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31日 5月 2020
今日も暑い。室内は31度。雨が降らないので外は随分暑そう。窓辺にお香を焚いたら愛之助がなんだなんだとやって来て、においを嗅ごうとして近付いたら毛の先がちょっぴり燃えて、びっくりして逃げた。ケモノのにおい。私はアレルギーもちで、猫大好きないとこもアレルギーもちで、二人で廊下をはさんでそれぞれの部屋でくしゃみをし、鼻をかんでいる。でもこんなにかわいいものが私たちに悪いわけがないもんねえ。 「日本人なら蕎麦が食べられないわけがない」と言って、父がそばアレルギーの私を何度も蕎麦屋に連れて行ったことを思い出す。荻窪の本むら庵というお蕎麦屋さん。ここはちゃんとしたお蕎麦屋さんで、お店を入るとすぐのところに石臼があって、蕎麦粉から自分で作って打っている。そこまでするからにはきっと美味しいんだろう。最後に行った時、私は小学四年生だった。お店の人が出してくれたお茶を飲んで、なんとなく口の中がむにゃむにゃと気持ち悪くなったけど(そば茶だったのか)父にも母にもそのことは言わなかった。当時の母はまだ日本に来て2年で日本語も苦手で、今の母からは信じられないほど無口で、3人で出かけると、いつも父ばかり一人でベラベラと喋った。「こうやって喰うんだ」と父が見せるのと同じようにして蕎麦を食べると、みるみる喉の中が塞がってくるようなおかしな感じになって、私は「ちょっとトイレ行ってくる」と言って、トイレで休憩した。子どもの頃、トイレにいると妙に落ち着いて、私はトイレで長居するのが好きだった。便器に向かって食べたお蕎麦を少し吐き出してみると、ぬるぬるしていて喉にねばりつくようだった。もう何度か吐き出して、ぬるぬるしたものはもっと出てきて、もう吐ける蕎麦もないのに、ぬるぬるは止まらずにどんどん出てきた。とにかく大量に出るし、喉にへばりつくので、がんばって指を突っ込んでぬるぬるとねばねばを引っ張り出しては吐き出していると、様子を見に来た母がびっくりして、慌てて父に何か伝えに言った。出せるだけ出して洗面台で口をゆすぐと、けっこうすっきりした気分になった。席に戻ると、父が「お前デザート食べるか?」と聞いて、お、やった、と思ったが、いつの間にか母がものすごく怒っていて「私帰る」と席を立とうとした。母はあの頃よくそうやって突然帰ろうとすることがあって、そう言う時、父はいつも、あわてているのを隠すように笑い出して、「まあいいから、待てよ」とその場を取り繕おうとした。母の怒りがおさまらない時は、母は本当にそのまま一人で帰ってしまうか、時々父が「馬鹿野郎、いい加減にしろ」とテーブルを叩いて怒鳴り出して大げんかになることもあったが、この時は、父も母もさすがに私のことが心配だったのか、結局デザートなしで、お会計をして3人で大人しく家に帰った。帰り道は父だけ一人で前の方を歩いて、「私がトイレにいる間、お父さんになんて言ったの?」とこっそり母に聞くと、「娘が死にますって言った」と答えた。 あれがちゃんとした蕎麦を食べた最後の記憶で、それから少し後、給食のお蕎麦を残して担任の先生に無理やり食べさせられた小学六年生が死亡したという新聞記事を読んだ。父は私に何も言わなかったが、あれを最後に本むら庵へも行かなくなって、「日本人なら蕎麦が食べられないわけがない」とも言わなくなったから、娘は蕎麦を食べて死んだので日本人じゃありませんでした、というオチになったらさすがに洒落にならないし、悪趣味が過ぎると自分でも思ったんだろう。その後私たちは荻窪から引っ越して、私も入り口に石臼のあるお蕎麦屋さんには注意するようになったが、ニューヨークでSOHOを歩いていると、おしゃれなレストランに「HONMURA AN」と看板があるのを見かけた。もしやと思ったら、やはりあの荻窪の本むら庵がニューヨークに店を出していて、アーミッシュの作るソバ粉で蕎麦を打っているらしい。 今でも蕎麦は一応食べないようにしている。「どうしても食べたい時は、救急施設のある病院の中で食べてください」とアレルギー検査をしてくれたどこかの医者に言われたが、それから随分経ったし、いつだったか、久しぶりに日系の飛行機に乗ったら機内食で小さなカップにお蕎麦がちょこっと出てきて、隣の席の人に差し上げる前に、気になって匂いを嗅いでみた。どうせたかが機内食、これは蕎麦という名のニセモノ、蕎麦風味の細長いデンプンだろう、とたかをくくって食べてみると大正解。ぬるぬるもねばねばも呼吸困難もなく、無事に「蕎麦」を食べることができた。麺つゆとネギの味がした。 お蕎麦屋さんという場所は、どんなとこでも雰囲気がそれぞれによくて、夜中の富士そば、ライブ前に腹ごしらえに行く駅前のお蕎麦屋さん、家の近所のお蕎麦屋さん、海の近くでサーファーが若主人をしている少し洒落たお蕎麦屋さん、田舎の道沿いで車を止めて入るお蕎麦屋さん、どこも好きなので、さすがに一人で行くことはないけど、誰かがお蕎麦を食べたいと言えば私も一緒に入って、ビールとおつまみを頼んで適当にしているか、お腹が空いていれば天丼を頼み、お茶が出てきたらお水に変えてもらっている。そういえば台北にはお蕎麦屋さんがあるのかしら。お寿司屋さん、焼き鳥居酒屋、いわゆる居酒屋、鰻屋、とんかつ屋、鉄板焼き屋、焼肉屋、牛丼屋、モスバーガー、そんなのはよくあるけど、お蕎麦屋さんはまだ見かけていない。ちなみにうどんの方はというと、烏龍麵と呼ばれてこちらのいろんな麺に馴染んで夜市でもそこらへんの食堂でもよく売られている。「うどん」がこっちの人の耳には「ウーロン」と聞こえて、麺の太さ・柔らかさもなんだか気に入られたんだろう。 蕎麦が何も悪くないのと同じように、愛之助も何も悪くなくて、アレルギー源を除去するようにとどうせ誰かが知った顔で言うんだろうが、そんなの何もわかってない奴の戯言だよねえ、愛之助。クイックルワイパーの回数も増えたし、師大夜市でさっそくコロコロクリーナーを買ってきて、ベッドも毎日コロコロしている。コロコロは「優の生活大師」というブランドのもので、「さわやかな空間にかわって、/過敏源に離れる/アレルゲンの働きを抑える!」と、なんとも味わい深い日本語がパッケージに書いてあるのはグーグル翻訳かしら。  愛之助は窓辺にごろんとして葉っぱが風に揺れるのを見ているのが好きみたい。そうこうしているうちにどこか向こうの方で鳥の声がして、時々こっちにまで飛んできて止まって、今日はついに、すぐそこの鉢でカノコバトが土の中からミミズを引っ張り出して食べているのを目撃して、愛之助は窓辺でぷるぷると身構えた。そろりそろり、ティッシュ入れの上に前足をついて立ち上がって、オコジョのように胴長になってびよーんと伸びて、目を丸くして見つめている。首をひょこひょこさせて土の中を突っつくハトにも興味があるし、そのくちばしの先でぷらぷらしているミミズにも興味がある。向こうではどこか景美のあたりで雨が降り出しているんだろうか、時々吹いてくる風と一緒にふわーっと雨の匂いがして、久しぶりに風の匂いを嗅いだ。
30日 5月 2020
すでにiPhoneの中は愛之助の写真だらけ。せめてブログでは自制して3日に1度は愛之助のいない写真にしなくては。毎日毎日君はなんて可愛いんだ!今も窓のへりでベランダから鳥を観察中。抱っこするとちょっと大きく重くなってるのがわかるし、エサを食べている姿の骨格が前よりしっかりしてきて、走るのも、長い棒の先にもさもさのついたのをいとこが縦横無尽にぶんぶん振り回すのを追いかけている間にものすごく早くなって、リビングのソファの上を一瞬で飛び去って、ソファからテーブルへ、テーブルから床へ、駆け抜け、飛び移り、まだまだ物足りなさそうにくるっと向きを変えて、廊下のいちばん奥まですっ飛んでいった首の鈴がチリリリリリと聴こえる。サバンナに放ったらチーターのように駆け出していきそう。でも帰ってきてね、愛之助。全てのことが新しくて、興味があって、ゆらゆら揺れるもの、音のする方、何かが動く方、動きもしないもの、噛んだら気持ちよさそうなもの、引っ掻いたら、寝っ転がったら、両手で挟んだら気持ちがよさそうなもの、全部にビクビクしながら、ふわふわのやわらかい長い体で、まあるい目で、尖った爪で、生え揃ったばかりの乳歯で、長い長いひげを伸ばして、少し遠くから眺めて、抜き足差し足、近付いていく。尻尾を立てたり、下ろしたり。そしてすぐに疲れて、ゴロゴロとのどを鳴らして、ごろんと横になって毛づくろいをし、フッとため息をつくと、寝る。 愛之助と話している間に、中国語って一音節の言葉がたくさんあっていいなあと思う。あっちはみゃーとかふぁーとかくーとかぐぁーとか鳴いているが、こっちもぱおーとかちーとからーいとかくゎーいとか似たようなもので、日本語の表記では表しようのない様々な音を一声立てて鳴いている。もしかしたら昔々の人は、音節を増やしていくより前に、口をいろんな形にしてみて、ベロもいろんな形にしてみて、空気をあちこち当てて震わせて鳴らせて、いろんな音を出せるだけ出して鳴いて何か伝えようとしたのかな。ちなみに猫はマオ。もうちょっと可愛く呼ぶならミャオミー。猫に「みゃおみー」って呼びかけたら、それだけでもうお互い同じ言葉で話してるみたいじゃない? そういえば私の名字は廖と言って、リャオと読むのですが(エリリャオのリャオは名字なので、時々芸名だと思われているけどただの本名です)これが意外とみんな中国語圏以外では聞き取りにくいみたいで、初対面の人に挨拶をすると「エリ、、、ニャオさん?」、まさかそんな、という困惑した顔をされることがある。エラ・フィッツジェラルドとか、カート・ローゼンウィンケルとか、あんなに長くて言いにくそうな名前をみんな平気で言うのに、  「エリ・リャオです」 と言うと、短いは短いけど聞き慣れないから覚えにくいのか、  「エリリャオさん・・エリリャオさん ・・」 と、口の筋肉が確かにそういう風にも動くことを確認するように繰り返されることがよくある。アメリカでも一緒のようなことで、  "So your name is.... Eri... Nyaw?" と、コロンビアでも先生が眉間に皺を寄せて私を見た。同じクラスにいた中国系アメリカ人のジェニファーは Yao という名字で、私たちはヤオとニャオだと思われたのか、ジェニファーは授業が終わると私のところに来て、さっきの先生はアジア人に偏見がある、だいたいヤオと言うときのあの「ぃやーぁお」という言い方が侮蔑的だし、エリの名前がニャオなのか聞いてくるのだっておかしくない?、そもそもコロンビアのこのコースは白人ばかりで、黒人もラティーノもアジア系もネイティブも、マイノリティが全然いないじゃないか、こんなことは自分が今まで通った学校ではじめてだ、と怒った。私は正直自分がニャオではないと説明した瞬間が自分にとってその授業一番のハイライトで、とてもコロンビアにおける人種問題まで考えが及ばず、そうか、アメリカの中でマイノリティとして育つと、こういう場面で憤りを感じるべくして感じたりするものか、と関心した。言われてみれば、確かにコロンビアの Writing Program はどの授業に出ても非白人の学生は一人か二人だった。私はマイノリティであると感じる前に外国人だと感じていて、でもオーストラリアから来ていた留学生と比べると、一口に外国人と言っても英語が母語で英語の名前の白人と自分とでは、外国人として感じる疎外感もまた質が異なるものだろうなと思っていた。 今日はいとこの夫も台中で休日出勤、いとこは部屋で一人のびのびとしている。近所の青田街に住んでいる友人と、朝ごはんを食べに行った後に大安森林公園の近くでヨガ、その後光點華山へ行って「ラストエンペラー」のデジタル修復版を見に行くという、いかにも休日のOLっぽい予定を立てていて、私も誘われていたが、一緒に行くはずだったいとこの友人が生理で辛いというので延期に。家で一緒に水餃子をゆでて食べていると、いとこが、  「姐姐,明天是誠品敦南店的最後一天呢」 と言った。そうだった。台北の本好きな人なら必ずなんらかの思い出がある書店、誠品敦南店が閉店するというので、蔡英文をはじめたくさんの人がお別れをしに訪れている。私も25で台湾に帰ってきた時、この本屋があるおかげで自分の生まれた街が大好きになって、誇りにさえ思った。ある時期の私にとって、本屋さんと言ったら世界中でここ以外なかった。きっといとこもそうだったろう。24時間営業していて、みんな地べたに座って本を読んだり、本棚が丸くなっている部屋もあったり、国内外のたくさんの雑誌があって、店内のレイアウトはいつもうきうきして、静かで、まるで想像上の素敵な図書館と本屋の中間みたいな場所だった。当時の私は夜行性だったので、眠れない時など、タクシーに乗って「誠品敦南店」と運転手さんにひとこと言って、115元を支払って降り、丸い入り口の階段を上がって、奥の方の売り場まで歩いて写真集や画集など、高くて大きな美術本を何冊も抱えて、段差になっているところ座り込んで片っ端から眺めたりした。「夜の誠品って変態がいるんだって」とよく噂されたが、私は出会わなかった。本以外にも、ミュージアムショップみたいに素敵な文房具や雑貨なんかも売っていて、オーガニックの化粧品をいろいろ試したり、イタリアらしい色合いのメモ帳を高いけど思い切って買って、結局もったいなくて使えなかったり(まだ藤沢の家の机の引き出しにある)、蔡國強を知ったのはここのギャラリーだったし、カフェはコーヒーが美味しくて、世界のいろんな音楽が揃ったCD売り場もあって、上の本屋で働いていた友人から教えてもらったビル・エヴァンスの Conversations With Myself を買ったのも、グールドのバッハを買ったのもここだった。年末になると手帳はいつもここに買いに行って、天才バカボンのカレンダーもここで買って、クリスマスカードもここに見に来て、MOMAのポップアップのカードを何年か続けて買った。敦南店の近くには当時台北でも珍しかったベーグル屋さんがあって、ぶらぶら本を見ていると彼氏から連絡があって、待ち合わせて二人でコーヒーとベーグル食べたりした。入り口の前にずらっと並んだ露天のアクセサリー売りたちは、あの頃流行っていたルイ・ヴィトンのダミエ柄を模したスーツケースのような箱をぱかっと開けて、そこに品物を並べ、取り締まりの警察が来ると、またそのケースをぱかっと閉じてさっと逃げた。あれからもずっとあそこで品物並べていたんだろうか。こうやって思い出していると、なんて懐かしいんだろう、やっぱり私も今からタクシーで行かなくちゃ、という気持ちになるけど、同じ思いの人たちは多いのだろう。店の中に入るのに200メートルの行列ができているとニュースになっているのを見て、膨らんだ気持ちもしぼむ。なくなっちゃうんだ。
29日 5月 2020
わかってはいたけど毎日愛之助ざんまい。家族が集まっても猫の話ばかり。野良だったみーちゃんと違って、愛之助は人の家で生まれて、ずっと人に囲まれているからか、人のそばにいるのが好きみたい。今もそこに寝ているのですよ。そろそろ中医に行かなくてはいけないのに、愛之助がかわいいし、外は雨がすごいし、なかなか出られない。中医は、あなた近所なんだからちょくちょく来て様子を見せてと言って、薬を3日分しか出してくれない。たしかに私の調子を見て薬の配合をちょいちょいと変えているらしく、けっこう味が変わる。 去年ゲストで参加した東大のゼミが今年もあるというので今朝はそのミーティング。zoomにもちょっと慣れてきたかも。こういう形で知った顔を久しぶりに見ると、そうだった、この人にはこんな特徴があったな(前髪が目にかかりそうだった、とか、会話の途中でふっと止まる、とか)と画面越しにひとつひとつ思い出せるのが楽しい。それにしても学生だった頃の私はあんなに学校に行けなかったのに、今見ると学校って、面白そうな大人たちが面白そうなことしてる場所だったんだな。18の私には全くどうでもよかった。大人になりたいと思って、興味もあったのに、そこにいる大人たちからは離れたい離れたいと思っていた。あの位の頃に元気にポコポコ子どもを産んで、今くらいから若い人たちに混ざって学校へ通う方が私にとってはきっといい順番だったんだろうけど、まあ何を今更。 ミーティングの後は、愛之助のエサを水でふやかしている間に自分もお昼ごはんを食べて、そしてバイトのミーティング。同じzoomミーティングでも、こっちはお互い思い入れがある相手ではないので、顔を見て話したいとも思わないし、メールより話が早いからお互いに声だけ、画面共有しているエクセルファイルをざーっと見ながら、ばばばばっ!と話して終わる。なんて気楽なんだ。パジャマだし。たぶん向こうも。今日は声の主からフィードバックをもらっていると、その向こうからカチャカチャッという音と誰かの口笛が聴こえてきて楽しかった。それ以上先の想像をしないでいられる相手なのも気楽でいい。 愛之助はベランダの鳥の声に興味があるみたいで、私の机によじ登っては、そこから窓のヘリに座ってじっと網戸の向こうを眺めている。本来の主食だもんね。カノコバト、タイワンオナガ、シロガシラ、クロヒヨドリ、メジロ、名前がわからないけどあの小さな小さな私の親指くらいの鳥。そのうち愛之助が大きくなってベランダにも出て行くようになったら、どんなことになるのか。この間まで昼間からキャッキャキャッキャ鳴いて、壁を自由に走り回っていたヤモリも、心なしか鳴く回数が減っている。あのヤモリの先祖はミーちゃんのおもちゃにされていて、本人の方はいつも命からがら逃げ出していたが、噛み切られた尻尾の方は、廊下でひとりピクピクと動いていた。 ここのところずーっとボーっとしていた私にしては今日は忙しい日で、ミーティングとバイトの後、久しぶりになんと歌った。鼻歌とかではなく、自宅で音源を聴きながら歌っている様子をなんとiPhoneでビデオに撮って、依頼してくれた友人に送った。私は前から、自分がメインで歌って、誰かがその伴奏をする、といういわゆる歌手の定型的スタイルがあんまり好きじゃない。シンガーでメロディをうたうとなると嫌でもシンガーが中心になってしまうし、そうあるべきでもあるけど、でももっと歌も伴奏も分かち難くひとつでありたいといつも思っている。それはシンガーが誘いかけることのできることのなかで一番素敵なことでもあるから。 今日録音したのは、友人が来週発表する曲のコーラス。現在のところ全く機会がないんだけど、コーラスというのが私はとても大好き。寄り添える側になるというのはいいものだ。この作品では日本やブラジルやいろんなところの人たちがコーラスで参加するそう。みんな知ってる日本の童謡で、日系ブラジル人の友人は小さい時にお父さんが歌ってくれたんだとか。台湾でもこの曲は実はよく知られているので、また作品がリリースされた時に、お知らせがてらそのことも書いてみたい。 それにしても。音源越しではあったけど久しぶりに誰かと歌って、歌うのってやっぱり楽しいなー。楽しかった。ありがとうねマルセロ。ちょこっと生き返ったよ。
28日 5月 2020
愛之助が来てからすっかり猫中心の生活に。迎えに行った日もギリギリまでお母さんのお乳を飲んでいたから、いきなりお母さんから離して大丈夫かみんなで心配したけど、人懐っこいのか忘れっぽいのか、夜泣きも全くしないし、全部の部屋のあらゆる角のにおいを嗅いで、3日ですっかりうちの人のようにしている。いとこも会社を早目に切り上げて帰ってくるようになって、毎晩みんなで愛之助を囲んで遊んでいる。ソファからテーブルへ飛び移れるようになって、椅子の背の上でバランスを取って座れるようになって、愛之助は毎日ひとつひとつできることが増えていく。「60を過ぎると、今まで自然にできていたことがひとつひとつ、できなくなっていってさみしい」と母が数年前言ったのを思い出す。その反対が愛之助で、母も60から何年も過ぎてしまった。私の目には母は前と大して変わらないように見えるけど、全然違うよ、と本人は言う。 夜中から大雨が降っている。梅雨なのにここ数日ほとんど雨が降らなくて、雨が降り出す前の、空気中に水蒸気が限界まで集まって集まって、この盆地が風の吹く隙間もないほどぎゅうぎゅうにつまった熱気で蒸しあがって、やっとのことで雨が降った。この時期の台北は曇りの日でも30度はあって、雨の降らない日が続くと、二日目にはもう歩くのも息苦しくなってくる。中医はおととい舌診で私のベロをみて「濕!」とひとこと言った。台北の空気中の湿気は私の中にまで入り込んで、私の舌をふやかし、膨らませているようだ。日本の漢字の湿という字は、ここの湿気にはあっさりし過ぎている。繁体字の濕は、左側にも下にも水滴がしたたっていて、残った右上の空間も、いかにも上の方から蒸れた湿気が垂れてきているようで空気もじっと動かなさそう。そんなことを考えていると、藤沢の、海からそのまま風と一緒に上がって来て降ってくるような雨がふと思い出されて懐かしい。 台北の実家に予想以上に滞在することになって、なんだか体調を崩したり、家の中はこんなに楽なのに一体どうしてなんだろう、と思っていたのは、もしかしたら自分の体をもう一度都市という場所に戻すのに戸惑ってしんどかったのかもしれない。今ではやっとちょっと感覚を取り戻して楽しめるようになってきたけど、最初のうちは、空が見えない、砂がない、海が遠い、土が見えない、星と月が、夕焼けが、ないものばかり並べてしまって、私ってこんなに何もないところにずっと住んでいたのかと愕然としたりした。確かにもう少し若い頃の私は、人間同士とか人間がうごめいている街のいろいろの方に興味があって、土や空を眺めているより、人の顔色や仕草、表情、装い、言動、街の景色、夜の賑わい、新しくできたレストラン、昔から続くお店、そんなものに一喜一憂していた。そういった私がもうほとんど離れてきたものたちと、その代わりに毎日どんどん親しむようになっていた空や川、砂との連続がうまく見つけられず苦しかったが、ベランダや公園やそのへんにいる鳥たち、前も見えず他に音も聞こえないほど圧倒的な雨、この二つを眺めていると少しほっとすることがわかった。 先日の順子先生のzoomゼミの最後に、「台湾と日本とどっちがいいですか?」という質問がゼミ生からあって、とっさに「台湾かな」と答えたけど、ゼミが終わってzoomを切って、子猫を迎えに行く支度をしながら、ほんとうにそうだっけ、と考えた。あの時あの瞬間、みんなと一緒に話したりして楽しくて「今ここがいい!」とちょうど思っているところに、ここしばらく世話になって申し訳なく思っている母が向こうでうろちょろ何かしているのをどこかで気にしている自分がむっくり出てきて「台湾」と言ったなと思った。当然のことながら、日本も台湾もどっちもいいしよくないし、どっちも大事なので、本当は両方をもっと行き来できたらいいんだろうなと今でも思うけど、違う国というのは、やはり自分の意思とか想いとか周到な準備とかが全部遮断されるような、ただ距離として遠いだけではなくて、何かバッサリ、ぷっつり、切り離された上で、遠い場所でもあるのだ。日本に行けない。台湾に行けない。郵便が届かない。送れない。コロナのおかげでこのことに久しぶりに気がつけたのはよかった。台湾という存在そのものが示しているように、国、国、とみんな言うけど、国というルールやシステムが肥大して参加者も増えていく一方で、国ってなんなのか、ずっとはっきりしないままで、移動の自由なんてものも、そのあいまいな「国」の都合次第でなくなる。スマホをすいすいしながら安いチケットを探して、パスポートとお財布さえあればなんとかなる、と言って飛行機に乗って、生活費さえ稼げれば私は自由に移動できるんだと思っていた。まだ台湾でもみんなコロナに戦々恐々としていた頃、ビザが切れたまま不法滞在しているインドネシア人を中心とする外国人労働者たちが、感染しても捕まることを恐れて病院へ行かず、そのまま新型コロナウイルスの媒介人となって、台湾中の外国人コミュニティからコミュニティへ、そこからさらに台湾人へと市中感染が大規模に広がるのではないか、とニュースなどで取り上げられていた。保険証を持たない外国人が病院に行くときは、パスポートか居留証を見せなくてはならない。私もこのままこの家でずっとぼーっとしていたら、私は家族と過ごしながら、自分の生まれた家の自分の部屋で不法滞在者になって、そうか病院に行けないのか、と思った。 小さい頃、日本へ行くのはいつも大ごとだった。母と私が時々日本へ行く時だって、夏休みなんだから1ヶ月もすれば台湾に帰ってくるとわかっていても、おじいちゃんとおばあちゃんがいとこの手を引いて山から下りて来て、台北に住むおじさん家族、おばさんと子どもたち、どこから来たのかいとこのいとこ、そんな親類縁者たちが10人くらい、まずこの家に集合し、みんなで家を出て麗水街でタクシーを拾って、2台に分かれて台北駅へ向かい、駅のバスターミナルの窓口で國光號の切符を買って、バスの座席を何列も占領して、桃園空港まで、みんな一緒に来てくれた。外国へ行くのがあんまりにも大層なことだったし、空港へ行くことだけでも大層なことになってしまって、見送りは一大行事、礼拝にでも行くようなちょっといい服を着て、出かける前におばが私の髪をとかして、どこかで買って来てくれたリボンを髪の結び目につけてくれた。もう会えないことだってあるかもしれない、と大人たちはどこかで思っていて、子どもたちもちょっとした旅行気分でふざけて遊びながら、バイバイと手を振る時になると、どことなくやってくる陰のようなものを感じた。 それにしても雨が止まなくて、止まなくて。愛之助はどこかな。
24日 5月 2020
この家にはいろんな人が住んできた変遷があり、今の私の部屋は、ものごころついてから7歳まで私の部屋で、その後母と私が日本へ移住し、台北日本人学校に新しく赴任してきた若い先生家族にこの家を貸したので、そこの家の子どもがきっと私の部屋を自分の部屋としたんだのだろう。結局母が「やっぱりあんまり人に貸したくない」と言い出して、母の弟家族がここに住むことになった。母の弟は、結婚前にここに住んでいた時期もあったのでここに住むのは二度目。今度はもう奥さんと子どもがいて、その子どもというのがホンイーだ。私の部屋には私の使っていた子ども用ベッドがあったので、ここはそのままホンイーの部屋になり、しばらくしてホンイーに妹ができると、この部屋には二段ベッドが入って、二人の子ども部屋になった。妹が大きくなって二人の部屋を別々にすることになり、この部屋は妹の方が受け継いで、二段ベッドの空いている方には、おばが来て寝たり、いとこたちのお母さんの実家・南投ブヌンのいとこが台北で看護師をしていた時期そこに寝たりしていた。妹が高校を卒業し、台南の大学に入って、卒業後はオーストラリアへ数年行くことになったのでこの部屋もしばらく空いて、二段ベッドは山の家に持っていき、シングルベッドを2台入れ、おじいちゃんとおばあちゃんが台北で病院に行く時などにはここに泊まった。いとこの荷物は廊下を挟んで向かいの部屋に移されて、そこがそのままいとこの部屋になって、台北に戻って会社勤めしているいとこは今そこに住んでいる。週末になると、この間結婚した夫が台中からやってきて、そこはいとこ夫婦の部屋になる。 彼らの週末婚は、時々いとこの方が台中へ行くこともあるが、たいていは夫がこっちにやってくるので、今週末も私の部屋の向かいは夫婦の部屋だ。二人は一応新婚だけど、いとこは大学に入って最初に付き合った彼氏とずっと付き合ってそのまま結婚したので、夫になる前から彼はうちによく泊まりに来ていたし、結婚したといっても今までと特に変わらない。台北の多くの人たちがそうであるように、この二人も食事は朝ごはんからほとんど全てを外食で済ませているので、この家で一緒にごはんを食べることはほとんどない。台湾の人はあんまり自炊をしない。小さいマンションだとそもそもキッチンのない部屋も多く、あっても暑いから家の中で火を使いたくないという人も多いだろうし、せっかくご飯をつくってもすぐにダメになって、このくらいの時期には朝作ったものが夕方にはもう酸っぱくなっていたりする。ちょっとした外食のできる安い食堂がそこら中に大量にあるし、屋台も夜市もコンビニもたくさんあって、よっぽどの田舎でないかぎり、家を出て5分も歩けば食べものに困らない。逆に言うと、日本的な感覚でいうとかなり辺鄙な場所でも、10分も歩いたら何か食べられる。徒歩10分というのは、台湾人にはかなりの距離なのだ。そんなわけでうちの若い夫婦はほとんどずっと出かけていて、家で見かけるのは、早朝か夜遅くに家でごろごろしている時、もしくは洗濯のときくらいだ。洗濯はすべて夫が担当していて、これは台湾ではちっとも珍しいことではない。この国では料理、洗濯、買いものなど家事はすべて夫の仕事、じゃあ妻は何をしているかといえばその全体の指示と命令、そんな感じなのだ。いとこ夫婦もまさにこのスタイルで、せっせといとこの分の洗濯物もきっちり干している夫の様子を眺めながら、いいなあ、あんなに家事してもらえるなんて、私も台湾人と結婚したいなあ、と日本人的気分で眺めていると、「いつまで干してるの? まだお皿も洗ってなかったよね?」と鬼姑のように、いとこは部屋から出てきもせずに夫に向かって叫んでいる。母や私には決して使うことのない声でまくし立てるので、横で聞いていると最初のうちはドキッとしたが、台湾では夫婦間コミュニケーションってこんな感じで、こんなとき夫は大体へへへとただ笑っている。口答えはしない。喧嘩にも言い合いにもならない。 今日はずっと雨も降らず、暑い。せっかく炊いた玄米がダメになってきたので、母が洗ってザルに入れ水を切り、試しにベランダに出したらタイワンオナガがさっそく食べに来た。ベランダにたくさんやって来るどの鳥を見ても、色合いと模様がそれぞれに美しくて感心してしまう。人間もそういえば、カラフルで派手なファッションが好きな人は南国の鳥みたいに見えたり、日本のおばあちゃんがグレーとかなんともいえない紫とか深緑の洋服を好んで身につけてるあの色合いは公園の鳩っぽい。このタイワンオナガも、人間でこういうシャープな色合わせが好きな人いるよね、という感じの、頭、下半身、長い尻尾は紺のように光る濡れた黒、体の真ん中はベージュがかった明るい茶色で、お腹のところだけ白、嘴は真っ黒で大きい。ユニクロでおしゃれしてみたみたいな感じ? 目はまん丸くて大きくて、なんでかわからないけど口を開いてぽかんとしているのをよく見かける。 夜は母と散歩の代わりに、古亭駅のちょっと先まで歩いてJASONSというスーパーへ買いものへ。東京で言うところの成城石井みたいな輸入品の品揃えが多いスーパーで、品物もちょっといいのが置いてある。今朝の豆漿づくりで大量発生したおからで蒸しパンをつくってみようと思っていて、私は薄力粉さえ買えればどこでもよかったので、何もこんなに高級なスーパーに来なくてもよかったが、味噌を買いたいと言う母が、JASONSには美味しいのがあるから言うので、久しぶりだし一緒に来た。まだJASONSが微風廣場の地下にしかなかった15年前、私は時々わざわざ出かけて行って、輸入物のめずらしいオーガニックのハーブティなど買って、おいしいかおいしくないか何とも言えないお茶をいれては、騙されてもいいわと素敵な気持ちになっていた。今日は製菓材料のコーナーに行ってみると、日清のいわゆる普通の薄力粉が輸入品として日本円換算で1000円くらいで売られていて、私はあの頃もこうやって騙されていたのかと、こうもあからさまにわかると複雑な気持ちになった。仕方ないので、少し高いけどどうせならとニュージーランドの薄力粉を手にとると「せっかく日本の売ってるのに、こっちにしないでいいの?」と母がわざわざ聞いてくる。 さて明日はたのしみが続く日。午後はついに青学の順子先生のゼミのゲスト。初のZoomトーク、Zoomライブをしてみる予定。そしてそのあと、ついに子猫を迎えに行く。
23日 5月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月23日 台北
朝から午後まで雨。夜にゴミ捨てに出ると、すっかり雨が上がっていて久しぶりに地面が乾いている。何日も雨が続くと言われてその気になっていたが、意外に早く上がってしまった。...
22日 5月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月22日 台北
今日も一日雨。テレビでは、屏東や高雄など主に南部で川のようになった道路を車やバイクがばしゃばしゃと通っていく映像が流れる。ただの梅雨のはずだが、まるで台風が来たかのような様相で、いくつかの都市では停班停課、会社も学校も雨でおやすみ。「今会社のすぐ向かいまできてますけど、渡れないので出勤は無理です。深すぎて」と会社に電話したと街の人がインタビューに応じている。 おばの彼氏の実家は台南のはずれにあって、こんな風に大雨でどこもかしこも浸水する日は、たくさん魚が流れてくるのだそうだ。田舎なので、自宅の敷地内に池をつくって魚を養殖している人も多く、特によく飼われているのは吳郭魚というなかなか風流な名前で呼ばれているティラピアの種類。大雨がふれば、洪水と一緒に、誰かのところで飼ってる吳郭魚の群れが次々と、自分の家の前の川のようになってしまった道に、プールのようになってしまった庭に、どんどんどんどんと流れてきて、獲っても獲っても獲りきれないほどなんだそうだ。拾ったものは俺のもの、みんなで鍋を出してきて、どこかから流れてくる魚を片っ端から獲ってはゆでる。そんなわけで台風の時期にはたくさん吳郭魚を食べられるのだという。吳郭魚はスーパーでも市場でもいつでも売られていて、値段も安い魚だが、少しねっとりした鯛のような白身の肉でおいしい。 今日も結局ほとんど家の中で過ごした。うちは台北のマンションの7階なので、浸水もない代わりに吳郭魚も流れてこないが、家の中で埋もれている宝というのはあるものだ。母がいつだか東門市場で実演販売しているのに見惚れて買ってきてそのまましまって忘れていたという豆漿マシーンを発見した。キッチンにはちょうど母がこの間買った黒豆があったので、さっそく洗って水に浸し、もう気温も高いので3時間も浸せばじゅうぶんで、3時間半後にはできたての黑豆漿を飲んだ。おいしい。作ってみて久しぶりに思い出したが、そういえば豆漿を作るたび、説明書には書かれていないが、マシーンの底に大量のおからも作られるのだった。できたての豆漿が毎日飲みたいので、毎日このおからの山をどうにかしなくてはならない。豆漿愛飲家と同時におから研究家になるしかないのかも。ニューヨークではヨーグルトの中にそのまま入れてかき混ぜてごまかしたり、卵の中に混ぜこんで無理やりスクランブルエッグにしたりしていたが、食べても食べても、そんなくらいでは毎朝大量発生するおからに全く消費が追いつかず、見なかったことにしてコンポストの中にそっと入れることもあった。当時住んでいたアパートのフランス人ルームメイトの元奥さん(ポルトガル人)がEM菌の大ファンで、ルームメイトと離婚して引っ越していった後も定期的に彼のところへEM菌を届けにきていたから、夫よりもEM菌が好きだったというか、夫よりEM菌を信じていたのか。とにかく私たちルームメイト4人は共同して生ゴミをバケツに集めて、その上に元奥さんが持ってくる bokashi というEM菌ふりかけのようなものをまぶし、バケツが一杯になったら1週間くらい寝かせて、元奥さんと彼女のEM菌仲間たちが堆肥づくりをしている近所の市民農園まで持っていった。彼女は気性の激しいとってもいい人で、みんなの大事な友人でもあったので、EM菌がなんなのか誰もよくわかっていなかったが「とにかく本当にすごくいいんだから」と彼女があんな熱烈に主張するんだから、その菌を介して、時々彼女と会って、お互い元気にやってるか確認するのもまんざらでもなかった。日曜日の指定された時間に市民農園へ行くと、かわいい野良着姿の彼女のほか数名の女性がいて、「毎週EM菌パーティやってるからよかったら遊びにきて。みんな大歓迎!」と声をかけてくれた。めいめい自分のつくった bokashi を持ち寄って、においを嗅いでみたり、どうやってつくったかをみんなでシェアしたりして、EM菌を使った食べものやドリンクの味見をしたりするらしい。コーヒーかすでつくるbokashiを研究しているとも言っていた。 元奥さんに最後に会ったのは、ルームメイト4人とその友達と、大勢でブルックリンのロシア人街にあるビーチへ行った時だった。ビーチから住宅街へ出る手前に草むらのような狭い道があって、そこを通っていると、なんと向かいから彼女がひとりで歩いてきた。誰も彼女に連絡をしたわけじゃないのに、突然現れたのでみんなでびっくりして、「Oh my god!なんとなく海が見たくなって来てみたら!」と麦わら帽子の彼女は両手を広げて大げさに笑って、うれしくなってみんなでハグをした。その少し後のことだったか、彼女の再婚相手から、彼女が交通事故でほぼ意識不明になってしまったと連絡があった。彼女は、よっぽど遠いか、よっぽどの吹雪、ハリケーンの日でもないかぎり、ニューヨーク中を常に自転車で移動していて(「移動のために排気ガスを撒き散らすのは人間のエゴだ」というのが彼女の主張だった)、ヘルメットを被った彼女が車に混ざって猛スピードで通り過ぎていく姿を私も目撃したことがある。地下鉄で移動するよりこの方が断然速いし、運動にもなる、と得意そうにしていたが、その日、彼女は自転車移動中に車に衝突し、衝突の衝撃で何メートルも体が宙をふっ飛んだらしい。幸い大きな怪我はなかったが、打ちどころが悪かったのか、少しでも体を動かそうとすると猛烈なめまいがしてとても起き上がれず、自宅に戻ってからもずっと寝ていて、目が覚めている時間も1日に数分ほど。何をすることもできず、毎日ただ寝て、時々目が覚めて数分するとめまいが起きて、また寝る、というのが彼女の人生になった。その年のサンクスギビングの日、彼女からのメールが再婚相手を通じて私たちのところに届いた。その夫が冒頭に書いたメッセージによると、数日に渡って彼女が少しずつ口述した文章を彼が書きためて私たちに送ってくれたそうだ。今でも毎年サンクスギビングに、同じようにして書かれた彼女からのメールが私たちに届く。手紙の最後はいつも、A Smile と結ばれている。 台湾でニュースを見ていると、何よりも交通事故のニュースが多いことにびっくりする。ここはなんと交通事故が多い場所なのだろうと思っていたが、毎日見ているうちに、そういうことではなく、これはみんなこの画面が見たいんじゃないか、台湾人というのはこういうのを何度も見ないと納得できないんじゃないか、と思うようになった。どうやらショッキングなシーンがあるものほどニュースになるようで、日本では免許更新の時に試験場の部屋の中で見させられるような、夜中に車が激しく衝突して逆さにひっくり返ったシーンや、右折するトラックにバイクが巻き込まれていくシーンなど、後ろの車のドライブレコーダーからもらった映像を編集しているのか、真後ろから撮ったであろう白黒の映像に、「ここに注目!」と訴える赤い矢印がピコンと現れ、特に目立ったところもない街中の道路の普通の車の、あと数秒後に事故にあうことになる人の真上を指して光っている。事故の瞬間の映像は何度もくり返され、その後インタビューされるのは目撃者ではなく、その矢印が指していた、包帯ぐるぐる巻きで車椅子に乗った人、病院の担架の上の人、もしくは泣き叫ぶその家族だ。インタビューから引き出されるのは不注意を反省する言葉ではなく、ただいつも通り生活していたのに、あの事故がいかに突然襲いかかってきて、いかに激しく、理不尽だったか、という言葉だ。毎日毎日交通事故というのはこんなにいくらでもあるのか、と毎日目を見張っているが、日本だって、ニューヨークだって、知らないだけで毎日毎日あるだろう。ごく普通に生活している人々の頭上に突然、あの赤い矢印がピコンピコンと降りてくることが。
21日 5月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月21日 台北
今日は一日雨が降って、梅雨らしい日。しばらくこっちにいたら、27度くらいでも涼しいなと思うようになってしまった。そういえば小学生の頃、夏休みの日記帳に「きおん28ど」とよく書いたな。窓の外にはベランダのあっちとこっちでカノコバトが2羽、雨宿りしている。雨の日は鳥もこうやってただじーっとしているんだなあ、と私もじーっと眺める。雨音の向こうからどこかで小さな鳥が鳴く声が聴こえる。うちのハトたちは雨の間はほとんど鳴かない。雨粒に濡れたくないのか、首を縮めて丸っこくなっているのが可愛らしい。 私の方もどうも出かける気がしないので、ずっと家で過ごした。おかげでこの間古本屋さんで買った中国医学の本をゆっくり読めて、とてもたのしい。本草綱目って「中医監修!アレルギーに効く薬膳」なんて本と一緒に並んで本屋さんに売ってるものだと知ってびっくり。さすがに本格的すぎて手が出せないので、もっと読みやすいものを買ったが。私の両目も、この間大学病院で救急にかかってから1週間経ってずいぶん落ち着いたので、なんとか火事も鎮火できているような感じなんだろう。じりじりと奥に燻っているのは、もう一度中医に出直して気長にやっていこう。また市場をのぞいて帰るのも楽しみだし。病人の小さな贅沢。 こちらにいると、その辺の誰もがプチ中医師みたいなのでおもしろい。あの食べものは「寒」だからあなた今食べない方がいいわよ、とか、女の人はとにかく「補」した方がいいのよ、とか。中でもみんながよく言うのは「火氣大」というやつで、ちょっと唇が乾燥していると火氣大、口内炎ができると火氣大、吹き出もののできた人を見つけては「あなた火氣大なんじゃない?」とひとこと言って、誰かのイライラのとばっちりを受ければ「あの人火氣大すぎるのよ」。この間私も口内炎ができて、そういえば口内炎って中国語でなんて言うんだったか忘れてしまったなあと思って、そばにいたおばに聞くと、「火氣大よ」と言う。「そうじゃなくて、ちゃんとした病名っていうか・・・○○炎とかさ」ともう一度尋ねてみても、「それが火氣大なのよ」とくり返すので、まあそういうことか、私も火氣大なのか、ととりあえず受け入れた。 中国医学は食べものと直結していて、心身の状態によって食べるとよいもの、食べてはいけないものがある。もちろん様々な状態が時に矛盾しながら変化の中で組み合わさっているのが人の心身なので、○○を食べれば誰でもガンが治るとか、毎朝△△コップ1杯で免疫力アップとか、そういう単純なことではなく、刻々と変化していく雲の色かたちや畑で日々成長する作物を眺めるかのように人間の心身を観察し、その時々の人間が、その時々の空と大地の間にある自然の中の一つの小宇宙として、どのようにこの世界とより調和した状態であることが可能か、そこを目指す上での一つのやり方が「食べものと直結」なのだそうだ。北京出身の中医の友人に「これが古代中国からの思想全ての基礎で、中医ももちろんこの思想の中にあるんだよ」と教えてもらった時、私はとっても感動したのだった。 とはいえ、食べもの&健康についての安易なキャッチフレーズはみんな大好きだ。これに踊り踊らされ一喜一憂する、それすらも好きな人であふれているのは、日本も台湾も一緒。しかもこちらは何しろ歴史が長いので、みんなこういうのがもっと熱狂的に好きなんじゃないかとよく感じる。とにかく万物が陰陽に、そして五行にわかれているので、当然あらゆる食べものも陰陽に、そして五行に分かれており、それらの食べものを同じように陰陽五行の間をただよう現在の自分の体に取り入れて自然世界と調和をはかる・・・と書いているだけで気が遠くなりそうだが、みんなこれをそこそこ厳密に生活レベルで実践している。たとえば食事の際は各テーブルに、あなたもちゃんとこの掟を守っているか、頼んでもないのに見張ってくれている監視員のような人が最低一人いると言っていい。一緒に食事をしている全員が監視員だったという場合もある。日本では最近自粛警察という言葉が生まれているようだが、この監視員たちも言ってみればごはん時に登場する自粛警察みたいなものかもしれない。日本の場合みたいに、どこかに通報したり、丑三つ時によその家に匿名の怪文書を貼り付けに行くわけではなくて(いや、そういう人がどこかにいてもおかしくないかも?)、基本的には直接当人に言う。ものすごい直接的だ。「ちょっと、あなたその顔、ニキビ。すごいよね? この麻辣鍋、ぜったい食べちゃダメ。え?もう食べちゃったの? 今すぐその箸置いてください。こんなに悪質なニキビができるって、あなた体質が『燥熱』よ、麻辣鍋なんて一番食べちゃいけない。『上火』してそのニキビ、もっと悪化してもっとひどくなるよ。あなたは何か他のもの頼まないと。私が探してあげる」と勝手にメニューからこちらの食べるものを選んで注文しようとしてくれるのは、よくある光景だ。これはここでは親切のひとつの形なんだと思っている。このタイプの監視員は、同じテーブルにいるあなたの不調を探し出すと、食べてはいけないものを食べようとしているあなたを現場で捕まえて、その食べものを取り上げ、水を得た魚のように活き活きと、ありったけの知識を動員してあなたと世界の陰陽五行バランスを整えるべく、積極的に動いてくれる。いわゆる余計なお世話というやつなんだろうが、見ていて結構おもしろいし、私はそこまで食べものに執着もないので、せっかく選んでくれたならじゃあそれを食べてみようかと思える。かく言う私も、ついに中医の本をたのしく読むようになったので、このまま近い将来陰陽五行警察になってしまわないよう気をつけなくちゃ。 じーっと雨宿りしてたと思ってたカノコバトがいつの間にかいなくなってる。この家で聴く雨の音は、外で聴くよりずっと大きくて、いつも大雨みたいで外に出るのがますます億劫になるけど、雨の音って屋根のある場所で聴くにはとってもいいものだ。これから数日雨が続くようで、南部は早くも水害の季節、明日は道路が膝くらいまで浸水するので注意してくださいと天気予報で言っている。湿気でじっとり空気が重い。
20日 5月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月20日 台北
今日は台湾の蔡英文の任期2期目の就任式とのこと。防疫を考えて式典を縮小し、就任演説は屋外の芝生の上に椅子を並べてあっさりやっていたのが、かえって開放的ですがすがしい雰囲気だった。今回の内閣はずいぶんオジサンばかりな印象。...
19日 5月 2020
Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月19日 台北
呼ばれたので振り向くと、こんにちはジジ。...

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