったのだろうか。椅子に座って息を吸っていることさえ苦しくて辛い。しばらく床の上でじっとした後、部屋の外の空気を吸おうとキッチンへ向かうドアを開け、ベランダへ出て、植木鉢の大文字草の新芽たちの横で枯れたまんまになっていた古い葉っぱをいくつかむしり取って、キッチンのゴミ箱に捨てた。花や土や植物が頼りになるということを、この本の主人公ぐらいの年齢の頃、私は知らなかった。本や音楽や街に出ることを好んでいた。母は空いている時間のほとんどを庭で過ごしていた。

 

今朝も、いつものように、部屋のすみのパキラの前に座って、なんだか涙が流れてきてしまった。これもどうしてなのかわからない。以前も同じこのパキラの前で、私は葉っぱや茎が成長しているのをただ眺めながら呼吸を数えていたはずなのに、みるみる泣き出してしまった。そういう自分が嫌だと思う気持ちは昔からある。かといってどうしようもないし、変わるわけでもない。どうせ変わらないならもっと堂々と泣いてればいいのかな。アフリカでは、堂々号泣していたら警察が集まってきてびっくりしたことがあった。ちょうど海辺で泣いていたので、自殺するんじゃないかと勘違いした近所の人が通報したのだ。一体何があったのか自分でもわからないが、何かにつけて、つけてなくても私は泣く。小さい頃からそうなのだ。父が脳梗塞を起こした後入院していた病院のリハビリ室で、年配の男性たちが数名、皆でおいおい泣きながらリハビリしているのを見てギョッとしたことを思い出す。「脳梗塞やるとみなさん涙もろくなるんですよ」と、看護師さんだったか、どなたか患者さんの家族だったか、言われたのを覚えている。恐ろしい光景だった。私もあんな感じだ。泣きながらリハビリしながら生きてるみたいだ。

 

昨日は都立大Jammin'で、小牧さん、明未ちゃん、吉良くんとライブ。1stセットが楽しかった。マイケル・ジャクソンの好きな曲、小牧さんのアレンジで歌ってたのしかった。音を出してみてすぐに小牧さんがどんなことしたかったのかわかった。みんながすごかったな。みんなのすごいのに圧倒されて終わった。こういうライブがもっとできたらいいなあ。マスター、バンドのみんな、来てくださったみなさま、本当にどうもありがとうございました。

 

今日は立春。日曜日のSTAXワンマンライブの中身をいろいろ考えたいから、モールにでも行こうかな。モールのあの感じの中をうろうろしていると、自分なんてなんでもないという気分に包まれて、妙に心がやすらぐ。モールみたいな安っぽいやすらぎが不思議と一番心安らぐ時があって、なんとなく今日はそんな日だという気がする。本屋さんでは『房思琪の初恋の楽園』を探しちゃうだろうか。こんなこと書くから探しはするだろう。でもさっきより少し丈夫になってるからたぶん大丈夫。

 

先月末、もうかれこれ10年近く愛用していた何でもたくさん入るカバンが壊れた。カバンが壊れる前にすでに、気に入って使ってたお財布も壊れた。お財布の方は去年買ったばっかりだったんだけど。でも代わりのカバンもお財布も、モールで買おうという気にはならないんだよなあ。いくら心安らいでも。

振り返る

2月になった。節分。

昨日早朝ゆみちゃんと何とはなしにおしゃべりしていたら、去年ニセコで一緒に温泉に入った感じを思い出した。翔くんとゆみちゃんと三人で行った湖、ビキと四人で行った湖、今頃全部深い雪の中かな。知床の海には流氷が来ているのかな。寒いときの北海道に行ってみたい。

 

1/31

レッスンの仕事で千歳烏山へ。今回も生徒さんにまた夕飯をごちそうになり、本当にありがたい。

食事をいただきながら、話の流れでなんとなく「普段料理とかされるんですか?」と生徒さんに尋ねたら、全く思いも寄らなかった答えが返ってきて、声が出なくなってしまった。そのまま食事を続けながら、その方は「人生いろんなことがあるからね」とおっしゃって、このよくあるフレーズがなんとすさまじい一切をくるんでしまう言葉なのか、私はただ茫然とするしかなかった。それからまた少しいろんな話をして、バス停まで送っていただいて成城までバスに乗り、私は電車に乗って帰る前に少し時間がほしくて、駅ビルをうろうろと歩いた。この駅ビルに特に興味を持ったことはなかったけど、こういう時はありがたかった。ここを行き交う何もなかったような顔した人たちも、みんなそれぞれいろいろあるのかもしれない。あるのだろう。素敵なものが並ぶお店でカラフルな小さな花がたくさん詰まったガラスの瓶を眺めて、母へ誕生日プレゼントの代わりに何かお土産が買えないかなと探した。母は誕生日がわからない。一応、この日かこの日かこの日、という候補日がいくつかあるのだが、「絶対にこの日だった、私がその証人だ」と言い張る人たちがそれぞれの日にいるので、おばあちゃんは母に説明しながらやっぱりどの日だったかわからなくなって、「山にカレンダーがなかったでしょ」という一言でいつも話が終わった。誕生日のわからない母にとって誕生日ってどんなものなのかな、と思う。どうせわかんないしどうでもいいよ、もうこんな歳だし、と母は言う。

快速急行というものに乗らなければ、小田急線でもそんなに混まず、けっこう快適に帰れるとわかった。やっぱり各駅停車っていいな。ぱっとしない駅ほど味わい深く、降りる人たちの顔を見ていろいろ想像する。

 

2/1

長い長い1日だった。ほぼ24時間起きていると、最後の方はまるで時空がぐにゃりと曲がるような、特に時間の感覚が不思議になってくる。でもいい日だった。

午後は大塚、先日ばったり会った太光くんと、太光くんは私にピアノを、私は太光くんに英語を、というクロスオーバーレッスン。レッスンと言っても、太光くんが4月台湾でピアノのレッスンを英語でする予定があるとのことで、その前にまずは私が練習台になり、そういう状況を想定した英会話レッスンをしてもらえないか、という話。しかしピアニストと並んでピアノを弾いてみると、私は本当にまあ呆れるほどピアノが弾けない。太光くんには、テクニックとかじゃなくてアイディアだよと言われて、それもそうなんだろう。そのアイディアが出てこないと私のようなテクニックのない人は本当に、ピアノの前に悲惨が座って弾いているみたいなことになる。でもそれでもピアノを触れてうれしい。やっぱり木のピアノとその響きが好き。太光くんは、6年前私が誰もミュージシャンの友達もいない東京に来て、最初にできた友人の一人だ。太光くんが The Way You Look Tonight をゆっくりのバラードで、伴奏の小さなアイディアたちを私にもわかるように弾いて見せてくれて、私は隣に座って、それをよくよく聴きながら、それがよくよく聴こえるように、小さな声でそーっとメロディを歌った。

夜は神泉でライブ。レインボーカントリーという初めてのお店に翔くんに呼んでもらって、そこがレゲエと泡盛の店で、ライブが始まるのもお客さんが集まるのも遅いと聞いて、なんだかもうそれだけで楽しみにしていた。私は最近早寝なのだけど、でも夜を楽しむ人たちが集まるお店はそうでなくちゃね。終電の時間で夜がデザインされるなんて嫌だなと東京にいるとよく思う。そういえば太光くんや小牧さんや明未ちゃんやゆりちゃんや友人たちと出会ったイントロのセッションも終電関係なしの場所だった。レインボーカントリーのライブは、NYから来日中のドラマーのデルと翔くんと私の三人で、全く何も決めない、曲順もセットリストも今日何をするかも誰も知らないライブ。翔くんがお店の名前から即興で作った曲に私がコーラスをして1stステージを始め、三人でジャズやポップスや台湾の民謡やいろんな曲を演奏し、そのステージが終わってお客さんが集まってきたところからが本番。そこにいる人、お客さんも含めてみんなで楽しむということを本当にみんなでする。翔くんが突然私の知らない誰かの曲をカバーし始めて、私がシェイカーを振りながら1番を聴いている間、お客さんで曲を知ってる人が歌詞を検索した画面を私に出し、2番から私はその歌詞を見ながらコーラスで入る。ノッてきたお客さんたちは一緒に歌う。デルは日本語がわからないので、何が起きているかなんとなく感じ取っているという感じなんだろう。でもドラムセットの代わりに持ってきたウォッシュボードで繊細かつ的確な演奏をしてくれて、とっても安心感がある。朝までみんなで喋ったり歌ったり笑ったり、途中でお店のきよしさんが三線で本格的な沖縄民謡を弾いて、お客さんのみきちゃんが歌ったり、私が自己流で歌ったりもした。朝方にはDJのジーくん(名前間違えてたらごめん!)が次々と素敵な曲をかけて、女の子たちがゆらゆら踊った。もうクタクタだったのに、ゆみちゃんの車に乗って、目を覚ますと浅草で、ゆみちゃんがモーニングしたいと言って私も一緒に喫茶店に入って、気がついたら3時間以上経っていた。心配した翔くんからゆみちゃんに何度も着信があったのに、二人とも気付きもしなかった。あの3時間はなんだったんだろう。どういう風に経っていったんだろう。ゆみちゃんの顔の上を、眩しい朝の光とその光が作る柱の影が、少しずつ横へ移動していくのを向かいの席から眺めてはいた。びっくりしたまま浅草駅まで送ってもらって浅草線に乗り、電車が京急にいつの間にか変わって地上へ出て品川を通り、青物横丁のあたりから少しずつ高い建物が減っていって、薄い青い空が広くて気持ちよく、大きな富士山がずっと私の右側にあった。今にもあちらこちらで木の枝のつぼみが花開いていくのが見えそうで、私の座っていた窓際の席も足元からぽかぽかしていて、私はやっと眠たくなって、このまま三崎口までうとうと乗っていけたらなあと思いながら、横浜に着き、乗り換えて、藤沢に着き、乗り換えて、自分の駅で降りると、駅前で餅つき大会をしていた。白い雲に混ぎれて白い半月が見えた。

Daffodil

今日もうららか。歌い出しちゃいそうだった。

パリに行ってしまった友人の麗ちゃんのうららという字は、うららかのうららだったんだ。今はじめて気が付いたけど、確かに名前の通り、うららかな日の午後みたいな顔をしたかわいい人。元気かな。

 

友人にいただいた美味しそうなきのこのパテを食べたくて、昨日久しぶりにバゲットを買ったのが、長くて食べ切れないので、今日はバゲットを食べ切るために、じゃがいもとにんにく、ベーコン、牛乳、白ワインでスープ作ろうかな、と思っていたところに宅急便が届いて、白菜、大根、人参、ほうれん草など立派な野菜をたくさんいただき感謝。新鮮なうちに早速いただかなくては、と、スープの中身をじゃがいもから白菜と大根に変更。家で適当に料理していると、こうして目的がちょっとずつズレていく感じが楽しい。宅急便の箱の中には可愛らしい日本水仙の花束も入っていて、お菓子の入ってたジャーを洗って花瓶にしてテーブルに飾った。とってもいい香り。水仙って、ちょっとニラみたいな葉っぱなんだね。小さくてかわいい花。十数年前、水仙のこと英語で Daffodil って言うって知った時、心の中がぱあっとした。この可憐な花々は本当にそんな音を立てていそうで。

 

昨日の Eri Liao Trio @ 吉祥寺 音吉!MEG、お越しくださったみなさま、お店の柳本さん、どうもありがとうございました。お客さん少なかったけど(マンツーマン!)音楽を気楽に味わって楽しんでくれる人たちが聴きに来てくれて、とっても嬉しかった。ファルコンや小牧さんのようなミュージシャンと一緒にいろんなことをライブで試せることはとってもありがたい。昨日は特にそんな気持ちになった。2015年の夏から、もうすぐ5年もこの二人と一緒にこうやって音楽やっていられるなんて、世の中には意外にもやさしいところがあるんだな。MEGにはまた5月末以降に出演することになりそう。皆さんどうぞまたよろしくね。

 

今日は午後の間に横浜で用事を済ませ、港の方へまたちょっと散歩。この間来た時よりずっとあたたかくてしあわせ。

象の鼻テラスのガラス窓の中で、たくさんの人たちが動き回っていたので近寄ってみると、ちょうどダンサーの安藤洋子さんが「ARUKU」というワークショップをやっているところで、終わりの15分だけ覗くことができた。今みたいに歌うようになる前、私はずっと踊ってて、また踊りたいなあと最近ぼんやり思っていたところだった。ダンサーではない人も対象の歩くワークショップで、直視するのが大変なくらい、いろんな人たちが本当にいろんな格好で歩いていて、その中で安藤さんが楽しそうにしているのを見てたら、私も自分の身体と一緒に、私の身体に連れて行ってもらいながら、もうちょっと先まで歩いてみたい気分になって、港沿いのボードウォークをずっと山下公園まで歩いた。夕方4時を過ぎる頃、たくさんの人たちが私のようにお散歩したり、ベンチに腰かけたり、写真を撮ったり、人々が話すのを聞いていると、日本語、中国語、韓国語、何語かわからないけどどこか東南アジアの方らしき言葉、よく似て少し違うアジア人たち、もっと目鼻立ちのはっきりして浅黒い肌の人たち、水の上には黒いカモが浮かんだり、その上を白いカモメが飛んだり(カモにメつけたらカモメになるのね)、木々にはスズメや鳩もいて、こういう風にいろんな動物たちが水辺に集まっている場所にいるのがとっても好き。人間も、こうやって水辺に集まる動物の仲間なんだなあと思ってほっとする。

 

夕方4時を回るころ、太陽が沈んでいく港の西の方には横浜の街が広がっているので、鵠沼の海から見えるような圧倒的な夕日は建物が立ち並ぶ向こうにあり、ビルの隙間からもほとんど見えない。でも海の水は私の見えない空も全て映すから、東側の穏やかな水色の空と、西側の太陽が強く輝き出す空と、両方の空の色が水面にずっと広がって、波が静かに寄せて揺れるたび、青と黄色の太い筋がキラキラとずっと向こうの水平線の方まで揺れて、そのきらめきの中にカモたちは浮かんで揺れて、私の足元ではちゃぷん、ちゃぷん、と波の当たる音がする。下を覗くと、ただのコンクリートというより、まるで海の底にある古い建物の上の舞台のような形をしていて、後からこの公園は関東大震災の瓦礫を埋め立てて作られたのだと知った。この間もそう思ったけど、横浜の港の水は意外にも澄んでいて、よーく覗いていると水中に潜ったカモがすーっと泳いでいくのが見えて、水面に上がってくると、カモはぷるぷるっと濡れた頭を体をふるわせる。カモの潜っているあたりの水面に細かい泡がぷつぷつ弾けて消える。その水面も、もっと向こうの水面も、青と黄色の光沢のきらめく細いひだの並ぶ紗がいくつも重なるように、波のたびに動いて揺れて輝き、こんなドレスがあったらきっと素敵だな、とか普段考えもしないようなことを考えた。あんまりにも美しくて、こんな色があることを忘れたくないと思って、少し暗くなるまでしばらく眺めた。あそこに浮かぶカモになって、すーっと潜って水面から顔を出したらどんなだろう。

 

贅沢な気持ちになったので、もうちょっと贅沢をして、横浜駅東口まで船で帰る700円の切符を買った。元町・中華街駅まで中華街の中を歩いて、媽祖でお参りしてから帰りたいとも思ったけど、それにはもう時間が遅かったし。今度このあたりに来る時は氷川丸の中にも入ってみたい。家に着くまで、三日月が高く輝くのをずっと見た。

V

あんなに寒かった数日間が嘘のように、なんとまあよく晴れた。コートもいらないほどあったかい。朝ゴミ捨てに外に出たら地面も濡れて春のようだった。

 

ピアニストの岡野勇仁さんに「エリ先生(勇仁さんはみんなの名前に先生をつけて呼ぶ)もそろそろ自分語りとかされないんですか?」と、去年の夏、サブリナ、拓馬、マルコ、とみんなでリハをした後、エチオピアレストランで夕食を食べる前に立ち寄った四つ木の公園のベンチで聞かれて、その時は、いや、うーん私そんなことするのかな、って確か答えたんだったのに、ものの見事に毎朝自分語りをするようになった。勇仁先生にはそんな私が見えたのかしら。

 

ベランダのお花に水をやってたら私も外に出たくなって近所のスーパーへ。あたたかくて飛び跳ねるような気持ちで出かけたんだと自分でも思っていたら、出てみると、確かに嬉しいんだけども、少し戸惑う。1月だし。春の、芽吹いてくるような気持ちにならないのはそりゃ当然だった。私は外が寒いことに慣れたり、暖かい部屋の中を楽しんだり、うら寂しい冬の景色を味わったりしようとしていたんだった。富士山がまだ真っ白なのを見て、少しほっとする。太陽はあたたかいけど、部屋の中にいると外からの風はまだ冷たくて足先が冷える。スーパーの帰りに薬局へ寄って、マスクを買って帰った。窓を開けて、少し冷たい風を部屋の中に入れた。外に出て一番うれしい気分になったのは、大家さんの敷地の土の地面に大きな大きな水たまりが出来てたことだった。

 

遠くに海の音が聞こえる。郵便屋さんのバイクがエンジンをかけたまま停まっているのが聴こえて、また走って、また停まって、と繰り返して、少しずつ音が小さくなり、走り去って聴こえなくなった。

 

こんな風にいきなりあたたかくなる日、植物って一体どんな感じでそこにいるんだろうな。鳥とか猫とか虫とかも。

 

昨日中国語の話を赤須翔くんとしていて、「この漢字は日本語ではこういう意味だけど、どうして中国語だとこういう意味なのかな、まあ順番的には逆なんだろうけど」とかそんな質問をされて、そのまま漢字についていろいろ話し合ってたら、気になってきていろんな漢字の象形文字をネットで調べはじめてしまった。漢字のことってこれまであんまり考えたことがなかったけど、象形文字ってこんなに楽しいものだったのね。白い紙に自分も試しに書いてみたら、もっと楽しくなった。歌と似てるな、と思った。

 

いつも歌っていると、特に外国語で歌っていると、この言葉(歌ってる時なのでつまり音とリズム)によって示したいと思うことを人間の声を使って表現したい時、人間ってこういう音とリズムを選んでるんだ、というのがとっても不思議で面白く感じる。そしてどの言語も今と何百年前、千年単位の昔では全く違っていて、そんな大昔じゃなくても80年代、90年代くらいの日本人の話し方だって、時々テレビで昔の映像なんかで出てくるのを見てると、今の日本語とはリズム感や音のそもそもの出し方や口腔内での響き方が全然違うように感じる。なぜか体の奥がもぞもぞして、別に恥ずかしくなる必要もないのに、恥ずかしいみたいなくすぐったい気持ちになる。

 

今夜は吉祥寺のMEGという元々ジャズ喫茶だったお店で私のトリオのライブなので、弾き語りの時にはあんまり歌わないようなジャズのスタンダード曲もきっと歌うと思うんだけど、スタンダードを歌っていると、曲の最後、フレーズの最後の言葉が "love" という曲が多い。一番最後の言葉、音なので一番耳に残るし、大事に歌いたいと思っているからか、私はいつもこの love という言葉でその曲が終わる時、「ラー」と、私の舌先が私の口蓋のアーチに触れて、なぞって下りて歯の感触に当たり、舌を離して、息を伸ばし、でも最後私は下唇を噛まないと、v としないと、この音は愛という意味を持たないということにゾクっとする。愛のような感覚は人類、もしかしたら哺乳類、みんなあるんだろうけど、その感覚を表現するために、ここから遠く海を隔てた地では、みんな、少し開いた口の中で自分の舌をなぞらせ、息をはき、下唇を噛んできたんだなんて。

 

厚木へ向かうのか、軍用機の音がすごい。

柏尾川

いよいよ寒くなった。何もしたくない。昨日から風も強いし、雨も降ってる。シナモンと胡椒は相変わらずおいしい。お風呂ばかり入りたい。でも早朝が冷たく暗くても、夜が明ければやっぱり明るい。灰色の空も、寒々しい灰色のまま明るい。それにしても風の音ってどうしていつもこんなに胸がドキドキするんだろう。

 

旧正月の頃ってこんなに寒いんだなあと思ってたら、幼稚園の頃、母が旗袍を買ってくれたことを思い出した。いかにもよくある色と柄だったから、たぶん母は市場かどこかで買ったんだろう。私が自分で選んだかどうかは思い出せない。自分で選んだならピンクのにしたはずだと思うけど、そう言えば小さい頃は一番好きなものがいつもうまく言えなくて、「好きなのを選んでいいんだよ」と言われてもなかなかピンクのを指差せなかった。だからもしかして私が自分で「これがいい」と言ったのかもしれない。テロテロ光る赤いサテン地に金糸で梅の花咲く枝がたくさん刺繍してあって、立襟の付け根とそこから脇にかけて斜めに中国紐の飾りボタンが四つくらいついていて、長袖。生まれてはじめて着た旗袍。「過年の時に着るんだよ」と母はすぐに洋服ダンスの中に仕舞ってしまって、私は何日もワクワクした。台湾も昔は旧正月の時期はデパートでも市場でもお店はみんな閉まったので、母に手を引かれていつもより人出の多い街へ、鹹蛋や香腸など、私の大好物かつ日持ちのしそうなものなどを買いに、背の高い大人たちに混ざって、母からはぐれないよう長い列に並んで、頭の中はあの真っ赤な旗袍でいっぱいだった。

 

生まれ育った台北のマンションに住んでたのは私と母の二人だけだったけど、今に至るまで、母と二人っきりになったことはほとんどない。母は七人兄弟だったから私にはいとこがたくさんいて、祖母は五人姉妹だったので母にもいとこがたくさんいて、よって私にはたくさんのはとこもいた。大家族で一つ屋根の下に住むことの多い台湾で、私と母が二人暮らしをしているというのは、周りにはきっと相当心細く見えただろうし、母の兄・妹・いとこ達は決して楽じゃない仕事をしながら子育てをしていたから、経済的にも精神・体力的にも余裕がなかったのだろう。おばあちゃんは様々なおじおばのところから代わる代わる誰か子どもを、順繰りに連れては手をつないでうちへやって来て、連れて来られたいとこ達はうちのマンションから幼稚園に通ったり、年の離れたはとこはうちから大学へ通った時期もあったし、小学校だったいとこは、私の世話や遊び相手をしながら、今にして思えば一学期分くらい平気で学校を休んでいた。

 

その年の春節は珍しく、家に私と母の二人だけで、私はやっとこさお気に入りの旗袍を着て、髪型も、母がいつもよりちょっと可愛く整えてくれて、とってもいい気分だったが手持ち無沙汰だった。母は向こうで台所仕事か何かで忙しくしていて、私はなんとなくリビングの壁際に立っていたのを覚えている。寒いからと母に白の分厚いタイツを穿かされて、「恭喜恭喜恭喜你呀」とくり返す春節の歌をひとりで延々と歌った。母と二人でテレビを見て、当時テレビのチャンネルは、中視、台視、華視の三つしかなくて、チャンネルを変えたければ画面横にあるチャンネル名の書いてあるボタンをカチッと押して、押すとボタンが光って画面が切り替わった。まだ台湾が戒厳令下にあった時代。春節用の歌番組で誰かが「梅花」を歌うのを見たような気もする。その年の春節じゃなかったかもしれない。爆竹の音を聞きたくて、いつもより遅くまで起きていたかった。台湾で過ごした春節なら、もっと家にみんなが揃って、それかもしくは私と母が誰か親戚の家に行って、にぎやかで楽しかった年が必ずあったはずなのに、旧正月と言うと思い出すのは、赤い旗袍にワクワクしたあの気持ち、背の高い大人に混ざって並んだ長い列、お気に入りの旗袍を着て、上機嫌だけど手持ち無沙汰なあの気持ち、ひんやりした壁、母と二人しかいない家の中で、聞いたか聞かなかったか、下の通りからする爆竹の音に喜んだようなこと、チャンネルの三つしかないテレビ、どれも少し寂しい色合いをしている。

 

寒い季節はそういうものなのか、日曜日、京急に乗って、品川あたりでふと窓の外を見下ろすと、第一京浜には人も車もまばらで、その人気ない広い道路をぼーっと眺めてたら急に、まるで自分がみるみるその寂しさそのものになってしまいそうに感じて、あわてて自分で自分の手の指を触った。あの覆いかぶさるような寂しさが、第一京浜のものなのか、私から出てきた何かだったのか、なんだったのかわからない。

 

同じ日の夕方から、戸塚LOPOでライブだった。このお店で演奏するのは2回目で、私はLOPOの真横を流れる柏尾川という川が好き。東海道線が戸塚に停まる間によく見えて、地味な感じでいいなあ、いつか行ってみたいなあと思ってたので、はじめてLOPO出演のお誘いがあった時、なんとあの柏尾川沿いにあるお店だと知って俄然楽しみになった。桜が植えてあるから春はきれいなんだろう。ここに来るのは2度目。前回は夏だった。

 

戸塚の駅の周りは再開発の成果らしき大きな建物、住宅も大きなマンションが多くて、全部人間が作るものなのに、作れば作るほどますます人間味が吸い込まれてなくなるような雰囲気がある。東京地方には雪の予報もあった寒い日、リハを済ませて、電車から見えた川沿いの枯れすすきの方へ散歩に行ったら、思いの外、川はいろんな生き物で賑わっていた。枯れ草色と対照的な、鮮やかで色とりどりの傘をさした小学生の女の子たちがストーリー仕立ての動画を撮ろうと走り回って四苦八苦している向こうには、たくさんの鴨、真っ黒いのや、いわゆる鴨色というのか、顔らへんが緑っぽいのから、茶色っぽいのから、それより少し体が大きくてペンギンみたいな白黒で頭の上に羽根がピラピラしているもの、サギなのか、川の際を細長い脚でゆっくり食べ物を探し歩く白いのと黒いの、セキレイたちの群れ、桜橋という橋の下というか橋の裏側のくぼみのところにズラリと鳩が並んで休み、カラス、雀、走る人、買い物袋を下げた人、犬の散歩をする人、子ども、写真を撮る人、猫に餌をあげる人、そしてたくさんの大きな黒い鯉。こんなに水鳥が来てるから川の中には小さな魚もたくさんいるんだろうな。夏にはじめてここに来た時、私のいる岸の向こう側で鯉の写真を撮ってははしゃいでいた若い中国人カップルのことを思い出した。

 

ライブも、打ち上げも、本当にどうもありがとうございました。ここに来たから会えた人たちと会えて、すごく嬉しかった。みんなにお世話になりました。また会おうね。

 

そろそろ支度をして、藤沢でお世話になっている方々と新年会。今週は宴会続きだね。

農暦1月1日

今日は農暦1月1日。旧正月。新年快樂,身體健康,鼠年大吉!

 

除夕、つまり大晦日が昨日の夜で、台湾ではその前の日から旧正月のお休み。親戚たちからLINEやfacebookで吉祥話と呼ばれる「鼠」の音にかけたおめでたいフレーズが飛び交って、そういう台湾人の験担ぎ大好きなところが大好き。ああ懐かしいなあ。台湾で最後に旧正月を迎えたのはもう随分前のこと。みんなの家の玄関に、春聯という吉祥話を書いた赤くて細長い紙が入り口を囲むように貼られているのを、うらやましい気持ちで眺めた。台湾に住んでいても家族に漢人のいない私の家には漢人文化もそこまで入っていなくて、うちの玄関は1月末になってもまだクリスマスの飾りがまだついたままで、「キラキラしてめでたそうだからこれでいいよ」ということになっている。せめて「福」の字だけでも買って貼ってみたいなと思って色々見たけど、きっと母に「なんか台湾人くさいね」と言われるのが落ちだし、ひっそり自分用に、ノートパソコンのスクリーンを玄関に見立ててスクリーンの上左右に貼れるようデザインされた春聯シールを買って、それで旧正月ということにしたのだった。

 

漢人の文化にはやはり憧れがある。日本の文化にも、一時期もっと憧れがあった。日本に長く住んで、台湾に帰ることも、自分が台湾から来たこともほとんど忘れかかっていたような頃、特に憧れがあった。周りの友人やその家族みたいに日本人になってみたかったんだと思う。

 

除夕の夜は年夜飯と言ってみんなで集まってご飯を食べる習わしがあり、日本にいるとそんなこと一緒にできる家族もないのですっかりしていないけど、昨日は近所の亀吉にゆみちゃんが薬膳スープをなんとお鍋ごと持って来てくれていた。除夕だからとかではなくて、鵠沼的赤須BARというイベントで提供する飲食として、ちょうどこの間台湾で買った薬膳スープの材料に鶏肉を入れて煮込んだスープや台湾の食材など持って鵠沼まで車で来てくれていて、すっかり私はその恩恵に授かってしまった。ゆみちゃんの薬膳スープがあんまり美味しくて、最近は京島界隈でも評判だそうで、本当に美味しく、みんなでおかわりして二杯ずついただいてて、思いがけず立派な年夜飯となった。ゆみちゃん、翔くん、ありがとう。

 

旧正月なので台北の母に電話していたら、ベランダの手すりに鳥が止まった。一瞬のことで、私を目を合わせると首を傾げてまた向こうへ飛んでいってしまった。雀とかよりちょっと大柄の鳥だったけどなんという名前なんだろう。ムクドリかな。下の植木のところには、抹茶色したかわいいメジロが二匹、母と話している間ずっと何かを突っついていた。

 

今夜は久しぶりにQのみなさんとご一緒できて、みんなで焼肉の会。みんなで集まってご飯食べるのって、大好きなのとちょっと苦手なのと二つの気持ちがいつもあるんだけど(それもあってお酒をたくさん飲んでしまっているような)、演劇という形式の中に身体を置いて、歌をうたったり自分の声を発したということは私の去年の大きな出来事だったし、何ヶ月も一緒に稽古して本番も迎えたみなさんと揃って焼肉できるなんていかにもお正月でうれしい。ひとりが好きなのとみんなが大好きなのと、うまく両方して生きていきたいな。

 

昨日はそういえば、大学の後輩の鈴川くんとなんと日本大通り駅付近でばったり出会ったのだった。横浜地裁の前にテレビカメラや取材陣が集まっていたので、何かな、と思って覗き込んだりしながら歩いていたら、「井坂さん?」と声をかけられた。大学までの友人の間で、私はエリちゃんでなければ井坂さんだ。急に印鑑が必要になって、門前仲町のはんこ屋さんで出来合いの井坂の印鑑を買って横浜に来たところで、さっそく道端で「井坂さん」と呼ばれた。十数年ぶりの鈴川くんは、弟さんと一緒に、港へ向かう美しく整備された道を晴れ晴れと歩いていて、そんな姿を見ることができてうれしかった。地下へ入ってみなとみらい線に乗ろうと思ったら、向こうの方に横浜駅へ行くバス停が見えたので、もう少し横浜を眺めていたくてバスに乗ることにした。長年愛用していたカバンの持ち手が壊れて、横浜駅でトートバッグを買って、荷物を詰め替え家に戻った。

 

調べて見ると、昨日は横浜地裁で津久井やまゆり園の事件の第8回公判があったのだという。

神様のやさしさ

昨夜はビキがごはんを作ってくれて、彼女の家でワインを開けて、二人でゆっくりいろんな話をした。しあわせであっという間の時間。朝早くビキは会社に出かけてしまったので、私は昨日彼女が座ってた窓辺の席に座って、持ってきたパソコンを広げ、昨日のおつまみの残りを片っ端から平らげながら、こんな風にブログを書いたり事務仕事をしたり、「もう熟してるから食べな」と手渡された立派な柿をいつ食べようか、彼女の脱ぎ捨てていった部屋着を着ながら考えている。

 

私には兄弟がいないが、兄弟のように感じる友人はいて、ビキはその中でも特別な存在だ。こういう友人に出会えることは本当に奇跡のようなことだと、神様のやさしさってこういうことかなと、会って話すたびに思う。「私のソウルシスターだからね」といつも言ってるけど、それくらいのちょっと薄っぺらい響きの言葉でも使わないとクラクラしそうなくらい深いつながりがあると思ってる。同い年で、私と同じようにお母さんが台湾人で、台北に生まれ、台北で小学校の途中まで過ごし、日本に来て、NYに留学し、そこで出会ってからずっと、時間が経つほどにどんどん近い存在になっていくように感じる。彼女は私よりも長くNYに残って、学校をちゃんと卒業して、働いて、しばらくして日本に戻ることを決め、私は一足先に東京に戻っていたので、東京で仕事を探す間彼女は私の家に住み、その後彼女は香港へ行ったり、私はまたNYに行ったりしたけど、また二人とも日本に戻り、東京でライブがあって帰りが遅くなる日なんかは今度は私の方が門前仲町にあるビキの家に泊まるようになった。

 

「人は誰も時代の子であることから逃れられない」という高校の倫理の先生の言葉がいつも頭に残っている。ビキと話しているとよくその言葉が浮かぶ。ビキというか、ビキを通してビキのママ、私のママ、その娘たちとしての私たち、つまりあの時代、60年代、70年代の台湾で、いろんな意味で必ずしも恵まれてはいない環境を生き抜いてきた女性たちとその娘たち、親戚など周囲の人たち、中でも女性たちの人生がこうも激しく、こうも似通っている(特に壮絶さにおいて)というのは、みんな時代の子だったというわけで、似た者同士集まっては語り合って笑い飛ばしながら過ごしていくのが一番たのしく、これからまた続きを生きていってみようかねという力になる。もちろん、一番人に言いにくい、一番大きな声では言えない(こんなブログに書けないようなね)ことが一番とびっきりの話で、そういうのをシェアできる人は親戚以外ビキだけ。こんな人がちゃんと世界にいて出会えるんだもんね。私たちは秘密結社のように、外ではそんなことはおくびにも出さず、いたってふつうに生活して、そういうふつうの生活や仕事の楽しみも味わって、時々二人で会えば、他の人に話してもただ辛そうなだけで面白くもないかもしれない話のひだのひだまで味わって、たっぷり笑って、寝て起きたらまたお互いの生活に戻る。

 

ビキちゃん柿ごちそうさま。私に食べるよう勧めたのは、皮むくのが面倒で億劫だからでしょう。知ってるよん。今度ここに泊まりに来るときは、どこかで柿を一山買ってきて、

「これ食べな、体にいいんだよ、對女生最好,一天吃一個,妳不會生病」

とおばが母に言うみたいなことを言いながらビニール袋ごと有無を言わさず手渡して、ビキのありがた迷惑してる顔を見たら、彼女が会社に行ってる間に全部皮をむいてタッパーに入れて冷蔵庫にしまって、テーブルの上にメモを残してから出かけよう。今日はまずのんびりさせてもらったわよ。ごろごろしながらアプリでポルトガル語練習したり。お皿の上の私の食いかけのクッキー食べてね、親愛的。愛妳永遠,永遠。

角砂糖

今日は雲が多いけど、なんとか晴れ。暖冬に慣れてしまったせいか、風の強かった昨日はとても寒く感じた。

 

ライブに来てくださる方からよくお菓子をいただくので(皆さまいつもありがとう)毎朝コーヒーかミルクティと一緒にお菓子を食べる習慣がすっかりできてしまって、今日みたいに時々お菓子が切れた日はあたふたしちゃう。棚の奥をあさったら、何年か前に買ってそのまま忘れてた沖縄産の黒糖が見つかったので、引っ張り出してきてボリボリ。そういえばおばあちゃんは砂糖、特にコーヒーに入れるような角砂糖が大好きな人で、母がせっかくかわいいシュガーポットに詰めた角砂糖を「ちょっとだからいいでしょ」と言って、結局全部ボリボリ食べて、次は台所から母の買った角砂糖の袋を探し出してきてまたそれも全部ボリボリ食べた。そんなおばあちゃんの様子を見て母はいつも、同じタイヤルの村で育った母の幼馴染が生まれてはじめて喫茶店に行った時、テーブルの上に置かれたポットの中の角砂糖に興味を持ち、試しにひとつ齧って、それがあんまり甘くておいしいのでそのままどんどん食べはじめて、お店の人に見つかって「おい何してるんだ、この野蛮人」と怒られても、おいしくて止められず、ついにポットが空っぽになるまで全部食べた、という話を、何度でも、笑いながら眉をひそめてくり返した。何度も何度も聞いてる話なのに、おばあちゃんは毎回ヒャアヒャア笑っては、「ウィー、蕃人だからこれは本当に仕方がないでしょう」と言って、ボリボリと角砂糖を食べ続けた。

 

もうすぐお菓子が切れそうなことには気付いていたので、この間、いつもより少し早く帰れた日、藤沢のデパートに寄った。たまには少しいいお菓子でも自分用に買ってみようかと思って、地下の食料品売り場に行き、一周歩いて、そのままなんとなくエスカレーターを上って出てきてしまった。明治屋でしか売ってるのを見ないヨーグルト(よく買った一番安いやつ)や泉屋のクッキー、天ぷらやお惣菜を選ぶ母くらいの年の女性、いろんなものがとっても懐かしかったのに、懐かしい気持ちだけ味わったらなんだかもうそれでよかった。DEAN&DELUCAで焼き菓子でも買って帰ろうかと思ったけど、もう胸がいっぱいで、そのままデパートを出て、図書館の返却ポストに本を返し、お花がいつも元気なので気に入ってるお花屋さんを覗いて、フリージアと豆の花を買って住宅街を通ってゆっくり家に歩いた。

 

昨日は千歳烏山までレッスンへ。レッスンと言っても、私は特別なメソッドのようなものを教えられる訳ではないし、せめてピアノで伴奏して、一緒にリズムをとって一緒に歌をうたっているという方が正確なんだろうけど、それでも何年もレッスン続けてくださる方がいるのは本当にありがたいことだ。歌と自分との関わりが、人前で一人で歌う以外にいろんな形があるということは、私にとっても大事なことだと思っている。

 

レッスン後、食事と紹興酒をいただきながらいろんな話をして、バスに乗って成城に出て、駅ビルに入っている三省堂に寄ってぷらぷらして、まだなんとなく名残惜しく、駅前のスタバでコーヒーを飲んでから電車に乗った。この独特の懐かしさはなんなのだろう。下町ではない東京の持つあの清潔でスノッブで少し浅はかな感じが、全く好きじゃなかったのに懐かしく、もうちょっとそこに身を置いていたくなる。少しずつ日本も変わっていって、いずれ消えていくものだからだろうか。

新富町

生まれて以来私にもやっと台湾との縁が出てきたようで、最近ひょんなところから本当によく台湾関連の話が舞い込んでくる。というわけで台北の実家のベランダの写真。

 

藤沢は今朝も晴れ。台北の空より青が薄く、7時過ぎてもまだぼんやり早朝のピンク色が残っている。昨日より寒い感じがして、昨日の残りのわかめスープをさっそく温めた。

 

昨日新富町に行ったことを考えている。というか、行ってすぐに帰ってきてしまったことを考えている。どこかへ行く時は二つくらいのことをセットでする方が心が落ち着いていいんだよ、と先日言われたのを気にしているのか(お参りに行く時は帰りに参道のお団子屋さんへ寄ってお団子とお茶を、とか、映画を見た後はどこか喫茶店に入ってコーヒーを、とか)昨日、中央区役所で用事を済ませ、区役所のベンチにちょっと座っただけで帰ってきてしまったことをやんわり後悔している。区役所は地下鉄の駅の改札からすぐにあるので、地上に出て30分もしないであっけなく用事が済んでしまって、名残惜しく、でもあんまりのんびりすると帰宅ラッシュの時間になってしまうし、結局さっさと藤沢に帰ってきてしまった。せめて築地まで歩けばよかった。ふたが半分開いたままみたいな気持ちだ。

 

最後にあの辺りへ行ったのは、父が死んだ時だったか。区役所で、番号札を引いて自分の番号が呼ばれるまで、どのベンチの誰の隣に座って待っていようか考えながら見回してみると、たぶん60代後半くらいの人だろう、全体的に寸の短い茶色っぽいツイードのジャケットを着た顔の大きな男性が、両膝の上に手をグーにして乗せ、足の短い民族特有の重心でベンチにしっかり腰を下ろしていた。ああいう感じのいわゆるジジくさくて堅苦しくて懐かしい愛おしいような上着ってどこで買うのか、あの年配の方々はどんな時にああいうものを買うんだろう。肌寒くなってくる頃に奥さんが買ってくるんだろうか。同世代の男の友人達はまだ誰もあんな服を着てないけど、それぐらいの年頃になってくると自然とあんなのが好みになって心地よく感じられてくるのかな。父も休みの日には家でもあんな典型的年配男性のジャケットをよく着ていて、休みなのに肩の凝りそうな普段着だなと思って見ていた。懐かしくなってこの人の横に座った。

 

あんまり父のことは普段考えない。母とは今もちょくちょく電話していろんな話をするけど、父はもう死んでしまったので話題にも上らないし、そもそも、私が物心ついてからの両親は仲がいいとは到底言えないような夫婦で、両親が争うたび、私は日本語も母語じゃないし何かと分が悪い母の味方として戦いに加わり、父に関しては若くて美しい母にさんざん嫌な思いをさせた日本人の男、という印象が強かったが、何と言ってもこの二人は結婚したくらいだし、話はそんな単純ではないよなとようやく最近思うようになった。

 

「ニッポン複雑紀行」というウェブマガジンの、アメリカ人の祖父と沖縄出身の祖母を持つ黒島トーマス友基さんという方について、全く同じルーツを持つ下地ローレンス吉孝さんという社会学者の方が書いたインタビュー記事を読んだ。内容は非常に深く、それでいて文章と写真の親しさに満ちた温度感が素晴らしく、私もニッポン複雑仲間だし、前半も後半も最初から最後まで惹きつけられてしまった。特に、取材後記として下地さんが最後に書いた言葉にハッとしたので、ちょっと引用。

 

「ルーツ」について話すとき、とかく外国につながりのある方の親(もしくは祖父母)について語りがちだ。「語り」や「生き様」は誰でも均等に記憶されるのではない。不均衡に残され記憶されるのだ。

  

私ってどうだろう、と思ってみると、私の場合も、日本人父と台湾原住民母だと、台湾原住民母について話すことの方が圧倒的に多い。最近の台湾ブームもあってか台湾のことを聞かれることも多く、先住民族について興味があって知りたいという人も多いので、語る機会そのものが多く、私自身もっと若い頃には台湾原住民について研究したり書いたりしたいと思っていたし、そう思ってたはずが今じゃ人前で台湾原住民の歌を歌って、自分でも原住民の言葉で曲を書いて演奏したりしていて、そうかこれは私がここしばらく日本に住んでいるからというのもあるんだな、と思った。もし私があのまま日本に越してくることなく、台湾で生まれた台湾の女の子として育ち、台湾の学校へ通って思春期を過ごして大人になったら、そうしたらもしかして私は日本人だった父のことこそを周囲に積極的に語っていたかもしれない。いまだに原住民に向けられる根深い差別的眼差しをうまく躱し、自分の身を守るためにも。

 

ルーツって人生のいろんな場面を左右する大変なことでもあるけど、でも捉え方やその時の環境次第みたいな部分もあって、そんな程度のものだよなとも思う。そしていくら私が父のことを語らなくても、出かける前、洗面所でいつものように化粧をしていると、マスカラを塗ろうとして鏡に近づく自分の顔が、突然まぎれもない父の顔に見えて、何度まばたきしても横を向いても、お化粧を最後まで終わらせて髪を整えても、どう見ても父の顔をしていることはしょっちゅうある。

冬生まれ

わかめスープやっと飲めて満足。おいしい。韓国へもいつか行ってみたいな。アメリカではチャイナタウンの次にコリアンタウンにお世話になったし、ソウルには大事な人だと思える友人がいる。

 

昨日はお昼の演奏だったので、終わったら早めに家に帰ってゆっくりしようと思っていたのが、数年ぶりにピアニストの太光くんとドラマーの匠平くんに思いがけず出会い、うれしくなって久々にセッションして楽しくなったあまり、終電に乗って不思議な駅で降りてしまった。降りたことない駅だったので商店街や住宅街の入り口をちょっと散歩して、まだ開いていたラーメン屋さんでほうれん草ラーメンを食べて、はじめてのひとカラ。「中央フリーウェイ」や「まちぶせ」を何度も歌って、始発に乗って、自宅近くの駅に着いてもまだ空は暗く、切った爪みたいな三日月が空の高い方で輝いていた。近所のお庭が暗い中ごそごそしていたのでたぬきかと思ったら、サーフボードを自転車に積み、海へ向かう準備をしている人だった。サーフィンはしたことないけど、サーファーの生態って動物のようで好きだ。

 

今日もよく晴れて、電車の中から外を眺めていると、どの街にも光があふれていて、どこにでも住んでみたくなる。午後高田馬場で打合せがあったので、お昼過ぎに家を出てぽかぽかの小田急線に乗った。藤沢駅からスイッチバックして西へ向かって走る間、江ノ島が見える南向きの席に必ず座る。高い建物が全くなくて、空が広く、海は見えないけど、この家々の向こう、空の下にはずーっと海が広がっていて、家も何もなくてただずーっと海があるだけなんだと想像しながら広い空を眺めていると、とっても気分がいい。少し走って線路が右に曲がり、電車が北へ走るようになると、私の体はそのまま西向きになって、湘南台へ行く途中、畑やビニールハウスが広がる向こうに真っ白い富士山が大きく現れるのを見る。大和のあたりまで、富士山は建物の間からずっとちょこちょこ見えていて、たぶん大山とか丹沢とかなのか、もっと手前にある山々も迫り来る山脈となって現れて、何度見ても「うわっ」と思う。私と向かい側の座席に座っている人たちは、自分たちの背後に富士山や他の山がいくつもそびえているのなどまるで無関係かのように、スマホを見たり、眠ったり、本を読んだりしていて、その雄大な山々と手元をちょこまかいじる人間の対比を見ているとなぜだか、「大丈夫」と励ましてるような、逆に励まされているような、循環する気持ちになってくる。都内まで移動時間が長いので、本当は電車の中でもっと読書したりしたいんだけど、いつもこの景色を見るのが楽しみで、持ってきた本もほとんど読まずに、町田あたりで人が混んでくるまでずっとぼーっと外を眺めて、立つ人が増えてきて窓が見えなくなると、今度は急に睡魔に襲われて、新宿までそのまま爆睡してしまう。

 

高田馬場では戸山口から降りて、グーグルマップに言われるままに、路地裏を歩いて早稲田通りに出た。お豆腐屋さんや焼魚の店など古い飲食店に混ざって、いろんな国のいろんな食べ物のお店があり、うらやましくなる。歩きながら「あーいい匂い」と思わず口にしてしまって、キョロキョロすると麻辣湯のお店の裏口が見えて、私はやっぱりスープが好きなんだな。

 

冬は好きじゃないと思ってたけど、光があふれていたり、スープがおいしかったり、山がきれいだったり、結構好きなのかもしれないと最近気付いた。冬生まれだし。

雪の日

雪。

雪が降るとなんとなく左耳が聴こえなくなる。畑にはたぬきの足跡。そのままその上に雪が積もるかな。

ベランダから手を出してみたけど、しばらく手を伸ばしていても、なかなか私のてのひらの上に雪は落ちない。時々、小さく削った氷のかけらがちょこんと乗って、みるみる溶けて小さな水滴になる。最後にこうやって手を伸ばしたのがいつだったか覚えてないけど、雪の空の中の自分の手がずいぶんしわしわに見えた。少し日にも灼けて、こんな手をしていたんだな。部屋の中でいつも見ている自分の手と全然違うように見える。

 

昨日は久しぶりの幡ヶ谷でライブ、お越しくださったみなさまどうもありがとうございました。

いろんなところでライブをしていると、いろんな思いがけない人たちに会えてとてもうれしい。20年ぶりの松岡くん。またね。ライブ後、いつも来てくれるお客さんたちと一緒に、最近松岡くんが取材しているというおちんちんむきむき体操の話をみんなで聞いた。ネーミングに思わずギョッとしたけど、そう言われてみれば、男の子の子育てってわからないことばっかりなんだろうな。出産経験のない私は、自分の身体からおちんちんついた男の子が出てくることを考えるだけでひっくり返りそうだ。

そんな話をしてたら終電ギリギリになってしまい、小田急線の改札まで高山さんが一緒に走ってくれた。高山さんは足が早くて、高山さんを必死で追いかけてたらギリギリだったはずの終電がいつの間にかまだまだ余裕になっていた。走って疲れたのか、ハッと目を覚ましたら電車が自分の駅の一駅先に着いていて、慌てて降り、小雨の中いつもより少し長く歩いて帰った。

 

窓の外を見てたら外に出てみたくなったので、今日はスーパーまで歩いて買い物に。コーヒーフィルター買わなきゃいけなかったし。朝つくった適当たまごスープがおいしかった、というか、たまごスープに入れた胡椒がすごーくおいしく感じたので、胡椒がたっぷり味わえるスープをまた作りたいと思い、わかめスープの材料を買った。今日はもうお腹いっぱいだからまた明日かな。久しぶりに牛肉も買ったし、わかめとにんにくと一緒にごま油で炒めてからスープにするのが楽しみ。NYで友人と夜中歩いてテイクアウトを買いに行ったコリアンタウン、LAでおばに連れて行ってもらったコリアンタウン、あのとき飲んだスープのおいしさが忘れられない。

 

雨でも近所ならいつもかっぱを着て自転車に乗っていくので、雪の降る中を傘さして歩くのは手が冷たくても楽しい。スーパーのある通りに出るのに大家さんのお家の敷地を通って近道していいことになっていて、畑もしている大きなお家なので、土の上を歩けるのがうれしく、夜は前が見えないくらい真っ暗になるのも好き。雪を避けてか、鳥たちがいつもより下の方にいて、お庭の木の内側の低いところの枝にこっそり止まっていたり、いつもより私の近くにいる。大きな桜の木を囲むように様々な植物が植えてあり、お花が咲くのもたくさんあるんだけど、今はリコリスが咲き終わってしぼんだ花をつけたままなのと垣根のツバキくらい。昨日まで咲いてた花はもちろん今日も咲いていて、花はあんなに開いたままで、雪の重さや冷たさをどう感じているんだろう。満開のツバキの大きな白い花は今にもこぼれ落ちそうに美しく、ツバキの花が枯れていく時の、あの恐ろしい死のシミのような茶色が真っ白い花びらを端からどんどん侵食していくのが、ものすごく残酷だと感じる。

 

寒いから今日はもうずっと布団にくるまってる。布団大好き。最近すごく機織りをしてみたいので、布団の中でちょうどよさそうな織り機はどれかしらと探し中。

 

明日はお昼から国分寺でクローズドのイベント。視覚障害児(者)親の会のニューイヤーコンサートに、ジャズドラマーの大江さんを通じて呼んでいただき感謝。どんな曲歌おうかな。

 

越谷、吉祥寺、上尾

ライブやリハが続くとぜーはーするけど、でも歌ってないと今度はまた別のところがぜーはーしてくるし。

1/11越谷ごりごりハウス、1/12吉祥寺バオバブ、1/13上尾プラス・イレヴン、みなさまどうもありがとうございました。

 

越谷、本番前に郵便ポストを探して駅周辺を歩き回ってもどこにもないので調べたら、駅前からは少し離れた郵便局まで行かないとなさそうだったので、散歩がてら住宅街を歩き、途中商店街でこちらに手を振る人がいると思ったら対バンのジョー長岡さんだった。満月の大きな晩で、越谷はほとんど人通りのないところにも小さな飲み屋がちゃんと点々とあって、こういうところで飲んでいるのはどんな人だろうとお店の中を覗きながら歩いていると、路地裏の小さな焼き鳥屋からベースのうのしょうじさんがトコトコ出てきて、結局ジョーさんとうのさんと私で本番ギリギリまで、駅近くのいつも流行っているお店でたこ焼きをつまみに飲むことに。ジョーさんとうのさんはリハの間も野毛の飲み屋街がいかに最高かについておしゃべりしていて、いいなあこの人たち、と思っていたので、さっそく越谷の道ばたでそれぞれにバッタリ会って、一緒に飲むことになって楽しかった。例によって何を話したのかよく覚えていないけど、楽しい時間。こうやって誰かと知り合っていけるのはうれしい。ライブではアンコールに宇海ちゃんに歌ってもらって私はピアノを弾いて楽しかった。

 

吉祥寺、バオバブ陽介さんのかけるタイの音楽にチャーリーさんが手をひらひらさせてゆらゆらずっと踊っていた。バオバブってなんかすごく大好き。いつも投げ銭でやってくれるのも好きだし、ライブとか関係なくただご飯食べに来てるお客さんがいるのも好き。セットの間の休憩中は必ずDJが音楽かけてくれるようになってて、陽介さんのお店のそういうところも最高。私も今じゃミュージシャンのように振舞ってるけど、20代まで、せいぜい家で一人でピアノ弾いてるかカラオケで歌ってるくらいなものだった。でもDJが朝まで好きな音楽かけ続けてくれる場所があったおかげで音楽と親しむいろんな方法を知って、"Last Night A D.J Saved My Life" って名前のディスコ曲があったけど、当時の私にとってこのタイトルは全然大袈裟じゃなく、その通りだったな。私もみんなが踊るための曲を歌ってみたい。

「12日ゆきちゃんって台湾好きの子、DJで呼んだよー」と陽介さんから連絡があって、ゆきちゃんは Crowd Lu の “OH YEAH !!!" や宇宙人の大瀧詠一カバーとかかけて、ポップスならではの多幸感があふれていて、ああいいなあと思った。いつも口ずさんじゃうような同時代のポップスがあるだけで、日々を過ごすのが随分と楽になるんだった。この日一緒にライブしたfuera fueraもチャーリーさんもみんなポップスのいい曲いっぱい書いていて、私はみんなの曲をよく口ずさんでいる。生きやすくしてもらってたね。ありがとう。

 

上尾、久しぶりの自分のトリオ。あんまり何も決めないで行く。よく一緒にバンドやってるなってくらい、音楽的に三人とも全然違う方向見てたりするんだけど、バンドってそれくらいでいいのかもな、と、このバンドやってると思う。みんな同じようなこと考えてるなら、別にわざわざバンドなんかになって音楽しないでいいしね。

上尾はお客さんも上尾の顔ぶれというのがあって、その人たちに会えるのがいつもとっても嬉しい。

 

昨日は久しぶりにリハもライブも打ち合わせもない日で、個人的な用事をしに朝から横浜と藤沢を行ったり来たり。横浜はいつもあこがれ。なんだろうな。道が広くて、人が少なく、夜は暗くて、ぽつぽつと明かりがきれい。横浜の人になってみたい。あんまり時間がないのに、少しいい気持ちになりたくて、家でも電車の中でもチェックできる書類を眺めるのにわざわざ喫茶店に入ってコーヒーを頼んだ。

 

水辺にいると楽になる。すごーくお金がない時でも、自転車で海に行ったらスーッとするし、波を見ているのが好きだったけど、最近はあまり動きのないように見える水を見ているのも好きになった。なんの変化もないようで、じーっと見ているとけっこういろんなものがそわそわと動いていて、そういう小さな変化を見ているのも心が落ち着く。曇り空の日、どこを見ても寒そうでうら寂しい枯れ果てた冬の水辺の景色も、ああ寂しくていいと思うようになった。そう思って歩いていると、水仙の花が並んで咲いていたりする。

横浜の港には大きな客船が泊まって、向こうにベイブリッジ、手前に赤レンガ倉庫、左側にはみなとみらいの観覧車やインターコンチネンタルが光って、わりと新しい景色なんだろう、大した緑もない。水は冬で藻も生えないからか意外にも澄んでいて、2、3メートル下の底まで見えて、カモたちがぷかぷか浮いている。あんまり人もいなくて、曇ってて夕焼けもよく見えず、寂しいと感じるほどの風情もない。黄色いパイロット船が近付くと、カモたちは泳いで散って船を避けて、船が通り過ぎるとまた元の場所に戻ってきて浮かんでいる。15分くらいただそれだけを眺めて、なんでだか、少し落ち着いたような気持ちになる。

 

今日は久しぶりに幡ヶ谷へ。夜は寒そう。ベランダでいつまでも咲いていたラベンダーの花が少し枯れてきたので、茎の途中から数本摘んだ。明日は雪になるんだとか。

ゾロ目

ゾロ目の今日はいとこの誕生日。おめでとう。30になるけどいつまでも可愛いシンレイ。私と同じ家に生まれて育った唯一の人。あの家のあの光と影の時間の中で、私よりももうずっと長く過ごしてる。私が大人になって台湾に帰ったその年、シンレイの誕生日に師大のパン屋さんで大きなケーキを買ってみんなでお祝いしたのが懐かしい。あの頃はシンレイもまだ中学生で、今よりもっとたくさんの人があの家に住んでいた。

 

一昨日はスーパー新年会@下北沢lown、たくさんの方々がお越しくださりとっても嬉しかった。どうもありがとうございました。河村さんが自由にやっていいよと言ってくれて、自由にコーラスしたりしてとっても楽しかった。一緒に歌ってくれる人のいる合奏は特別に楽しい。わはははは!ってなったり、全然思ってもなかった声が湧き上がってきたりする。誰かの声に声を重ねるってすごく楽しいんだなあ。今年はたくさん合唱できたらいいな。

 

しかし40ともなるとなんだかんだ体調管理とか必要なんだろうな、昨日はお手伝いに行く予定をしていた友人たちのライブに大遅刻してしまい、みんなに会いたかったので頑張って起き上がって行ったんだけど、やってきた私の顔を見た翔くんをギョッとさせてしまった。具合の悪い時ほどすっぴんで出かけるものではないのね。

年明けに仁愛醫院で採血をしてから、貧血がちの人になってしまったみたいで困った。病院の帰りに大好きな台北の街を母と散歩して、母曰く私が「グニャリ」となって、ちょうど近くにあったスタバに入ってカモミールティを飲んでなんとか復活したつもりだけど、それから妙なふわふわした感じが続いている。冬が苦手というのもあるのかな。冬生まれなのに。せめて藤沢がぽかぽかしている場所でよかった。一昨日、朝まで打ち上げの後自宅に戻り、小田急線で相変わらず爆睡して藤沢に着く手前で目を覚ますと、窓の外に山々がくっきりきれいに見えて、車内はお天気でぽかぽかと、座っている人ほとんどみんな老いも若きもスヤスヤ寝ていてなんだかホッとした。

 

遠くに山が見えたり、川を渡ったりすると、心がすーっと晴れるようで本当に気持ちいい。

 

いろんな返信や何やかやとっても時間がかかってしまっていますが、みなさんごめんね。もうちょっと待っててね。

今日はこれからいろいろと準備をして、越谷で弾き語り対バンライブ。お近くの方ぜひきてね。

 

そして今日は台湾の総統選挙の日。昨日の夜もそわそわして眠れなかった。今夜には結果が出るだろう。今夜は台湾のうた歌おう。

鏡餅

おめでとうございます、と思わずお辞儀をしてしまう立派な鏡餅。この昆布。

昨日、とある新年会で演奏した平塚のサンライフガーデンというホテルにいらっしゃった。子どもの頃からホテルという場所が好き。いろんな人が交差して休むからだろうか。袖すり合う一期一会というのが好きなのかもしれない。水色っぽいロビーはホテルのロビーにしては珍しい色合いで、ふっと脇の方に小さな噴水があり、エレベーターはもう今ではどこも作らなさそうな、細工の施された木と鏡、やはり水色の空のような天井にちょっと家庭的な感じのするシャンデリアがあって、まるで鳥かごに乗って運ばれるように宴会場に向かいながら、あたたかい気持ちになった。

 

一昨日台北から戻り、最終日街中で起こした貧血と舌の付け根の口内炎で昨日もずいぶん弱っている気持ちだったけど、お昼、リハーサルに来てくれたベチコちゃんと河村さんの姿を見たら、だんだん元気になってきてしまった。こんなことだったら、重量オーバーなんて気にしないで頑張ってお土産をたくさん背負って帰ってくるんだった。おばから「台湾じゃこんなの着ないから」と、カナダ旅行用に買って一度しか着てないというダウンと、同じく一度しか履いていないというブーツをお下がりでもらって、せっかくなので小さなスーツケースにパンパンに詰めて持って帰ることにしたものの、ジェットスターに超過料金5000円ほど払うことになり、なんとかできた隙間にたったひとつ、セブンイレブンで買った營養口糧というビスケットを詰めた。昔からあるビスケットで、少し大きめの乾パンみたいで、徴兵された男の子たちが訓練の間に食べるようなやつなんだけど、たぶん昔からあるという理由で私はあの味とパッケージが好きだ。

「かわいい、かわいい」

とベチコちゃんが言って、かわいい手つきで面白い形に包みを開けてくれて、ファルコンの実家の黒豆や伊達巻やみかんをいただきながら、四角いテーブルを囲んで4人で座り、コーヒーを飲み、ギター、バイオリン、ギター、私は時々三線を手に取り、時々私が歌い、河村さんが歌い、時々私と河村さんはコーラスをする。朝から雨で寒々しかった家の中に、パッと晴れた窓の外からさんさんと日がさしてきて、音楽が流れて、こんな時間をいろんな人と分かち合いたいと思った。どうやったらできるんだろうな。音楽が本当に美しいものだと思えるのは、いつもこういう何気ない日常の時間の中にある時だ。夏の間、友人のサブリナ一家がうちに泊まっていた時。キッチンでサブリナが鼻歌みたいにジョアン・ジルベルトの歌ったワルツを歌い始めて、向こうの部屋でのんびりしてた拓馬が、何とはなしにその歌にクラシックギターで伴奏をし始めて、そうやって両親が音楽を始めてしまって、かまってもらえずぐずり始めるマルコを、サブリナが見かねて抱っこしてあやしながら歌い続けて、そんな時、私はすっかり平和な頭になって、生活と音楽ってなんて美しいんだろうと思う。

 

鏡餅と全然違う話になっちゃった。そろそろ支度して今夜は下北で昨日の幸せなリハの続き。スーパー新年会というタイトルのライブです。今日もよく晴れて、今日がどうかいい日でありますように。

 

あ、大事なご連絡!

昨日平塚サンライフガーデンの新年会で私の弾き語りCDを買ってくださった皆様へ。

付属の小冊子の製作が間に合わず、一部の方にCDのみ先のお渡しとなってしまいました。小冊子郵送いたしますので、どうぞこちらよりメッセージください。ご連絡お待ちしております!

夢のような

つくづく私はすぐにいっぱいいっぱいになってしまう人間で、いろいろな大事にしたいことが、間に合わず、すぐ過ぎ去っていってしまう。それなのにいろんなことがしてみたくて、あの人やこの人に会いたくて、これはもう筋トレのようなことをしていかないといけないんだろう。

 

さっきまで台北にいた。母、おば、いとことそのもうすぐ結婚する彼氏、おじいちゃん、と会えた。おじいちゃんは私のことがわかるようなわからないような感じだったけど、なんとなくわかってるのかもしれない。耳があまり聴こえず、目もあまり見えないおじいちゃんの世界の中で。3年ぶりに帰る実家には私の部屋があった。母の部屋も、おじいちゃんの部屋も、いとこの部屋も。みんなそこにあって、おばが泊まりに来る時「私ここが一番気持ちいい」と言って寝るソファもあり、3年どころか最低10年はそこにあるはずの香水の瓶がまだ母の部屋の鏡の前に、タンスには昔の私が気に入っていた下着と母の下着、いとこの誰かの子どものまだ小さかった頃の下着が隣り合って、下の段には私が大学生の頃着ていた真っ黄色のセーターやピンクのラメの入ったセーター、もう着なさそうなジーパンやヒョウ柄のスカートもある。母が日本で使っていた小さな鏡台は私の部屋に置かれ、母が買ってくれた赤いソファベッドはおじいちゃんの部屋に、おじいちゃんはよくベッドから落ちるので、落ちてもうまくソファベッドに着地するよう真横にぴったり並べて置かれていて、壁やドア、床には母がソファを運んだ時につけた傷がぎゅうぎゅうついていた。

 

あたり前のようにいて、あたり前のように帰ってきてしまった。日本に戻る前、舌の付け根にできた口内炎が今も時々痛むのを確かめているくらいで、あとはなんだか全て夢のようでもある。あたり前の夢というのはあるんだろうか。

 

新年早々世の中はすさまじく、焦るようにニュースを読んでいるが、一体どうなるのだろうか。

 

セーターばかり持っていったので、昼間の台北はちょっと暑くて、クローゼットにかけてあった19の時サンフランシスコで買ったデニムのワンピースを着て外に出た。40歳の私になど買ってやったつもりはなかっただろうに、お世話になります、と思いながら袖を通した。はじめて行ったアメリカで見かけたLEVI'Sの大きなポスターでは、よく似たデニムのワンピースを着た女の子が誰かの運転するバイクの後ろにまたがり、その人に体を預け、長い髪をたなびかせていた。そんなのに憧れて、試着して、悩みに悩んで、思い切って買ったのに結局あんまり着なかったんだなあと懐かしく思い出しながら、1月でも緑深く日差しの強い台北の街を母と並んで歩き、薬局でアレルギーの薬を買って、昔よく覗いた、きれいな茶器、きれいな肌触りのよい布で作られた小物やチャイナドレスの並ぶお店を久しぶりに覗いて、近所の古い家がリノベーションされてできた新しいカフェに入った。頼んだカフェラテは30分くらい出てこなくて、ワインボトルに入れて出された水を飲みながら、母といろんな話をした。いろんな話をする時はいつもこんな感じで母と近所のカフェに行ったんだった。

 

家に帰ると、宜蘭の山から下りてきたおばが着いていて、おばは相変わらず美しくてうれしくてホッとした。おばが微笑むたびに、声を出して笑うたびに、頷くたび、私はとてもうれしくなる。髪が少し薄くなったけど、それでも美しい人は何も損なわれず美しいんだと思った。ご飯を食べながらテーブルで話し、ご飯を食べ終わってお茶を入れて、残りのおかずをもうお腹いっぱいなのにちょびちょび突っつきながら話をし、みんなで食器を台所に持って行って、母が流しで洗い物をして、おばはおばあちゃんが生きてた頃いつもそこに座って母に指図したり終わらないおしゃべりをしていたピンクの椅子に腰かけて、私はその横に立ったりして、私たちはまだ話をしている。この家から人やものが少なくなってしまったからか、洗濯機の回る音が家の中で共鳴して、リビングの手前の廊下を歩くとシンギングボウルのような倍音が聞こえる。

「えりにも聞こえるんだ。ママおかしくなっちゃったのかと思った」

と母が、まるでおばけを見たみたいな顔をして言う。そうそう、おばの息子の小吉にも聞こえるらしい、と、やっぱりおばけの話みたいに言うので、私は痩せて背の高い小吉がうちの廊下をそろそろと聞き耳立てながら、幽霊のように足音立てずに歩いているのを想像する。

 

早くまたみんなに会いたい。会うだけでどうということはないんだけど。随分遠いところに来ちゃったんだな。

明日からリハやらホテルでの演奏やら、またそれもすっかり遠いところの話のようだ。全部が遠いような近いような、夢のような。

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

年末年始のドタバタ終わってやっと一息。

昨年も本当にたくさんの方々にお世話になり、去年も一年最後の日まで無事歌って過ごすことができ、お正月も元旦からたくさんの素敵な方と一緒に歌って過ごすことができ、とってもありがたいことです。どうぞ今年もよろしくね。

写真は天王洲のOTTAVAスタジオの中の注連飾り。私もいつか自分で作ってみたいな。

 

年末年始を堪能しすぎて今日までブログUPできずにいたので、この数日間を振り返りながら再開しようと思います。

 

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みーちゃん

朝に雨が降ったのか、地面が濡れていて、向こうからシャーと海の音が聴こえる。今日も明日も夜が遅くなりそうなライブなので、少し今朝はゆっくり起きた。当たり前のことだけど、天気は毎日違うので毎日感動があって、朝ゴミを出しに外に出るのが楽しみになった。こういう楽しみが東京にいる時は全くわからなかった。ゴミ出しなんて面倒でしかなかったし。鼻に入る空気の水分の含んだ感じを味わっていると、遠く上の空をとんびが一羽、ゆっくり羽ばたきもせず通り過ぎていく。

今日は曇り。雲の少しの灰色の濃淡がベランダの窓いっぱい横にのびてきれい。曇りは曇りでいいものだな。晴れた日にこういう空を見ることはできない。雲の奥に光があるのがわかる。私の部屋の白い床が雲の向こうの太陽の遠い光を反射している。

 

昨日は成城学園前のクオバディスというカフェ&ギャラリーに、小池アミイゴさんの花の絵を見に出かけた。本を読みたかったのに本を持たずに電車に乗ってしまったので、人のブログを読んだり、寝たり。私の身体が高速で平行移動し、私は寝ていると思っている。どういうことなんだろう、と思いながら、自分の乗っている電車の車両を空想の中で取っぱらって、自分の身体が空中を東に向かう突風に乗りすっ飛んでってる様を思い浮かべてみたりする。

 

ギャラリーでは詩人の平岡淳子さんがみんなに飲み物や食べ物を出してくれて、白い壁に飾られたアミイゴさんのコスモスや長い名前のデイジーや他にもたくさんの花が、座って話すNAOKOさんの後ろに並んで、それを眺めてるだけでとてもいい気持ちになった。音楽ではできない素敵なこと。先に着いていたNAOKOさんと聖華さんは二人とも白っぽい暖かそうな服を着て座っていた。冬もいいものかもしれない。NAOKOさんが首に巻いてたマフラーのようなもの、花のようにきれいだった。淳子さんにCLIPという詩集をいただいた。2ヶ月に一度、自分のパソコンで作って印刷して出して、第102号。TAKE FREEと書いてクオバディスの本棚に並べていて、ああ私もそれくらいのことができるようになりたい。103号の出た頃またここに遊びに来てみたいな。

 

10年前いとこの心蕊が撮ったみーちゃんの手。10年前、心蕊は二十歳で、私は30で、母は50代で、みーちゃんがいた。

 

お隣さんのベランダから子どもたちの歓声が聴こえて、私の窓辺にもふわふわシャボン玉が飛んできた。

 

そろそろ支度して今日も成城へ。夕方からブールマンで志宏さん、ファルコン、卓ちゃんとライブ。私歌わなくてもいいじゃんと思うけど、歌っちゃうと楽しいからなあ。お会いできる方はまた今夜。そうでない方はまたいつか。今日もどうぞ暖かくして過ごしてね。

またパキラ

昨日の高円寺の記憶がほとんどない。みんなと楽しい時間を過ごした後の、あの満足したような疲れたような感覚はある。昨夜は今度こそ終電に乗りたいという気持ちが妙にあって、帰ると言ったらえこちゃんが何も言わずコートを羽織って一緒に駅まで走ってくれて、なんかすごく嬉しかった。えこちゃんはいつも一緒に駅まで走ってくれる。えこちゃん大好きだよ。名前まで好き。みなさんどうもありがとうございました。みんな今日も元気にしてるかな。STAX FREDはまた31日に出演します。ライブ後にみんなで近くのお寺に鐘つきに行くんだって。楽しみだな。そういえば中村さんにCDを渡すタイミングを逃してしまった。

 

記憶がないと言ったけど、もうちょっとじーっとしていれば結構思い出せそう。ケイくんの顔や、中村さん、KAZさん、ハチさん、田口さん、のいろいろ、少しずつ断片的にチラホラと浮かんできている。

もう少し若い頃まで、私は本当に嫌になるくらい記憶が細かく、特に人の顔と名前は絶対に忘れなかったし、その人がどんな時どんな風に振舞っていたとか自分の見たものを全然忘れられなかった。でもみんなあんまりにも何も覚えていない風にしているので、そうか、世の中の人同士お互い覚えていないふりをして、また一から接していくのがひとつの作法だったのかと思って、「えーどうだったっけ、覚えてないや」とか言って過ごすようにしていた。細かなことをひとつひとつ思い浮かべながら。なのに最近は思い出せないことがそれにしても随分多くて、まるでどんどん不思議な世界に入っていってるような気分だ。ここをずっと歩いていくとどんな世界に着くんだろう。

 

昨日と同じパキラの木の前に座っていたら、今朝も、記憶の底の方から、亡くなった人と呼んでいいのか、いろんなことが少しだけ違っていたら会うことができた、大事な存在になったかもしれない、でもいろんなことが違っていたらそもそもその人の存在はなかったかもしれない人のことが頭に浮かんで、思いめぐらせて、気が付いたらハラハラ泣いていた。私は母が40の頃どんな風だったっけとぼんやり考えていたんだった。母はすごく綺麗だった。時々一緒に電車に乗ると、母があんまりにも綺麗で美しく光り輝いているので、総武線で向かいの席に乗り合わせたおじさんが、あの人はもしかしたらそれまで母のような美しい人を見たことなかったのか、母のことをずーっとじーっと、まさに不躾な目付きでいつまでも見ていて、私はそれにものすごく腹を立て、母の横からそのおじさんに向けて、有らん限りの力を振り絞り、全力を込めて睨んだ。あれは母が40よりもう少し若かった頃かもしれない。でもママは今だってすごく綺麗だ。

 

美人という言葉と beautiful という言葉について考えていた。母はすごい美人なんだけど、ママのことを美人と言う時、いつも少し申し訳ない気持ちがする。そんな小さなものにしてしまってごめんという気持ちなのだ。beautiful だったら、木だって、空だって、海だって、鳥だって、この世界の全てのことなのに、美人なんて、たった人間の女性だけのことにしてしまって、ママをそんな風に小さなものにしてしまってごめんね、って思う。

 

今日はライブない日なので少し気持ちもゆっくりしている。

成城のクオバディスというカフェギャラリーに、大切な友人とお世話になった方に会いに、その方の描いたお花や首里城や台湾の柚子(日本語では文旦)の絵を見に行こうと思う。今日も晴れていてうれしい。晴れているってこんなにすごいことなんだね。こうやって毎日書くようになるまで、たった空が晴れているだけで自分が毎日こんなにしあわせになるのだとよくわかっていなかった。

パキラ

冬はいくらぽかぽかでも早起きが難しくて、今朝もベッドでごろごろ。昼寝もしたいのにな。もう出かけなきゃ。


今日は家の前の大家さんの畑で大根を売っている。

駅に着くまで、ウェットスーツのままサーフボード積んだ自転車をこいで海に向かうサーファーと2人すれ違った。そうよね、と思ってぐるぐる巻きにしてたマフラーを外してみた。やっぱりぽかぽかだね。日向を歩いてればマフラーなくても大丈夫。


今朝、部屋の隅に置いてるパキラという観葉植物の前に座って、こんなにすくすく伸びてる立派できれいな葉っぱを果たして剪定しなくちゃいけないものか、どこから切っていいものだろう、とじーっと考えていたら、ふと、中高の同級生がアメリカで水難事故で亡くなったというのを思い出した。あんまり久しぶりの名前だったから、先日別の同級生と食事をしてる時に彼女の訃報を聞いてもよく飲み込めなかった。苦しかったね。ごめんね。心よりご冥福をお祈りします。また来世どこかできっと会おうね。

     

自分で曲を書いて歌いたいと思ったことはないし、ましてや自分の家族の歌を書こうなんて思ったこともないのに、今年に入って急にいろいろ書くようになって、さっき、はとこのパオパオの歌もできた。たぶん。アル中のおばさん、知的障害のあるホンイー、若くして自殺したおじさん、大好きだったおばあちゃん、そしてチンピラで目の見えないパオパオ。日本語で詞と曲両方自分で書くなんて3歳の時以来(「ケーキ屋さんになりたい」という曲、よっぽどケーキが美味しかったんだろうな)のことで、こんな風に曲を書いて歌うようになるは思わなかった。3歳のえりちゃんにはお見通しだったかもね。

     

と書いていたら、おじいちゃんの歌のフレーズが浮かんできた。「酔っ払ったら日本兵〜」ってブルース。どうかな。


もうそろそろ新宿に着く。外が暗くなって寒くなってきた。上原の高架から見える夕焼けの色が淡い。マフラーまた巻かなきゃ。

この後新高円寺でさっそくパオパオの歌うたってみようかな。

   

ぽかぽか

今日も昼間はぽかぽか。窓全開にしてもあったかかった。年末。太陽ってすごいね。少し陰ると風がとたんに冷たくなった。

 

昨夜は秋葉原 CLUB GOODMANで鬼怒無月弾きっぱなし。みんなでわいのわいの楽しかった。年に一度ああいうイベントがあって、みんなで一年の終わりを感じられるっていいものですね。鬼怒さんありがとうございました。共演者のみなさん、お店の方々、お客さま、みなさんどうもありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。

 

秋葉原に行く前、イブの日の本番前に駆け込んだ餃子のミンミンにお気に入りの赤い水筒を置いてきてしまったことに気が付き、四谷に寄って取りに行った。ミンミンのおじさんが私の水筒にしっかり「12/24 忘れ物」と付箋を貼ってレジ横に保管しておいてくれて、しかも、もしやと思って水筒を開けてちょっと中身を舐めてみたら、まだ飲めた。2日前のコーヒー+牛乳+はちみつ+シナモン。2日経ってもおいしかった。ミンミンありがとう。また行くね。餃子食べたい。餃子大好き。餃子ってそういえば台湾では大晦日に食べるね。水餃子だけど。ああ水餃子も食べたい。

 

中学生の頃英会話教室に通っていて、その教室の面白かったのは、行くと毎回担当の先生が違ったこと。全部でおそらく10人くらいの先生が在籍していて、交代で担当してくれるのだけど、先生の出身地はオーストラリア、イギリス、アメリカ、アメリカでもハワイ、とかいろいろ。人種も白人、黒人、アジア系、インド系などなど、訛りも喋り方も様々で、その日どの先生が自分のクラスに来るのかは行ってみないとわからない。私はカリフォルニア出身アジア系の若くて明るいキャシーという先生が結構好きで、クラスが始まる合図のベルが鳴り、教室のドアが開いてキャシーが入って来るとなんとなくラッキーな気分になった。キャシーは今思えば典型的カリフォルニアのアジア系女子という感じで、黒のストレートさらさらロングヘアをかきあげて「最近気になる男の子いないの?」と授業中、東京の地味な女子校に通う地味な制服の私に聞いたりして、キャシーのそういうところが私は嫌いじゃなかった。

 

ある日キャシーは教室に入ってくるなり、

"Do you like gyoza?"

と私に聞いた。餃子は好きなので、たぶん "Yes, I do," とでも答えたのだと思う。するとキャシーは机にパンと両手を置いて、天井の方を大きく見上げるとゆっくり後ろに反り返り、

"I love gyoza."

と言ったのだ。ラブの「ラ」を思いーっきり引き伸ばしてゆっくりと。英語を習いたての13歳の私は、Loveって、餃子もloveすることができるんだ、餃子のこともloveしていいんだ、愛せるんだ、愛していいんだ!となんだかすごく感動して、家に帰って母に早速そのように報告した。

 

13歳の私って何を愛していたんだろう。当時住んでた荻窪の家で飼っていた秋田犬のさぶちゃんはまだうちに来ていなかったし、猫のみーちゃんが来たのははもっともっと後、私たちが台湾に戻ってから。父や母に対する深く自然であたたかな情感を愛しているとか love とかいう言葉で言い表せるのだと教えてくれる人はいなかったし、自ら愛していると表明できるようになるにはまだまだ幼稚な心で「そもそもお父さんとお母さんは愛し合っていないじゃないか」と憤慨していた。そうだとして、そんなこと関係ないのにね。何を愛してたんだろう。通っていた中学校の古い校舎の建物、住んでいた家の外壁の古びたクリーム色、少し苔っぽい屋根の赤みがかった色合い、13歳の誕生日に母がくれた赤いセーター、お小遣いで買った全音のドビュッシーの楽譜、アラベスク、ピアノの先生がくれた、小さな飾りのたくさんついたブレスレット。小学生の時ママがくれた陶器でできた白鳥の形の置き物。小花柄の布でできた淡いピンクの丸い小銭入れ。思い出せるのはそんなものだろうか。餃子も愛していいんだと知って、私は何か変わったかな。

 

さて今夜は国分寺でジャズスタンダード歌います。愛の歌ばっかりだよ。

久しぶりの人

クリスマスも終わり、窓の向こうに見える富士山が裾野の方にかけてまた白くなってきた。

 

この間のホメリのライブでは、お客さんに一人外国の方がいらっしゃり、あんまり話せなかったけど、お店を出るときに彼は手をあげて、出口のドアからこちらを振り向くようにして大きな声で "Merry Christmas!" とみんなに向かって挨拶をした。そうだったね。そういえばそうやってみんなで挨拶し合ったっけなあと思い出して、でも私から同じような声は出なかった。なんとなく笑って手を降った。クリスマスを素直に祝えるような心持ちではなくなってるのかもしれない。それでも祝いたいという気持ちはあって、藤沢駅改札すぐの神戸屋に寄ってシュトレンを二本買ってホメリに持って行って、みんなで食べた。それだけのことなんだけど、よく会うお客さんやはじめて会う人、久しぶりの友人やお店の人と一緒に夜、あたたかい部屋でコーヒーやワインと一緒に焼き菓子を食べるのは、今一緒に生きていることをささやかに祝福できる大切な時間だった。ライブが終わるともう遅いので、お客さんは半分くらいすぐに帰ってしまって、一本だけ切ってもらって残ったみんなで分けた。もう一本は今年もお世話になったアルジに。よく寝かせてゆっくり食べてね。そういえばオーブンがほしいと去年から思ってたんだった。どこに置こうかな。

 

時差もあるのでちょうど昨日の夜あたり、アメリカの友人たちから、メリークリスマスのメールが届いた。懐かしい人たち。メールがなかったらきっと連絡を取ることもなかっただろう。住所のわかる人にはクリスマスカードを送ったかもしれないけど、そんな風に連絡を取ることと取らないことの差もよくわからなくなってしまった。カード届くと嬉しいのにね。その人の字や、切手を貼った手、カードを閉じて封をした手。車を停めて郵便局の窓口へと歩いて出しに行ったのか。そんなことを想像しているだけで、コーヒーが冷めるまでぼーっとしてしまう。今年は誰にもカードを書かなかった。遠くのいろんな友人たちのことをいつも思い出して考えている。ただそれだけで今年は終わった。

 

ライブハウスやカフェなどで歌うのを主な仕事としているので、自分の手帳に書いてある予定の半分くらいの「何月何日何時どこに行く」というのを公開していることとなり、なので時々、私としては手帳通りに行動しているだけで、思いもよらない懐かしい人が会いに来てくれることがある。先日の吉祥寺バオバブのライブにも、おそらく10年ぶりくらいになる友人が「えりー会いに来たよ」とふと現れた。20代の頃台湾で付き合っていた彼氏の親友の当時の彼女。こう書くと随分薄いつながりのようだけど、それでも人のことって忘れないもので、その彼氏と別れても彼女のことをなんとはなしによく思い出して考えていたし、だいたい麻布十番の商店街を、アメリカンアパレルに白いスカートを買いに行こうと歩いていたら、近くのカフェで仕事していた彼女が休憩しに外へ出てきて、私の目の前から坂道をすたすた下りてきたこともあったんだった。あのスカートはどこに行ったんだろう。たぶんそのバッタリから10年ぶりなんだけど、こうして会ってみるとそう久しぶりでもないような感じで、それは私がよく彼女のことを思い出していたからなのか、彼女も私の知らないところで私のことを時々思い出してくれてたからなのか。「変わらないね」って言い合ったけど20代、30代、40代と過ごしているのだからそんなはずはないのだし、変わらないのは何なのかな。私たちがもっと老いたら、もっと時間が感じられるほど久しぶりだと思い、会っていない時間の分だけ私たちも変わったと思うだろうか。

 

クリスマスも終わると年末。ひいらぎから南天へ。

リハーサルに出かける前に、玄関に飾るお花を買ってこなくては。

The Good Life

たまには夜更新。メリークリスマス。

私のクリスマスディナーは蒸したじゃがいも。ゆで卵。ツナ。オリーブオイル。塩コショウ。赤ワイン。

あーよく休みました。

 

一人でとる質素な食事がどんどん好きになって、いつもおいしいもの食べたいという気持ちがあんまりなくなってきた。「おいしいものばっかり食べてるといやになってくるじゃないですか」と適当なラーメン食べながら誰かが言っていて、確かにそうだな、と思ったことがあった。

 

不思議なもので、パソコンの前に座って何か書こうと思うと、ここではない場所のことをよく考える。普段生活していてニューヨークのことなんてほぼ全く考えないのに、数日前に昔の写真引っ張り出してきたからか、ニューヨークの地下鉄車内に張られていて好きだった詩を思い出した。当時(今もかな?)NY市交通局 MTA が Poetry In Motion という企画をしていて、車内に詩とその詩に添えられた絵の小ぶりなポスターが張られていた。英語もネイティブではないし、当時の私がその詩から何を受け取っていたのか自分でもよくわからないけど、Tracy K. Smith という私より5つくらい上の詩人が書いた The Good Life というその作品が私はとても好きで、地下鉄に乗って、たまたま空いた端っこの席に座って真横にその詩があるととてもうれしく、何度も頭の中で繰り返し読んで味わおうとした。添えられた絵はどことなく素朴な感じで、芝生の上に生えた豊かに葉をつけた木が左側に、その右側には煉瓦造りのアパートがあって、緑色のドアの玄関前の階段には女性同士のようにも見える黒人と白人のカップルが並んで腰かけ、気持ちよさそうに寄り添っていた。

 

 

The Good Life

 

When some people talk about money

They speak as if it were a mysterious lover

Who went out to buy milk and never

Came back, and it makes me nostalgic

For the years I lived on coffee and bread,

Hungry all the time, walking to work on payday

Like a woman journeying for water

From a a village without a well, then living

One or two nights like everyone else

On roast chicken and red wine.

 

Tracy K. Smith

 

 

 

私はこの詩を手帳に書き写して、自分の部屋に帰ると何度も読んだ。なぜだかわからないけどとても心が温まって、時々手帳のそのページを開いては声に出して何度も読んだ。久しぶりに今また読んでみたよ。

クリスマスプレゼントの代わりにみなさんにも。ローストチキンはないし、ワインも飲んじゃったけどね。

平安夜

ああ今日は太陽がいっぱいいい天気。

メリークリスマス。クリスマスイブだね。台湾の実家の方ではみんなもっとお祝い気分だろうな。うち一応クリスチャンなのです。とはいえ台湾原住民クリスチャンなので、ちょっと独特な部分もあるけど。礼拝もタイヤル語だし。クリスマスといったらお正月みたいなものなのかな、クリスマス前にはみんなこぞってパーマをあてて髪を染めたり、赤い晴れ着を着たり、着せたり。

 

昨日は吉祥寺バオバブライブの後なんとかダッシュで終電に乗って帰ってたら、一本前の電車で人身事故があり、止まってしまった。2時20分くらいまで途中駅から動かず、居合わせたみなさんと電車の中でぐうぐう寝た。みんな翌朝も早いんだろうな。疲れてたし眠かったけど、とても切なくもあった。この人身事故というのは本当に毎日どこかであって、こんなにあると、なんだろう、もうこの社会そのものがあちこちで自爆テロをしているような感じだ。昨日の夜死んだのはどこのどんな人だったんだろう。せめてどうぞ安らかに。

 

しかし夜遅いと寒いし疲れるね。3時くらいに家に帰りついて、コートのまま、ぼーっ。小田急線のみなさまもお疲れ様です。3時まで電車を走らせて。

 

朝起きてもも頭がまだまだぼーっとしているので、「お風呂かごはん、どっち?」となんとか自分に聞いて、「ごはん。」今朝もやっぱりお味噌汁。和食が好きとか特にそう思ったことはないけど、お味噌汁だけは大好きで、自分で作るのが好き。何入れてみてもおいしい。大きな大きな白菜をいただいたので、今朝はお鍋に白菜を芯から敷き詰めて葉っぱ部分をうず高く盛って、だしをちょっとかけて、ベーコン切ったのを白菜の隙間に少し挟み込んで、蓋閉まらないけどとにかくかぶせてしばらく火にかけて、白菜から水が出てきてふたがぴったり閉じたあたりで中を見て、足りないぶん水を足して、ことこと。具が煮えたらお味噌を溶いて、今日はなんとなくポーチドエッグ食べたかったから、ボウルにお味噌汁よそった上に卵のせてできあがり。

 

というわけでごはん終わったし、お次はそろそろお風呂タイム。

お風呂のあとは支度して四谷三丁目。今日はホメリでファルコンとDUOライブです。昨日のライブでマリナちゃんとたひさんがケーキ持ってきてくれたのが嬉しかったから、私もケーキ持って行こうかな。みんなで食べよ。少しでも平和にね。

 

写真は台北の家のベランダに今咲いているお花。母がfacebookにあげてたのを転用。ちょっとクリスマスカラーっぽい?

どうぞみなさんもよい一日を過ごしてね。

平安夜、聖善夜。

星はひかり。

昨日も帰り道、星がきれいだったな。夜道にうかぶみんなの家のお庭のみかんも。

まとめて日記

ちょっと日があいちゃった。冬の間はもともと大してないキャパが一気に落ちて、何よりもお布団にくるまって寝てゴロゴロ休んでいたい。でも早寝早起きはやっぱり好きだな。私も変わったもの。

昨日は冬至だったね。寒くて雨だったけど、今が一番底でこれから上っていくんだって思うと、そんなに辛くなかった。二度寝の夢の中で「えりちゃんに強いおばけがついている」と言われた。

 

12/20金曜日、鵠沼海岸の福祉施設・亀吉でオープンマイクのホストだった。ご近所の音楽好きの方を中心に何人かで集まって、あみだくじで順番決めて、順番にステージに上がって各自出しものを、ってただそれだけなんだけど、私はいつも感動して、みんなすごいなって本当に思う。この間はよく遊びに来てくれるご近所さんが「曲も書くんですが、コード楽器が弾けないので」と言って、自作の詩を朗読してくれた。朗読してくれたのは、生きるということについての三編の詩。簡単じゃない人生を何十年も生きてきて、その生きるってことを言葉を連ねてなんとか表現して、その言葉を、自分の声にして読んで、自分の外に出すって、ものすごいことだと思った。自転車に乗って、電車に乗って、車に乗って、そういうことをしに来てくれる人がいて、それを一緒に座って聞く人たちもいるんだから、オープンマイク細々続けていくのもいいもんだなと思った。

生きる、と言えば、今朝の私は二日酔いで、二日酔いってものすごいパワーなんだとしみじみ思っている。二日酔いの時って「生きる=二日酔い」で、全ての悩みが二日酔いに飲み込まれ、自分が二日酔いであると一分一秒常に感じていて、逆に言うとそれ以外のことを大して考えられない。こんなにすごいんだっけね。

 

翌日12/21土曜日はリハがあって朝から東京へ。

ここ数年、年末はいつもこの高円寺のスタジオで鬼怒さん弾きっぱなし(今年は12/26)のリハがある。鬼怒無月弾きっぱなしというイベントは出演人数も多く、このイベントでしかお会いしない方たちと一年ぶりに挨拶をして、もう年末ですね、とかなんとか、なんだか親戚のおじさんちの集まりみたいな感じ。精神的に確かにそんな感じなのかも。

ご飯を食べる時間がなかったので、ほっともっとで白身魚のフライの入ったのり弁買って、車の中で食べて、夜は代々木公園のレストランFONDでディナーライブ。友人の紹介でここのお店で年に何回かライブしてるんだけど、シェフの石原さんがとっても面白く、お会いするのがいつも楽しみ。FONDの常連さんたちがいらっしゃって、石原さんの作るごはんを食べながら、最後の石頭歌では大盛り上がりに。それにしてもここ毎日石頭歌を歌っているな。毎日違う人たちとみんなで歌えるせいか、毎日歌っても飽きないから不思議。ここ何年歌ってるんだろう。今夜もきっと歌うよ。

 

12/22日曜日、昨日はお昼から調布で最後のレッスン。生徒のみなさんありがとうございました。お教室スタッフのみなさんもありがとうございました。日本に戻ってきて結構すぐにこのレッスンの仕事を知り合いづてに引き継ぐことになり、それから昨日までずっと通ってくださった生徒さんたちもいて、何年も一緒に同じ部屋で歌をうたってきた人たちがいて、とってもありがたいことだった。長い生徒さんたちと最後に少しお話する時間も持てて、それもありがたかった。

最初はいろんな発声練習みたいなこともしたけど、そうじゃないな、ってある時から思って、ボイトレという名のもとに、ほとんどただ一緒に歌うというレッスン。教える立場に一応あったわけだけど(エリ先生!)私にしてみたらそんな感じではなく、みなさんからいただくものがいつもたくさんあって、来てくれたみなさんに心から感謝しています。歌は死ぬまで歌えるから、また一緒にどこかで歌おうね。

レッスンのあとは駆け足で新宿21世紀へ向かって、TOKYO FREE ZONEというイベントでライブ。新宿21世紀って店名がすごく好き。内装や雰囲気もその名に違わぬいい感じ。電飾ビカビカ。電飾ってなんでかわかんないけど、私にとって絶対善みたいな、健康と毒の両方のいいとこ取り合わせて光ってるみたいなとこがある。やり過ぎてくれればくれるほど好き。対バンのみなさんは小平智恵さん以外はじめて。とっても楽しかった。出番ギリギリに着いたので聴けなかったバンドがあって残念だったけど、うすらび、ミックスナッツハウスの林良太さん、それぞれ素敵で、楽しくてついつい飲みすぎた。小平さん大好き。小平さんの力に乗っかって演奏して楽しかった。電飾だし赤のビロードのカーテンだし。

 

さてはて。今朝は日記めいたものを書きました。

電飾のこと考えてたら、私の今まで見てきた中でもっとも電飾の激しい店にやっと行けてとてもとてもうれしかった7年前の日のことを思い出して楽しい気持ちになったので、その写真をば。こんな写真撮ってもらったことも、このお店で食事したことも忘れてたけど、数日前、facebookが「7年前の今日あなたは・・・」って引っ張り出してきて思い出した。2012年12月20日の私。ニューヨークのとあるインド料理屋さん。天井から隙間なく吊り下げられまくった赤と緑のトウガラシ型の電飾がビカビカ光り輝いている合間に、そのビカビカを四方八方へもっともっと反射させてる螺旋形の色鮮やかなセロハンがぶら下がって、壁はミラーのタイル、椅子とテーブルクロスは赤。このお店と双子みたいな同じようにビカビカのインド料理のお店がその通りには数軒並んでいて、どれでもいいからすごーく入ってみたくて、ある日ついに入った。めまいしそうに満足な時間。ごはんも確かおいしかった。

 

今夜は吉祥寺バオバブで辻村マリナちゃんとライブ。パーカッションのたひさんも。昨日のTOKYO FREE ZONEにマリナちゃんも以前出ていたみたいで、つながるね。

二日酔いもそろそろさめてきちゃった。お味噌汁飲んでこよう。飲んだ後のお味噌汁ってなんて美味しいんでしょうね。

みなさんもどうぞよい1日をね。寒いけど少し太陽が出てきたよ。

手仕事

昨日はおやすみでたくさん寝た。ずーっと空が灰色で天気があまりに寒々しくて。冬はそうなっちゃうな。

お昼寝とお風呂をはさんで、ちょっと練習して、よく寝ました。

 

午前中4時間くらいかけて丁寧にドラム式洗濯機のクリーニングをしていただいて、その間に部屋でCD&小冊子せっせと作った。

こうやって手仕事ができるっていいもんだな、と思うと、端午節になると母とおばたちが集まってみんなでちまきを作ってた姿が思い浮かぶ。竹の皮、白花肉、もち米、ピーナッツ、干し椎茸、干しエビ、そんなものをおば達がそれぞれ持ち寄って、うちの台所にわらわら集まっては、ギャーギャーおしゃべりしながら、洗って、切って、蒸して、炒めて、三角に包んで、最後に紐でしばってぶら下げる。もちろん私たちタイヤル族には漢民族の食べものであるちまきを手作りして食べる伝統などないので、我が家に代々伝わるレシピのような素敵なものもなく、平地人の家に嫁いだおば達(ほぼ例外なくいじめられた)や、都会に出てきて平地人たちと暮らす中でちまきを覚えたおば達による、複合レシピだ。なんで作るかと言えば、美味しいから。そしてたぶん、みんなで集まって一緒に作るのが楽しいから。私はおばにくっついて来たいとこ達と一緒にぷらぷら遊んでいるが、いよいよちまきを包んで紐でしばってあの三角の形にするという段階になると、私たちもおば達のおしゃべり声のする台所へ行って、まずおしゃべりに混ざり、「包んでみる?」と声をかけてもらうのを待って、包ませてもらう。同じように包んだちまきでも、包んだ人によってなんとなく格好が違ったりして、誰のが一番形が整ってるとか、この妙なやつは誰が包んだんだ?とか、出来上がったちまきを並べてみんなで品評するのもそれだけですごく楽しくて幸せだ。包むのが一番下手でもしあわせ。本来なら私も、台所でちまきを作っておしゃべりしながら姪っ子甥っ子を迎えているような年齢なんだな。

 

ずいぶん時期外れなことを思い出しちゃった。ちまき。ではなくCDの話だった。

自分で作って、封筒に入れて、一言お礼のお手紙書いて、郵便に出して、届いた人からありがとうと連絡があって、というのがすごくうれしい。みなさん本当にありがとう。またCD作りたくなっちゃったよ。2つあるのよ、案なら既に。自分宛に企画書でも書いてみようかな。

今回のCDには私の家族についてのうたが2曲あるんだけど、その歌詞を印刷しながら冊子を作っていたら、また別の家族メンバー、私のはとこパオパオの歌がひょいひょい口をついて出てきて、あとひとふんばりで新曲できそう。俺の歌はどうしたんだよ、まだないのかよ、とつっつかれたのかも。

 

今夜はうちの近所の鵠沼海岸にある福祉施設「亀吉」でオープンマイクでホストしてます。ちょっと入りにくいかもしれないけど、誰でも来ていいんだよ。楽器演奏したい人も、歌いたい人も、何するわけじゃない人も。今日は私もいるので、伴奏必要な方には心ばかりの伴奏します。すでに連絡くれたみなさんありがとう。歌いたいとか楽器演奏したいとかっていいよね。私も歌いたい。みんなにも歌ってほしいし、自分ももっと歌いたいから、ピアノももうちょっと習ってみようかなと時々思う。今のところ思うとこで止まってるけど。

 

お花に水もあげたし、そろそろお昼ごはんの仕度でも。今日はぽかぽかで気分もいいな。どうぞみなさんもよい一日をね。

ハチロー

昨日のライブ、来てくださったみなさまどうもありがとうございました。

私はあくまでファルコンレコ発ライブのゲストということだったので、ちょっと歌ったら後ろの方で大人しくしてお酒でも飲んでるつもりだったのですが、平塚 Wood Shop ではサンタナでの Wood Shop音楽祭も入れたら5回くらい歌ってるのかな、すっかり馴染みの顔となったお客さんもいて、とっても居心地のいい場所になって、ついついアンコールされるままにいっぱい歌ってしまった・・。調子に乗ってしまってごめん、ファルコン。

 

マスターとママとその周りの人たちのこと、会うたび好きだなあと思う。

最後に残った近所のお客さんたちと、すぐそこのけいちゃん家に施されたクリスマスのイルミネーションをみんなで眺めて、屋根に向かってハシゴをとっとこ上ってくサンタさんの速度が遅くなったり早くなったりするのを見て「サンタは疲れるんだ、ほらまた遅くなった」とか「あ、今ちょっと休んだからほらまた早くなった」とか「いや、これは全部私たちがこうやって見てる間だけのことで、あのサンタ、私たちが店の中に戻ってったら絶対休んでてハシゴなんて上ってないよ」とか、そんな話をケラケラとした後、「あの家に帰るのか」とけいちゃんがぼそっと呟いてお家に帰っていくのを手を振って見送って、私たちも御開きとなった。

 

8月最後の土曜日、Wood Shop音楽祭の時にマスターがギターを弾いてママがオカリナを吹いた「悲しくてやりきれない」があれからずっと心の中に聴こえてる。 

どんな歌詞だったっけ、と思って今検索してみたら、ものすごかった。

こんなうたが流行ったのか。やるせないモヤモヤ。限りないむなしさ。もえたぎる苦しさ。

こういう本当のことを口ずさんで心をなぐさめることができたなんて、この曲が流行った時の人たちはよかったな。私もあとでピアノに座って歌ってみようか。

 

気になってこの曲の作詞したサトウハチローのことをちょっと調べてみた。子どもの頃、あれは母と日本に引っ越してきた最初の年、「ちいさい秋みつけた」を金町の駅前にあるエレクトーン教室で習って、すごく好きで、ずーっと何度も弾いては歌ってた。ミラシドミー、って始まるあのイントロをまず右手で、そして左手で同じフレーズを山びこが応えるように。楽譜の右上に書いてあった作詞・作曲者の名前の、作曲の方は覚えてなかったけど(今見たら中田喜直だったんですね)、作詞の方は、名前全部カタカナだし、最後の文字伸ばし棒だし、ドロップとかトローチの仲間のように見えてすぐに覚えた。そしてまたここで出会った。

 

大変な人だったんだな。育った家庭環境から大変だったようだけど、でも彼がまだ10代の若い頃、家族の外にとっても信頼できる大人と深く交流できていたみたいで、それはすごく大きいことだったんだと思う。世の中がやるせないやるせないモヤモヤの中にあるように思えて、掴めないそのモヤモヤをよーく覗いてみると、そこは限りないむなしさで満ちていて、その中で救いを探し求めてみても苦しさがもえたぎるばかりで、空が輝いてても、雲が流れてても、森の中で風を感じていても、悲しくて悲しくてやりきれないということが変わることはない。それでもたった一筋、この世の中のどこかに信頼みたいなものがあって、そこを掴むことができたら、せめて歌詞にして、うたにすることができて、それを自分に許すことができて、それってものすごいことだ。そういう信頼はたった一筋あればいいんだけど、でもそのたった一筋がないと死んじゃう。

 

お花にお水あげなきゃ。外が晴れてきた。

この頃は朝が暗いし、起きてすぐ水あげるとなんだか冷たそうだから、ちょっと日が差してくるまで少し待ってるんだけど、それでいいのかな。「お湯にしようか?」って聞きたくなる、って、前に友人のまみちゃんが言ってたな。

 

写真は Wood Shop音楽祭のリハ後、平塚駅の周りを散歩した時のもの。歩道橋に草がぼうぼう生えて向こうまで続いてて、なんかそれが嬉しかった。

バリーが90歳

小雨から一気に晴れてポカポカ。腰に貼ったホッカイロがあちち。

 

一昨日、12/15は Barry Harris 90歳の誕生日。

90歳だよ。すごい。感動。

この間具合を悪くして入院したと聞いていたので心配していたけど、知人のfacebook投稿で、毎年恒例バリーの誕生日パーティの様子がアップされていて、感動しながら見ている。ああこのガヤガヤとした祝祭感。挨拶する人々。元気そうだね、調子よさそうだね、そっちもね。そっちもね。顔。顔。手ぶり。腕。声。声。音楽。

 

感動するところがいくつもいくつもあって、そのことを書きたいんだけど、もうそろそろ今夜のライブの準備をしなくては。

バリーが、いつものように、ピアノに座ったリチャードにGm7を弾くように言って、イントロが始まって、いつもの歌をクワイヤーメンバーが、いつもの歌を、みんなで歌ってる。上手くても下手でも歌ってる。ビブラートがやたらびろびろでも、ピッチが悪くても、高い声が出ても出なくても、みんなの声の響きが合わさって、歌うんだよ。ビバップを。ハーモニーを。リズムを。魔法になるから。本当に。

こんなにいいものだったんだなあ。泣いちゃう。

バリーおめでとう。私の永遠の先生。先生って呼んでいいのかしら。

歌って何なのか、音楽って何なのか、知ってる限りをあんなに真剣に教えてくれた人はいなかったから。

誕生日パーティの動画は Johnny O'Neal が出てきたところ。これは今夜帰ってきてからのお楽しみにしようかな。

 

今夜は平塚 Bar Wood Shop。

ファルコンのソロアルバムレコ発ライブ、ゲストで歌ってきます。私のCDも持ってくよん。

バリーにまた会いにニューヨークに行きたいな。ちゃんと自分の歌をうたって。

台北の家

毎日ほんとに寒くなっちゃった。

家に帰るのについ下を向いてステステ歩いてしまうけど、ふと空を見ると星がすごくきれいだ。でもやっぱり寒いんだよなあ。

 

お正月、台湾にちょこっと帰ります。

母や親戚が年に最低1度は日本に来るし、facebookも親戚の投稿だらけなので、もうちょっと帰ってるような気分でいたけど、なんともう3年も帰っていなかった。近いからいつでも帰れると思ってたのに。

 

3年も帰ってないのはいつ以来だろう。

25の時以来のような気がする。

3年も帰ってないのに自分の家だと思っている。リビングに射してくる光、ベランダを裸足で歩く時の少し冷たいタイル、玄関の大理石はもっとひんやり冷たくて、台所の窓からのそよ風、床をスリッパがすたすた鳴らす音、誰かが帰ってきて鉄の門扉がかちゃりと閉まる音、玄関のドアが開いてドアに吊り下がったウィンドチャイムが鳴るキラキラした音、おじいちゃんの歩行器の音、マンションの入り口で誰かが鳴らすブザー、マンションの前の道で古新聞を集めるトラックからの呼び声、向こうの学校から聴こえるチャイム、廊下の奥の影、もういないけど、みーちゃんの気配。鈴の音。もういないけど、台所の魔法瓶の横のピンクの椅子に腰かけて、台所仕事する母に話しかけるおばあちゃんの話し声。同じ椅子に座って、台所仕事する母に向かって大きな抑揚をつけて話すおばアイバカンのよく響く声。笑い声。母が買ってきてキッチン台の魔法瓶の前に洗って置いた芭樂、蓮霧、棗などの果物。あとで食べようと置いてある、袋のままの豆漿、飯糰、燒餅油條。そういうのがすぐに浮かんでくる。私もそこにいるような気がする。リビングの奥のピアノのところに座って。ピアノの前の赤いソファに座って。母はよく模様替えするからもうあの赤いソファは別のところに置かれてるかもしれないけど。

 

せめて写真が見たいと思って、7年くらい前かな、まだおばあちゃんが生きてた頃、アメリカから帰った時に撮った家の写真を探してるけど見つからない。当時使ってた、昔のゲーム機を一回り小さくしたみたいなころんとした形のノキアの携帯のカメラで、家の部屋全部と2つのベランダの写真を撮った。誰かがいたり、いなかったり。みーちゃんが寝ていたり。おじいちゃんがテレビを見ていたり。母の蒸かした白い饅頭が二つテーブルにあった。

 

ママが撮ったベランダのブーゲンビリアの写真。

このブーゲンビリアの下に、垂れ下がるようにして咲いている黄色い花がずっと大好きだけど、名前がわからない。家に帰る時、いつも必ず上を見上げて、あの手のひらに乗るくらいの黄色い花が咲いてるか確かめて、そして7階のブザーを鳴らして、「開門」と言って家に入るのだ。

川底の石

ほいさっさ。

私の手作りCD-R&小冊子「まだ買えますか?」といろんな方が聞いてくれて超うれしい。買えます!

買えますどころか、私が生きてる限りずっと作れるので、生きてる限り在庫あります。

みなさんから注文をいただくと、私がのそのそ動いて、CD-R焼いて、紙のケースに入れて、シールして、まずCDでき上がり。そして紙買って(もうだいぶ買ってある)、印刷して、半分に切って、針に糸通して、縫って留めたら小冊子もでき上がり。そんな、ひとりでできるもんCD&小冊子を製造・販売してます。

販売の方は、ライブにはいつも数枚持って行くつもりなので(時々忘れる)そこで直接お渡しできるし、郵送もしてます。封筒も買ってあるのよ。こちらから注文、メール、メッセンジャー、ツイッター、ここからメッセージ、電話、会った時に「あ!CD!」でも、私に連絡つけばなんでも。送るのでご住所教えてね。すでにメッセージくださった方(ありがとう!)個別にお返事いたしますのでちょっと待ってね。

 

ライブは、

17(火)平塚、20(金)鵠沼海岸(open micホスト)、21(土)代々木公園、22(日)新宿、23(月)吉祥寺、24(火)四谷三丁目、26(木)秋葉原、27(金)国分寺、28(土)新高円寺、30(月)成城学園前、31(火)新高円寺、

という感じで、今月後半は夜な夜な東京近郊めぐってます。

 

以上、みなさま宛て業務連絡でした。よろしくね!

 

昨日は夕方東京へ。

東海道線に乗るのがすごく好き。4人がけの席に座って外を見るのがすごく好き。大船で観音さまを見て、戸塚で柏尾川を見て、戸塚から横浜にかけての丘陵地で、周りはちゃんと住宅地にされてるのにそこだけ取り残されてる感じのところがあって、頑張って山削って家建ててここじゃ大して売れないしねえって思われてるのかな、っていう感じなんだけど、その丘陵地の方も「そんなの知ったこっちゃねえ」とばかりに、緑うじゃうじゃと伸び放題繁りに繁らせたぼうぼうの木々につる性植物たちがこれでもかと手足伸ばして縦横無尽に絡まりまくってて、その繁栄=ぼさぼさの緑たちの下を覗くと、特に護岸されてないし名前も付けられてなさそうな小さい川がどうでもいい感じでひょろひょろ流れてて、そこらへんまでを眺めるのが特に好き。

いつもそうやって本当に好きだなあと思いながら乗ってるんだけど、ある日、知らない男の子がすごい勢いで向こうの車両からドアを開けて入って来て、ずんずん歩いてきて私の前に立つと、

「お姉さん、この電車って平塚いく?」

と大きな声で聞いた。行くよって答えると、その日私が着ていた赤いワンピースがよく似合ってるってすごくほめてくれた。そのワンピースは大事な友人と大事なことの記念にお揃いで買った(そういうことするんだな、私って!)お気に入りのワンピースだったから、ほめてくれてとっても嬉しくて、ありがとうって思わず大きな声になった。で、男の子はまたさっさと隣の車両の方に行っちゃったんだけど、車両を移る前に、ドアの前で立ち止まってこっちを振り向いて、

「この電車ってすごくいいよね!僕この電車大好き!」

と私にもう一度最後に話しかけた。私も首を伸ばして、大きく頷いて、手を振った。

 

前からずっと行ってみたかった寄席というものへ行った。

あんなものすごいこと年がら年中毎日やってるなんて。すごい。

私ははじめてだから終始興奮状態だったけど、周りのみなさんは慣れた様子で、のんびり出たり入ったり、お弁当食べたり、ビール飲んだり、柿の種つまんで、おくつろぎ。すごいなあ。ああいう空間があったんだ。

人間ひとりそこに座って、世界の美しいこと、醜いこと、どうしようもないこと、ワクワクすること、不思議なこと、そこから色々ぶわーっと見えちゃう穴になれるんだね。そしてみんなしてその穴の前に座る。まだ一回しか行ったことないけど、同じ話をいろんな人がしたりするっていうこともすごいこと。

以前ジャズミュージシャンの友人の家に行ったら、棚の上の方にわーっとジャズのCDが並んでいて、下の方にわーっと落語のCDが並んでいて、ふーん落語好きなんだ、ってぼんやり思ったけど、寄席行って納得。よく似ていたんだ。

 

CD用に小冊子書いたらブログ書くのも好きになっちゃった。しばらくここで毎日小冊子しようかな。飽きるまでね。

でも手に取れる小冊子ってのはいいものですね。ブログも好きだけど。今日もちょっと作ろ。

本日の写真は鮎が噛んだ跡のついた石。誰かが長良川の川底から拾ってきたんだろうか。

野紺菊

今朝も富士山がうっすら。昨日と同じくまた少し寒い朝。

 

たくさんの方にCD欲しいと言っていただけてとってもうれしい。ありがとうございます。

手作りっていいもんですね。こんなことするの好きだって思わなかった。というか忘れてた。小学校の時のバザーで一生懸命ちびまる子ちゃんの絵描いてしおり作って売ったのは楽しかった。学級新聞も結構よく書いてたような。子どもの頃はなんだかんだずいぶんいっぱい書いた。文通クラブ入ってたし。「えりの書く話は全部、逃げて逃げて、いつもとにかくみんなで逃げる話なんだよな」ってお父さんに言われたことがあった。そうだったっけな。山が燃えて森中の動物たちが逃げる話を原稿用紙50枚くらい書いた記憶はある。小学校一年生。台北の「金太陽」という喫茶店で、父に見せた。でもこの記憶も夢とぐちゃぐちゃかもしれない。

 

原稿用紙。

父が死んで、使いかけのコクヨの200字の原稿用紙がいっぱい残った。あの緑色の枠線が10代20代の頃はあんまり好きじゃなかったけど、今見るとしみじみとした気持ちになって、いいじゃないと思う。いつも使ってたUniの独特のあずき色の、2mmの芯のシャーペン?もいっぱい残った。普通のシャーペンより全体的に作りが硬くて、普通カチカチ押して芯を出す上のところはカチカチしなくて、ちょっと押すとにゅーって太い芯がずるずるこぼれて出てくるのを紙の上に置いて止めて、書くのにちょうどいい長さに調節したら上のとこから手を離してそこでもう一回芯を止めて、ちょうど指で持つところに目の細かいやすりみたいな銀色の滑り止めがあって、書くと人差し指と中指のの当たるところがざらざら擦れて変な気分になって、親指の先でさすった。あんなものを使うって一体どんな人間だったんだろう。あれもあんまり好きじゃなかったけど、今使ったらいいじゃないって思うもんかな。

 

死んだ人と会えない人と夢で会う人といつもそこにいる人の差がわからない。体温?

 

早く朝風呂に入りたいけど午前中郵便屋さんに集荷に来てもらうことになってるからもうしばらく入れない。

 

はてさて。

今日はライブもないのでちょっとお出かけしようかな。

ゆみちゃん誕生日おめでとう。ベランダの野紺菊の写真。これは10月。今はつぼみ付けたまま冬越しの準備。

 

皆さんもどうぞよい一日をね。ああ晴れてきてうれしいな。

できたよ

半年ぶりにおはようございます。

写真は、すっかり寒くなって、一気に都内が紅葉したちょうど1週間前、打ち合わせ後日比谷公園にて。

東京が嫌になって引っ越したけど(ほんとはもっと遠くに行きたかった)

東京の懐かしい場所に久しぶりに行くと、情のような、自分の心がまだそこに倚っているんだと気付かされて動揺しそうなほどだ。この日も曇ってて寒くて、天候的には何も気持ちよさのない日だったけど、少し空いた時間を外で過ごしたいなと思った。少し乾いた、冬の日。銀杏の葉っぱが唯一輝いていて、踏まれた実は臭い。アスファルトの舗道を歩いていると、やっぱりここから引っ越してよかったとふと思った。臭かったからじゃないよ。なんとコチコチに固まった地面なんだろうってびっくりするほどコチコチに感じて。

 

2年前に出したトリオのアルバムが、ふと見ると在庫も尽きてきててびっくり。当たり前だが在庫って永遠ではないのね。売るものがない。これもまたびっくり。

そんなわけでついに重い腰をよよっとあげて、自分のピアノ弾き語りCD-R作りました。録音は5月の私のはじめての弾き語りワンマンライブ@STAX FREDより。中村さんお世話になりました。ありがとう。遅くなっちゃった。これからもよろしくお願いします。

 

CD-Rのみライブ会場で先行発売=見切り発車してましたが、買ってくださったみなさま、ありがとうございました。おかげでお尻に火がついて、本当に作ったよ。小冊子。読みもの入れますと言うだけ言ってまだ何も書いてもなかったけど、試しに売ってみたら売れてしまって、お金もいただいてしまって、こりゃ大変と思って作った。こんなものを作らせてくれて、本当に皆さんありがとう。

 

何か読みものとかついたCDにしたいなっていうのは前のアルバムを作った時もぼんやり思っていて、でもなんでだろうね、あの時はできなかった。そういうのできる自分が思い浮かばなかった。今よりずっと暇そうだったのに。はじめてのCDだったし、いろんなことでいっぱいいっぱいだったのかな。そういえばあの頃まだ笹塚に住んでた。

そしてこの度やっと実現。家で日々ちまちまやれば実現できることだったんですね。

パソコンで少しずつ書いて、紙買って、プリンターで印刷して、揃えて切って、揃えて縫って、製本できあがり。楽しい。こういうの手首から先運動っていうんだっけ。こういう作業は心が落ち着く。このお正月は刷って切って縫って、みなさまの元にお届けしたいと思います。

 

しかし思ってたのと全然違うのが出てきたから、何か作るって面白いね。どんな顔したどんなやつが出てくるのか、産んでみようか、産んでみたいな、と思って、ふんばって産んで、出てきて、あらまあ、ってなるまで自分でもわからないこといっぱいだったし、それからまたちょっと寝かせたり、あちこちちょっと整えたりして、そしたらまた少し育ってきた。いろいろ不恰好なんだろうし、間違ったままのとことかあるし完璧には程遠いけど、いいものだなって思った。これはこれでいいんだね。

 

というわけで今朝もそろそろ手首から先運動してきます。まずはコーヒー淹れて、はちみつシナモンと豆乳。

みなさまもどうぞよい1日をね。寒いからあたたかくして。Have a beautiful day!

ぼたんがきれい

昨日辻堂の帰り、スーパーで売れ残っていたぼたんを買って帰ってきたら、一晩でふわあっと開いた。

玄関に飾ってたけど、あんまりにもいい匂いだから自分の部屋にちょっと借りてる。

今日はぼたんがあんまりにも きれいでいい香りで、それだけで半年ぶりにブログを書きたくなった。

 

相変わらずの日々です。

あちこちで歌って、一人で、いろんな人たちと一緒に。

ピアノを弾くことも少しずつ、また自分の音楽の一部だと感じられるようになってきた。もちろんすごく難しいんだけど。

藤沢での生活も一年とちょっと経った。

みんなが遊びにきてくれたり、みんなと知り合えることがすごくうれしくて、少しずつ自分が元気になってきてる気がする。

このあたりは昔、砂丘だったそうで、

今まであんまり道端で見たことがなかったような、ぷっくりした葉っぱにのびのび咲くいろんな花を見かけては、心が明るくなる。名前を知らないお花がいっぱい咲いている。

ここに住むようになってから、雨の日はカッパを着て自転車に乗るのがすごく楽しみになった。だから昨日も。

よく海に行って、波や雲や、空や、向こうの山々や島を眺めて、時々そのまま何時間か歌ったりしてる。周りには誰もいない。

夕暮れ時になると大体カラスが来て、少し離れて私と並んで海を見ている。死んだ魚があがっていても、カラスは興味がなさそう。

てんとう虫が私の靴をのぼってきたりする。ここは夜が暗くて好き。

歌うことが前よりもっと好きになった。だから元気にしています。

音楽の時間

怒涛の数日間がふわーっと過ぎて行った。

すみだ、湘南、一緒に往復してくれた翔くん、ゆみちゃん、

NYからきた天使みたいなDel、

一緒にライブ手伝ってくれたVicky、

みんな本当にありがとう♡

各地ライブにお越しくださった皆様、どうもありがとうございました♡

 

1月は誰かのおうちのお客になったり、うちにお客が来たり、ずっとそんなふう。

そろそろ母も来てくれるし。

こういう人の出入りが多いのも久しぶりでとってもうれしい。

子どもの時から、家で母と二人きりになることはほとんどなくて、

だいたい山から(と私たちはいつも言ってる)大量のいとこの誰かがうちの子として住んでいたので、

日本に引っ越してくるまで、一人っ子という感覚がよくわからなかった。

大学の途中から一人暮らしするようになって、

その時も家が学校から近かったこともあって、なんやかんや人が集まって、

友達が居候したり、誰か外国から来たらうちに泊まってもらったり、

アメリカに住んでた時も、ルームシェアだったから常に人がいっぱいいたし、

ルームメイトそれぞれが泊りに来るような友達を持っていたので、

しょっちゅうリビングに誰か寝てたりして、

そういうのが好きで当たり前だと思ってたところに、やっと戻ってこれたな。

みんなでなんとなく楽しくなんとなく休んで、仲良くしたいね。それしかないよ。

 

というわけで本日の写真、チームカフェこと、福祉ピザ&パスタレストランMamma Miaで働くみなさんの歌のグループと一緒に、音楽の時間 by 赤須翔。

みんなで即興で自己紹介の歌を歌ったり、一緒に歌詞作ったり、替え歌作ったり、いろんな歌を歌いました。

笑いながら崩れ落ちる人も、じっと座ってる人も、書記をテキパキ担当してくれる人も、歌詞のセンス光る人も、山羊の真似が大好きな人も、

歌ったり歌わなかったり。音楽っていいもんだね。楽しみも友達も増えたよ。

 

そしてこうやって家でひとり、みんないなくなって、音楽もかけずにただ静かに過ごしてる時間もすごく好き。

2019年

あけましておめでとうございます。

2019年もどうぞよろしくお願いいたします♡

 

あっという間だったお正月。

2018年もいろいろあったけど、終わってみれば全部あっという間だった。

振り返ってみて何より大きかったのは引越し。

今はじめて東京以外の日本に住んでいます。

都心からたった1時間半くらいで着くから、

東京に住んでる頃は、この辺も東京の続きなんだと思ってたけど、全然違うんだね。

 

東京を出たい願望、

思い返してみると、一番最初に湧き上がったのは小学3年生の頃、

台湾から日本に引っ越してきた次の年のことだ。

当時アメリカに不動産を買おうとしていたらしい父が、

たぶん、ちょっとした自慢心で私にひらっと見せびらかしたたその家の写真が、

森の中、池の横にひっそり建つ、あまりに素敵な家の写真だったので、

私は今にもその森へ越していくような気持ちで、

英語の挨拶についての本を図書館で借りて、何度も読んだ。

その後、そのアメリカの森の家について、父に何度聞いてもはぐらされるばかりで、

そこから結局なんだかんだ、17年間、東京の6つの町に住んだ。

 

その後、台湾、東京、アメリカ、と住んで、また東京に戻ってきて、そして去年。東京をついに出た。

はじめて今の家の近くへ来た時、なんだか昭和みたい、というか、自分の好きだった日本の残りみたいのがあって、

(駅前ではビルの合間の広場でちょっと大きいテレビのスクリーンにお相撲うつしてて、タバコ吸いながらそれ見てる人が集まってるとか)

こんなのどうせ近い将来なくなるのかもしれないけど、でも久しぶりにうきうきして、そしてすごーくほっとした。

こうやってちょっとでもいいからホッとしたかったんだな、とも思った。どうせこれからどんどん大変になるんだから。

 

昨日は近所で新春お年玉コンサートがあり、東京からギターの加藤一平くんが来てくれた。

冬らしいよく晴れた青空、ぽかぽかして、雲ひとつなく、周りにカラス以外誰もいないうちの駐車場でタバコを吸いながら、

こんなに平和で不安になる、と言ってた。映画だったらこの後何かとんでもないことが起こる、って。

その時はギャハハとか笑って、コンサート会場の福祉施設、亀吉に着いても、一平くんは、ここなんでこんな平和なんですか、とか言ってて、

スタッフの方と「実はここ変な宗教だったりとかねー」とふざけてみんなで笑ったけど、

ふざけるまでもなく、確かにそんな世の中なんだった。とんでもないことは起きてる。

少し自分がほっとできる場所、お相撲広場も、海も、福祉施設も、見つけられてよかった。

昨日コンサートに来てくれた女の子、来る途中でぬいぐるみ落としちゃったんだって。見つかったかな。

登川先生の曲の途中で立ち上がって踊ってくれたおばあちゃん、台湾で生まれて沖縄に育ったんだって。

ここから私も少しずつ、みんなと生活しながら地域の世界の一員になっていきたいな。

 

よろしくね、2019年。

昼間何してるんですか

すっかりご報告が遅くなってしまいましたが、Eri Liao Trio ツアーも無事終了。

ファイナル、そしてアンコール公演(!)と終えて、ひと区切り。

本当にみなさまどうもありがとうございました。

たくさんの方からメッセージもいただき、とっても嬉しいです。少しずつお返事書いてまいりますので少々お待ちくださいね ♫ たぶん忘れた頃にきます。

 

今回は一週間ちょっとのツアー、私としてはちょっと物足りないくらいで終わってしまった。

いつかもっと長いツアーにも出てみたいな。

留守にしてると家の植物さんたちがちょっと心配だけど。

昨日今日はやっとのんびりできたので、ベランダのお花のお手入れしたり、しばらく放置しちゃってた室内の鉢植えさんたちをちょっと綺麗にして、そして元気のない方々を我が家のパワスポへ移動してみた。ここに置くと、ああ、もうダメかも、、という様子だったのも不思議とみんな元気になる。隣の部屋とそんなに日当たりも変わらないはずなのに、なんだろう。私も具合悪い日はここで寝てみようかな。

 

「えりちゃんて昼間何してるの?」

という質問を先日またいただいたので、昼間の私の様子をレポートしてみました。

この質問、時々されるんだけど、この手の質問をする人たちの共通点をこの間見つけて、

それは私が質問に答えても、なんだか納得できないような顔をしてるということ。

サラ・ヴォーンが昼間何してるかとか、エラ・フィッツジェラルドが歌ってない時何してるかとか、自分は一度もそんな疑問を持ったことがなかったから、

こういう質問されるとすごく不思議な気分になるんだけど、もしかしてこれって文字通りの質問ではなくて、「何してるかわからん奴だな、お前は」の言い換えだったのかも。

 

ふふふ、世の中には何してるかわからんような奴がうじゃうじゃいるんですよ。

水、闇と光

今日は夕方大雨。

こんな時にかぎって自転車でちょっと鎌倉へ遠出していて、

雨宿りしてたパン屋さんが閉店するというので、仕方なく、通りがかりのファミマで白い透明の雨ガッパを買って、1時間半かけて帰ってきた。

真っ暗なゆるい坂道、

誰一人歩いてなくて、自転車の人もいなくて、

メガネも雨粒でよく見えなくなってしまって、対向車線の車のライトで足元を確認しながら細い通路を走っていたが、思わず足が止まってしまった。

動くのを止めると、辺りが随分しーんとして感じて、ここはどこなんだろう?と、はたと思った。見上げた斜め右上に「大仏」と標識が出ていた。

私は大仏に向かってなどいない。

完全に道に迷っていた。でもこの壁の向こうで、あの大仏がたったひとりで雨に打たれて座っているのかと思ったら、いつの間にか心で「大仏さまいつもお守りくださりありがとうございます」とつぶやいていた。その後なぜか、それまでより懸命に自転車を漕いですぐさま立ち去った。

 

前回のブログを読み返すと、そこでも私は雨+自転車+カッパだった。

どうやらこの3点セットに、私に何かを書き残したくさせる何かがあるみたい。

いつもと世界がちょっと違うように感じるからかなあ。

視点、高さもスピードも、皮膚の感覚、風も雨も。

 

今日、行きはよく晴れていたのだが、行きは行きで、山の方に向かって進んでいたはずが、目の前に突如由比ヶ浜が登場した。

突然の大仏にも驚いたが、突然の由比ヶ浜にも大変驚いた。

真っ暗いの雨の夜の大仏とは全く対照的で、太陽がキラキラして、大人も子供も、観光客も地元の人も、たくさんの人がいて、穏やかな海だった。

 

いつもの私なら写真を撮りたいところだったのに、

ちょっと前にiPhoneを水没させてしまった。数日間乾かしてみたけど、もうダメかな。いっぱい使ったしね。とってもとってもお世話になりました。

なので昔の写真を。水にまつわる話が今日は多かったから、今手元にある一番古い水にまつわる写真。

コニーアイランド、6年前、8月最後の日。

 

せっかくのブログだから、今日は何をしました、とか、今週は何をしました、とか、今度ツアーです!とか、そういうの書くつもりで書き始めてるんだけど、

 

いざ書いてみると、雨と自転車とカッパ、そうでなければ海になってしまうのはなんなんだろうなあ。

ぐつぐつ

夕方の空。

いろんなものが溶けた青。

 

雨と風が激しくなる前に、図書館と買い出しとコーヒー屋さんへ。

台風の前の買い出しは、いつもよりちょっといいものを買ってしまう。子どもの頃に母と市場へ出かけたことを思い出す。あの頃の台湾は今みたいにコンビニやスーパーがなかったし、台風前、市場へ買い出しにくる人々の気合いは、まるで旧正月の準備でもするかのようだった。母の手を握って、お店の電球の光の方へ、ぎゅうぎゅう押し合う人の波を分け入り、評判の店で母がガチョウの卵の塩漬けを1ダース注文し、膨らんだ買い物袋を手にして振り返って「帰るよ」と私に言うのを聞くと、これから何かとてもいいことを迎えるような気分になった。家に着き、私はもう旗袍を着たいような気分で電子琴を弾いた。

 

今夜、来客の予定もないが、この間大事な友人が来たときに張り切って作ったとっておきのカレーを鍋いっぱい煮込んでいる。

いい知らせ、大変な知らせ。雨の音、風の音。カレーのぐつぐつ煮える音。

 

今日もカッパを着て自転車で走った。

カッパを着るようになってから、雨に濡れることに対する気持ちがちょっとずつ変わっている。カッパの人や傘をささずに歩く人が思いのほかいて、ちょっと仲間意識。

 

明日は晴れて暑くなるんだとか。

仕方のない私、アカリノートさん

9月もいろんなことがあって、久しぶりに自分の扉がいくつか開いたと感じた。

 

23日、新高円寺のSTAX FREDというライブハウスで、

アカリノートさんという信念を持って音楽していて尊敬してる「歌うたい」主催のイベントに呼んでもらって歌ってきました。

すごくいい夜だった。出演してた、さのめいみ。さん、小嶋麻起さん、アカリノートさん、クラモトキョウコさん、みんな真摯に自分の音楽してる姿があってとても感動した。みんなの佇まいもはっきり覚えてる。オーナーの中村さんも。

みんなあの晩そういう歌を歌えたのは、やっぱりひとえにアカリさんのこのイベントへの思いがこもっていて、見えない準備をすごーくしてたからだなあー、と、本当にしみじみ思った。

 

ライブの写真をお客さんにいただいたのですが、どなたかわからず。

まじめに歌ってる写真をブログに載せるのあんまり好きではないんだけど(恥ずかしいのよ)

この写真に関しては、あの夜自分が歌ってて、その時見えた風景と重なるものがある、というか、

私があの時見てた景色とは全く違うのに、同じ気配のようなものが向こうに広がっていて、

アカリさんからライブ翌日に写真を渡されて、ハッとしてしまった。

撮ってくださった方、どうもありがとうございます。きっといつか声をかけてください。

 

さて、アカリさんのなさったライブじゃ見えない準備のひとつ、打ち合わせの話。

とっても久しぶりに誰かに自分の話をすることになった。アカリさんと二人で打ち合わせとはそういうことだった。雨の日の昼間、登戸の駅前の安い美味しい中華屋さんで。

私は歌い始めたのがミュージシャンとしては遅い方なので、いつも、特に自分より若いミュージシャンには、無条件でひれ伏すくらい尊敬しか感じない。

だって、私はそれができるのに30年以上もかかってしまった。

だって、ジミヘンだったら、あれだけのことをやって、死んで、もう何度も何度も追悼されてるという頃、

私はまだ、なんと、歌を、はじめてさえ!いないんだ。才能の差ってこういうことなんだと、もう雨の中泥道を転がって這いつくばってたいような気持ちだ。

 

今になって思い返せば、どうひっくり返って考えても、私は小さい時から音楽に対して圧倒的に虜になっていた。

音楽に虜にされ方を知っていたし、見事なまでに虜にされた結果として自分そのものが音楽になって、それを人前で表現するということに対して何のためらいもなかった。

歌であれ、ピアノであれ、エレクトーンであれ、子どもの歌だろうが、氷雨だろうが空港だろうが、アミ族の歌だろうがチェルニーだろうがヤマハの練習曲だろうが。

曲も作ってたし、まだ楽譜書けなかった頃もパーマンのはんこセットを駆使して自分なりの譜面を作って、歌詞も書いてたし、

あーーーーんなにあんなに、今してることは全て最初から当たり前のことだったのに、

「今まで一体何をしておったんだ?私は??」

という話を、アカリさんの、

「えりさん、一回しかお会いしたことないからどんな方なのかなって思って」

みたいな感じのところから、

自分の選んできた謎だらけのどえらい回り道の連続を、たどっては白状し続けることになって、我ながら自分に呆れた。

 

あの打ち合わせがあって、そしてリハでみんなの演奏聴いて、ああもうこれは私どう隠しても仕方ない、行こう、っていう気持ちで歌えました。

私は私でしかないんだもんね。

アカリさん、本当にありがとう。これからも歌います。

 

曇り空

9月がもう半分。

すみだニューヨークJAZZ Night vol.1、vol. 1.5、続けて終わった。

イベントも名前付けてあげるとしっかり愛着がわくものだなあ。

いろんな方に会えて、音楽のある楽しい時間をみんなで過ごせたことがとってもうれしい。それしかないんだよなあ。

お越しくださったみなさま、どこまでも素晴らしかったスタッフのみなさま、

本当にありがとうございました!!!!!

また次回は来年、それともいきなりまた何かあるかも。

その節はみなさま、どうぞまたよろしく♡

 

ちょっと前にやっとこさ自転車を買った。

雨ガッパも導入したので、雨でも自転車で出かけられるようになった。

今日は図書館に本を受け取りに行った帰り、なんとなく気が向いて海岸沿いのサイクリングロードに出てしばらく走った。

海辺を走りたくなるような空ではなかったのに、曇り空を映した海は、やはり圧倒的に美しかった。私の部屋の窓からはただどんよりと鬱々として見えたのに、海と共にある曇り空は、ドラマチックで、激しく、そして非常に繊細な濃淡があり、目を見張った。

海は、明るくなろうとしない空を、わずかに漏れている光を、重なる雲の暗がりを、全て映し、それでいて穏やかだった。美しかった。

たくさんの人が海の中で、波の向こうを眺めていた。海のこちら側ではたくさんカラスやトンボが飛んでいた。自転車を飛ばして、何かの虫とぶつかった。

 

だんだんお腹が空いてきたけど、もう少し、もう少し、と走って、引き返す頃にはもうすっかり真っ暗になっていて、灯台の明かりがくるくる回り始めた。

真っ暗な中、自転車のライトが私の走る道の、少し先を照らす。

片方に海の闇、波の白、波の音、

もう片方に草むら、松林、車の音、

時々すれ違う人、誰もいなくなる道、

道の上には時々砂がかぶさっていて、自転車のタイヤが取られ、まっすぐに進めなくなる。

 

あの暗い景色のいろんな表情を、私はどこかで見たことあるような気がする。

ブラザー

一度もブログを書かないまま、八月最後の日。

やさいの日、なんだって。こういう語呂合わせは好き。

大切な方からいただいたかぼちゃ、煮物にしてパクパク食べてます。

 

誰にも頼まれてないけど、ひと月以上もここを空けてしまって、

何をしていたかと言えば、母がしばらく台湾から来ていたので、仕事の合間はたっぷり娘をして過ごした。

 

母が台湾に戻って、もう10数年経つのか。

母は特に最近、みちがえるほど元気になったし、

この人ってこんな人だったのか、と思うほど、

日本でずっと専業主婦して押しつぶされてしまった母の本来が、ワハハハ(駄洒落になっちゃった)と大復活を遂げている。

 

母と一度だけ海へ歩いて散歩した。

旧暦8月、日本でもお盆だけど、台湾など中国語世界では「鬼月」。

鬼=いわゆる幽霊たちが、あちらの世界からこちらの世界に1ヶ月間、

夏休みをしに来る月だ。

直接「鬼」と呼んじゃあんまりだから、台湾では「好兄弟」=ナイスなブラザー達とも呼んでいる。

なんとも台湾らしいリスペクトの仕方で、私も、鬼よりブラザーと呼ぶ方が好き。

 

冥界ブラザー達は、当然、夏だから海にも遊びに来ているので、「海行こうよ」と何度母に言っても反応がにぶかったが、

ある日、川沿いを散歩してると見せかけて、そのまま河口から浜辺へと連れ出した。

ブラザー達はいたんだろうか。

とても波が大きくて、風が強くて、でもやっぱり海辺にいるだけですーっと気持ちがほぐれて、結局母は私よりはしゃぎ、自撮りに励んでいた。

 

もし来てたんだったら、ブラザー、生きてる間、遊べなかったぶん、たっぷり遊んでいってほしいな。

月とカラス

ちょっとご無沙汰しております。

昼も夜も虫や微生物の世界が豊かで、しばらくそういうものに夢中になっていました。

 

そしてしばらく経ったからやっと人に言えるようなおそろしい思いをした夜があった。

おそろしいと言っても、誰かが傷つけられたり損なわれたりするような、あってはならない怒るべき出来事ではなくて、

ただ私が夜中にひとり、体験したことのないおそれの只中にどういうわけかいて、

必死の思いでふんばり続け(体勢としてはベッドで寝てるだけだけど)

やっと、カラスが鳴いて、ああ、朝がきたんだ、

とほっとした、

という個人的な事件があったのだ。

ほっとはしたけど、とても眠れるような気分じゃなかったので、窓の外を見たら、

夜の間じゅう私が思い描いてたおそろしい世界の痕跡すらどこにもなくて、

明け方の空にぴかーーんと月が光り輝いていた。

 

カラスも他の鳥たちも、よく神の使いと聞くけれど、どんな夜も、鳥が鳴いて、明けて、朝が来て終わっていくのかと思ったら、なるほど神の使いだと思った。

月はあんなに輝いていたのに、朝が始まって進んでいくに連れ、透明になって消えてしまった。

 

それはさておき、最近、はじめてカラスをかわいいなあと思っている。

海でボーッとしてると、ふと気づくと、横でカラスも海の方を見てボーッとしたりしている。

風が強いからか、カラスも頭がちょっとぼさぼさになってて、

東京ではカラスも緊張度が高い感じだったし、まさかカラスが、ぼさぼさ頭で一緒に並んでボーッとする相手になるとは思ってもなかった。

 

今日は大きな黒いちょうちょ、下の方に少しだけオレンジが付いた、ゆっくり飛ぶ黒い大きなちょうちょ2匹に出会った。

ちょうちょが美しくて、カラスがかわいくて、夜がおそろしくて、ダンゴムシが足の間を通って、カラスが鳴いて、雲が泳いで、月が光って、月が消えて、

 

そういう中に私が歌うことも入っていればいいなあと思う。

月と夏みかん

帰り道、電線のない空を見上げていたら、海を眺めているような気持ちになった。

数日ぶりに雨が上がって、砂浜には、いつものきれいな貝殻のかわりに、年輪を持ったきれいな丸い石ころがたくさん転がっていた。

夕方くらい、海はぬらぬらしていた。今日の空は海より青かった。

海も空も青くても、空気がにじんでいる日、どこまでが空でどこまでが海なのか、じっと見てもわからない。夜も。どこまでが闇で、どこまでが海で、どこからが砂浜で、

でもどんな澄みわたった朝でも、どこまでが海で、どこから空で、どこからどこまでが私かなんて、向こうではわからないだろう。

 

最近、絵と呼べるかわからないけど、点や線を描いている。描いている間、なるべく一度も紙を見ないようにしている。

決して紙を見ないで、手元も見ないで、自分が今どんなものを描いてるか確認したくなっても決してしないで、自分が今この瞬間鉛筆で描いてる「その場所」からひと時も目をはなさずに、鉛筆も紙の上から離さずに、一瞬一瞬、目に見えているままに鉛筆を動かしていく、

というのを数年前に教わったのをふと思い出して、ここ数日、日記代わりに家にあるものをそのやり方で描いたりしている。

今朝はテーブルの上にあった夏みかんと目が合ったような気がしたので、今日はこのひとかな、という感じで描き始めていったら、ものすごく、どきどきした。

昨日までは、観葉植物とか、出しっぱなしのコップとかを描いてたんだけど、夏みかんは全然ちがった。

夏みかんの輪郭を目で追いながら、自分の手で紙の上に鉛筆で線を引いて、私はひりひりする思いだった。

丸く、後で自分が描いたのを見たら丸がつながってなかったけど、夏みかんのような丸い形に、私はこの夏みかんを空間から切り取って、ヘタの取れた跡を描いて、次に夏みかんの傷が目に入った。鉛筆を持つ手に少し力を入れて紙の上に傷を引いて、でもよく見ると、傷は鋭い線状の痕ではなく、痕と、痕にさす影の両方だった。

 

昼間、海の上の空に浮かぶ半月の写真を撮った。

 

その月を今こうして思い出しているのに、なんでか、ずっと住んでいた東京の空で見た月のことを考えている。

歌は不思議

お昼寝のはずが思ったより本格的に寝てしまい、用事を済ませなくちゃと慌ててとにかく家を出たが、外に出てみたら、やっぱりどうしても足が向いて、買い物かばんを持ったまんま、海の方へ歩いた。

急いで歩いていたせいか、途中から息がつまりそうに湿気を感じた。梅雨入りしてたんだった。

今日みたいに湿気の中を歩いていると、台湾のことを思い出す。

 

昨日はほぼ1ヶ月ぶりにトリオでのライブだった。

ちょうどライブ前日、みんなの予定がようやく合って、私の家で長いリハをしたところだった。

といっても、実際にリハらしきことはほとんどせず(心がつぶれそうに素晴らしいジョビンの曲をみんなで少し練習した以外)珍しく、昼間から遅い時間まで3人でいろんなことを話した。

時々「その3人って、演奏以外の時どんな話したりするんですか?」と聞かれることがある。

うーん、と返事に困ってしまうほど大して話らしい話をしたことはないんだけど、一昨日は我々にしては珍しく話し込んだ。素面で。

どうでもいいことから、大事に思っていることまで。

こんなにこの二人と話ができるとは今の今まで知らなかったし、別に誰かと話したいような気分でもなかったし、不思議だなあと思った。

自宅リハの時はご飯を出すのが好きで、アメリカでも日本でもどこの家に住んでもそうしていて、

特に今はちょっと遠くに住んでるし、みんなわざわざ来てくれるのがうれしいから、ちょっと美味しいものを用意していた。

 

そういう時間も、演奏に現れるものなのかも、と、昨日のライブが終わって思った。

二人はわからないけど、私は明らかに、今までよりこの二人のことを信頼してるんだなあと思える歌を歌っていた。

自分でも、へえ、私の中に、こういう歌があったのか、と少し驚くような歌が、出てきた。

 

歌は本当に不思議だ。

自分自身聴いたことのない歌が、私自身の中から、思ってもみないタイミングで出てくる。

あふれ流れてくるような時もあれば、乾ききった絞りカスが転がり出てくるような時もあれば、誰かが私の声を通して出てきて慰めてくれてるような時もあれば、

でもどれも私の歌ううたなのだ。すごく不思議だ。

そして、歌を聴きに人々が集まるという行為も、とても不思議だ。

こんな不思議なことを当たり前のようにする人たちが、私含め、世界中にいるなんて、そんな特別なことがまだこの世の中にあるんだ。

 

昨日もそういう場に居合わせてくれた人たちがいてよかった。

また三人でツアーに出て、毎日毎日一緒に演奏したいなあ。

 

流れ落つ玉ねぎ一つ。

ご無沙汰してしまいました。

ここにつらつら書くのが自分には良いと思って楽しくやってたはずが、バタバタしてる間に遠のいてしまった。ただいま。

 

ちょっと前に窓から山や畑が見えるところに引っ越して、

空も広くて、鳥が飛んで、夜は暗くて、月が綺麗で、

毎日がミラクルのよう。毎日はそもそもミラクルなんだったね。

風は気持ちいいし、風の匂いは朝と夕方で違うし、

ちょっと疲れてバタリと倒れていても、風を感じて、倒れながらとてもいい気分になる。

毎日そんな感じで過ごしていて、ここに似た場所を知ってるな、と思って、

それはアフリカだった。全く遠いし、あんまり同意してくれる人はいないかも知れないけど。

 

新しい生活(通勤時間が長〜い!)にまだ慣れきれずにおりますが、

とりあえず電車で爆睡しながらなんとか元気にやっています。

とにかく毎日が遠足なので、NY時代いつも使ってた水筒を復活させてみました。

出かける準備にお茶を淹れるのも楽しいよ。

生活の手順がちょっと変わるだけでなんとなくウキウキする。

 

以上、ちょっとご無沙汰してしまったので、近況報告でした。

山積みになっている仕事(歌以外の仕事をうっかり引き受けてしまって大変なことに)をこなしてきまーす。

早く終わらせて、早く歌のことばかり、音楽のことばかりになりたい。

 

じゃないとなんだかじんましんが出てしまうんだなあ。いのちみじかしなのだよ。

身体ていしちに

5月。近所の一番好きな場所。

そういえば4年前日本に久しぶりにちょっと帰った時も5月。日本の新緑の緑色がこんな色だったんだ、と感動したんだった。花咲く春も好きだけど、この新緑の時期が一番心がのびのびとする。タンポポだって綿毛になって飛んでいくんだ。

 

昨日は永武幹子ちゃんとデュオ。はじめてお会いする方も見えてちょっと緊張したけど、自分で立てた小さい目標=小さなお祭ができて嬉しかった。一緒に考えてくれて心から最高のものにしてくれた幹子ちゃん、私の気持ちと一緒になって踊って歌って掛け声かけてくれた皆さん、本当にありがとう。

ライブについては毎回考えることがいろいろあるけど、昨日は改めて、共演者やお客さん達から私いただくもの(そういえば素晴らしい差し入れやお心遣い、たくさんいただいたのでした!ありがとうございました・・!)の大きさを感じた。私も今よりもっともっと大きなものをいつもお返しできるような人になりたいと思いながら帰った。

本当にありがとうございました。

 

ちょっと前Youtubeで喜納昌吉さんとお父さんの喜納昌永さんが二人で歌う『てぃんさぐぬ花』に感動して、感動してすぐに喜納さんのホームページに行ってみたら喜納さんがあんまりにもすごい人だったのでびっくりして、そうしたらちょうどライブがあるというので生で素晴らしい歌とギターと三線を聴くことまでできた。

変なおじさんがハイサイおじさんの替え歌だったことも知らなくて、変なおじさんの元の人、ハイサイおじさんの人、が花の人だったのも三線教室に来るまで全然知らなくて、しかもハイサイおじさんがこんなにもものすごい歌で、ハイサイおじさんの人がこんなにもものすごい人だったなんて全然知らなくて、

ここのところ毎日そのことを考え直しては驚きと尊敬の波がくり返し心の中にやってきて、そして最後に心の奥の湖が深く静まり返るような状態でいる。

そんなこんなで今は、私も自分のライブにもう少しお祭り的な要素を入れてみようと思ってるんだけど、昨日はそう思い立ってから最初のライブだったし、お祭り的要素どころかすごいダイレクトに試してみた。

結果!私自身がとにかく楽しくなってしまった!

この私の楽しい気持ちから第一歩が始まって、ライブを重ねるごとにみんなで共有できるものにどんどん育っていくのを楽しみとしよう。。

 

ところで最近その日のライブのセットリストを決める時にするようになった新しい習慣で、朝起きてふんふんと鼻歌の出てきた歌を必ず歌うようにしている。

よく覚えていない曲が出てきてしまったら、ライブの時間までになんとかアレンジを考えつつ譜面を書いて頑張って覚える。

いつも無意識に朝から鼻歌だったり起床一発わりとしっかり歌い出したりしているのだが、こんなわけで、そういう無意識な歌をちょっと気をつけて自分で聴くようにしている。

 

今日はライブのない日だけど、朝ベッドから立ち上がった瞬間、ついこの間習った登川先生のフィナレー(別れ)という曲が出てきた。

いい曲だなあと思いながら練習してたけど、まだ覚えきれてないと思っていたので、もう鼻歌になって朝一番に登場したことにちょっとびっくりした。

そういえば昨日の夜は、勧められたYoutubeを見ていて、最初は後ろ姿しかうつっていなかったドラマーの後ろ姿がなんとなく友人に似てるなあと思ってたら、

中盤からそのドラマーの正面が映り、やっぱりそのドラマーは友人だった。彼は少し前に病気で亡くなった。

彼の演奏をちゃんと聴いたのは実は昨日のYoutubeがはじめてで、1時間強のライブだったんだけど、バンドメンバー全員すごくて、彼もすごかった。

東京でふらふらしてて暇だけが取り柄だった当時の私が、こんな人と「ただ友達になった」って、そんなことってあるんだ、と今更びっくりした。

今ミュージシャンしてる自分から考えたら、キャリアも活動の場もまさに雲泥の差の人とただの友達だとか、夢のまた夢のような寝言のような話で、我ながら信じられない話だ。

そして思いがけず今頃Macのスクリーン越しにその友達と出会い直して、今私が見ている目の前で生命力が飛び出してくるみたいに彼はドラムを叩いてるけど、

この人は今ここの私がいる現実の世界にはいないのかと思うと、なんともいえず不思議な思いになった。

 

ライブはないけど、今日は一人でフィナレーを歌った。

なんでかわからないけど、もう死んでしまった友人なのに、「身体ていしちに」という歌詞を私は彼に歌いかけていた。

 

体たいせつに。また会える日まで。

ロマンチック

去年の今頃は台湾に帰ってたらしい。これは夕暮れ時の淡水。

遠くから見ると、ベンチがまるで川に浮かぶボートのようで、とてもロマンチックに見えた。近寄ってみれば、ロマンチックなカップルより、友達同士だったりおじちゃんおばちゃん四方山話グループが多かったりするんだけど、でもそもそも夕暮れ時に人々が少し涼しい水辺に集まっておしゃべりすること自体とてもロマンチックなんだから、それに気付かせてくれてありがとう、ベンチ。ベンチを作ってくれた人、置いてくれた人。

今この写真を見てると、アフリカのサファリで、ちょうど空がこんな色になる頃、キリンやサイや、スプリングボックや、シマウマや、いろんな動物たちがジャンル(?)を超えて水辺に集まっていたのを思い出す。

 

昨日はやっとちょっと落ち着いて三線教室へ行くことができた。

先生と一緒に歌うのがすごく好きだ。私ももっと生徒さん達と一緒に歌おう。

登川先生の曲二曲と、お祝い事に歌う歌を習った。

この間地図を見て八重山があんなにも宜蘭から近いことを知ってから、八重山の歌も気になるなあと心ひそかに思ってたんだけど、たまたま先生が「あなた次はこれやったらいいよ」と歌い出した曲が八重山の曲だった。

 

そういえば以前ライブでご一緒した方が、リハ中に一人で私が安里屋ゆんた歌ってるのを聴いて「堂々としてていいね、声が八重山の方の人みたいだね」とおっしゃった。

その時は八重山がどんなところか全くわかってなくて、へーと思うくらいだったが、

大工哲弘さんのインタビューを読んでいたら、八重山の歌、特にゆんたは外で農作業しながら延々とコール&レスポンスだから、とにかくすごい声を出して歌うらしいのだ。

それに対して沖縄本島の歌は、いわゆるお座敷での歌、大工さんは「四畳半歌」と言ってたけど、基本室内で歌うのでちょっと裏声になったする。

沖縄の歌を改めて聴くようになって、女の人がみんな細く細く紡ぐような声なので、これはなんでかなあとずっと思っていたけど、これはなるほど。

音楽に関して私の場合どんなものにもタイヤルの子ども(laqi tayal)な自分が大きく参加してて、そんなわけで、沖縄の歌は親近感を持ちながらも時々違和感も感じていた。

違和感へのひとまずの対処法として、みんなで歌う時は調和を、自分一人の時は「味付け」と先生も言ってたし原住民風もまたよしとしてたけど、

八重山の歌というが沖縄本島の歌と台湾原住民の歌の間にあったというのが、今日の私の発見。

アミの歌になんとなく近いものを感じてたのは、ゆんた的なものだったんだね。アミもコール&レスポンス多いし、とにかくみんな大きな声で歌う。

この間沖縄(本島)に行った時、台湾と一番違うのはやっぱりあの圧倒的な山々があるかどうかだな、と思って、

また面白かったのが、八重山の方は、本島と比べて山や川が多く、歌も自然の素晴らしさを歌ったものなんかがたくさんあるらしい。

 

いやあまだまだ知らないことがいっぱい。行ってみたいところも、歌ってみたい歌も。

大工さんも台湾の原住民の歌を聴いた時、やっぱりゆんたに似ていると思ったらしい。おもしろいね。

 

この日曜日は先生と教室のみんなと老人ホームへ歌いに行く。

歌手という仕事ができて本当によかったけど、今の私は主にミュージックチャージをとるお店で歌うことが演奏活動のメインになっていて、

 

これからはそれ以外の場所で、いわゆるライブと違う形で歌ってみたいと思っていた。三線と沖縄の歌のおかげでお祭りや老人ホームで歌えてうれしい。

下町フォーエバー

友達のお家の玄関のすき間からかわいい花。

ここのおうちには本当にお世話になって、

私を招いてくれて、おいしいご飯をふるまってくれて、

そこから朝の7時まで、一緒にいろいろ音楽の届け方を考えてくれて、

出かける前にちょっと仮眠できるよう、あたたかいお布団まで敷いてくれた。

ありがとうスイートゆみちゃん。

 

あの日たっぷりサポートしてもらったおかげで、すっかり力をもらって、

自分の家に帰って3日間、はじめて自分で、音楽の届け方について真剣に考えて、なんとか企画をまとめることができた。

もちろん曲のアレンジや演奏の中での音楽の届け方というのは今までずっと考えてきていることだけど、

その音楽を演奏する場について、同じくらい真剣に考えたことはなかった。

よく考えたら、その空間の空気を振動させていくわけだから「場」も音楽のうち、

そういうこと考えるの好きだったみたい。

 

しかし下町は、というか、墨田区のあのエリアいいなあ〜。

あの辺りは唯一空襲で焼け残ったエリアらしく、昔の家々が残っているからこそ、そこでの暮らし方、人との付き合い方ごと今も残っているみたい。

台北によくいる(NYにもいた)タイプの世話焼きおじさんおばさん的人々、あのあたりに行けばたくさんいるらしい。

そうやって考えると、東京、やっぱり焼け野原になってズタズタになったんだなあ。街も、街が持ってた人の交わりも、素直な動きも。

NYだって台北だって大都市だけど、東京と比べるとやっぱり、ごく自然に人と人が交わる風景がある。

あっと思ったら「あっ」とそのまま声に出るくらいの感じで、ただちょっと吹いてきた風くらいの感じで「その靴いいね、どこで買った?」とか、

そんな会話をすれ違う人とさっと交わして、たださっと通り過ぎて行く、たったそれだけのことなんだけど、

そういう感じが東京ではほぼ全くなく、たったそれがないせいで日々なんとなく、日々ほんの少しずつ、私は消耗している気がする。

 

というわけで、ゆみちゃん家に行くのもライブであのあたりに行くのもすごい好き。

実際その日も、夜中2時過ぎくらいに、歯ブラシやらお菓子やら買いにコンビニに行こうと思って玄関開けたら、

ゆみちゃんの家の前で、ものすごく苦しそうにしている若い女性が一人。

「今から産みに行くところなんです」

と。

私がのこのこブーツを履いている間、ゆみちゃんはささっと側に行って、腰をさすってあげて、しっかり彼女を病院へ送り出していた。

リスペクトゆみちゃん。

 

私もいつかそれくらいになりたい。

歌と踊りと格闘技

今日は朝から Kendrick Lamar ピュリッツァー賞受賞と Beyoncé の Coachella のパフォーマンスでとても力強く前向きな気持ちになった。

コミュニティの持ついろいろを背負って、自分の才能を犠牲にすることなく、心身を保ち、音楽ビジネスの巨大な力を使いこなし、自分自身もコミュニティも跳ね上がらせることができるって、あまりにすごいことすぎて、まるで嵐に次ぐ嵐の中、たくさんの船が連なる先頭で豪華客船と海賊船を二隻同時に操縦し、さらに雲間に太陽を呼び寄せ、大海原に虹をかけて進み続ける船長みたい。

ものすごい人たちだよ、本当に。

ビヨンセでよく友達と踊りまくったなー。

そして流行してる音楽が空間に流れる時の魔法的力ってやっぱりあるなと思った。

最近自分が触れていなかっただけだね。

 

踊りといえば、なんとなく三線始めてみて思わぬ喜びだったのは、

人を踊らせたり、場合によっては自分も踊る仕事が、歌うのと三線弾くのと同じくらい大事な仕事だったこと。

Barry Harris がクラスでいつだったか「ジャズの間違いはダンスを切り離してしまったことだ」と言ってて、そのことが頭にずっと残っている。

 

こないだの日曜は三線の合同稽古で来月のはいさいフェスタ(沖縄のイベントとして沖縄県外で最大だとのこと)に向けて練習していて、

はじめて宮古の曲の踊りを習った。みんなで踊るのはやっぱり楽しい。

大きくジャンプするところとか、なんとなく我々台湾原住民の踊りを思い出したりして、

そういえば、宮古ってどこにあるんだっけ、と地図を改めて見てみた。

こんな距離感だったとは。

直線距離で宜蘭から与那国って、与那国から石垣と同じくらい。

台北から屏東、台北から宮古、名護から宮古がどれも同じくらい。

近いとは知ってたけど、今日はなんだかとってもびっくりして、しばらくGoogle Mapを大きくしたり小さくしたりしていた。

琉球弧という言葉も改めて気になってちょっと調べたら、弧の長さ、九州から台湾の間までがちょうど本州くらい。

地図って面白いな。

生まれてはじめて台湾が大きい島だと思った。たぶんはじめて沖縄の島を基準にする気持ちで地図を眺めたから。

そんなこと思って見てたら、台湾が、よく駅ビルで計り売りしてる、あの大きいお芋の中身をくりぬいて作ったずっしり重いスイートポテトに見えた。

 

ケンドリックとビヨンセからもらったもうひとつの大事な気持ちは、格闘技をまた始めたい気持ち。

なんでかわかんないけど、格闘技する私と早弾きで歌う私は何となくリンクしてて、そこに行きたい。打楽器な私もたぶんそのへんにいる。

この間ライブに来てくれた三線教室の同い年友人かつ三線大先輩に、私の三線弾いてもらったら、同じ楽器?ってくらいまろやかないい音がして、

Youtubeでいろんな人の弾き方を見てた。

今日見た中で自分に一番そっくりな弾き方だったのは、カメラをチラリとも見ずフルパワーノンストップで延々演奏するずいぶん恰幅のよい小学生男子で、

ちょっと笑ってしまいつつも納得。そばでずっとおじいちゃんらしき方が見守っていた。

 

ああいう子ども、私の中に確かにいるな。