親戚と週末、記憶

このあいだの週末は台南で働いているはとことそのお母さんがうちに泊まりに来ていて、にぎやかだった。二人は南投のブヌンで、私たちタイヤルとは言葉も習慣も見た目も、ひとくちに原住民といってもずいぶん違うが、それでも原住民同士というのは漢人相手とは違ってずいぶん気が許せるもので、母もうれしそうにしている。台北は相変わらず毎日暑く、日中は気温38度を超え、昼間の人混みなど体感温度で40度くらいありそうだ。普段南投の山に上に住んでいるはとこのお母さんは、すっかり台北の熱気にやられて、出かけてはぐったりとして帰ってきて、リビングにござを敷いて倒れて寝ている。このおばさんは昔から寝息がプシューッっと機関車のような大音量で、今回はじめてこのおばさんに出会った愛之助は、ピアノの下に隠れて、顔だけ出してじーっとおばさんのお腹が上がったり下がったりするのを観察している。おばさんは、南投の山の畑でとれたトマト、ぶどう、ピーマンなどの野菜や果物と、タイヤル語でヤホフ、タナと呼んでいる野菜を、おみやげにとたくさん持って来てくれた。ヤホフは特に暑い時、これをゆでた汁を飲むと体が楽になるといって、ちょっとした薬草のようにしておばあちゃんがよく飲んでいて、私も大好きだ。時々このへんの市場でも売っているので、漢人たちも食べているらしい。レストランや食堂で出されているのを見たことないけど、どうやって食べてるんだろう。日本語ではなんと呼ばれる植物なのか、そう言われてみれば調べようと思ったこともなかったが、東京の道ばたでも雑草と一緒に生えているのを見かける。世田谷の深沢あたりに、特に見事にヤホフが茂っている小さな公園があって、あの頃は犬を飼っていたので、散歩のついでに母と採ってきて、茹でて食べて汁を飲んだ。苦味がある菜っ葉というのはおいしいが、ヤホフもそんな感じ。タナはまたヤホフと全然違う感じで、このまま化粧品になりそうな強い香りと独特の少しメンソールっぽい味がして、薬味野菜のような感じと言えばいいのだろうか。茎の根元の方にはバラぐらい立派な棘がある。山で採れたばかりのヤホフとタナのスープは涼しい味がして、一気に飲んだ。

 

お返しにというか、うちの冷凍庫の中にちょうどいとこの夫が獲って持ってきてくれたキョンの肉があったので、炒めてみんなで食べた。おじいちゃんや一番上のおじさんが元気だった頃は、冷蔵庫を開けるといつも何かしら野生動物が入っていて、ムササビ、リス、猿、鹿、キョン、このへんは冷凍庫の常連で、食べきれないほどだった。小さめの動物は特に顔がついたまま入っているので、台北育ちのいとこなどは、うちの冷凍庫を覗いては、「また動物の死体が入ってるー」と眉をひそめながら、その横のアイスを取ったりしていた。

 

台湾に帰ってくるのも久しぶりなので、キョンを食べるのも久しぶりだ。キョンの肉は鹿よりも柔らかく、生姜、ニンニク、米酒(焼酎っぽい)、醤油がメインの、紅燒という台湾でよくある味付けにして炒めるとおいしい。週末にたくさん炒めた残りがやっと昨日食べ終わって、夜、母と二人でニュースを見ながら、骨の端っこの軟骨をかじり、骨髄を掻き出して食べた。直径2cmくらいの腿の骨で、ゆっくり時間をかけてしばらく楽しめるので、最後の夜のたのしみに取っておいていた。両手でつかんで、かじってもしゃぶってもなかなか剥がれてこない軟骨を、少しずつ歯でこそぎ落とし、それだけやっていると疲れてくるので、途中でツマミみたいにして、骨をかち割ったところにお箸を突っ込んで、中から骨髄をほじくり返して食べる。骨に張り付いている筋を爪で剥がし、少し残っていた肉も一緒についてきた時はちょっとしたごほうびのような気持ち。かち割られた骨はあちこち尖っていて、気をゆるめているとこちらに刺さってきそうだし、軟骨の周りの筋は私なぞの歯で30分ほど齧ったくらいではまだまだ剥がれなくて、こっちの歯が先に欠けるんじゃないかと時々心配になる。生涯虫歯ゼロ、歯並びも完璧に美しい母は「我々原住民はこうやって骨かじってるからね」とよく自慢していたが、少し前、体調を崩したと同時に歯ももろくなったようで、奥歯が少し欠けてしまって歯医者にかかった。そんなことがあったので今では慎重になっていて、果物ナイフを左手に持って、少しずつ軟骨と骨の間にナイフを入れながら「被せたのが取れたらまためんどくさいからね」と上手に食べている。殺して、さばいて、切り分けて、袋に入れて、冷凍して、解凍して、炒めて、その全ての後でも、キョンはしっかりと存在しているようだった。いつまでも骨をかじっている私と母を、愛之助はうらやましいのか、まばたきせずに(そもそも猫はあんまりまばたきしないか)じーーっと見つめて視線を離さず、なんだか圧力を感じてやりにくいなあと思っていたら、そのままの姿勢で眠ってしまった。紅燒の味付けは猫には濃い味すぎるのか、舐めには来なかった。

 

こんな風に暮らして、2月にこちらに来てからもう5ヶ月も経つことになるので、すっかり日本が遠い。日本でいろんなところで歌って生活を立てていた自分が、藤沢が、東京が、今台湾でこうして暮らしている私とあんまりにも連続性がないので、日本にはもう一人私が並行して存在しているんじゃないかという感覚さえある。日本で生活していたみたいにここでも生活しようと、たとえば歌などパフォーマンスをする場所を探してそこでライブしたり、コンサートしたり、新しい友人をつくったり、稽古をしたり、舞台に立ったり、リハーサルをしたり、打ち上げで飲んだり、あそこへ行って、あの人に連絡をして、あんな順序をたどればだいたいあんな風になるんだろうとわかっていても、不思議なくらい全くそういう気がおきず、体も全くそうは動かない。一体なんでなんだろう、どういうことなんだろう、と最初のうちは思いつめていたけど、もうあんまり何にも考えなくなった。何にも考えないようになってきて、台北という都会の真ん中でただ日々暮らすことにも気付けば慣れてきて、この街でただぼんやりと原住民マイノリティ(もしくは日本人マイノリティ)のはしくれとして生活していると、全く予想しない瞬間に、思ってもみなかった記憶の端々が強烈によみがえることがある。辻堂の、団地のところにある広々した焼肉屋さんで、友人家族とごはんを食べた。タッチパネルで注文をした。あんなところに行ったのは、海浜公園でフェスがあったからで、焼肉食べたのとはまた別の友人たちが出演していて、私たちはそれを見に行った。少し雨が降っていた。少し濡れた芝生が気持ちよかった。笹塚の、京王線の高架の横の、セブンイレブンのある交差点は、ギラギラと光が反射していた。夏だった。あそこのATMでお金をおろした。あのギラギラしたアスファルトの地面と、セブンイレブンの看板を私は何度も思い出す。思い出す私の目線は地面から斜め上くらいだけど、実際にほんとうに私の目はそのへんにあって、あの景色を見たんだろうか。そんなに何度も行っていないはずなのに、あそこのことばかり、いつも突然、頭の中が乗っ取られるように思い出される。左前方には暗い高架下があった。右へ大通りに出れば、甲州街道と高速の高架下があった。うるさくて暗くて空気が悪くて、ラーメン屋のとんこつスープの煮詰まった臭いが古本屋さんの真横の排気口から吐き出されていて、てんやが、異様に安いお弁当屋さんがあった。お弁当屋さんのレシートはなんだか妙で、脱税してるんじゃないかと友達夫婦は噂した。

 

明日は東大のゼミの発表会、愛之助の予防接種。